福井県敦賀市曙町11-68番地 北緯35度39分18秒・東経136度4分29秒の氣比神宮・気比神宮が勧請されましたが、社名は なぜか化氣神社です。化氣神社の祭神は 伊奢沙和氣神Isa-sa-wake-no-kami 武甕槌尊Take-Mikaduti-no-mikoto 經津主命Hutu-nusi-no-mikoto 天兒屋根尊Ame-no-Koyane-no-mikoto 比賣大神Hime-no-ookamiです。伊奢沙別Isa-sa-wake・去来紗別 は氣比神宮だけの特有の表現をする神です。イザサワケはイザ 誘い・促し サ・神稲 ワケ・男子の敬称の意を持ちます。「保食Ukemoti-no-kami」とも 記される場合もあり 食物神の性格を持つ 海神Watatu-mi/Wadatu-mi/Una-gami/Kai-jinとされます。イザサワケは 武神である 応神天皇と深い繋がりがあり 氣比神宮本殿に 父母である仲哀天皇Tyuuai-tennou 神功皇后Jinguu-kougou(八幡三神と総称する事があります )正確な八幡三振は 応神天皇 神功皇后 比売神です)と 共に祀られていますが、化氣神社では 応神天皇等の八幡三神を祀らず、刀剣神である武甕槌尊や經津主命 祝詞の神・出世の神である天兒屋根尊が祀られています。
通称おけぎ様と呼ばれます。旧社格は郷社であり 北緯34度45分19秒・東経133度49分22秒 案田毛氣5番地に建ちます。祭神は 伊奢沙和氣神 武甕槌尊 經津主命 天兒屋根尊 比賣大神です。連絡先は電話0867-34-0823 由緒 当社は備前国津高郡上田村案田化気山鎮座。第10代崇神天皇Sujin-tennou10年に孝霊天皇Kourei-tennouの皇子大吉備津彦命Oo-kibitu-hiko-no-mikoto 四道将軍Sidou-syougunの一員として 吉備国に派遣 異母弟若日子武命Waka-Hikotake-no-mikotoと共に 針間(播磨)国から 本宮山の峯に来られた。この所 御食津神Mituke-no-kamiを祀られた。これは 越前国敦賀気比神社と同じく 伊奢沙和氣神を祀る。この気比神社の社名を 上下間違え、比を化と読み誤り 社名が化気神社となったと言い伝えられる。その後44代元正天皇Gensyou-tennou 養老8年に 皇子、西国の賊徒平定の為 西下の途上、備前牛窓に 御仮泊にわかに 御脳有り 諸郷丹心をこめて 御脳平癒 賊徒平定を 祈請せられた時、長田庄本宮山の峯より 霊光牛窓海上に映じご加護有り、奉賽の為、本宮山に行幸された。その途中、道に迷った時に白鹿が現れ教導した。是は、伊奢沙和氣神の霊験であると言われた。依って神宝に『いさざ王』と言う丈1尺8寸4分の鹿角を祀られた。その後、大和漆上郡春日大明神4柱、武甕槌神 齋主神Iwai-nusi-no-kami( 經津主命) 天兒屋根神 比賣神を祀り、伊奢沙和氣神と合わせ5柱の祭神を祀る。「 化氣神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁 (okayama-jinjacho.or.jp)」 氏子は案田 高富 小森 神瀬Kanse三谷 細田 上田東の住人です。化気神社の本殿と神輿の屋根が榊の葉で葺かれます。榊葺神輿Sakaki-buki-mikosiが 町の重要文化財に指定されています。以前はいくつかの神社で 榊葺の神輿は有ったらしいのですが 現在は化気神社だけになっているのではないでしょうか。
「気比宮kehi-guuを勧請した折、神社名を忘れた使者は 止む無くうる覚えの名を思い出し、誤って比気宮と 報告しました。気比宮の筈Hazuと思っていた宮司は 不思議な名前に困り、比の字を良く似た字の化を当て 化気宮Kegi-guuとしました。」との伝説があります。「村人口伝」 摂末社として 境内には 疫神社 若宮 霊神社が建ちます。主なお祭り 4月18日 : 祈年祭Kinen-sai/Tosigoi-no-maturi 。10月第3土曜日 : 例祭・加茂大祭 、 11月29日 : 神嘗祭Kanna、e-sai 、 苗衆祭Myousyuu-sai(年四回) 1月1日 :三朝祭、1月10日 ヤレオイ祭、 7月16日:田植祭、 12月1日 :神送祭Kami-okuri-no-maturi
随身門の前に大嘗祭Daijyou-sai/Oonie-maturi/Ooname-matur記念碑が立ち、裏面に平成2年10月建の刻みがありますが、毛気神社が 平成2年に大嘗祭を 司どった訳ではありません。豊野の行定のゆり輪田は 今上天皇kinjyou-tennouである 明仁Akihito天皇の主基田Suki-den(西日本の斎国の神饌田)であるかのように誤解されそうな 石碑が立っていますが、明仁天皇の主基田は 豊後国 大分県玖珠郡大字小田に、悠紀田Yuki-den(東日本の斎国の神饌田)は 羽後国・秋田県南秋田郡五城目町です。明仁天皇については 平成2年(1990年)11月12日に国民に即位を示す「即位の礼」を執り行われ、同年11月22日、23日に高天原Takama-ga-hara/Takaama-hara/Takaama-no-hara/Takama-no-haraの神々に即位をご報告する践祚Senso大嘗祭が 行なわれました。
皇紀300年(推定で西暦130年頃) 吉備津彦命が 加茂の地に御食津大神Miketu-no-ookami・氣比宮)を お祭りになった頃、妖怪変化が 出て 住民を恐れさせました。気比宮の西の方に 火柱が現れたので 命(吉備津彦命)は 弓を取って 松の陰から これを覗われました。その松を 覘の松と言いました。矢を放たれましたが 的を外れ 矢は松の枝に 係りました。その矢の掛かった松を 矢懸かりの松と言いました。馬上から岩に乗り 二の矢を 放たちました。馬が足を掛けた その約6畳位の大きさの岩を 駒石Koma-isiと言います。矢は怪物に命中し 一大音響を発し 倒れて 石と 成りました。上体の落ちた所を 立石Tate-isi(上田西)と言い、残った石を的石Mato-isi(松尾神社近く)と呼びます。片kakeraとなった矢が ヒラヒラと 高く飛んだ所を 高平Takahira(細田)と呼び その様子が 見えなかった所を 目無Menasiと呼び 矢の落ちた所を矢柄Yakara/Yagara(細田)と呼び 遠くても音の聞こえた所を大鳴Oonaru(上田東)と呼ぶようになりました。これらの地名は 現在小字名として残っています。「加茂川町史」 妖怪は 岩に化身し 吉備津彦の射矢を 弾き飛ばそうとしたが 吉備津彦命の霊力が 勝り 岩は砕け散ったのでしょう。岩が四つに割れ 吹き飛んだという伝説も あります。地名にまつわる 後付けの伝説でしょう。
44代元正天皇養老8年(724年)に 嵯峨皇子が 西国の平定の為、西に下る途中 備前牛窓に仮泊をとりました。ところが 突然に脳の病気に 成りました。ここ等辺りの豪族は 心をこめて病気の平癒 戦勝祈願をしましたが 効果ありませんでした。ところが 長田庄本宮山より 霊光が 牛窓海上に映り 加護有って 病気が治りました。嵯峨皇子は 加護に感謝すべく 本宮山にやって来ました。その途中で 道に迷うと 白鹿が現れ 道案内し 無事に参拝できました。これは また 伊奢沙和氣神の霊験であると信じ、それで神宝として「いさざ王」と言う丈1尺8寸4分の鹿の角を 祀りました。その後 大和漆上郡春日大明神の4柱即ち 武甕槌神 齋主神 天兒屋根神 比賣神を祀り 伊奢沙和氣神と合わせ5柱の祭神となりました。「加茂川町史」 嵯峨天皇の治政の頃 弘化年中(1844年~1848年 弘仁年中・810年~824年の間違いでしょうか)に 賊が筑紫に入りこみ寇Adaしました。嵯峨天皇の皇子が この賊を征伐しようと筑紫に向っていましたが 邑久邑Okumuraの牛窓で 悩み(ノイローゼでしょうか)が 生じました。供奉(お供に加わり行列に加わる)していた人々は この悩みの平癒や 賊徒の平定の成功を神に 祈願しました。すると忽ちに 長田庄の本宮山に 祀られている龍王宮の灯明が 牛窓の海上に 映し出されました。皇子は 奈良の春日明神の加護が得られたと 感じ 気比明神に参拝して 三本の根の杉を植樹しました。皇子の駐屯地のあった処を「御所が畝」と呼んで、現在もその名を残します。奈良の春日に因んだ知名が 本宮山近くに 沢山残っています。春日明神の分祀した時に 名付けられた地名でしょう。奈良の地名と当地の地名の対比は それぞれ次のようです。水谷川「水谷川」三笠山「三ッ山」猿澤池「申池」新池「新池」白藤龍「白龍」「御津郡史 P395」 御所ヶ畝:上田西2393番地 水谷往来:船乢Huna-ga-tawa 上田東舩ガ溺2279番地の北東の交叉点 北緯34度54分19秒・東経133度49分38秒に「水谷往来 船ヶ乢]と記られた道標の案内が 有ります「本宮山三十丁 氣喜神社三丁 三山十丁」と刻まれているように見えます 三ッ石:神瀬691・736番地等 福三山:神瀬811番地 三角山:神瀬860番地 猿瀧:神瀬1609番地 猿追場:神瀬187番地 新池:上田西1282・1283番地 白瀧:下加茂311-316番地 御瀧山:上田西998・1117番地 瀧山:神瀬667・668番地 猿瀧:神瀬1609番地
神嘗祭:その年の初穂を天 照大御神に奉納する儀式で、五穀豊穣に感謝します 大嘗祭:Oo-Name-no-maturi/Daijyou-sai/Oo-mube-no-maturi等の読み方が有ります 毎年11月の天皇が 行う収穫祭を 新嘗祭Nii-name-sai(新米等を 神に捧げ 天皇が食します 毎年の大嘗)と言い、後に 即位を神に 報告するための 初めての毎年の大嘗を 特に 毎世の大嘗 或いは 大嘗祭と言います 大嘗祭と 新嘗祭の区別は 天武天皇の大嘗祭の時から始まります よく似た儀式に 即位式が有りますが、これは国民に天皇に即位した事を 知らしめる儀式で 即位直後に行われます 覘いの松、矢懸かりの松:枯れてしまいました 矢掛の松は 的石の傍にありました 故に吉備津彦命は 化気神社から 約3Km離れた 松尾神社近くにいた妖怪を 射抜いた事になります 立石:上田西 北緯34度52分44秒・東経133度4 7分15秒 的石:松尾神社近く 北緯34度53分46秒・東経133度47分46秒 高平:細田・三谷 北緯34度53分53秒・東経133度47分19秒付近 細田目無:北緯34度53分43秒・東経133度47分33秒付近 細田の矢柄池:北緯34度53分28秒・東経133度47分5秒 大鳴:大鳴の地名は上田東 細田 三谷に無く、大鳴・大成・大ナルの地名は上田西(上田西1934・1936番地)にあります 畑ヶ鳴・畑カ鳴:上田東2426-2483番地 本宮山近くに畑ヶ鳴の地名は有りますが 方向違いです 細田矢原:北緯34度53分56秒・東経133度46分58秒付近 大畑:細田 北緯34度53分32秒・東経133度47分23秒付近 駒石:案田 北緯34度53分32秒・東経133度47分23秒 飛石:細田城山裾 北緯34度53分48秒・東経133度47分7秒 塞石:細田植松 北緯34度53分51秒・東経133度46分56秒 本宮山:上田東・神瀬 北緯34度54分13秒・東経133度50分44秒 牛窓海上:北緯34度36分52秒・東経134度10分22秒辺りの海上でしょうか 春日神社:奈良市春日野町 北緯34度40分53秒・東経135度50分54秒 海神社:本宮山山頂に建ちます いさざ王:いさざ王は 伊奢沙和氣神(気比大神 御饌大神)の事でしょう 何故にイササワケと表現せずイサザオウと 表現したのでしょうか 気比宮を勧請した折 神社名を化気宮としたと言う伝説、即ち 気比宮の神社名にしなかった事と 関係するのでしょうか。しかも「化ける+気」にしたのには 何か意味があったのでしょうか 穿った考え方をすれば 応神天皇と伊奢沙和氣神が 名前を交換したと言う神話があり、応神天皇が 吉備国Kibi-no-kuniを分割して 妃の兄の子達等に 治めさせたと言う神話があります この事と関係するのでしょうか 吉備中央町の各地で 蹈鞴製鐵が行われていたと思われます「さ」の付く地名は 砂鉄としばしば関連しています 「いささ」の発音は 砂鉄を連想させます 化気神社付近で地元民(鬼)と 戦闘したとする伝説を 持つ 吉備津彦命の西征の主な目的は 吉備国の製鉄技術の発展を阻止する事にあったと 予測されます。「www.genbu.net/data/etizen/kehi_title.htm?print=on」「nihonsinwa.com/page/1236.html」この地の人は 食物神を祀りたかったけれども、この地の人にとって 吉備津彦命は 侵略者であり、応神天皇は 吉備国の国土を分割した 敵役ですので 吉備津彦命の行いを 敬わず、応神天皇の名を語る 伊奢沙和氣神を快く 思わなっかたのでしょう それ故に気比気比神社を素直に気比と呼ぶのを 嫌がり 化気と呼び、気比神である 伊奢沙和氣神を素直に「いささわけのかみと呼ばず「いさざ王」と 倒語Skakasima-go/tou-go(言葉の順を反対する等して暗号にする伝達法)や あだ名で 呼んだのではないでしょうか 嵯峨の皇子: 嵯峨天皇(786年10月3日〈延暦5年9月7日〉- 842年8月24日〈承和9年7月15日〉)の皇子の一人と考えるのが 最も自然です 岡山県神社庁 化気神社の説明によると 「44代元正天皇Genssyou-tennou(680年〈天武天皇9年〉- 748年5月22日〈天平20年4月21日〉)養老8年に皇子、西国の賊徒平定の為西下の途上、備前牛窓に御仮泊にわかに御脳有り諸郷丹心をこめて御脳平癒賊徒平定を祈請せられた時、長田庄本宮山の峯より霊光牛窓海上に映じご加護有り、奉賽の為、本宮山に行幸された」と記されています 嵯峨天王は元正天皇(独身女性で皇子はいません)の治世の頃 まだ生まれていません 嵯峨の皇子の脳の病伝説と 大吉備津彦命(281歳で逝去 吉備津彦命は 職名で 多くの人が務めたと想像します )の(孝霊天皇〈在位推定C290年~C214年の第三皇子 五十狭芹彦命)の脳の病伝説(崇神天皇〈在位推定BC97年~BC29年〉の治世の頃 宿敵温羅を退治してから13年間 温羅の霊に苦しめられ 後に化気神社辺りに鬼退治に来る)は 良く似ていますが、時代背景が 違い過ぎます 嵯峨の皇子とは 誰の事でしょうか 厳しい本宮山の嵯峨の山道を 登った皇子の意味でしょうか 氣喜山:案田2番地 舟ケ乢:案田3・4番地 氣喜:案田5番地、化気神社 雨乞田:案田115番地 神田:案田95番地 神領或いは金田(金属を生産する地域)を由来とする地名でしょうか 氣喜西:案田615番地 平成24年(2012年)6月2日
神瀬 本宮山頂上の海神社 Kai-jinjya on Honguu-zan
船ヶ乢分岐の上る道を登りると 峠が有ります。峠を過ぎた処の急坂を登ると 頂上です。昭和61年7月20日、本宮山山頂(582.9m)の海神社社殿改築に 神職総代が多く集まり 改築記念碑2本が 立てられました。本宮山山頂の北緯34度54分13秒・東経秒に海神社(手前) 山神宮(中央) 龍王宮(最奥)が建ちます。嵯峨皇子Saga-no-ouji/Saga-no-mikoが 西国平定に遠征した時、牛窓で 仮宿すると脳の病気に罹り(ました。諸郷の者は 御脳平癒 賊徒平定を祈りました。すると 長田庄の本宮山から霊光が発せられ、牛窓の海に 映え渡り 病が治りました。凱旋の途中 本宮山に登り 謝礼の参詣をしようとしましたが、道は細く茨の道と化していたために 登っている内に道に迷いました。すると白鹿が 現れ道案内をし 山頂まで導いてくれました。これは 伊奢沙和氣神Isasa-wake-no-kamiの霊験であると 感謝し、依って神宝として いさざ王と言う 丈1尺8寸4分の鹿角Kadunoを 祀りました。嵯峨皇子は 後に春日大社の祭神(武甕槌神Take-Mikaduti-no-kami 齋主神Iwai-nusi-no-kami 天兒屋根神Ame-no-Koyane-no-kami 比賣神Hime-no-kami )に伊奢沙和氣神を加え5柱の祭神を化気神社に 合祀しました。海神社の祭神は いさざ王(鹿角)です。「加茂川町史」 化気神社:北緯34度45分19秒・東経133度49分22秒 案田化氣5番地 嵯峨皇子:嵯峨天王の皇子と解釈されます 御津郡史に 「嵯峨天皇の皇子が 九州平定に 遠征した途中 牛窓で病に伏していると 長田庄本宮山の龍王宮の霊光が牛窓の海に 射し、病が平癒したので、感謝し本宮山に社を建て、イサザ王を祀った その時の宿舎があった処を 御所畝と言う」との趣旨が記されています。 イサザ王:伊奢沙別命の事でしょう 平成24年(2012年)6月2日
御所 Gosyo
ある天皇(嵯峨皇子)が 牛窓で病に成り、本宮山から差す霊光の御利益goriyakuで 完治しました。お礼に本宮山に 参詣するために、恐らく有漢渓Ukankeï(宇甘渓)から険しい山(嵯峨)を登って来ると 急に開けた土地に出 本宮山が 北に見張らせました。疲れを癒すために その地に 御座所Gozasyoを造りました。それ以来、その地を御所と 呼ぶようになりました。御座所から本宮山を眺めると 山頂に 明かりが見えました。本宮山には 龍王宮と正法寺が 建っていて、正法寺の僧が 毎日 頂上の龍王宮に 灯明していたからです。本宮山に登る途中 道に迷った時 白鹿が現れ 道案内され 龍王宮を参詣する事ができ、お礼に 鹿の角を奉納しました。当時牛窓の海は広く、海は本宮山より左程遠くなかったのでよう。「村人口伝」 御所ヶ畝:上田西2393番地
御所のストックファーム付近から北西方面を望んでいる眺望です。
御所より北方向・本宮山を望んでいます。
平成25年(2013年)9月6日