田辺九郎と言う金持ちが 宮坂におりました。財産の在り処を 家族の者にも 知られたくありませんでした。心配になって ある時 7人の奉公人に 財産を持たせ、智日神社Tiribi-jinjuaの杜Ohuroに隠し、7人を 殺して 埋めました。血の付いた刀を 2つの池で 洗いました。隠し場所を示す歌「朝日差す、夕日が裏に、綱つな一本の届きたき、三つ葉うつぎの下にあり」と 詠み残しました。つい 最近まで、7人御崎の墓標が 有りましたが、現在は 跡形も有りません。「吉備中央町の民話(1)」「吉備の伝説」「村人口伝」
昔 いつの事か解りませんが、尾原宮坂に 田辺九郎と言う屋敷の裏山 に 城を築き 屋敷を守らせる程 用心深い 大変な 分限者Bugensya(お金持ち)の庄屋が 田辺屋敷と 呼ばれる地に 住んででした。円城寺の宝篋印塔Houkyouin-touの改修の時には、浜の長者 隼人と 山門から 宝篋印塔迄の稚児行列の通る道の半分ずつに 銭を 敷き詰め、寺に どちらが沢山のお金を 布施できるか 競争をした程の見栄っ張りでしたが、反面 とてもけちん坊でした。「汚く儲け 綺麗に使う主義じゃ」と 言うのですが、極めて偏見的でしたので 財産の仕舞場所を 人に知られたら 盗られると 思い込みました。だから 稼いだ財産を 奉公人には勿論 警護の者にさえ知られないように 田辺屋敷のどこかに 隠し込んでいました。誰かに 知られたくなくて 毎日 隠し場所を 変えていましたが、大きな屋敷とは言え 限りが あります。ある日 九郎が 隠し部屋に入ろうとし、扉のからくりを見ると 取っ手が ピカピカに 磨かれていました。扉のからくりの仕組みを 知っているのは、家を建てた大工と 九郎だけですので 誰も開けられません。それでも 九郎は「家族の者か 奉公の者が、お金の在処Arikaを 知ったらしい」と 思われる節があると 言うだけで 疑心が暗鬼を 呼び「お金を盗まれる」と 思い込みました。そこで 誰にも知られない所で 忘れる事のない場所に 隠そうと思いました。早速 誰にも見られないように 大きな7つの甕(に 金銀宝石を 分けて入れました。ピカピカにからくりを磨いた可能性のある奉公人7人を そっと呼びだし 甕を 担がせ 新山宮坂Miyazakoの 智利火神社の杜に 運ばせ、穴を8個掘らせ その一個に7つの甕を 埋めさせました。奉公人が 疲れて 一休みしようと 腰を掛けた所で、後ろから いきなり切り掛かりました。予想せぬ出来事なので 奉公人達は 抵抗する間もなく 首を打 ち刎ね)られました。
九郎は 遺体を 一人づつ7つの穴に 埋めました。7人を切った刀は 血糊が ベッタリ付いていました。血の付いた刀を その近くの下の池で 洗い、次いで 上の池で漱ぎsusugiました。だから 今でも 下の池は いつも鉄錆色に濁り、上の池は少しだけ 赤く濁っているのだと 言われます。九朗は 瓶の埋めた場所を 書いた備忘録を、的場として利用していた田圃の中に 埋めました。そして 毎日 屋敷から的に 矢を射て、人が そこに近寄らないよう 見張ったのです。いつ 矢が 飛んで来るか解らないので 誰も 近寄りませんでした。奉公人が 少しばかり減っても「また主人の気まぐれで 解雇された」位に 考え、気にする者は いませんでした。何事もなく 時が経ち 九郎は死を悟った時、家族を集め「わしの財産は 蔵の物の他に、大方を ある場所に埋めた 埋めた場所は (朝日差す 夕日が裏に 綱一本の届きたき 三つ葉うつぎの下に)だ 謎を解いた者に 相続させる」と 言い残しました。しかし この意味を 解読できる者は 誰もいないので 現在も九郎の宝物を 手にした者は おりません。「吉備中央町の民話(1)・智日神社」「村人口伝」を基にした物語 御崎:一家全員が死んだ人の墓や、身寄りのない人の墓や、恨みを持って死んだ人の墓の事です 智利火神社:北緯34度55分1秒・東経133度44分27秒 七人御崎は昭和初期まで 智利火神社(智日神社)の杜に 祀られていましたが、智利火神社が 重岡神社に 合祀されると 神社跡は 荒れ果て 現在は御崎の跡形もなくなっています 上の池:北緯34度55分1秒・東経133度44分29秒の近く 下の池:北緯34度55分0秒・東経133度44分28秒の近く 現在は 開発のため痕跡が 残るだけです 田辺屋敷:北緯34度55分4秒・東経133度44分32秒の近く 田辺城山:北緯34度55分9秒・東経133度44分24秒付近 的場: 重岡神社から有漢に向かう道の有漢側に向く時、左手にあります。現在は圃場整備事業で 姿を変えましたが、小さい三角形の田圃だったと 言います 北緯34度54分59秒・東経 133度44分25秒 円城寺の宝篋印塔:円城寺境内にありま高は 約3mで「大願主僧蓮宥大工沙弥碩隆 延文二年(1357年)八月上旬建」の銘があります。寄進者は田辺九朗らしい。「1768年(明和五年)の河内古伝」平成25年(2013年)4月2日
月の原に 深田兵衛という長者が 月の原屋敷を構えていました。金で作られた鶏 7番Nana-Tugaiを、白南天の下に埋め「朝日射す夕日照らすその下の白南天のその下にあり」と 言う訳の解らない歌を残しました。「賀陽町史」「上竹村史」「月の原深田で草刈りをしていた村人より口伝」 月の原に温泉がありました。吉備津彦命(岡山の桃太郎伝説の桃太郎)が吉備征伐に来た時、兵士が湯治し創を直し戦いました。近くの石で剣や槍を研いだそうです。「上竹村史」「竹荘サキノスの村人のより口伝」 平成23年(2011年)9月30日
昔 深田兵衛と言う者が 月の原温泉で 宿屋を営んでいました。「桃太郎が 泊った」と 言う評判で 流行っていました。けちん坊で 人を雇うのが 嫌だったので、あまりに 忙しさに 掃除をする暇がなく 蚤や鼠が増えてきたのです。客は「蚤で痒い」「鼠が煩い」「寝苦しくて往生する」と 苦情を言い 悪い評判が 立ち 客は 減って行きました。深田兵衛は 気落ちし 掃除をする気力も失い ますます 鼠や 蚤が 増えました。ある日 人の良さそうな貧乏臭い男が宿に止まりました。「蚤や鼠がいて眠れない」と 客が 苦情を言うと、深田兵衛は いけシャアシャアと「家じゃぁ 蚤や 鼠ぅ飼ぅて 繁殖させているんじゃ 蚤ぁ漢方薬になるけぇ高ぅ売れる 蚤ぅ取って漢方薬屋に売る 沢山捕えた者には 路銀を都合してやっている 何なら1匹残らず捕ってもろうても良ぇぞ」と 答えました。そして深田兵衛が「蚤は要らんか 鼠は要らんか 安価販売」と 書いた立札を立てたので、客は 納得し 泊まる事にしました。
客は夜も寝ないで 蚤や 鼠を 捕りました。路銀を使い果たし困っていましたし、帰れば お金が 必要だったからです。数日後には蚤 も鼠も 1匹も いなくなっていました。深田兵衛は 極めて安い値段でしたが ポンと お金を払い 買い取りました「蚤を増やすための塵を 集めてくれりゃぁ もっと金をやろう」と 言いました。客は 感謝し 宿屋の隅々の塵を かき集め、ピカピカになるまで 掃除しました。翌日、深田兵衛は またも 快くポンと 代金を払いました。客は 路銀ができ、喜んで旅立ちました。そのころ深田兵衛は「安い労賃で、今まで どぎゃぁ に努力しても 絶やせんかった 蚤や 鼠ぅ退治でき、おまけに 掃除までさせちゃった」 と 思ってにんまりと笑っていました。その年は 旱魃だったので 米が採れず、それを餌にする鼠が 激減しました。お百姓は 稲荷神社に 豊作を願いに行きたいのですが、お供え物の鼠天Nezu-ten(鼠の天婦羅)が 作れず 困ったのです。すると「鼠を売ってくれ 稲荷神社に 天婦羅にして奉納するけぇ」と 言って多くの人が 鼠を買って行きました。
又「蚤を売ってくれ 粉にして 舌の下で転がすと 蚤に刺されても 痒くならなくなる」と言って 沢山のの人が 蚤を買って行きました。あの旅人は 大事な 鼠や蚤が腐らないよう 火を通し 丁寧に 乾燥させてくれていたのです。深田兵衛は たっぷりと儲け、宿も 綺麗になったので 又 はやり始めました「深田兵衛は しっかり者じゃ」と 言う評判が立ち、困り事のある者達が 相談をしに来て 宿泊するようになと 経営相談料を 取りました。お金を 残した深田兵衛は 財産を 七番の大きな金の鶏に 変え、白南天の下に 埋め「朝日射す夕日照らすその下の白南天のその下にあり」と 言う訳の解らない歌を 遺言として残しました。訳の解らない歌なので 未だ 誰もどこにあるのか知る人はいません。「賀陽町史」「上竹村史」「月の原深田で草刈りをしていた村人より口伝」を 基にした物語 蚤:日本には 約80種程 蚤が生息し、多くの蚤は 定温動物で有れば 寄生します 写真は 猫蚤で、犬や 人にも 良く寄生します 犬蚤は人を 好まないそうです 寄生主から 離れると 長生きできず、炭酸ガスを 求め移動します 幼虫の餌は 親虫の糞です 犬猫の蚤寄生を知るには 毛の中の蚤の糞を 探します 鼠の天婦羅・ネズテン:稲荷神社の遣わしめは 狐で、野生の狐の主食は 鼠です 始め稲荷神社には 鼠の天婦羅が 奉納されていましたが、天保の頃の凶作の年に 鼠が繁殖せず、やむなく油揚げに 鮨を詰 め鼠天婦羅の代用にしました その後は いはゆるお稲荷様(稲荷寿司)を 奉納するようになりました 天保の飢饉の頃、豊川稲荷神社に 奉納された稲荷ずしを 庶民が 食料として利用しました 「gogen-allguide.com/i/inarizushi.html」「豊川市民の口伝」 蚤の過敏症の研究・減感作療法:過敏症の内 最も有効な療法は 減感作療法です 過敏反応の原因である 物質(アレルゲン)を 注射等し続け、免疫学的反応を 鈍らせる方法で、最近は 舌下にアレルゲンを含み 減感作させる研究が進んきました 蚤過敏症(蚤アレルギー)に 急速舌下(経口)減感作療法が 研究されているかどうかは知りません 鬼楽荘湯元・月の原温泉:北緯34度51分25秒・東経133度41分6秒 この物語と関係ありません 深田:北緯34度51分12秒・東経133度41分12秒 上竹128・166番地等 上竹466・502番地等 平成23年(2011年)9月30日
田土 吉長 金鳥様 /Kintyou-sama "golden fowl"
吉長の地に 金の鳥が 埋めてあり、正月元日の真夜中 金の鳥が 鳴きながら 東方に向って 飛び立つとされます。その声を 聴いた者は 長者になると 言われます。この石塔の前を通る者は 3種類の木の枝を 供えて行く 習慣があります。「平成十年三月吉日のやまびこ会立札」昔、
吉長に 真面目な男が 住んでいました。穏やかな性格の正直な 働き者で、朝から 晩まで休む事を知らない程に 働き、時間があれば 医学 薬学を学んでいました。病気の人や 食に困る者があれば 薬草を探し、こつこつと貯め置いた米を 惜しげなく与えました。村の者は 男に感謝し、吉長薬師菩薩と呼んでいました。これを 瑠璃光浄土Ruri-jyoudoから見ていた 薬師如来は「あの男 仏道に入れば 真の菩薩になるかも知れん」と 思い、迦陵頻伽Karyoubingaに 男の心を 見抜いて来るように 言い付けました。ある日 男の前に 旅の娘が現れ「全国のお寺を行脚しております 喉の渇きを 癒すため一杯の水 を恵んでください」と 暖かくて 慈愛のある鈴の様な声で 水を求めました。全国を 旅している筈なのに 全く日焼けをしておらず 肌は白く きめ細やかで 張りがあり、まるで 天女のようでした。それまで 働詰めで 女性を 気にする事も無く過ごしてきた男 でしたが、太陽の光背の霊光を 放つこの女性には 眼を奪われ、呆けたように 口を開けたままで 感慨に浸りました。気を取り直し 茶碗に 清水を 汲んで 震える手で 娘に渡しました。娘は 暖かくて慈愛のある鈴の音の様な声で 礼を言うと、藤吉は 舌が強張りKowabari 声にならないような声で「少しここに 留まって下さい」と 心の底を 打ち明けました。娘は 快く受け入れ 一つ屋根の下で 暮すようになりましたが、娘は 天に向かい陽の光を 食べるばかりで 水も 飲みませんでした。娘の体を 心配した 藤吉は「健康は 薬師如来様の教えのように 医食同源に あります あなたの健康を 心配する 私の心の苦しみを 解ってください 私に あの時の水を 飲んだあなたの幸福そうな顔を もう一度見せて下さい」と 頼むのです。娘は 一度水を飲んだ事を思い出し、何かを 覚悟した様に 神々しく お教を唱え 食べ物を 一口食べました。
男は 微笑み 幸福を全身で表しました。これを 機に 娘は人間と同じように食べるようになり、夫婦になって 共に働いたので 豊かになりました。これを見て 薬師如来は「医食同源の言葉を以て 迦陵頻伽の心を惑わし、人間の食物を口に させ 食欲に溺れさせ 色欲に溺れさせ 財を成し 贅沢をさせている これ以上 迦陵頻伽を 世俗 に溺れさせてはいけない 迦陵頻伽を 迷わせるようなあの魅力的な男が 菩薩になって 浄土に来れば 浄土の風紀が 乱れる恐れがある」と 迦陵頻伽を 極楽浄土に 呼び戻ましたす事にしました。妻が「私は必ず戻ってきます」と 悲しみを 堪えながら言い残し 突然にいなくなりました。男は 嘆き悲しみ 妻との再開を 願い、初めて出会った所に 人の頭程の鈴のような 形の石を 置きました。優しく美しい 妻の帰りを 信じる 男は 逢いたさ 故に 記念碑に 参り続けました。元旦に 記念碑に参ると 記念碑の下より金の鳥が現れ「私が あなたの妻の迦陵頻伽 愛しいあなたに一目逢いに参りました 長い間留まる事は 許されていません 極楽浄土に 帰らないと いけないのです」と 東の空に 向かって 飛び立ちました。それからは 迦陵頻伽に 逢いたさに、藤吉は 長寿の象徴である松の木と 鳳凰の止まる木である桐の木と 仏の供える樒(Sikimiの木の枝を 束ね、記念碑を 金鳥様と 名付け 参り続けると、迦陵頻伽は 金の鳥の姿で 毎年 元日に 男に逢いに来ました。それを見てせらった者達は 3種の木の枝を持って参りさえすれば 男のように 裕福になり 長生きできると信じ、色々の屁理屈を付け 松竹梅 檜杉椿Hi-San-Tin等の木の枝を3本束ねお 参りするようになり、運が 良ければ あの男を待つ 金の鳥を見る事ができました。男は100歳になると 長い長い迦陵頻伽への思慕の苦しみから 解き放たれました。とて も幸せそうで穏やかな 仏の様な微笑みをしていたそうです。それからは 金の鳥は 金鳥様を 訪れなくなりました。「平成十年三月吉日のやまびこ会立札」を基にした物語 金鶏山:岩手県西磐井郡平泉町 北緯38度59分36秒・東経141度6分33秒 金鳥様の立て札:高梁御津線(31号線)の吉辰口を北西に登り、川東吉長公民館の100m程手前のT字路を 左に曲がり、北西西に100m程進むと 道は北向きになります 北上すると 左手に分岐する道の端 北緯34度52分7秒・東経133度43分48秒に 金鳥様 王子権現社 稲荷大明神の案内の立て札が 立っています 薬師如来・薬師瑠璃光如来・大医王仏:薬師本願 功徳経に よれば、薬師如来は 東法浄瑠璃世界 即ち瑠璃光浄土の主で、瑠璃光を 以て 衆生(全 ての民)の病苦を 救う努力をすると 言われます 迦陵頻伽・妙音鳥・逸音鳥、・妙声鳥:半人半鳥の キメラの想像上の生物で、共命鳥と ともに 極楽 浄土に住みます 卵の頃から 鳴き、その声は 仏の声のように 美しいとされます 美しい芸者や 花魁や美しい声の芸妓を迦陵頻伽と 呼び 褒めます 仏教の3大聖木・無憂樹Muyuu-jyu 菩提樹Bodai-jyu 沙羅双樹Sarasou-jyu:無憂樹は 釈迦の母が 釈迦を産む時 ァソッカの花に 手を差 し伸べると 安らかに 出産する事が出来たので ァソッカ( 無憂樹)と呼びます 菩提樹は 釈迦が悟りを開いた時に座った木(日本名の菩提樹は別種で インドボダイジュは 日本では寒さに耐えられないので 温室で育てます)です 沙羅双樹(鶴林Kakurin)は 鍛冶屋から の供養を受け 激しい腹痛を起こし 最後の説法を終え 涅槃に入った時に この木の下に 横たわりますが、日本名 の沙羅の木とは 別種です「お釈迦さまの木(仏教の三大聖木) (zen-temple.com)」 平成26年(2014年)8月15日
蜂谷という所に 大金持ちの酒屋が ありました。財産を 蓄えている場所を 家族にも 知られたくなくて、人知れぬ山中に 6つの瓶に入れ、女中のお銀に 運ばせ 埋めました。お銀に 強く口止めしましたが、不安のあまり 秘密を守るため お銀を 殺しました。主人は その日から 体調を失いました。薬石も 効果なく、法者の祈祷も ご利益を 得られませんでした。お銀の祟りとして お銀を殺した短刀を 地中に埋め、檜を植えて その傍に 祠を 造り お銀を 祀りました。これが、げんぎん様です。「吉備中央町の伝説(1)」「村人口伝」
昔 藤井家は 庄屋であり鉢屋Hatiyaと言う 酒屋を 営み大金持ちでした。粋な 黒塀に 見越しの松の母屋の他 5棟の屋を並べ、大きな 土蔵を 備えていて、黒塀の外に 立派な井戸が ありました。鉢屋の主人は 気の弱い所のある 強欲者で、財産を 泥棒に 狙われる事や、家人が 持ち出す事を 酷く恐れていました。そこで、家族にも 内緒で どこかに 隠してしまおうと考えました。ある日 金めの物を7つの甕に 詰め 大八車Daihati-gurumaに 乗せ 蔵から 持ち出しました。藤井家の奉公人に 気立ての優しい誠実な お銀と 呼ばれていた娘が おりました。とても働き者だったので 家人 や奉公人 皆Minnaが 寝静まった頃まで 拭き掃除を していました。鉢屋の主人は 門を 静かに開け 井戸の傍を 通り、街道に 向かいました。井戸の陰で 座り、雑巾絞り をしていたお銀に 気が付きませんでした。こんな 夜中に ご主人は 何をしに出かけるのか 不思議に 思ったお銀は、闇に 消えそうになる大八車の後を 付けました。
天田Tendaの丘にに 付くと、大檜の後ろに 主人は 穴を掘って 甕を埋めていました。埋め終わると 鶴嘴Turuhasiや 鍬(Kuwaの音が 消え静まり返ったので、お銀の呼吸の音も スースーと 大きな音のように 感じられました。主人は 汗を拭き 辺りを見回し、人の気配を 感じ取りました。案の定 見つかるのを 恐れ 震えているお銀に気付き、お鋭い目をして お銀に 近付いて来ました。主人のただならぬ気迫に お銀は 体が竦み 動くに 動けなくなり 殺されると 覚悟しました。目をつむり 成り行きを 静かに待っていると、主人は「黙って 殺されてくれ そうして呉れれば 神様として 祠を建て 祀ってやる」と 思いがけない 静かで 迫ったのです。「神様になれる」と 聞かされた時、厳かな夢心になり 小首を 傾けてしまいました。この頃の人達にとって、神や 仏は 特別に 尊い存在であったからです。主人は お銀が 承服してくれたと 信じ 胸を一突きに しました。しかし 約束を 守らず お銀を 土深くに埋めました。すると 主人は その日から 体調を失いました。薬石も 効果なく、法者の祈祷も ご利益を 得られませんでした。お銀の祟りとして お銀を 殺した短刀と 一緒 遺体を墓場に 葬り 神事を尽し 檜を植え 祠を立て祀りました。すると 主人は お銀の祟から 解放されました。それに 感謝し、子子孫孫 昭和の初め頃まで ソーギン祭りを 絶やさず 続けられました。祠が 崩れ(た折、供養石を 作り変えたそうです。いまも ソーギン様の周囲は 檜が 植樹されています。「豊野蜂谷の村人より口伝」 ソーギンサマ:北緯34度51分59秒・東経133度41分50秒 多くの軍記にみられるように、語りべの立場により 同じ伝説でも 内容が異なります ソーギンは 宗銀や 僧銀と 書くと思われているが 葬銀と 書くのだと 語りべの婦人は 語りました 蜂谷公会堂:北緯34度51分52秒・東経133度41分52秒 甕が埋められたと思われる丘:北緯34度51分51秒・東経133度42分28秒 蜂屋の財宝は未だ発掘されていません 平成23年(2011年)7月24日
吉川の槍 の供養塔)の下に 金の鳥が 出入りします。金の鳥を見た者は 幸せになる。「吉川布郡の村人より口伝」 丸山城跡近くで、刀剣 鎗Yari 鏃Yaziriの類が 発掘されたので 供養塔を立てました。「上竹荘村史」 いつの頃か 誰が戦ったのか不明ですが、丸山城と 戦をし、矢置き石に 矢を置いて、丸山城に 矢継ぎ早に 矢を放ったとされます。「吉川千木の村人より口伝」
昔 伊賀家久の父の 伊賀久隆は 上司である宇喜多直家に 天正9年(1581年)暗殺されました。明石景親 等重臣達は「伊賀勢の勢力は 宇喜多領の3割を 占めているとは言え、とても 勝機があるとは 思えない 当面は 毛利氏を頼り 敵討ちの機会を 狙おう」と 忠告したので、家久は その忠告を 受け入れ あっさりと 虎倉城を捨て 丸山城の吉川氏を頼り 千木の虎倉山に住み 小早川隆景の配下と なりました。処が 家久の動きは 悉く虎倉城を 通じ 岡山城の宇喜多直家に 察知されました。家久は「丸山城に 直家に通じる者がいる」と 確信し 吉川四郎と 協力してスパイを探索しましたが、どうしても 見つかりませんでした。
止む無く 家久は 虎倉山の摩利支天社と 祇園神社で 神託を受けると、摩利支天と 素戔嗚命が 夢に現れ「正義の矢と 槍を汝に与える 金福寺より丸山城に向け 矢継ぎ早に 射放てよ されば 城内の裏切り者は 悉く 立ち去るであろう」と 告げたのです。金福寺に 参詣すると 門前の岩に 金色の破魔矢 破魔槍 破魔剣が 奉納されていました。家久と 四郎は 神の加護に感謝し 丸山城に向け 矢継ぎ早に 矢と槍を 放つと、矢や槍は 自らの意思を持つかのように、軽々と 天空に舞い上がり それぞれの方向に 飛んで行きました。すると 翌朝から何人かの侍が 村から姿を消し、しばらくして 虎倉城で 長船越中守詮光に対し 妹婿の石原新太郎が 反乱を起こし 虎倉城は 焼け落ちました。それからは 丸山城の情報は 岡山城に 知られなくなり、安心して 伊賀一族は 山を下り 丸山や 西庄田に住みました。各地に 飛び散った正義の矢と 槍が集められ 丸山に埋め 地蔵を立て 祀られました。いつの頃か この供養塚を 守るように 金色の鳥が 塚を出入りするようになりました。この金の鳥を見た者は 裏切り者から守られ 豊かになるそうです。「吉川布郡の村人より口伝」「吉川千木の村人より口伝」
槍供養塔:緯34度49分52秒・東経133度45分5秒 槍の供養塔と されていますが 実際は 橋供養塔です。 丸山城跡:北緯34度49分54秒・東経133度45分1秒 岡山城:岡山市北区 北緯34度39分55秒・東経133度5 虎倉城:岡山市御津虎倉 北緯34度50分13秒・東経133度50分2秒 虎倉山摩利支天皇宮:千木 北緯34度50分16秒・東経133度45分8秒 虎倉山祇園神社:千木 北緯34度50分15秒・東経133度45分10秒
仙久山金福寺:千木 北緯34度50分1秒・東経133度44分55秒 その東の旧金福寺の石垣の手前の右手に 上面が平らな岩は 矢置き石と 呼ばれています 写真の右下の大石が 矢置きの石です 丸山:吉川1250・1272番地等 小倉:吉川7344・7427番地等 平成28年(2016年)7月27日