雨乞伝説 Traditions of pray for rain in kibityuuoutyou
西入様 塚人様 塚神の雨乞い 杉谷の水神 杉谷の神変大菩薩 鳴滝の雨乞 鳴滝の山上大権現物語 広造田の長石 風穴と余る簿 雨坪の子龍 龍狩り 神子山の鳴る岩 新谷崇高の大蛇退治 一心神門 犬五郎兵衛 犬五郎兵衛のように 大原池 聖坊山 大村寺の雨乞い 鼠に食われた経文 龍在ヶ滝の龍 龍在ヶ滝の花嫁 左甚五郎の龍 道浄寺の龍 超仏羅様 超仏様の雨乞い 船越堂 船越様の雨乞い 爪無し龍 五輪山の龍神 尼子岩での雨乞い 星見岩 妙本寺の雨乞い 庚申山の雨乞い 不明の雨乞い伝説 丸カバチ池の龍 平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備人出版】が発行されました。P339~p349に「雨乞い」に関する民話が載っています。平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。P72~p73に「雨乞い」(大古屋蜘蛛ヶ淵 竹部大小戸井堰・鳴滝)「鳴滝のウナギ」と言う話が載っています。
井原の西入様 Sainyuu-sama in Ihara
井原の青木の祠(青木山少林寺跡)の墓場に 笠塔婆の傘の殆どが欠けた豊島石製の石塔が 一尋四方の石積みの上に 立っています。正面に「雪天蝉師」と 右側面に「元禄十六癸未」二月十五日卒」と 銘があります。村人は サイニョウとか サイニュウ等と呼んでいますが 信仰対象になったと言う伝説は 残っておらず 訪れる人も 殆どないと 言われます。何時の時代かよく分らないのですが「雪天」と言う蝉師が 井原にやって来て 村人の飢饉の様子に 心が痛め 命を懸けて 雨乞いをする決心 しました。村人を 集め 墓場に穴を掘らせ 灯明し 息抜きの竹筒の為の隙間を 残しただけの 密封した石室を造らせ 鉦を携えて 石室の中の 棺に籠り光明真言を唱え続けました。灯明が消えると読経の声も 鉦の音も 鎮まりました。村人は 命を賭して「自分達の苦しみを 救わんとして 雪天様が 入定成された。」と その時は 尊敬し 感謝した のですが、その後も 飢饉(旱魃 大雨 イナゴの被害)から 救われなかったの で 村人の一部を除いて 永くは 大した感謝も しなかったらしいのです。。村人口伝] 。元禄15年の讃岐地方は大雨 洪水 大旱魃 イナゴの大発生等 でお百姓さん達は 飢餓に 晒されました。サイニュウの意味は不明ですが「塞入」の訛りでしょうか。 平成42年(2012年)9月8日
聖主天中天 伽陵頻伽声 哀愍衆生者 我等今敬礼 等の現代語訳は 聖主 天中天 迦陵頻伽の声をもって 衆生を哀愍したまう者 我等今 敬禮す( 聖なる主 神々の主 架陵頻伽の声に よって 人々を 悲しみ憐れむ者を 我等は 今敬い奉ります)「妙法蓮華経化城喩品第七 (kosaiji.org)」です。手水鉢があり それには 寛政○○ 月○○○と 刻まれています。塚紳宮の前の道を 東に90m程 進むと 柏尾八坂神社から 南東東に下る道と T字路を造るので 道なりに 右に300m程進むと 三叉路に出ます。その右側の土手に 一宮社の柏尾耳宮があり 丸い石 2個と 数円のお賽銭が納められています。天明の頃 柏尾村も10年も続く大飢饉になりました。村に 旅の修行者が やって来て、村民の困窮ぶりを見て「我は 摩利支天の化身なり。 必ずや 我は汝らを 救う。」と 宣言して 天候の回復を祈祷する覚悟を しました。円墳の前に 穴を掘り その穴にたて籠もり「我は この穴に籠もり 鈴を鳴らして 祈祷する。 鈴の音の消えた時に 我は天中天に成り この世に 屍Sikabaneを残し 満願を果たす。」と 言って 鈴と 鉦を鳴らし 飲食を断って 大般若経を 唱え始めました。村人が 修行僧の健康を 気遣う中 一か月もした頃 鈴の音が止むと 空は明るくなりました。村人は 修行僧に感謝し 塚の上に 摩利支天と 修行僧を祀り 塚神様と 呼んで 崇めました。「柏尾村人より口伝」 平成25年(2013年)7月20日
田沼意次Tanuma-Okitugiの商業主義の元 藩はそれまでに田畑の開墾を奨励して順調に年貢の増収に成功しかけたと思われましたが 天明2年(1982年)に 柏尾村に 旱魃と洪水により 飢饉が始まり 年貢を 納めるのも 困難な状態と なりました。それに 追い打ちを掛けるように 天明3年(1983年)の終わり頃 澄みきった青空であるべき季節なのに 朧月夜Oboro-dukiyoが 続き 白い帯の天の川も 消え失せました。昼は 晴れているのに 太陽は 薄い雲の向こうに 有るように 輝きを失い 寒さは 厳しく 積もる雪は 灰色でした。翌年になっても 事態は 変わらず 弱々しい日差しでは 稲も野菜も 果物も 育たず 悲惨な 食糧不足になりました。それに 伴い 年貢額は 減らされましたが 半面 年貢の取り立ては 厳しくなったのです。農民は 草木を食べ ヒガンバナ等 毒草までも 毒抜きして 飢えを凌ぎました。人々は 栄養状態も悪くなり 病気が流行り 死者が多く出て 行き過ぎた 田畑開拓政策による 労働力不足に 更なる労働力不足が 追い討ちをかけたのです。離農しようとする者があれば 藩は育麦倉から 種籾Tanemomiを 貸し与え 農機 を 貸し与えました。優秀な 農機具が 配布されても 貸し与えられる 種籾は十分でない上 不作の原因が 天候不良ですので 生産高に 大した効果なく 百姓の口に入る食糧は 減るばかりでした。延々と 10年も 冷夏が 続き 綿入れを着て 田植えをする始末で せっかく 作物を植えても 旱魃や 洪水や 落雷が 交互に訪れたので 村人達は 神仏を祈り続けるしかありませんでした。
そんな時、柏尾村に 全国を行脚し 各地の飢饉を 救おうとした 耳の悪い修行僧が 通り掛かりました。村人は 修行僧に 手振り身振りで 苦境を訴え 救ってくれるよう 懇願したのです。「伽陵頻伽の声あれば 救って差し上げたいが 耳が遠くて聞こえない。」と 修行僧が言うと 村人は 何を 勘違いしたのか 前年に 村に流れ着いた村で一番美しい娘を「我が村の伽陵頻伽(美声の芸子)です 。どうぞ可愛がってやってください。 娘も承知です。」と 手ぶり身振りで語って 雉Kiji)や 山鳥の羽の扇を 持たせて 連れて来たのです。修行僧は「修行中の身である.」と 言い放って 前を 過ぎ去ろうとする 修行僧の耳に 娘は 異常を見つけました。
娘は 追いかけ 裾を引き止め 手振り身振りで「耳のお掃除を して差し上げたい。」と 申し出ました。すると修行僧は10年間も耳に 不快を感じていたので 素直に応じ柏尾耳宮の護符を 紙縒りkoyoriにし 耳掃除をすると 取れるは 取れるは ごっぽりと 耳の穴の形の 耳垢\が 抜け落ちました。娘が 澄んだ声で「聞こえますか。 この村の飢饉を 救い給え。」と お願いすると 修行僧は「伽陵頻伽の声が 聞こえた。この村の聖なる場所で 祈祷をしよう。その場所へ 案内致せ。」と 言って 娘に 案内させ 塚にやって来ました。塚の前に 穴を掘り その穴に たて籠もり「我は ここに 祀られている摩利支天の 化身となり。 この穴に 籠もり鈴を 鳴らして 祈祷する。 鈴の音の消えた時に 我は 天中天に成り この世に 屍Sikabaneを残し 満願を果たす。」と 言って 鈴と 鉦を 鳴らし 大般若経を 唱え始めました。娘が 修行僧の世話係となり 直ぐ詰まる耳垢を 伽陵頻伽の声を 絶やさないよう 掃除し続けました。娘と 修行僧の消耗は 激しく 空の曇りが 薄れるのに合わせるよう に 次第に削痩\して行きました。ある日 修行僧は 村人を集め「我の眷属は 摩利支天王なり 明日満願となり 我は 天中天となる 摩利支 天王とともに 我が屍を ここに葬り祀り給え。」と 再び 告げました。翌朝 村人塚に来てみると 修行僧と娘は屍となっていました。村人は「娘が 摩利支天王の申し子であった.」と 信じました。すると空は 澄み 日光が燦々Sansanと 降り注ぎました。江戸で「白河の清きに 魚も 住みかねて 元の濁りの 田沼 恋しき」と いう川柳が 大 うけした頃の白河藩主 松平定信による 堅苦しい寛政の改革も 進み 寛政5年(1889年)には 飢饉は去って行きました。村人は 世界中を救った2尊の社を 塚の上に建てて祀り 修行僧を 塚神様と 呼び 敬いました。娘が 集めた修行僧の10年分の耳垢は 石と化していたので 村人は 辻の塞神神社Sai-no-kami-syaを 耳神宮として 崇めました。「天明の大飢饉」「柏尾村人より口伝」「育麦庫」「塞神社」 天明の飢饉:天明3年(1783年)浅間山(長野県北佐久郡軽井沢町 御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境 北緯36度24分23秒・東経138度31分23秒) 岩木山(青森県弘前市と西津軽郡鰺ヶ沢町に跨る山 北緯40度39分21秒・東経140度18分11秒) アイスランドのラキ火山(北緯64度3分53秒・東経18度13分34秒) 同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山(北緯64度25分12秒・ 東経17度19分48秒)が 相次いで大爆発しました。グリムスヴォトン火山の噴火は天明5年(1785年)まで及びました。おびただしい量の有毒ガスと 火山灰が成層圏まで上昇し 北半球を10年以上覆いました。 日射量が減少したので 北半球は 低温化し 冷害を齎しました。寛政1年(1789年)~寛政5年(1793年)まで続いた大型のエルニーニョが 天明の飢饉からの回復を 妨げました。「https://ja.wikipedia.org/wiki/天明の大飢饉」 摩利支天王・摩利支天・魔利支天:陽炎Kagerouを神格化した仏教の守護神で護身 蓄財の神です。 観世音菩薩の変化である日天子の眷属Kenzokuです。摩利支天像は元来二臂(2本の手)の女神像で 男性神で表わせられる時は 月と猪に乗ります。 伽陵頻伽・迦陵頻伽・妙音鳥・好声鳥・逸音鳥・妙声鳥:上半身が人であったり 翼を持つ菩薩であったりし 下半身 が鳥の姿をした仏教に関わる 想像上の生物です。共命鳥Gumyoutyouと供に 極楽浄土に住み 孵る前から美しい声で鳴き その声は仏の声(如来の教え)の例えに 用いられます。日本では 美しい芸者や 美声の芸妓を 迦陵頻伽と呼び 讃えます。「https://ja.wikipedia.org/wiki/迦陵頻伽」 柏尾八坂神社:北緯34度53分53秒・東経133度48分13秒 耳神宮:(上田東与次溺1339番地の約100m南) 北緯34度53分54秒・東経133度48分4秒 塞神:村に 流行病や外敵が侵入しないよう祀る神で 村集落(邑)と集落の境界に 祀られます。 平成25年(2013年)7月2
大正から 昭和初期にかけ 高野神社の宮司を 先頭に 3回、百々の滝で 雨乞いがなされ 霊験あらたかでした。水神は かつて川岸に 祀られていましたが 付近は 砂鉄の産地で 廃 砂等で 祖母谷川や 祖保谷川は 荒れており 度々大水の時 流される危険が有って 山の中腹に 移されました。雨乞いの時には 淵に藁製の龍を 洗ったと 言われます。龍が 機嫌を直し お礼に雨を降らせるのだそうです。又 藁の蛇を 沈めたとも 言われます。百々の水神様は 蛇が嫌いなので 藁の蛇を流そうとして 大 雨を降らせるのだそうです。近くに 神変大菩薩が 祀られています。神変大菩薩は毒蛇退治が 得意ですし 雲を自由に操れます。「江与味の村人のより口伝」 平成24年(2012年)12月10日
大正の いつの頃か解らないのですが 大旱魃Dai-Kanbatuが 起こりました。作物が 全く育たない程に 厳しいものでした。水が 絶えた事のない百々滝も 殆ど 水が無くなりました。村人は 百々の滝に 龍神が住んでいると 信じていました。龍神に 雨乞いをしたいと思い 龍神社の宮司を 先頭にし 百々の滝に 来てみると 龍神の食べ物である 滝壺に住む魚や 蛙が 死に絶えそうになっていました。村人達は この飢饉Kikinを 乗り越えるには 龍紳に 雨乞いし 叶て貰うしかなく 魚や 蛙が 死なないよう なけなしの自分達の飲み水も 節約し 滝壺を 潤ませました。龍神を 藁で作り 残り少ない淵の水で 浄めても 雨は降りませんでした。藁で 作った蛇を 池に沈めると 老人が 2匹の鬼を 従わせやって来ました。脛が 見える程の短いボロ布を 纏い 頭巾を被り 経の巻物 錫Syakujyouを 持ち 一本歯の下駄Getaを 履いていました。村人達は この老人と2匹の鬼に 恐れ慄きOnonoki 逃げ去ろうとすると 老人は「逃げともとも良い。わしは龍神と 深い関係にある。 龍神を 守ろうとした そなた達の願を 叶えたい。 見よ この後鬼は 水瓶Mizugameを 持っている この前鬼は 斧Onoを 持っている。 後鬼は 水の種を 運ぶ役をする。前鬼は 禽獣や 毒蛇を除き 煩悩を取り払い 智慧を 与える事ができる。これから 2鬼に 娑羯羅竜王Syagara-ryuu-ouの元に 向かわせ 水の種を 持ち帰らせる。魚 蛙を襲う 禽獣を廃し 邪魔Jyamaする者は 前鬼が 打ち払うであろう。」と 告げました。それを聞いて 冷静さを 取り戻し 老人と 2匹の鬼を 能々yokuyoku見ると、老人は 仙人然としており 2匹の鬼は 修行僧然としていたので 村人は「天の助けが 現れた.」と 思いました。
すると 老人が 呼び寄せた5色の雲に2匹の鬼を乗せて 天の泉に 向かわせました。老人は 滝の近くの山の中腹の岩に 腰掛け、孔雀Kujyaku明王の呪経を 唱え 毒虫の害を癒し 汚れた水毒を清め 安全な 飲料水に 変えました。 2匹の鬼は 邪魔する悪鬼を 打ち払い 打ち払い 天海に 辿り着き 雨乞いの本尊 娑羯羅竜王から 聖雨の種を たっぷりと 頂き持ちかえりました。老人は 百々滝の滝壺へ 鬼達に 聖雨の種を 撒かせると 水の種は 激しく天高く霧の柱と成り 昇って行き 天を覆う 入道雲と成り 稲妻の飛び交う雨に 成りました。稲妻の気を受けた 枯れる寸前の稲は みるみる蘇り 村は 旱魃から救われました。落ち着いた生活が 約束されると やっと村人は あの老人が 役行者だと 気付きました。村人は 感謝し行者に 振る舞いを 申し出ましたが、老人達は ヒラリと5色の雲に乗り 何も言わず 何処かえ 飛び去りました。村人達は 翌年 8月に 山上大権現(役行者)の石物像を 作り 祀りました。山上大権現は その後 何度も村人を 旱魃から 救いました。「江与味の村人のより口伝」 神変大菩薩・役小角・山上大権現:神変大菩薩像は 多くの場合 僧衣に 袈裟をまとい ひげを長く蓄え 手に錫杖を持ち 高下駄をはき 岩に腰かけ 斧を持つ前鬼と 棒を持つ後鬼を 従えています。 龍神社:現在重岡神社に 合祀されています。 高野神社:杉谷口 北緯34度56分26秒・東経133度44分56秒 高野神社は 重岡神社に合祀されましたが 杉谷にも祀られています. 高野神社の宮司:重岡神社(旧矢喰宮・旧天満宮)の宮司が 兼任しています。 祖母:杉谷375・462・472・475・505番地 ソブ(鉄の多い砂 水の多い処)の転訛でしょう。ソブは 祖保 祖父 勝負 菖蒲と 転訛しました。 ドフドフ頭:杉谷503番地 菅ノサコ:杉谷491番地 菅は鉄分の多い地に繁ります。 オウソボ・保ソボ・保祖母・保楚ボ:杉谷689・757番地等 梶尾曽根:杉谷639番地 梶は 鍛冶に通じると されます。 鍛冶曾根ハナ:杉谷642番地 久路木:693・黒木:杉谷694・735番地等 黒は鉄Kuroganeに通じ 製鉄地に しばしば付けられます。 桶ノ久保:杉谷704番地 桶は 金穴流Kanna-ns\agasi(砂鉄分離)地に しばしば付けられます。 トヒガサコ:杉谷707番地 飛び火ヶ砂の訛と思います。 鋳物生産地を 連想させます。 コワシメン:杉谷713・714番地 倉掛:杉谷761・クラカケ:杉谷762番地 倉 蔵 鞍は黒金に 通じ 倉掛は蹈鞴溶鉱炉の有った地に しばしば 付けられます。 祖父ガサコ:杉谷764番地 祖母ガサコ:杉谷765番地 茶臼畑:杉谷787 番地 茶は 赤さびを 連想させ 砂鉄採取地に しばしば付けられます。 カ子カワチ・カ子ガワチ・カ祢河内:杉谷806・807・808番地 獅子馬場Si-no-baba・シシ馬場:粟井谷835・854番地等 砂鉄採取地でしょうか。恐らく 死人を 葬った場所でしょう。 江与味祖母谷銅坑:北緯34度56分21秒・133度46分15秒付近に多数あり、コンクリートで 塞がれています 平成24年(2012年)12月10日
江戸から昭和初期に鳴滝に祀られていた山上大権現(神変大菩薩 役行者)に2回雨乞いがなされ、霊験あらたかでした。江戸時代のいつごろか解りませんが 多分嘉永7年(1854年)の旱魃の後の雨乞い祈祷と思われますが 竹部に大雨が降り 川下の田内に向けて 雨水が流れ下りました。すると 天神社の末社の杉神社から 赤い牛に跨った神が 濁流を食い止め 水を干上がった田に引いてくれました。「鳴滝で出会った村人より口伝」 竹部では 旱魃になると天神社に集まり 雨乞いをしました。天神社には 神輿が二つあり 一つは雨乞い用で飾りが殆どありません。天神社で雨乞いしてもご 利益が無い時は 雨乞い用の神輿を担いで 大小戸井堰に行き 神輿に水を掛けたり井堰に漬けて 雨乞い祈祷をしました。それでも ご利益が無い と鳴滝に神輿を担いで行き 滝に打たせ 雨乞い祈祷したそうです。祈祷の最中に 滝を 鰻が登ると 雨が降る と言われます。昭和初期を過ぎると 雨乞い祈祷をしなくなったそうで 現在 神輿は朽ち果てかけています。 大小戸:竹部418-419番地 田内:竹部1601-1684番地「竹部田内で農作業をしていた人より口伝」 平成23年(2011年)9月8日
竹部 鳴滝の山上大権現 Sanjyou-Daigongen in Naru-taki
嘉永7年(1854年)の竹部は 大変な旱魃で 鳴滝の落水も チョロチョロ 落ちるだけとなり 渓谷の大岩も干からび 枯れた水蘚で 白く変色しました。竹部周辺の者は 困り果て伯耆大山Houki-Dai-senの雨の種を頂き 重友山法福寺の住職と 天神社の宮司に 頼み 鳴滝の神変大菩薩(山上大権現)に 祈願し 雨乞いをしました。2週間程 続けられた祈祷で 村人も 住職も 神主も 思考できない程に 疲弊しました。すると 大きな地震が起こり 投打川も 加茂川も 液状化し 田は赤土で盛り上がり 川の流れが 遮断されました。夜になっても 寝るに 寝られない村人は この異変 に困惑しましたが 山上大権現が その夜に 村人達の朦朧(とする脳裏に 現れ「これも 天神社のご利益じゃ。まもなく 天神社の菅公Kan-kou(雷神)罔象女神Mizuha-no-me-no-kami(水神) 龍神(水神) 天穗日命(稲の神 日の神) 須佐之男命(暴風雨の神 災難除けの神)と 協力して雨を降らして やろう。心安く眠られぇ。」と 告げたのです。すると 多くの水や 日の神仏が 協力したので 大変な豪雨と なりました。今度は 村人は 川の氾濫を 心配しました。すると 赤土の上には 天神社と 杉神社の神々が 乗り 濁流を受け止め 村人達の田に振り分けていました。中でも 菅公の姿は 真に赤い牛にまたがり 鬼神の振舞いの様だったそうです。大雨が 止み 水流が戻る頃には、赤土や 大風で 散った大量の木の葉は 田畑に真配られMakubarare(均等に配られる)よい土壌と なりました。「鳴滝で出会った村人より口伝」菅公:菅原道真公・菅原道真命(Sugawara-no-Dpusin-kou Sugawara-no-Mitizane-no-mikoto)学問の神 雷神等 宝福寺:もと竹部本堂(北緯34度49分8秒・東経133度46分22秒)に本堂が有ったようです。「 天正の頃 上加茂合戦の作戦上 寂れ朽ち果てかけていた本堂を 焼いて 伊賀軍の陣か 本堂にあるかのようにみせかけ 攻め来る毛利軍を 欺いた と。」されます。 再築された寺は 北緯34度50分50秒・東経133度46分55秒 上野ueno重友sigetomo 423番地に 建ちます。 乗木山妙福寺の管理下に 有りccます。 天神社:北緯34度50分41秒・東経133度47分24秒 竹部下ノ谷761番地に位置し 祭神は 天穗日命 須佐之男命 菅原道眞 菅原后媛大神Kisaki-hime-no-ookamiです。 杉神社:北緯34度49分57秒・東経133度47分31秒に有ります。天神社の摂社です ご祭神は 杉大明神(天御中主神Ame-no-Minakanusi-no-kami 岡家女神・罔象女神 五帝龍神です。 鳴滝の山上大権現:鳴滝森林公園内 北緯34度49分22秒・東経 133度46分33秒 平成23年(2011年)9月8日
広造田の長石 Nagaisi ( Long stone) in Hirozouda
鳴滝牧場と管理棟の ほぼ中間点 (即ち竹部の鳴滝の東約240mの所に 鳴滝橋が加茂川に架かるので川を渡り鳴滝管理棟の東 から南に約240m程進むと左手(北緯34度49分11秒・東経133度46分39秒)に 広造田(廣澤田・広沢田:竹部93-97番地)の「長石」と呼ばれる 長さ10m 幅5mの大岩があります。(小字に長石:竹部119・152-156番地があります。)長石の細長く 少し傾いた端の方が 埋没気味に 加茂川側に 折れたような 方形のの岩が 沿っています。昔 竹部の村人は 雨乞いを願い鳴滝の川上に 役行者を 祀りました。役行者は 雲を操り 雨を降らしたり 止ませる法力があるとされます。すると 近くのの村から「神になりたい。」と 思っていた お調子者の大男がやって来て 「役の行者様。弟子にしてつかぁせえ。村の者の役に立ちてえ。」と 熱心に拝んだのです。 役の行者(神変大菩薩Jinben-daibosatu)は弟子入りを許し その男を 巨大な鬼に 変化させ「ならば 溢れた雨により 下流に水害が 及ばないように 溢れた水を飲み干しなされえ。」と 告げたのです。「神の力を授かった。」と喜んだ大鬼は 調子に乗って 溢れ出した水を 根限り飲んだのです。すると 多量の飲水は 切迫利尿をもたらしたのです。堪えに堪えましたが 耐え切れずド~と小便を しました。その激しい音を 怪しんで 様子を見に村人が走って来ると はしたない姿を 見られてはいけないと思い 慌てて 飛び散る尿流を 岩に変え 知らん振りを 決め込みました。しかも 見つかった時の驚きと恥ずかしさのあまり 放尿を 瞬間 ちびったために 尿切れが 起こしたのです。それで 長岩 に沿った岩が できたそうです。しかし この伝説を 教えてくれた人は 竹部の人で無いのと 鬼の顛末Tenmatuが 知れないので その人の作り話かも知れません。しかし神変大菩薩の弟子は前鬼と後鬼で 前鬼と後鬼は 多くの鬼を 眷族にしていたと いわれます。 令和3年(2021年)9月8日
広面には ドンドン山に 風穴(Kazaana)があり、穴から 大風が吹き出し 里を荒しました。風神社を建て 風の神を祀った所 災いが 去りました。「広奥の村人のより口伝」「加茂川町史」 雨坪には雨坪岩があり、大旱魃Dai-kanbatuの時 風神社から 神輿を 担ぎ出 し 火を焚いて雨乞いすると 雨が 降りました。「加茂川町史」 雨坪池 吉洋渕Kittyou-butiには 良く龍が 遊びに来て 昇龍山Syouryuu-zanから 天に 昇りました。「広奥の村人のより口伝」 平成23年(2011年)8月23日
大正13年 日本全国 大旱魃Dai-kanbatuでした。岡山は雨の少ない地ですので 格別に被害が甚大でした。すると 琵琶湖に住む龍が 広面の水不足を心配して 子龍を背負い 加茂川を訪れました。尾や龍は あまりの旱魃に 呆れakire、あちこちに水脈を探し 池を 掘るのに夢中になって 子龍の事を忘れてしまいました。子龍は珍 しい棚田Tanadaの景色を見る事や 棚田に住む泥鰌(Dojyouを食べるのに夢中で 母龍の事を忘れ どんどんと 山に入って行って 雨坪に迷い込みました。そこには 村の少年と少女の水太と 水代兄妹が 泥鰌取りにやって 来ていました。子龍が 一生懸命 泥鰌を追いかけている その無邪気さが 兄妹には 微笑ましく 一緒になって泥鰌を捕りました。一人遊びしか知らなかった子龍も 嬉しくなり 時が経つのを忘れました。日が暮れ兄妹が 家に戻ろうとした時 子龍は 母龍と逸れたhagureta に気付きました。兄妹は 子龍の母を山の中や谷筋に探してやりましたが 見つかりませんでした。兄妹はシクシクと泣く子龍を 気の毒に思い、雨坪の大岩の 雨坪岩の隙間に 寝床を造ってやり 毎日 食べ物を 届けてやりました。その頃 村では 大事件が起こっていました。田圃が涸れ 稲が枯れ かかったので 水を盗り合い 村中の人同士で 喧嘩を始めたのです。兄妹は 大人の醜い争いに 悲しくなり 子龍に 話しました。子龍は「水ブニをすりゃぁ良ぇのに。」と 言って 水ブニの仕方を 教えました。兄妹は この話を両親に話しました。両親は 村人に話すと 水ブニが 始まり 一旦は村は 平穏になりましたが 雨の降らない日が なおも続いたので 困った村人は「水ブニを 教えてくれた知恵者に相談しょう。」と 言って 兄妹の両親に 頼んで 兄妹に水ブニを教えた人物を 聞き出させました。兄妹の父親から 子龍の事を聞いた村人は、龍が神通力を持っていて雨を降らせると 知っていたので 子龍に頼んで 雨を降らせて 貰おうと しました。子龍は頼まれ雨を降らせようとしましたが 龍とは言っても まだ子供です。未だ 神通力が使えないので 雨を降らせられませんでした。村人は「龍を怒らせると 雨を 降らせる。」と 聞くと 龍の嫌いな汚い物を子龍の住処Sumikaの周りに 撒いたMaitaのです。すると パラパラと少しの雨が 降ったのです。村人は「怒らせ方が 足ラりん もそっと怒らそう。龍が一番嫌う 金気Kanakeぅ 撒こう。」と 言って 村中から 赤金Akagane(銅)を 集めました。
兄妹一家は 銅で 田螺Tanisiや蝸螺Kawaninaが 死ぬ事を 知っていましたので その夜の内に 雨坪に出かけ 子龍を 連れ出し 風神社の裏手の風穴岩の 穴に隠しました。毎日毎日 兄妹達は 水と 食べ物を持って 子龍の世話を しました。雨坪岩の周りに 銅を撒いても 雨が降らないので村人達は 風神社の神輿Mikosiを 雨坪岩に 据えて 裏山のてっぺんで 火を ゴンゴン焚いて 風神社の神様と 一緒になって 雨を降らせようとしました。しかし 雨は降りませんでした。ついに 子龍の世話に使う水が 兄妹達の手に入らなくなりました。龍は いつも体が 濡れていないと死んでしまいます。子龍 は体が乾き始めて 苦しくなって 泣きだすと 穴岩の穴で その声は 響き合い 大音量となって 大風に乗り 琵琶湖に向かって行きました。子供を失って 悲嘆の涙に明け暮れていた母龍は 子龍の声に 気付きました。子龍を 助けるために 琵琶湖の水を 持てるだけ持って 飛んで 迎えに来ました。風穴岩の前で 泣いている兄妹を見つけると「兄妹は怖くて 逃げるか 腰を抜かす」。」と 思いましたが 意に反 し兄妹は 母龍を 見つけると 急いで 母龍に向かって 駆け寄って行きました。「泣いておる子供達よ 。なぜに 私を怖がらない。 まさか 子龍の居所を 知っているのかい。」と 尋ねると、水太は「ここにおる。 死にそうなんじゃ。早ぅ助けてやって。」と 頼み 水代は「お母さん龍が 来るのを ずっと待っていたの。」と 泣きました。母龍は 二人で 可愛い子を守ってくれていた事に 感謝し 願い事を 尋ねました。水太は「直ぐに 子龍に水ぅやって。 雨を降らせてよ。」と 頼みました。、水子は「大人達ぁ 雨が降らんので 頭が 変になって 子龍を 苛めたんじゃ。 雨が降ってりゃぁ苛めなんだ。 大人達ぅ許してやって。」と 頼みました。母龍は「可愛い坊や 出ておいで。 優しくて良いお友達がいて 良かったね。」と 声をかけると 子龍は「お母ちゃん. 水太と水代ちゃんが おらなんだら 死んどったよ.」と 抱き付いて行きました。母龍は「水太君と 水代ちゃんの願いは 聞いてあげるよ. 余分に 水の種も 運んで来たから。でも 私が 助けたと 言わんないでね。人間は 助けられると いつでも 助けてくれると思うて 怠け者になるからね。」と 約束し 親子龍は 琵琶湖に 帰って行きました。すると 雨になりました。その頃 雨坪岩では 雨が降り始めたので 風神社の雨風を司る2柱の神様の御利益に 大人達は 感謝していました。水太は 大人になったら 龍の住めるような 大きな湖を 造る仕事をしたいと 思いました。この旱魃で 米は 例年の半分の収穫しかなく 田一枚で一俵しか採れない地方も あって 米価が 高騰Koutouし 世は 乱れました。天災に 備えるため香川県の 豊稔池Hounen-ike 久米南町北庄神の淵池 旭川ダム等 沢山の溜池や ダムが作られました。子龍は 旱魃が 起るとやって来て 雨を降らせ 雨坪池や 吉洋渕池で 昼寝をして 琵琶湖に 帰って行きました。子龍が 飛び立った山が 昇龍山です。「三谷野呂の百怪談」 風神社と天坪神社:北緯34度49分18秒・東経133度48分35秒 雨坪岩:北緯34度48分34秒・東経133度48分48秒 盃状穴が銅山の試掘鉱・風穴に向け彫られています。 鉱山の安全と生産性を祈ったのでしょう。 風穴:北五34度49分9秒・東経133度48分42秒 胴の試掘鉱の様ですが 胴は採掘されなかったようです。 鼓岩:北緯34度49分9秒・東経133度48分46秒 吉備津彦命の軍司 鼓彦命が置き忘れた鼓が 大岩になったと伝説されます。 ドンドン山:北緯34度49分7秒・東経133度48分47秒 風穴がありその上で飛び跳ねると ドンドンと 音がしたと 言われます。 大高山・鼓山:北緯34度49分21秒・東経133度49分53秒 小高山:北緯34度49分13秒・東経133度48分5秒 大高山の添山 昇龍山:北緯34度48分57秒・東経133度48分32秒 吉洋池・吉洋渕:北緯34度49分16秒・東経133度49分3秒 豊稔池:北緯34度2分30秒・東経133度41分3秒 神の淵池:北緯34度57分46秒・東経133度56分21秒 旭川ダム:北緯34度54分49秒・東経133度51分24秒 水ブニ:水の分け前 溜池等の水を 田圃の大きさに合わせて 水を真配る(まくばる)方法で 田圃の広さに 比例させて線香を切り 火を付け燃えている間だ けその人の田圃に水を引きます 水の引き方は 同じにして 不正が 無いよう 皆で 作業を見張ります。 線香を 乗せる器を香の盆 水のブニを香の水と言います。 平成23年(2011年)8月23日
昔 平安な頃 とても欲張りな分限者bugensyaが 広面の大高山の麓に住んでいました。男は京都に出かけた折 高貴な人達が「龍を見たいものだ。 龍が 見られるなら 金に糸目は付けない。」とか「龍の肉を食べれば 永遠の命が授かる。 なんとしても食べたい。死なないなら 全財産を出しても良い。」と 言う噂を聞きました。男は 広面に昇龍山と言う山があり その山の奥に 吉洋渕kitttyoubutiと言う 大きな池があり 時々龍が 遊びに来ると聞いていたので「龍を捕えよう。龍を捕まえれば 例え捕まえられなくても 龍の肉が手に入れれば 死なない体が手に入り おまけにもっともっと分限者になれる。」と 考えました。広面に戻り 親戚の猟師に 龍を捕まえてくれるよう 頼みました。猟師は 頼まれれば断れない性分だったのですが 龍 等見た事がなく いるとは 聞いた事が 有るには有るが 本当にいるかどうかも 解らなかったので 龍を捕まえる自信が ありませんでした。
とは言っても 貧乏の世話を 焼いてもらっていた 負い目もあって 男の執拗な 懇願を 断り切れず2つ返事で 引き受けました。 龍を捕まる方法に 思い悩んだ挙句の末 ある方法を 思いつきました。「龍を捕まえるにゃぁ 身ぃ隠すに 丈夫な持ち運びの利く 蚊帳Kayaと 縄Tunaと ぼっけぇ釣り針が 必要じゃ。買って来てくだされぇ。」と 猟師が 分限者に頼むと 男は 態々Wazawaza 京や 大阪まで 出かけ 特注の蚊帳と 縄と釣り針を 作らせ 持ち帰りました。そして 猟師は「龍の餌が欲しい。日本一味の良ぇ肉が 十貫程なけりゃぁおえん。」と 言いました。分限者の男は 直ぐに 大山Daisenの博労座に 使いをやり 極上の牛を1頭買い求め 良く霜降りの入った 後背筋Kouhaikinnの肉を 猟師に渡しました。猟師は「高価な縄や 釣り針や 肉を けちんぼうの男が 買う訳ぁねぇ。」と 思っていたので、何のためらいもなく 買って来た事に 驚きました。猟師が 大竿に 丈夫な縄を付け 大きな釣り針に 肉の切り身を通し 声を殺し 忍び足で用心して 吉洋渕に 仕掛け 草の茂る岸に 迷彩色の緑色の蚊帳に篭もり 釣りをする振りをしました。案の定 男は 蚊帳を 何に使うのか知りたくて 又 猟師が 龍を捕る瞬間を 見届けたく 後を付けて来て 藪に身を隠しました。蚊帳に 篭る猟師を見て「龍に覚られないように 蚊帳を 煙幕代わりに使うのか。」と 感心した迄は 良かったのですが、直ぐに蚊Kaや 蚋Buyuや 虻Abuが 寄って来て 刺しました。刺される痛さは 緊張で 気にならなかったのですが 暫くしてくる 凄まじい痒みに 襲われ「蚊帳が 蚊帳の本来の使われ方で 用意されたんじゃ。」と 解りました。それでも 龍が釣れる瞬間を見たいので 我慢に我慢し 時々 浮きがピクピク動くのを見て その都度 心を踊らせていました。しかし いっこうに猟師は 龍を釣り上げられません。痒い所を 掻けば 更に痒さが増します.。「掻くな。 掻な。」と 心に念じてなおも 耐えに 耐えていましたが 心ならずも 無意識のうちに 掻いたのです。一時的に 痒さを 忘れましたが これを切っ掛けにして 痒さの増幅の無限の連鎖の始まりになりました。ポリポリ掻いているうちに 終に 痒みに耐え切れず 思わず「痒い。」と 小声で叫んだのです。するとすかさず 猟師は「そこで 何ぅされとるんなら。声ぇ出しちゃぁおえまぁ。。 龍が食い付く寸前だったんに。龍は神経質で ぼっこう賢くて 記憶が良ぇ。 一ぺん失敗したら もう仕舞じゃ。2度と 餌に 近付かんじゃろう。 きっと 龍は 琵琶湖に帰る。 龍を釣るのを諦めじゃ。」と 言いました。欲張りな男は 結局大損をして 悔しがりましたが 猟師を責める訳にもいかず 地団太Didandaを 踏みました。龍が いなくなると村に 旱魃が有って 雨乞い祈祷を 吉洋渕でしても 雨坪岩でしても 雨は降らなかったので 村人は「欲張り男が 龍を追い出したからだ。 分限者だから 嫌々持ち上げていただけだ。」と 言って責めたので 欲張り男は 村に居られなくなり 遠い町に 移り住みました。「三谷日名百怪談」 広奥の村人より口伝:昔 広奥に かつて 郷士であることを鼻にかけ 村人に 小作料を高く取る等の 無理強いをしていた男がいました。 大地主であり それなりに 世話になっていたので 多くの村人は 嫌々従っていましたが 農地改革の結果 その郷士が ただの百姓になると 周囲の眼は その男を蔑むようになりました 。男の家族は いたたまれなくなって 墓仕舞いし 岡山市に転居しました。 昔 吉洋淵に住む龍が昇龍山から飛び立ったと言います。 龍等に纏わる迷信:龍を見ると 金運開眼する。 龍肉を食べると 永遠の命を得る 。 人魚の肉を 食べると 不老不死をえる。 大高山・鼓山:北緯34度49分21秒・東経133度49分53秒 小高山:北緯34度49分13秒・東経133度48分53秒 昇龍山:北緯34度48分57秒・東経133度48分33秒の山(狭義の昇龍山)と鼓山とその福山Soeyamaである小高山を含めた総称 吉洋池・吉洋渕:北緯34度49分16秒・東経133度49分2秒 大山博労座:享保15年(1730年)に設けられた牛馬市 博労座駐車場:北緯35度23分24秒・東経133度32分13秒
平成23年(2011年)9月23日
昔 戦争があった折 侍が やって来るとの噂Uwasaを聞いて 村人は 恐怖しました。すると 村の山の上で 俄かに大きな 音がしたので 音に 怯え 村人は ろくろく仕事も 手に付きませんでした。どうも 神子岩辺りから 音がしているらしいので 山に登ってみると 大岩が しきりに震えながら 鳴っていました。すると村人の 若者は 次々と 戦争に 狩り出されました。戦争が終わり 村からの兵士が 里に戻ると ピタッと大岩が 鳴り止みましだ。以来 戦争の度に この岩は 鳴るといわれます。竹荘の神子山の麓に あります。「賀陽町史」 神子山の麓の 村人によれば、備中兵乱 第2次世界大戦の時 も 鳴ったそうです。
天平宝字6年(762年)は 竹荘に 霜の害に 続いた後に 旱魃kanbatuが起こり、多くの人が 犠牲に なりました。その頃 新谷宗高Sintani‐Munetakaの妻は 氏神の神子神社Miko-jinjyaの巫女をしていたので 社に籠らせ 雨乞いを させました。巫女は「神子山が 低いので 天に祈りが通じない。」と 訴 えると 宗高は 5段の大仙の高さに匹敵する櫓Yaguraを 組みました。巫女は 櫓の上で 鬼神となり 13日間 鈴を鳴らし 祈祷し続ると 鈴は ピタリと止みました。不思議に思い 櫓に登ってみると 神子は 何者かに 食い殺されていました。付近を 捜索すると 櫓の下で 大蛇が寛いでいました。宗高は 大蛇に 挑み 大岩に巻きつかれましたが相討ちになりました。すると大 蛇の口から 雲が 湧きだし 野や山は 雨で 潤いました。感謝した 村人は 宗高を 新谷荒神社に 祀りました。神子山の麓に 鳴る岩と 言う大岩が 有ります。戦争や 天候不順等 大災害が起こると大轟音を出して 鳴るそうです。村人は「崇高が 神として 祀られた事に 感謝し 岩を鳴らす。」らしい。と 語りました。「岡山の伝説・神子神社」「新谷よりの村人より口伝」「吉備中央町の民話(1) 平成23年(2011年)9月21日