茅の輪潜り 茅の輪潜りの作法 古担調伏の祭礼 苅尾のコトコト様 しろみて 鰆祭 力石 才の神
茅の輪潜りpassing through a hoop made of cogon grass
祇園牛頭天王御縁起 History of Gion-Gozu-tennnou
牛頭天王の本地仏は 東方浄瑠璃世界の教主 薬師如来です。薬師菩薩は 12の大願を発し 須彌山Syumi-sen中腹にある豊饒国Houjyou-koku(日本)の武塔天王Mutou-tennouの一人息子として 垂迹し この世に顕現しました。太子は 7歳の時に 既に身長が 7尺5寸あり 3尺の牛の頭に3尺の赤い角が はえていました。太子は 王位を継承 し 牛頭天王となりますが その姿形の醜さのため 近寄る女の人など いませんでした。牛頭天王は やけ酒びたり 毎日を送っていると それを案じた3人の公卿が 天王を慰安しようと 山野の狩りに 連れ出しました。すると 鳩が現れ「南の大海に住む沙掲羅龍王Syagara-ryuuou(八大龍王)の娘は 醜男Bu-otokoが 好きで 婿を取ろうとしても 気に入った 大醜男が居ず 困っている。 あなたは 正に適任です その娘の元へ 案内しましょう。」と 言うので 牛頭天王(素戔嗚尊)は 鳩に導かれて 娘を娶りに 南海に向け 出かけました。 旅の途中に 金持ちそう な屋敷を 見つけたので 長者の古單將來Kotan-Syouraiに 宿所を求めましたが 物惜しみして 古單(古単 古端 巨端)は 申し出をを断わりました。腹を 空かせていたので 止む無く 貧乏そうなあばら家でしたが 蘇民將來Somin-Syourai(古單の兄)の家を 訪ね 一食一飯を 求めると 歓迎して 宿を貸してくれ なけなしの粟飯を 振舞ってくれました。蘇民の親切に感謝した 牛頭天王は 願い事が叶う牛玉を 蘇民に授けました。後に 蘇民は 富貴の人となりました。牛頭天王が 南海の龍宮へ着くと 沙掲羅の三女の頗梨采女Harisai-nyoは 大喜びし 求婚に 応じました。頗梨采女を 娶り 龍宮で 8年を過ごす間に 七男一女の王子(八王子)を もうけました。豊饒国への帰り路で 牛頭天王は 八万四千の眷属を従えて 古單に 罰を与えようと 攻め掛かりました。古單は千人もの僧を集め 大般若経を 七日七晩に渡って 読誦させ 結界を張りましたが 法師の一人が 居眠りしたので 決壊は 崩れ 古單の眷属五千余は 悉く 蹴り倒されました。この時 牛頭天王は 古單の妻が 蘇民将来の娘と知ると 彼女だけを 助命して「茅の輪を造り 赤絹の房を下げ〔蘇民将来之子孫なり〕の護符を 張りなさい。そうすれば 末代迄も 災難を逃れられる。」と 除災の法を 示しました。あちこちの神社で 行われる茅の輪潜りの始まりです。「https://ja.wikipedia.org/wiki/牛頭天王」 素戔嗚尊:素戔嗚尊は 高天原から 新羅の曽尸茂利Sosimori(曽尸茂梨)に 降臨します。ソシモリは 朝鮮語で 牛頭あるいは 牛首を意味です。 また 牛頭天王と 素戔嗚尊は 行疫神(厄病神)の性格を備えていますので 牛頭天王と素戔嗚尊は 同一視(習合)されたのです。それに 従がって 牛頭天王と 素戔嗚尊互いの妻である 婆利采女 と櫛稲田媛Kusinada-himeも 習合しました。 平成23年(2011年)12月21日
茅の輪潜りの作法 Manner of passing through a hoop made of kaya grass "plants of the sedge family"
神様の世界は 左巻きです。お相撲の懸賞を頂く 手刀は 左 右 中の順に 即ち左の神産巣日神Kami-musubi-no-kami 右の高御産巣日神Taka-mimusubi-no-kami 中の天御中主神Ame-no-minakanusi-no-kamiの五穀守護三神に 感謝して切ります。やれぼうの田に 刻む模様は 左巻きの「の」の字 即ち「の」の字の鏡絵です。茅の輪を 潜る時も 左から始めます。潜られた 茅の輪には 祓われた穢れKegareが 染み込んでいるので 触れると 穢れが 乗り移るとされ 茅の輪に 触れないようにします。 代表的な作法を 示します。神拝詞Sinpaisi(祝詞Norito)は 神社 等で 異なる場合がありますので ご注意ください。(1)先ず 茅の輪に向かい 軽く礼をし 左足から 足を進めて「水無月Minadukiの 夏越Nagosiの祓する人は ちとせの命 伸というなり。」あるいは「祓い給へ。清め給へ。守り給へ。幸え給へSakihae-tamae。」と 唱え 輪を潜り 左回りして 元の位置に戻ります。 (2) 次いで 茅輪の前で 再び軽く礼をします。右足から 足を進め「思うこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな。」あるいは「祓い給へ。 清め給へ。守 り給へ。幸え給へ。」と 唱え 輪を潜り 今度は 右回りに回って 元の位置に戻ります。 (3)次いで 三度茅の輪の前で 軽く礼をし 左足から 足を進め「宮川の 清き流れに 禊せば 折れることの 叶わぬはなし。」あるいは「蘇民将来。蘇民将来。」と 唱え 輪を潜り 左回りに回って 元の位置に戻ります。 (4)茅の輪の前で 軽く礼をします。左足から 跨いで 輪を潜り 拝殿に 進み 二拝二拍手一拝の作法をして お詣りします。「https://boxil.jp/beyond/a5540/」「https://kaiun.sseikatsu.net/tinowa」「https://boxil.jp/beyond/a5540」 平成23年(2011年)12月21日
巨旦調伏の祭礼 Fesytival of Kotan-exorcism
古丹(巨旦)が牛頭天王に 退治されるとその精魂は 艮の金神Ùsitora-no-konjinに なりました。金神の住む方向で 土木工事 造作 修理 移転 旅行等 あらゆる事をすると 祟られ家族7人が 殺され 家族が7人に満たないと 親戚や 近所の人 等 合計7人が 殺されます。これを 七殺と 称されます。艮の金神の眷属 5000柱余Amariも 金神ですので 金神の祟りを 避ける事は まず不可能です。古丹の屍Silabaneから 精魂が 抜け出した抜け殻を 牛頭天王は 5つに刻んで 五節句に 祀りました。これを 巨旦調伏の祭礼と言います。各々の節句に 祀られる食べ物を 食べれば 即ち 1月1日に 紅白の鏡餅を 食べれば 巨旦の骨肉を 食べた事になり、3月3日に 蓬餅Yomogimotiを食べれば 巨旦の皮膚を 食べた事になり、5月5日に 菖蒲の粽Timakiを 食べれば 巨旦の髭と 髪を 食べた事になり、7月7日に 小麦素麺Soumenを 食べれば 巨旦の筋を 食べた事になり、9月9日-に 黄菊の酒を呑めば 巨旦の血を 呑んだ事になります。全ての祭礼を 済ませれば 巨旦の全てを 腹に収めた事になり 金神の祟りを 祓う事が出来ます。 平成23年(2011年)12月21日
賀陽地区の吉川刈尾の一部では 結婚の披露宴に 呼ばれなかった若者達は その夜 付近の墓石の笠石を 担いで 新婚初夜の家に 集まり 縁側に放り投げ 笠石を 叩いたり 扉を叩いたりして コトコトと 鳴らしました。すると 新郎新婦は 酒と肴Sakanaを 振る舞い 追い帰します。久世地方にも 同じような 習慣が有ります。「東苅尾の村人より口伝」 昭和20年程迄は 結婚式の夜 結婚式で 祝ってやれなかった新郎新婦の友人達は「鶴亀の祝い物」を 持って 初夜の宿を 訪れ 戸をコトコトと 叩きました。初夜の邪魔者を 追い払う為に 新郎新婦は祝福の礼として 酒と肴を 振る舞いました。酒と肴のふるまいが 無いと 友人達は「お前等 不義理者は 早く墓石のお世話に成れと。」ばかりに 墓石を 担いで来て 戸口に 置いて帰って 行きました。どこから持って来たか 解らないので 墓石を戻せず 困ったそうです。昭和30年代には この行事は 減少し 現在ては 行なわれていません。「竹部の村人より口伝」「ホトホト(ほとほと)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)」「https://w.atwiki.jp/eddyworld/pages/32.html」 平成26年(2014年)10月17日
昔のコトコト様 Kotokoto-sama in old time
藁細工の馬(馬の陽根は逞しい)を作って 初夜の夜に 縁側を叩くと1升を5合益に2つに分けた(枡舛繁盛)酒と肴が 振る舞われました。新郎新婦は 縁側の戸を 開けて待っていたとされます。いつの間にか お地蔵様(双胎地蔵から始まった)に 代わり 更に墓石(地蔵の代わり)に なったそうです。 鶴亀の祝い:長寿の祝い。 倒墓Taosi-baka:昔は 一部の家庭では 屍を 奥深い山中に 埋めました。墓参するのに 不便なので お詣りする供養墓を 家の近くに立てました。埋墓、即ち 先祖墓は 放置され 祭られません。 遺体を 埋めた場所は 解らない方が良いと 考えらていたので 没後33年 或いは 50年に「倒し墓」と言って 墓石を 片づけ 位牌を 仏壇から下ろし 焼く 等する風習が ありました。33年 或いは50年経つと 死者はそれまでの祖霊に 融合し 山の神に なります。 盆に帰ってくる祖霊は 祭り墓や 寺 等からではなく 埋墓のある山から 帰ってくるのです。「埋墓(いけばか)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)」「https://ja.wikipedia.org/wiki/両墓制」 清経の埋墓・倒墓:上加茂清経 北緯34度50分56秒・東経133度48分4秒の清経摩利支天社の上 清経庚申堂の道向かいから その上方に掛け 沢山の墓石が あり 多くは倒されています。平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。P74に竹部の「コトコト」の話題が載っています。 平成26年(2014年)10月17日
吉備中央町の農家の多くは 田植えが終わると 早苗が良く育ち豊作となるよう祈り シロミテ(代満・代充)とか サナブリ(早苗饗・早苗上Sanobori・早苗振舞い)と 称し 田の畔等で 御馳走を食べました。神主を招き 大変な酒宴を開く地域もありましたが 多くは1家族だけで行う 質素な神事でした。「さ」とは田植えの神を表し、「さおり・さびらき」は 神の降臨を意味し 田植えの前に祝います。「さのぼり」は 神が上る事を意味し 田植えの後に 神様が山に帰って行くのを 見送り 苗の順調な育ちを 祈って行います。「三谷日名の村人より口伝」「www.yuraimemo.com/1023/」 吉備中央町小森地区を中心に 田植えの終わった後に シロミテとして 鰆茶漬け等 鰆料理を食べる習慣があります。鰆が 出世魚なので 稲や子供がすくすく育つ事を願って 茶漬けにして食べたのです。茶漬けは 水を張った田を 連想させます。三谷日名野呂の シロミテは 巻き寿司と 沢庵でした。「三谷日名の村人のより 口伝」 平成25年(2013年)5月19日
鰆 Spanish mackerel
瀬戸内海は 鰆の産卵地で 5~6月に 良く捕れます。かつては 鰆の集団が 山のように盛り上がり その様子を 魚山と表現されました。沢山捕れたので 高瀬舟で 小森や 江与美の船戸に 運ばれ 冬の間に生産された炭や 薪 春野菜等と 交換し 岡山の町に 運ばれました。この流通が 田植の後の祝い「サナブリ」に 美味しい鰆を 奮発される習慣を 生じさせました。数軒の集落単位で 1~2尾を求め 分け合って あるいは寄り集まって料理しました。鮮魚店では 鰆祭と称して 5月中~下旬に 売り出しをします。「三谷 小森 下加茂の村人のより口伝」 鰆とは 狭腹が変化した言葉で 体形が細長い事に 由来します。出世魚で 体長50cm位の若魚を「狭腰Sagoti」と 呼び 体長80cmの青年魚を「柳鰆Yanagi-Sawara」と 呼び 1m以上の成魚を「鰆Sawara」と 呼びます。魚偏に春と書く様に 春告げ魚ですが 実際には1年を通し 捕れます。鰆料理と言えば 刺身 茶漬け 照り焼き 塩焼き 味噌漬け焼き 煮付けや 蒸し物 生鮨Kizusi こうこ鮨等です。身の色や 皮の見栄えに 問題があり 高級魚から外されますが 味は魚の中で旨い方で 人によっては「一番旨い」と 言います。1尾買うと 大抵は余るので 醤油漬けにして保存します。加茂川地区の鰆茶漬けには 皮を剥いだ刺身を使います。勿論皮付きでも 差し支えありません。醤油漬けにしたり 焙ったり 叩きにすると 又 異なる味が 楽しめます 「三谷 小森 下加茂の村人のより口伝」「https://ja.wikipedia.org/wiki/サワラ」「https://cookpad.com/category/1202」 平成25年(2013年)5月19日
鰆祭:現在ではシロミテ神事は 見られなくなりましたが 最近では この季節になると「鰆祭」と 称して鰆の大売り出しが 商魂たくましく 各地の魚を扱う商店等で 行われます 田の神:稲の豊穣をもたらす農業神で 水稲栽培を主とする日本では 民族信仰として農神を崇める習俗が古くからあります。稲霊Inadamaである倉稲魂Ùka-no-mitamaや穀神の大歳神OoTosi-no-kamiの名が上げられています。 民間では 一般に田の神と 表現されますが 東北地方では 農神Nou-gami 山梨 長野では 作神Saku-gami 近畿では 作り神Tukuri-gami 山陰東部では亥の神Ino-kami等とも呼ばれます。 東日本では えびす 西日本では 大黒を 田の神とする地方が多く 漁業神 福徳神とは別の信仰となっています「https://kotobank.jp/word/田の神-94011 」 平成25年(2013年)5月19日
力石 Lifting stone ”Stone for muscle-power training”
昔 自動車 農業機械がなかった時代には 農業や林業を営むには 力仕事をするしか ありませんでした。だから 力持ちの男が 女性にもてました。なぜなら 米俵(一俵 60Kg)を 運ぶににしても 牛馬を操るにしても 燃料である薪を集めるにしても 力持ちである必要が あるので、女性が 安定した農村生活を 送るために 力強い男と結ばれる事で 幸せが 得られると 教育されていたからです。そのため 祭り等あると 男達は 力石を使って 力比べを 神に奉納し その男ぷりを 女性にアピ―ルました。この日に 供え 青年達は 庭先等に 力石を置き 鍛錬しました。風神社の力石は 卵形の自然石で 目方は6貫(24Kg) 12貫(48Kg) 24貫(96Kg)でした。「広面の村人のより口伝」
最初 力石は 石占いに 用いました。石占いは 神社や 寺院で行われ 標準になる石を 持ち上げて 持ち上げ手Motiage-syuが「軽いと感じれば その年は豊作 或いは 吉 或いは病気の平癒Heiyu等で、重いと感じれば「凶作 或いは凶 或いは病気の悪化」と 占いました。次第に 占いの意味合いは薄れ 娯楽化して来て 空き地や 広い庭 等にも 若者が 集まれそうな所に 置かれるようになり、若者の力比べになってゆきました。競技方法により 又 個人の体力により 異なる必要があったので 力石の重さは 色々でした。それでも 60Kgを 超える物が多いのです。米1俵の重さを 意識していたのでしょう。 吉備中央町での力石の競技は 差し上げ 襷取りTasuki-dori 天秤担ぎ 等でした。差し上げには 頭上挙げ 胸挙げ 腰挙げ 浮せでした。俵一俵を 差し上げられれば 男として 一人前と 認められました。何処にでも あった力石は 機械が 発展し 力持ちである必要が亡くなった現在では 自然石に戻ってしまいました。残る物でも「これが 力石だ。」と 言われなければ 只の石にしか見えません。上田の久保田神社 案田の化気神社 和田の天王様 高谷の森神社にも 最近まで 力石が あったと 言われます「加茂川町史」 平成23年(2011年)9月13日
さえの神 guardian deity against epidemic,enemy and travel accidents
村に入り込む悪霊を村境で 塞ぐ神です。風神社の風の神は 風邪の神ともされ 当時もっとも恐れられていた インフルエンザを 防ぐ目的で 風神社の力石を 祀ったのでしょう。しかし この神社の力石を祀った 才の神は 殆ど残っていません。引撫公民館の庭北緯34度55分28秒・東経133度47分22秒にあるだけかもしれません。 広面の風神社:北緯34度49分18秒・東経133度48分35秒 祭紳は 級長津比古命Sinatu-hiko-no-mikoto級長津比女命Sinatu-hime-no mikoto 上田の久保田神社・細田天津神社:北緯34度53分39秒・東経133度47分6秒 案田の化気神社:北緯34度45分19秒・東経133度49分22秒 和田の天王様・素戔嗚神社:北緯34度45分19秒・東経133度49分22秒 高谷の森神社:北緯34度51分32秒・東経133度46分45秒 高盛神社:北緯34度51分32秒・東経133度46分47秒 「吉備中央町の伝説 神社伝説 才の神社」 平成23年(2011年)9月13日