著者が 豊岡小学校の5年生の頃は 魚捕りや 鬼虫捕りが大好きでした。夏休みになると 毎日のように 魚釣りや 鬼虫捕りに 三谷川 焼谷川 柳井田の池や 裏山に 出かけました。途中にある「お八つ」代わりになる草や 草の実 木の実を 食べるのも楽しみでした。お盆の日も 三谷川に釣りに出かけ ハヤを 釣ろうとするといきなり 大きなギギが 釣れました。ギギは 川魚の中でも ナマズや ドンコも旨いのですが ギギはそれ等より 美味しかったので 早々に 釣りを止め 家に帰り 家事の担当の風呂焚きを始めました。風呂の竈の火で 焦がさないよう 丁寧に焼きました。丁度良く焼けた頃に 兄ちゃん(叔父さんですが 歳が離れていないので「あーちゃん」と呼んでいました)が やって来て「何ぃしょうるんなら。 川に行ったんか。 魚ぁまで 捕って おまけに食おうとするんか。」」と きつく叱るのです。お盆に 魚や 肉を食べた事が 無かったので 何か理由があるのだろうと思い 上手に焼けたギギでしたが 捨てる事にしました。飼い犬も 食べてもいけないのだろうと思い 穴を掘って埋めようとすると 兄ちゃんは「おえん。 穴ぁっ掘ちゃぁおえん。」と 又叱るのです。仕方なく「兄ちゃん。上手に捨ててよ。」と 言って ギギを渡すと「任しておけ。」と 嬉しそうに どこかに持って行きました。兄ちゃんの言う事が 良く解らなかったので お爺ちゃんにその訳を尋ねると 祖父は「お盆には 地獄の釜の蓋が開くんじゃ。 地獄に落ちた ご先祖様達が 埋められた狐山や 墓場から 川や 池を 伝って家へ帰って来るんじゃ。 その邪魔ぁしちゃぁおえん。邪魔ぁすりゃぁ ご先祖様達が 盂蘭盆が終わって帰る時 連れて行くんじゃ。悪さをしとりゃぁ 必ず連れて行 く。それに 盆には 殺生はしちゃぁおえん。魚釣りや 鬼虫捕りを しちゃぁならん。魚も 肉も 卵も 食うちゃぁいけん。味噌汁の出汁も 鰹節を使わん。お盆には 農業もせん。土を掘りゃぁ 目を潰される。解っていて 掘りゃぁ 閻魔さんに 命い取られる‥‥」と お盆の時の禁忌を 話してくれました。夜 寝ようとすると「川で ギギを 殺し穴を掘った。」ので 大人達の話が 気になって寝付けません。墓場には 30を超える石塔が立っています。狐山にも ご先祖様達が 埋められている筈です。「どれくらいの数のご先祖様が 帰って来るんじゃろうか。きっと目に見えんが 家に入り切れん程じゃろう。中にゃぁ 厳格なご先祖様も 居って 地獄に引いて行く人がおるかも知れん。去年迄は 真面目に お盆の法要に出たけぇ 引かれんかったんじゃろう。どうすりゃぁ良ぇんじゃ。アメリカの人は 何でお盆が無くて 肉を仰山食うて良いんじゃ。仏教を信じとらんけぇ 許されるんじゃろう。」と 思い巡らしている内に 寝付きました。夢の中に 数えきれない程のご先祖様が 現れ 手を引こうとするので「わしゃぁ 仏様を信じておらんけぇ 引かれる理由が解らん。」と 言うと ご先祖様は 納得し手を離してくれました。すがすがしい朝を 迎えたので 兄ちゃんに「ギギはどねぇしたん。」と 尋ねると「頭の黒い奴が食うた。」と 答えたので 地獄に引いて行ってもらいたいカラスに 食わせたのだと思いました。頭と腹 が黒い兄ちゃんに 上手く騙されたと思う今日です。
鬼虫:クワガタムシ 三谷ではミヤマクワガタが 最も多く 大抵のクヌギ等 樹液の染み出す木には 手の届く位置 に カブトムシや カナブンや オオスズメバチ等と 競って 樹液蜜を吸っていました。高い処に 居る時は 木の幹を 蹴って 揺すると パタパタと音を発て 落ちてきました。ヒラタクワガタ等は 木の根元を掘ったり 朽ち木を解して捕まえました。 昭和初期三谷の天台宗のお盆:8月7日頃「7日盆」と呼んで 墓場の草取り 落ち葉掃き 墓の掃除をします。盆提灯 盆棚を 用意し 盆花(ミソハギ)を 生けます。13日を「迎え盆」あるいは「お盆の入り」と 呼んで 盆棚(精霊棚)ご先祖の位牌を 迎え 団子を供え キュウリ馬や ナス牛を飾り 墓参りし 盆提灯に火を灯し 玄関で「迎え火」を焚いて 祖先の霊を お迎えします。15を「中日」あるいは「藪入り」と 呼んで ご先祖様と 家族で 精進料理を 共にし 過ごすため 休みます。16日は「送り盆」あるいは「お盆の明け」と 呼んで 送り火を 焚き 提灯や 盆棚を片づけ キュウリ馬や 送り団子等を 土に埋め 精霊送りを 済ませます。 迎え火・送り火:玄関に 素焼きの土鍋(焙烙Houraku)に 苧殻Ogara(麻の川を剥いた茎)を 積んで 焼き 手を合わせます。煙に 乗って ご先祖様が やって来たり 帰って行きます。 お盆の期間:盂蘭盆経には 旧暦の7月15日を 中心に 13日を 迎え盆 16日を 送り盆とし この4日間が お盆の期間です。しかし 岡山では 8月15日を中心に 一月遅れに行います。これは 明治以政府が 新暦に暦を改めた時 当時国民の8割を 占めていた農家の人々が 7月15日が 農繁期であるため 異論を唱えると 政府は お盆を ひと月遅らせても良いとし ゆっくりと供養できるようにしたからです。「https://ja.wikipedia.org/wiki/お盆 」 平成30年(2018年)7月15日
平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。P86に「盆棚」の話題が載っています。
三谷 子供の野遊び Outdoor activities of children in Mitani
昭和の中頃(1960年頃)著者は 良く春に 山菜取りや 草摘みをしましたた。ヨモギ イタドリ(スイバ) スイバ(スカンポ) ワラビ ゼンマイが 主な収穫物です。イタドリや スカンポは 柔らかい芽を折り取って 皮を剥いて 食べました。菓子等 食べられない時代だったので たいして美味い物ではないのですが 当時は良いお八つとして 楽しんで食べました。カタバミ(スイバ)や ヤマサンショウも 刺激的な味を楽しみました。菅の若い穂や 根は 甘く柔らかいので 好物でした。採れた セリや ヨモギや クリの実 等の食材は 行商人の安藤さんと パン等と 物々交換したり 換金しました。三谷川は 小さい川でしたが 色々の生き物が 住んでいました。著者にとって 捕まえて食べる事は 楽しい遊びだったのです。ウナギ フナ ナマズ ギギ ドンコ(ドンコツ) ナマズ オイカワ( ハエ ハヤ) アブラハヤ(ヤナギハエ ハヤ) ムギツク ジャコ(カワヨシノボリ ビジョ)メダカ ロウホウ(ドボウ カマツカ スナホリ シュシュ) ドジョウ シマドジョウ ヤツメウナギ タナゴ チヨウキリ(アカザ) アブラボテに似た魚 トーチカ(アメリカザリガニ) カワエビ(スジエビ) サワガニ ガンツ(ケガニ モクズガ二) シジミ カワニナ タニシ 等が 住んでいました。川魚の定番である コイ ウグイ ヤマメ アユは 三谷川に居ませんでした。ヤツメウナギ チヨウキリ ロウホウ アブラボテ トーチカ メダカは 食べたことが 有りません。オイカワ 等を 川に入りを 追い込み 素手で捕まえたり 石の下等に潜む魚を掴み捕ったり(穴握りYa-nigiri) 一本釣りしたり 水路を石等で 変え 魚の逃げ道を 制限し 追い込んだり(追い込み) 「追い込み」の後で 入り口も塞いで 囲み 中の水をかい出したり(水換え) ガザガザ 等で 掬い取ったりしました。松明や 蝋燭の明かりで 魚を誘き寄せ 一本釣りする夜振り(夜釣り) 石で八の字状の誘導路を 作り 川下に向けて 見よう見まねで作った筌Mojiの口を 仕掛ける筌漁Mondori-ryou・Uke-ryou 餌を付けた釣り針を 仕掛け糸を 岸に固定し 釣る置き針(浸け針 ふて針)漁 等 夜を 利用した漁は 眠いのを我慢しなければなりませんが 夜振りでは 昼より良く釣れる他 筌漁では ウナギ ドンコ ナマズ ガンツが 良く捕れ 置き針では ウナギや ドンコが 良く釣れ 獲物は大物である事がが多いので 気持ちの高揚は 格別でした。ガラス製のセルビンと 呼ぶ筌では 川底に 入り口を上にして 設置しますが オイカワ ムギツクが 良く 捕れましたが、このセルビン漁法は 子供達の遊びでなく 大人達の遊びでした。ウナギの穴釣りYa-duriには 特別に 興奮しました。大きな釣り針に 凧糸を繋ぎ 大き目のミミズを 針に通し 細い笹竹で導き ウナギに気付かれないよう 川下から 波を起てず 静かに 岩と岩の隙間に 差し込みます。食らいつくと 物凄い力で 引き出されまいとして 抵抗します。子供の力では 引き出すのがやっとでした。その分だけ 釣り上げに 成功した時の喜びが 大きかったのです。何と言っても 主流は 一本釣りで釣りで 竿は竹藪で 切り取った竹で 手作りします。糸と針は 尾原の今屋で買いました。浮は 枯れた木の枝や 草の茎を利用し 重しには小さい石を使いました。フナや オイカワやムギツクやドンコツ 等の魚釣りの餌は 多くはミミズや バッタの類でした。たまには カワムシを取って使いました。また たまに ガンツや ウナギが 釣れました。ガンツは 爪で 餌を離すまい と 頑張るので釣れるのです。一本釣りで ウナギが 釣れた時は 大抵の場合 住処の穴に 体を掛けるので 子供の力では 釣り上げられず 大人の助けを待ちました。ドンコツや ナマズは食いしん坊で 直ぐに餌に 飛びつきます。ギギは 雨が降った後 川底の虫が 巻きあがる時に よく釣れました。オイカワは 大変警戒心が強いので 音を発てず姿を隠す必要が有ります。 焼谷川で コイを釣る時は 餌としてジャガイモを よく使いました。ロウホウや ヤツメウナギは この方法では 釣れませんでした。ドジョウは 殆どの場合 掴み取りでしたが 網を使う時もありました。水藻や 岸の草が 川に漬かって 魚の住処になっている所の手前に 網や笊Zaruを 仕掛 足で隠れ家の水藻を ザブザブと突きながら移動させ 仕掛けに 獲物を追い込む ガサガサ漁では カワエビが 良く捕れ ドンコや フナやナマズ 等が 採れました。ナマズの子供は 集団で 田の水の引き込みの水路等 に 住んでいて 網で掬い取りました。ガチンコ漁では 主にオイカワを 捕りました。魚が潜んでいるような岩に 石をぶつけ 衝撃で魚が失神させ 浮き上がった所を 目が覚めない内に拾い集めます。石の代わりにハンマーを使うのは 子供の遊びではありませんでした。当時は ガチンコ漁(ハンマー漁)や セルビン漁は 禁止されていなかったのです。夏の田の水抜きや 冬 の池干し(池落とし)するのは 大人の仕事ですが 楽しいので進んで 手伝いました。春先に 田や 溜池に 放流していた鯉を 捕まえます。流れ落とす水を 笊で濾すようにします。鯉は 売りますが 一緒に捕れるフナや ドンコは焼いて食べるか 池に戻しました。オイカワや ムギツクは 焼き枯らし(弱火で乾燥させる)や 焼き干し(表面を焼いて天日干しする)して 串に刺し 弁慶(長さ50㎝程の藁の束を縄で土俵の俵状に縛った者)に 刺して 囲炉裏の上 等に 吊るし 保存しました。三谷川は 小さいので 四つ網や 投網等 大がかりな漁法はしませんでした。タニシや カワニナは 茹でて食べると 硬く皴ッコイのですが 美味しかったのを 覚えています。サワガニは 焼いて食べましたが 殻が硬く沢山は 食べられませんでした。イナゴや セミや ハチの子も美味しい聞いていましたが 子供の頃は 食べませんでした(埼玉に住んでいた時は妻の母がイナゴの佃煮良く作ってくれました。)。著者は 食べた事がありませんが カタツムリや ナメクジや キセルガイを 食べた人もいました。メダカや エビを捕まえ バケツの中や 水の染み出す所に 池を掘り 飼ったりもしました。チョウキリは 赤く小さいギギに似た魚で 稀にしか見つかりませんでした。珍しい魚ですので 見 付けた時は飛び上がる程に興奮しますが 毒々しい赤い色と 毒針があり 鱗がなく 風貌が優れないので 恐れをなし 捕る事は あまりしませんでしたが 観賞用に捕まえる人がありました。タガメ ミズカマキリ ゲンゴロウ トンボのヤゴは メダカや 幼い魚を捕まえてよく食べていたので 敵意を持って見ていました。ミズスマシや アメンボウは 遊びの対象にしませんでした。余談ですが 雨の降る日に 塚ケ乢の神子坂を ウナギが 柳井田に向かって登って行くのを見ました。勿論 暑い夏は 川に入り 水浴びをした。河童天国になるのですが 親達は 危険な所へ行かぬように 河童や 大蛇や 岩目翁等の登場する話をして 注意を促しました。大抵の子供は 上手に泳げないので 水を掛け合いながら遊び 入道雲の青い空に歓声が響かせたものです。今 見れば こんなに 狭かったのかと思いますが 子供の頃は 大坪の淵の大坪の堰は 深く広く感じていました。通学は 一山超え40分程てかけて 豊岡小学校に行きます。集団登校しますが 帰りはバラバラに 帰ります。著者は 大抵一人で帰り 飛んでいるトンボを 篠竹で作った刀で 叩く遊びを良くしました。鳥等がいると 石礫を 投げますが 命中したのは 一回だけでした。豊岡川では 小石絵を拾い 水切りや 遠投を 友達と 競いました。通学路のヤマユリ ササユリ イチリンソウ ツルリンドウ センブリ キンラン ギンラン ミツバツツジ等を 愛でるのも楽しみでした。キツネや タヌキ イタチを 見るのも 魅力的でした。動物の白骨死体が 靑白く光るのにも 興味を持ちました。
足元から ヤマドリが 飛び立ち驚いたり 捕まえられるものなら捕まえてみろと言わんばかりに キジが歩いているのを追いかけたり チョトコイチョットコイと鳴く 用心深く滅多に見られないコジュケイを 探したり やはり人目に触れないギャアギャアと鳴くカケスを 探したりしました。ヤマドリや キジに 驚かされたり 馬鹿にされる度に カラスが アホーアホーと 鳴くのには 腹が立ちました。あの美しい青色のカケスが あんなにも耳障りの悪い声で鳴くのだろうとか 凛々しそうなヨガラス(ゴイサギ)が 鵺のような声で 鳴くのだろうかと 思いました。小鳥を 探鳥するのも 楽しみでした。母屋の北側の畑には 水晶が 混ざっていました。この畑に 野菜を植えると 兎が 出て来て食い荒らすようになりました。ククリ罠を 仕掛けると 毎日のように 兎が採れました。近所の人や 行商人が 欲しがるのですが 自分は 食べませんでした。暫くして 兎は出なくなりました。庭の一段下に ニワトリ小屋があり ヘビや イタチが 卵や ニワトリを捕りに来ました、ククリ罠は 効果がありませんでした。壊れた所を 祖父が修理すると 被害は亡くなりました。
小鳥も捕って 焼いて食べました。片隅に 長い紐を付けた つっかい棒を立てた「笊Zaru」を 餌の上に下向きに設置し 遠くに隠れ 雀が 笊の下に入った時 紐を引き 雀を笊で 被せ捕まえまえたり(雀落とし) 振るい等に 長い紐を付け 餌の上に吊るし雀が 餌に近づいた時 紐を緩め 被せ捕りました(かぶせ駕籠)。これ等の方法 は 効率が良くありませんでした。よく仕掛けたのは コブツ(コボテ)で その仕掛けは 図に示しています。 ①はしなりが 良く弾く力のある木で、⑤の餌を食べようと ④に小鳥が止まると ④の支えが外れ ①が元の直立の位置に戻り ③が下方に引っ張られ 小鳥が③と④に 挟まれます。 スズメや シジュウガラ 等が 良く捕れました。ハトや カラスを 釣り捕る方法は 成功しませんでした。手づくりの パチンコ(ゴム銃)や 弓矢でも 小鳥捕りを試みましたが 成功率は 高くありませんでした。大人達は狩猟用の空気銃を 使っていました。学芸会の練習をして帰る時には 月明りを便りに帰ります。度胸試しに 古墳探検をしました。腹が減るので 夜用のお弁当を 木の枝を折った箸で 食べるのですが 一度野犬の親子連れに 付け回され 怖い思いを しました。未だ 狂犬病が 根絶されていないと 信じらていたからです。6月中旬には 蛍が 三谷川を 飛び交います。帚や 団扇や 網を振り振り 捕まえました。多くは ゲンジボタルでしたが ヘイケボタルも 混じっていました。ヘイケボタルは どこの田でも 見受けられました。麦や 草を編んで作った 蛍駕籠に入れ 家に連れ帰り 蚊帳の中に放し 鑑賞しました。 オニムシ(クワガタムシ)や カブトムシを 捕まえるだけでも結構楽しかったものです。一番多いオニムシは ミヤマクワガタで、クヌギや ナラの幹の樹液を 他の種類のオニムシや カブトムシ カナブン オオスズメバチ キタテハ 等と 争っていました。木の高所にいる時は 幹を蹴り 揺すり落としました。パラパラと音を立てて落ちてきた虫を 探し出し 捕まえます。時に クワガタムシや カブトムシ 等に 相撲させました。ヒラタクワガタ 等は 樹液にいるのを捕まえたり 木の根の近くを掘ったり 朽ち木を ばらして捕まえました。堆肥の中には カブトムシが 幼虫と 一緒に見つかりました。カブトムシや オニムシは 行商の安藤さんが 飴 等と 交換してくれました。夏から秋の実りも 楽しみでした。ヤマブドウ グミ 等 ヘビイチゴ(甘みはありません) 榎実Enomi クワの実 コウゾの実 ナワシロイチゴやフユイチゴ 等のキイチゴの実 クリ ヤマナスビ(ナツハゼの実)ガマズミの実 山柿の熟しを お八つ代わりに食べました。マツミドリ(ヤドリギ)や イチイの木の実も 甘いと聞きましたが 木の高い処に しかないので 食べてみる機会は ありませんでした。 クコ ヤマナシ アケビ マタタビ ヤマボウシ ヤマモモは 近くの集落にはありますが 三谷には 無かったので 子供の頃は 食べる機会がありませんでした。マツタケ シメジ アミタケ 等の在り処を 求め 一人で あるいは友達と連れ合い 野山に分け入ったものです。ハツタケや タマゴタケは三谷には 生えませんでした。子供のお八つ代わりの草も あります。シャリンボウ(イタドリ)や シイシイバ(スカンポ スイバ)は 柔らかい芽を折り取って 皮を剥いて 食べました。 スイバ(カタバミ)や ヤマザンショウ(イヌザンショウ)も 刺激な味を求め噛みました。チガヤの穂になる前の若花は 柔らかく甘い味がして好物でした。木の葉を 使ったリ タンポポノ茎を使ったリ スズメノテッポウの鞘を使ったリ ホウズキの実をくり抜いて 笛を作って鳴らしました。
夜釣り:夜に 光に集まった魚を オモリと 針だけの仕掛けで狙う ぶっこみ釣りや 浮を便りに 食いつきを知る 浮釣りをする漁法 筌漁 うへ漁:竹を 筒状 または 底のない徳利状に編んだもので 魚の入り口に 受けが有って いったん入ると 出られません。餌を入れ 夜に 仕掛 翌朝 に回収します。 ふて針漁・置き針漁:夜に 餌を付けた仕掛け針を 設置し 翌朝早くに 回収します。 大坪:北緯34度54分13秒・東経133度47分24秒にある田の小字です。 大坪の前の小さい淵を 大坪の淵と言います。 この頃の三谷の男の子の遊び:ちゃんばらごっこ 相撲 S会戦 釘打ち パッチン(めんこ) ビー玉 コマ廻しが 主流でした。ワッパ廻しと言って 自転車の車輪の枠を 木や竹の棒で 押して 走り回る遊びが 流行った事が有りました。 肥後守と言うナイフを 何時も 持っていて 竹トンボ 凧のヒゴ 竹笛 等 玩具は 自分で 作っていました。 この頃の三谷の女の子の遊び:お飯事 ケンパ ゴム飛び おはじき お手玉が 主流でした。 この頃の子供達の正月の遊び:凧あげ 羽付き カルタ トランプが 主流でした 平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利吉備中央町図書館 吉備人出版】が発行されました。 P394~P397に「戦後の子供の暮らし」「松笠拾い」「ズイムシ取り」と言う話題が載っています。p402~P411に「米の飯にありつける葬式」「鯉取り」「ウナギ取り」「ドジョウ取り」「タニシ取り「川二ナを食べる」「アワワ取り」「栗虫を食べる」「雀を捕る」「初めての学生服と靴」「学校の弁当」「子供の遊び」「子供の野の食べ物」「シイシイバ」「稲、麦の穂を食べる」「柚子もおやつ」「山柿を盗む」「夜は暗く怖かった」という題の話題が載っています。 平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。P92に「川の魚」の記事があり「取れた魚「仕掛け」「夜振り」「独流し」「穴釣り」「鯉取り」が記されています。P96に「魚の取り方」の記事があり「ヤナ」「モジ」「浸け鉤」「前がき」「釣り」「ヨセ」「ヤニギリ」「水換え」「池おとし」が記されています。P97~P101に「」ウナギが山に上る」「ウナギ取り」「川漁」「夜振り」「ナマズを食べる」「子供が食べたもの」「自分で作る」「手毬遊び」が語られています。P143~p150に「手まり歌」「お手玉歌」「手遊び歌」「きりなしことば遊び」「草花遊び歌」「長なわとび歌」「子守り歌り」が紹介されています。 平成25年(2013年)3月10日
昭和中頃は 青年団 婦人会が 村毎に作られていて、祭り や防犯や 冠婚葬祭に 一役 買っていました。遊びにも 積極的で 流行るものに 飛びつきました。昭和の中頃 加茂川地区の1部で 田舎芝居が 流行り 三谷日名の集落でも 数年間 行なわれました。芝居の準備中 子供達は リンゴ箱を 机代わりにして 学習会が 開かれ 夏休みの学校から出された宿題 を 熟すKonasuために 先輩が 後輩を 指導しました。勿論 余裕があれば 即席芝居を 創作しました。「三谷日名の村人より口
昭和の中頃(1960年頃) 三谷には 青年団と言う組織があり 村々の子供達は 青年団の計画する催し物を 夏休みの楽しみにしていました。「忠臣蔵」「国定忠治」「勘太郎月夜」や「お富さん」等の素人芝居や 合唱 独唱や 踊り 笛太鼓や 三味線を 青年達は 本番前に練習しました。
子供達も 相談して 飯事芝居 等 青年団の真似をしました。莚Musiro 縄Nawa 板 蜜柑箱Mikan-bako 幕等の材料と 大工道具 等を 持ち寄り 農家の庭や 田圃Tanboの中に 舞台Butaiと 見物席を 造りました。お兄さん お姉さん達が 舞台作りしている間は 小学生 中学生は 学習会を開くのですが 直ぐに 飽きて 暇を弄ぶmoteasobuのです。男の子は 相撲大会や S合戦や 釘打ち大会をして 時間を待ちました。女の子達は 飯事をする時もありますが 大抵は おしゃべりで 暇な時間を 潰しました。当日は 青年団等の人は 役や 出し物に応じた 派手な化粧をしました。決して上手ではなかったので 互いに可笑しくて 笑い合いました。主役を演じる者は さて置き 悪役を担当する者は いかにも悪者に見えるように 顔に墨を塗り ゲジゲジ眉毛を 書き どす黒い口紅を塗るので 笑い者にされましたが 人気の的でもありました。それでも 冗談に「あぁ これで 嫁が来んようになる。」と嘆いてnageite見せました。大勢が集まり 御馳走を食べ 大人たちは お酒を飲み 子供たちは 甘酒を飲みました。若い男女には また他の意味も楽しみの一つでした。最後は 大抵 花火大会で 終わりました。雑貨店で買った物が 主流で 手持ち花火や 打ち上げ花火をした後 流星花火をします。鼠花火や 爆竹は危険なのでしませんでした。麓の地面から 山の傾斜を利用して 糸を 大木のてっぺんに 張り 流星花火を 打ち上げるのです。小気味よい音を立て 一直線に上がる流星花火は 圧巻でした。最後の趣向は 手持ち花火を 繋ぎ合わせた ナイアガラの滝でした。 平成23年(2011年)9月17日
釘打ち Nailing
数人で 交互に 順番をきめ5寸釘を 地面に 片手で投げて 地面に 突き刺します。自分の刺した地点を 前に打ち立てた地点とを 直線結ぶ線を引きます。打ち付けた釘が 地面に刺さらないと 線を書けません。何れかの既に引かれている線と書き足される線が 交差するか 決められたた長さ(親指と小指を最大に広げた長さ等)を 越えて釘を刺すと 負けです。何れかの線上に 釘を打ち刺す事は 許され 相手を封じ込めてしまう事ができます。この作戦は 高いリスクを伴うのですが 相手が 封じ込めから脱する方法は 線上に 打ち込むしかなく 勝てる確率が 極めて高くなります。線上に 打ち込めれれば 囲いの外に 出られます。お解りのように 勝利する確率を上げるには、 相手が 打ち込める事が許される場所を 狭める事です。先行が 断然有利ですが 打ち込みに失敗し 釘が倒れると 線を足せないので 大方は形勢が逆転します。 平成23年(2011年)9月17日
ねんがら Nengara
一般には 二人で行います。順番を決め 片手で 投げて 釘や 先をとがらせた木の枝を 地面に刺し立てます。投げた釘 等で 相手の突き立っている釘等を倒し 且つ 自分の釘等を 地面に立てれば勝利です。三人以上で 遊ぶときは 相手が打ち込みに 成功すると 倒された者は 1回 順番を 飛ばされ 成功者は 連打します。相手を倒せず 打ち込みが成功した時は 立った釘は そのままにします。全員の参戦権を奪う と勝利します。「https://okwave.jp/qa/q1584898.html」 平成23年(2011年)9月17日
S合戦 Battle of S-shaped territory
一般的には S ケンとか S字合戦と 呼ばれますが、三谷ではS合戦Esu-kaisenと 呼んでいます。三谷のS合戦では、線で 設定された 陸地の中に 大きなS字型の陣地を 書き、普通は2ヶ所の島を 書きます。三谷村の10人程の子供達(男の子の遊びですが、勇気ある女の子も 参戦しました。)が 集まり、二組に別れ、S字の陣地に 入ります。自陣から S字の開口部から出て 通路(陸地)を 伝い 敵陣のS字の開口部から 敵陣に入り込み、宝物(菓子等)に タッチすれば 勝となります。合戦と言うからには戦う訳で、攻め込もうとする通路にいる敵を S字の線を 越えて自陣に引き込むか、自陣に 攻め入った敵を S字の線を 越えて 自陣から押し出すか、通路にいる敵を 海に突き落とせば、その敵は 戦死した事になり、ゲームから排除され 観戦する事になります。島は安全地帯で、島にいる者には 攻撃できません。敵の兵の全員を 戦死させることが出来れば、勝ちとなり、勝てば 敵の宝物を もらえます。Sケンでは 通路は無く 島だけが 設けられますし、両陣地内以外では 片足飛び(ケンケン/Sケンの由来)で 移動しないと いけませんが、三谷のS合戦では 通路が狭く設定されている線視さ線視され易いので、両足を使って移動します。勝利のコツは、敵兵の弱そうな者を戦死させ、数的優位を造る事です。著者は力が弱かったので、いつも最初の標的にされていました。 平成23年(2011年)9月17日
子供の田舎芝居Children's Country drama
ある夏休みの青年団の芝居に出る事に なりました。春子と 夏男の兄弟は お飯事をして見せる事にしました。二人 は酔っぱらって帰ったお父さんと 家で待っていたお母さんの芝居をしました。夫婦喧嘩や 熱々の仲良しぶりが 演じられました。お父さん お母さんは 顔から火が出る思いをしました。困惑する母の姿が 気になって春子は 次の台詞Serihuが出てこなくなりました。それを見ていた 姉の冬子は 幕の後ろに隠れ 小さな声で 春子に 台詞を教えました。無事に 芝居が終わって 春子と夏尾 はお姉さんに 走り寄って手 を繋ぎ 仲良く甘酒を 飲みました。(実名は伏せてあります) 平成23年(2011年)9月17日
昔 豊野のゆり輪田に 鬼が現れ 稔った稲の穂をしごき取って食べ 籾殻Sukumoを 付近に 撒き散らかしました。撒き散らかされた籾殻が 積もり スクモ山と呼ぶ程に 稲穂が 食べられるので 村人は困り果てましが 鬼は恐ろしくて 逆らえませんでした。「偉人伝説 中宮の力持ち スクモ山」 豊野のユリ輪田で は 毎年案山子祭りが行われます。「吉備中央町の祭 案山子まつり」
村の老人の正利は 案山子作りの名人でしたので 鬼退治すると張り切って 丹精込め 案山子を作りました。村人は「案山子で鬼が追い払えるものか。烏Karasuだって 案山子を 馬鹿にするのに。鬼は 人迄馬鹿にする程に 知能が高いので 案山子を 恐れる筈がない。」と 陰口を叩きました。正利は 大平山の案山で ある権現山に 案山子を 運んで立て 一心に「案山子権現様。案山子に依り憑いtuiて下され。」と 毎日 祈願しました。すると久延毘古命Kuebiko-no-mikotoが 夢に現れ「案山子 に 箒houkiを 持たせなさい。」と 告げたのです。 正利は 夢を信じ 案 山子に竹箒を持たせ ゆり 輪田に 祀りました。 鬼が現れ「馬鹿な人間もおる者じゃ。箒 を持った案山子で わしらを脅そうとしてい る。」と 嘲っazaketteて 稲穂をしごこうと しました。
すると案山子は 口から強い光を発し 鬼達は 目を眩まされ 一瞬視野を 失い 動けませんでした。その隙に 案山子は 箒で 鬼の脇下や 足の裏をくすぐり ました。鬼は こそばゆさに耐え切れず 池の 原の山奥に 逃げてゆきました。案山子は 久延毘古命の依代となって 久延毘古命の術を 備えていたのです。久延毘古命は 全知の神でしたので 鬼のホウズキのような大きな眼は 閃光を浴びると 眩む事、あしの裏をくすぐられる事に 耐えられない 事等 鬼の弱点を 知り尽くしていたのです。「正利氏との雑談」 正利氏:豊野の案山子祭りの常連作者で この案山子の作者です。口の中に 鏡が 仕込んであります。学童の見守り活動に熱心で 毎日豊野小学校の児童の通学を 見守っています。毎年 百本程の竹箒を造り 豊野小学校を中心に 吉備中央町の小学校に 寄付しています 大平山:豊野 北緯34度53分56秒・東経133度42分25秒 権現山:豊野 北緯34度53分19秒・東経133度42分23秒 すくも山:ゆり輪田の矢野川向うの小山 北緯34度52分42秒・東経133度42分22秒 ゆり輪田:北緯34度52分44秒・東経133度42分22秒 池の原の山奥・八畳岩:豊野6536・6537・6540番地 北緯34度53分16秒・東経133度43分45秒付近の大岩 平成23年(2011年)9月10日