本宮山 山神宮Yama-no*kami-guu shrineは かつて、上田西丸山2394-22番の畜産センター(有限会社岡山県ブロイラー加茂川農場 )辺りの 県道高梁建部線沿いに ありました。それで この地を 山の神峠と 呼ぶのです。手狭な道路拡を張することになると 山の神宮は 障害となったのですが 村人達も 化気神社も 円城寺も 山の神が気難しい性格である事を 知っていたので どこかも 遷宮を 引き受けようとはしませんでした。御祭神の事情を考慮し しかたなく 山の神峠の隣地の地主であった 小倉豊市は 昭和20年~30年頃に 眺望の優れた自分の持ち山に 遷宮する決心をし 山の神宮に 詣でてお祓いをしました。「下加茂村人より口伝」すると その夜に 豊市の夢に 祭神達 が現れ 山の神宮の祭神達も 神の山峠に 住んでいる事に不満だったので ここぞとばかり 口々に 持論を 展開したのです。大山祇命は「わしは 山の神なので 海を見た事がない 。 ここは 眷属の狼も 近寄らん。瀬戸内海が 見え かつ神の使の狼も住める 所が良い。」と 要望したのです。娘の 木花咲耶姫は「うちは 毎年12人の子供を 育てるので 忙しいの。12人の子供に 1か月ずつ世の中を守らせるの。アッ大変。子供がお乳を 欲しがってるから お乳代わりの甘酒 作りを 手伝 って。それに旦那は 嫉妬深いの 子供が 生まれる度に「本真に わしの子か.。」 と疑うのよ。 疑いを晴らすのに よだつの。それに 大変な お仕事もあるのよ。お父様 に代わって12の付く日には 日本中の木の数を 数えるの。だから 年末は大忙し。 邪魔したら どこに倒れるか 解らなないような 変に曲がった木を 倒して 圧し潰してあげるわ。特に三股になっている木に 気を付けてね。富士登山も 浅間大社登山 等の日程もあるのよ。 妹と違って 花の命は 短いのよ。だから 月経の時はイライラするの イライラから 解放される所にして。」と まくし立てたのです。姉の磐長姫は「ブスなので お婿さんなんて来ないから 静かに 過ごせる 小さい家にして。うちより 醜い 女子を 召使にしたいから 紹介して。」と 頼みました。小倉豊市は 畏まって 大山祇命に「昔 吉備津彦命が脳の病を患ったとき 療養していた牛窓に 霊光を 放った 本宮山の頂上に お連れ申します。 眷属の方々の好物の お神酒とお塩を 木を切るたびに お供えします。」と 答えると 大山祇命は 快諾しました。
木花咲耶姫には「鬱積の晴れる眺望の良い所に お連れします。」と 答えると 快諾しました。磐長姫には「山に祀る前に 世の中で最も醜い顔をした オコゼの女子を奉納します。「厳島神社の市杵島姫神Itikisima-hime-nokamiが こんな醜い顔のものが いたのですか。]と言ったり」[神功皇后Jinguu-kougou様の船を 担いで 玄界灘から新羅(Siragiに乗り込んだ時には 醜い。 ほんに醜い。とおっしゃりました。]と 聞き及んでおります。」と告げると 磐長姫も 快く承諾しました。それで 山の神宮を 本宮山頂上 に 遷宮されたのです。3柱の親子の神々は 大満足でした。夢から覚めると 豊市は 山の神宮を 本宮山に遷宮しました。「下加茂村人より口伝」 山の神峠:下加茂から484号線を北上し 吉備高原北部広域農道(奥吉備道)との交叉点 下加茂と上田西の境 北緯34度52分55秒・東経133度50分30秒のストックファームの北方 本宮山:本宮山頂上 北緯34度54分13秒・東経133度50分43秒 海神社 山の神宮 龍王宮が祀られています 火打:上田西2391番地 御所ヶ畝:上田西2393番地 丸山:上田西2394番地 山ノ神:上田西2173・2175番地
オコゼが軍艦ぶって西に西に流れる Stingfish affects warship and swims toward the west & toward the west “frightful unlovely daughter”
「毎年 作物が それなりに取れるのは 山の神様のおかげじゃ。有り難い事じゃ。」と 村人は 田の神と山の神に 感謝し田の近くの峠に 山の神を祀り この峠を山の神峠と 呼んで 毎月12の日に 祀りをしていました。この峠からの見晴らしは 悪く神様は この地に祀られるのを 嫌がっていました。だから 仕事に 熱心で なかったので 良い作物は それなりにしか 取れ無かったのです。ある祭の日、醜男Buotokoな若者が 粗末な食べ物を 供え 母の病気を 治したいのでおいしく 栄養の高い作物を 育ててくださいと お願いしました。神様は「こぎゃあな すばろうしいお供え物で おおぎょうな望みを 聞けと言うんか。」と 怒り男の前に 鬼の姿をして現れ 祟ろうと しました。しかし神様が ふと男が腰に付けた竹の皮で巻かれた弁当を見ると 竹の皮の隙間から見えた食べ物は 樹の根や 野草の混ぜご飯でした。神は 驚き「お前の母ぁ 何ぅ食べちょる。こぎゃぁな 粗末な物ぅ 食うておるんか。」と 尋ねました。男が「母にゃぁ 神様にお供えしたと 同じ物ぅ 食べさせちょります。これが わしのできる 最高の食べ物です。」と 答えると 山の神は 何も言わず 消えて行きました。次の日の祭りの日の朝早くに ドスンと大きな音がして 山の神峠から 40キログラムはあろうと思われる 大岩が 飛んで来て 男の前に落ちました。男は たまげましたが 神様からの贈り物だと信じ 家に持って帰り 床の間に 祀りました。すると岩は 娘に変身し「父が あなたの嫁になりんせぇと 言うんでまいりました。末永く可愛がってください。」と 言うのです。岩が変化した娘を見る と鬼瓦Onigawaraのような 面立ちでしたので 尻込みしましたが「神様の化身であるかも知れん。粗末にゃぁ扱えん。」と 思い 家に 置いて大切に 扱いました。すると 娘が育てる作物は 良く育つので 男は「神様でなけりゃぁ わしの良い嫁になるんに。」と 残念がりにも 喜びました。次の年も 無事に 田植えが 始まるので 山の神様を お迎えしようと 峠の山の神 の宮にやって来て お祈りを 捧げました。山の神様は 叶いそうもないない 娘の縁組に 成功しそうなので 上機嫌で 里に出て来ると 水を張った田んぼを見て 回りました。それを 見つけた 山の神の娘は 喜んで走り出し やって来ました。ところがあろうことか 岩の神様である娘は 石に躓い(て スッテンコロリンと 転びました。「あっ 大丈夫ですか。」「ええ 大丈夫です。」と 声を 掛けあった後 娘は フッと田の水に写った自分の顔を 見てしまいました。自分の顔を 見るのは 始めてでしたが その顔の何と 醜い事でしょう。「自分が 醜いとは聞いていましたが これ程醜いたぁ思わんかった。 これが うちの顔 。こぎゃぁにぼっこい酷ぃ顔じゃもん 嫁に行っても 追い返されるわけじゃぁ。あの人も 醜ぃが あの人より 遥かに醜い。うちが 醜いあの人に 不満を抑えて我慢して付き合っていると 思ったんに 我慢していたんは あの人の方じゃった。」と 恥ずかしくなり、娘は 顔を隠し 一目散に走って 山の神峠に 逃げ帰りました。社へ逃げ帰った娘は「うちの顔ぅ もうあの人に 見せるんは耐え切れなぇ。 嫌(yaじゃ。 嫌じゃ。 恥ずかい。」と そのまま閉じ籠りました。男は 社の前で「あなたは 確 かに醜女じゃ.じゃが神様の娘と薄々気付いていたんで 畏れ多くて 嫁にできないでいた。 あなたを失いそうな事になって 初めてあなたを 愛おしんでいた事に気付きました。神様のあなた様には 失礼な事じゃが あなた様を失いたくない。 嫁になってくだされ。」と 頼みましたが、娘は「うちを 好きじゃのうてうちの父さんが 好きなんじゃろう。うちの父さんに 田の神ぅ してもらわねば おえんけぇ 嫌々うちを 嫁にしてやると 言ってるんじゃろう。 出戻りの こぎぁな顔の女子ぅ本真honmaに愛する男がいる筈hazuが無ぇ。」と言って 取り合ってくれませんでした。仕方なく山の神様に助けを求めると「教えてやるとも。世話は無ぇ。じゃがのう。そのお返しと言うのも 厚かましいが 本宮山に 移り住ませてくれ あそこには 龍王も 住んでいるけぇ協力して 田畑を 守ってやれる。 娘の事じゃたのう。娘より醜い女子ぅ見つけて来ねぇ。そうすりゃぁ 必ず 機嫌が直る。 娘の事は お見通しじゃ。」と 言いました お多福のような娘や 火男Hyottokoのよう醜男っぽい女を連れて来ましたが「止めてぇな。うちの顔は お亀様寄りと美しいと言うんか。 ひょうたくらんで。」と泣いて 拗ね(るばかりです。お岩さんの様な顔の女を 連れて来ても「こんな美しい女子を 連れて来て。」と ついに怒り出しました。再び 相談された山の神様は 海の神様でもあったので「女心ぁ わしにゃぁ解らん。」と 前言に 矛盾した事を言って 友達の玄界灘の海の神様の市杵島姫Itikisima-himeに相談しました。市杵島姫は 姉妹の田心姫Tagori-himeと湍神媛Tagitu-himeを呼んで おブス談義を 散々にしました。「天鈿女Ame-no-Uxzume様(お亀 お多福)は おブスよね。」「ダメダメ お色気ムンムン 。猿田彦さんがメロメロよ。 磐長姫様のお相手が 悩殺される思うわ」。」「茨木の道祖神様ぁ 物凄ぇおブスと聞くわ。」「ダメダメ。 身分を隠し 独身ぶっって弁天様に 横恋慕する 猿田彦様とその奥様(弁天と習合)らしいわ。」「葛城の一言主様も 夜にしか働かない程の 人見知りのおブスよ。」「神変大菩薩Sinben-daibosatu様に 地下に 封印されていて 出てこれないわ。怠け者で 恨みがましいし 一言が 多いと言うのよ。それも 問題よね。」「足利の板倉神社の神様も 人に見られるのが 嫌がるのよ。夜にしか出歩かないと言うわ。」 等と 自分達が 美人で評判高い事を 良い事に もう 大はしゃぎでした。そして「息長足姫 Okinaga-tarasi-hime)(神功皇后)様。男勝りな神様よね。 どうかしら。」「旦那様をお殺しになった 性格の問題じゃぁ無いのよ。アッ いたわ 眷属Kenzokuのオコゼ。一押よ。神功皇后様の船を 背中に 乗せて 軍艦ぶって 西に西 に新羅 に流れて 攻めていったお魚。」「そうそう。」と 同意すると 市杵島姫は 大山祇神様に「鬼瓦よりも醜いオコゼと言う魚がいますわ。」と報告しました。
大山祇命は 男に「ヒメオコゼを 姫に見せてやってくれ。」と言うので ヒメオコゼを 磐長姫に捧げると 磐長姫は 目を凝らして見つめ「ハハハ 勝ったわ。私より醜いもんがおったわ。なんでもおっしゃい。 一つしか叶えて上げられない「岩山神社」けど 必ず叶えて 上げるわ。 それが 私のやり方。二つ以上は 絶対ダメよ。女神 に二言はありません。」と言いました。男は「山の神様は 山の神宮の 遷宮を 願っている 磐長姫様を 嫁にしたい。 弱った。どっちをお願いしよう。 山の神宮の遷宮は 一度だけしか できないし 小難しい山の神様の遷宮のやり方を まかり 間違えば 祟られるので 磐長姫様のお力を借りて 遷宮するしかない。嫁にできんでも 磐長姫様にゃぁ いつでも会える。遠くから見つめるだけの愛も 心 を高ぶらせせる。 一生恋心を 持ち続ける方が 結婚して 愛に慣れるよりゃぁ きっと良ぇじゃろう。 心ぅ 焼き尽くしたい。」と思い 本宮山に「山の神様と一緒に移っください。」と 願いしました。巌長姫は 父の強い願いを 知らないでいたので「しもうた 。嫁に来てくれ。 と 言うと思ったのに しかし神である私に 過ちがあっちゃぁおえん。巌のように固ぇ意志ぅ持つとされる神じゃし おまけに 二言はないと 言い切ったわ。」と 泣く泣く 遷宮される事に 同意しました。山の神の大山祇命は「困った性格の娘じゃ。」と しながらも 山頂から 麓の田畑が 見張らせ 楽もできたので こまめに村人の 面倒を 見てやり 本宮山辺りの農家は 栄えさせたそうな。神様が 大山祇神で 山や稲の神・海の神ばかりでなく 牛馬の神様であったので 牛も飼って見ようと 試みる人も 現れました。「下加茂の村人との冗談話」
山の神峠:下加茂から484号線を北上し広域農道との交叉点北緯34度52分55秒・東経133度50分30秒のストックファームの北方 本宮山:本宮山頂上 北緯34度54分13秒・東経133度50分43秒 海神社 山の神宮 龍王宮が 祀られています. オコゼが軍艦ぶった女・オコゼが軍艦ぶって西に西に向かうような女・オコゼが軍艦ぶって西に西に流れるような女:見るに堪えないおブス。 関東では 鬼瓦と表現されます。 フリア・パストラーナ:多毛症に苦しんだ女性。 平成25年(2013年)4月24日
下土井野呂から 三納谷若山付近に 悪い病が 流行しました。村人が「神も仏もあるものか。」と 苦しんでいると、天元2年(979年)または 永観元年(983年)に 雲一つない満月の夜 大轟音を立て 父井谷を 木の葉を巻き上げ 火柱が 若山に向け 駆け上がりました。「さては 天狗か 何かが 葉団扇を 煽り煽りしてやってきたか。」と 鶴嶺の豪士 17人が 清月の光を 浴び 谷に湧く冷泉で ザンブ ザンブと 垢離をとり、裃Kamisimo袴Hakama姿と 華やかに拵えてKosiraete 槍や弓を携え 山を登りました。光が 田の岸の上 に立ち上っていて不思議な 3人が 火柱を 背負い 大岩に 悠然と 構えていました。一人は 美しい女王の如くに 威厳が有り 全身に8柱の雷神を 纏いmatoi 白馬に 跨ってMatagatteており、纏い付く各々の雷神は 天地に 向かい 8色の稲妻 と雷音を 放っていました。一人は雷神の周囲を 光の玉となって 飛び回っており 引き起こす 疾風の音の中「我らに向けて射よ。もし矢が 我らに届くなら 汝らの願いは 直ちに叶うであろう。我が誓約Ukeiの力は 光の玉の如く速い。」と 宣言しました。もう一人は どっしりと構え「我は 全ての悪を 祓い清め 事態を収拾しつかまつる。」と 言っていました。郷士達は 余りの光景に たじろぎましたが 素戔嗚命Susa-no-o-no-mikotoの「我の示す箭霊Satiの霊力あり 幸福を もたらす弓を持って 怪しき光の主を 退治せよ。」との神託を 受けていたので 霊力を信じ「魔物で あれば 退散せよ。神であれば 姿を現し お告げを賜れ。」と 怪しの3人に 素戔嗚命のお言葉のまま各々は 射幸心を 抱き 弓矢を構 え 鏑矢Kaburayaを 放ちました。ブーン ブーンと 音を立て 得体のしれない者達に 鏑矢が 飛んで行くと 3人の姿は みるみる 融合し 壮大な 火柱を 背負った 逞しい白馬に跨る 白髪頭の老翁なりました。
馬は嘶きInanaki大岩に蹄Hidumeの跡が 残る勢いで 一蹴りし 宙に舞うと 翁は 向かってくる矢を 次々に受け止め「吾は紀州の三所権現なり この地は 我を 祀るに 清々しき良き地である。ここに社を 建て我を 祀るべし。されば我 この地と この民を 護らん。」と 高々に宣言しました。村人は お言葉に 従い 若宮 三所権現社を 建て 三所権現を 祀ると 夜な夜な現れていた 怪しき火柱も 轟音も 翁も消え 流行していた悪疫も 去りました。「加茂川町史 三納谷三所神社」「三納谷父井の村人より口伝」 鶴峰・霜峯:三所神社から 美原と三納谷の境になっている道を 東に進むと 直ぐに 三叉路があるので 北西に折れた 北緯34度52分38秒・東経133度46分26秒付近 三所神社の祭神:伊弉那美尊Izana-mi-no-mikoto 速玉男命Hayatama-o-no-mikoto 事解男命Kotosaka-o-no-mikoto 三所権現第一殿・西宮・結宮:伊邪那美尊 熊野牟須美大神Kumano-Musubi-no-ookami 事解之男神 三所権現第二殿・中宮・早玉明神:伊邪那岐大神Izana-gi-no-ookami・速玉之男神 三所権現第三殿・丞相Jyousyou・家津王子Ketumi-miko (国常立命 家津美御子大神) 伊邪那美命と伊弉諾命の結婚:二人の仲を 取り持ったのが 速玉男命ですが 失敗し 事解男命が 仲人を して成功したと されます。「www.tukinohikari.jp/jinja-wakayama/shi-asuka/」 伊邪那美命と伊邪那岐神の離婚:火の神を 産んだ 伊邪那美命は 焼け死んで 黄泉国に行くと 伊邪那岐神が 妻を この世に 連れ戻すために 黄泉の国に 行きました。しかし 伊邪那美神の遺体には 蛆Ujiが 湧き 体に八 雷神が 纏い\ついていました。「古事記」や「日本書紀」の本文では 夫婦喧嘩をし 伊邪那岐神は 慌てて逃げ帰ったとしますが 一書には「 穏やかに 離縁 し 唾を吐 くとその唾から生速玉男命が 化成し 次に掃き払うと 泉津事解之男命が 産まれたとします。 速玉男命は 早い玉の光のような 誓約力を 持つ神 絶縁の神等で 事解男命は 事態を収拾させる神 絶縁の神等です。「www.genbu.net/saijin/kotosakanowo.htm」 平成24年(2012年)5月4日
昔 昔 加茂惣社宮の神様は 国造りをしていた 素戔嗚尊 Susa-no-o-no-mikotoでしたが いつの間にか 素戔嗚尊は お稲荷様 Oinari-samaである宇伽之御魂命 Uka-no-Mitama-no-mikotoと一緒に 小さい 摂社の森神社に 閉じ込められ 姉の天照大神 Ama-terasu-oomikamiと素戔嗚尊の跡継ぎの大国主命Oo-Kuninusi-no-mikotoに代わっていました。天照大神の神格の元で 大国主命は 虎の衣を着る狼のように 大威張りして 素戔嗚尊や 宇迦之御霊命を こき使っていました。摂社は みじめなもので 村人に 殆ど 見向もしてもらえず お祭りも してくれません。しかも 大国主の命と宇伽之御魂命は 素戔嗚尊の腹違いの子供で 大国主命は 末っ子とされますので 稲荷様の方が お兄様です。お兄さんやお父さんが 姉や伯母はともかく 子や 弟の下で 働くのでは 面白くありません。そこで お稲荷様と素戔嗚尊は「早く独立して 立派なお宮に 住みたいものだ」と 考えましたが 大国主命は なかなか 独立を 認めてくれません。ある日 嵐の神であり森の神である素戔嗚尊は 不満の余り 天空の雲に登り 大嵐Arasiを 起こさせました。大国主命と天照大神は 嵐に苦しむ村人を 助けるために 大わらわでした。お稲荷様は「チャンス」だとばかり 大国主命の隙を見て 総社から 逃げ出 し 森神社毎 宇甘川に 飛び込みました。お稲荷様は 稲を育てる神様なので 雨と雷がないと 力を 出せません。素戔嗚尊の雨と 雷の力を 借りたのですが 素戔嗚命は 荒ぶる神様でもあるので 加減という物を 知りません。流れは 思ったよりも速く 波は 思ったよりも 激しくうねり 泳ぎのあまり上手Jyouzuでない お稲荷様は 溺れそうになりました。 持って来た太鼓Taikoを ドンドンと 叩いて 助け を呼びました。泳ぎの得意な 素戔嗚尊は 嵐を起こすのに 夢中で お稲荷様の危機に 気が付きませんでした。総社から 天照大御神が お稲荷様の遭難に 気付いて 美原の川岸に 引き上げてくれました。天照大神は甥の大国主命に お稲荷様の独立を 勧めたのですが 大国主命は「民に苦しみを 与え民の苦しみを 見捨てて逃げるとは 何事か。」と 叱り飛ばしました。 それでも 天照大神の口添えもあって 稲荷様は 総社に 帰る事が 許されました。素戔嗚命が 太鼓 の流れ着いた所に 戻ってみましたが 稲荷様の行方が 知れないので しかたなくそこの森神社に しばらく 住む事にしました。総社の社から 余り離れていないこの地の人達は 惣社から 無断で 逃げ出した 素戔嗚尊を 崇拝する訳に いかないので 素戔嗚尊の社を 建てるに建てられませんでした。せめてお稲荷様の持ち出した太鼓が 残っていたので そこを 太鼓町と呼んで さしあげる事にしました。町とは言っても 寂しい茂みの地で 危険なため 誰も参詣できません。素戔嗚尊は「もっと 遠くに行かなければ 独立できない」。」と 気付きました。素戔嗚尊は 再び 嵐を起こし 大洪水となった宇甘川に ぼろぼろの社毎 飛び込みました。ぼろ社は 大谷辺りに 流されました。番見屋敷の者が ぼろ社を見つけ 大声を 上げると 大谷の荒神社で 素戔嗚尊の到着を 待っていた牛頭天王Gozu-tennnou(素戔嗚尊と習合)は その声を聴いて ぼろ社を 岸に引き上げてやるよう 村人に 頼みました。その時 滑った石に 足を取られ 転げながらも ぼろ社を 引き上げた者が いました。その人の住む処を「 辷り石Suberi-isi」と 言って 末永くその功が 讃えられました。荒神様は 「素戔嗚尊のために 新しい社を 建ててくれ。」と 村人に 頼みました。荒神様は 祟りやすい神様ですから 不機嫌に させると ひどいめに 遭わされます。 しかし 村人は 惣社の大国主命の強い力を 恐れていましたので 惣社に 恐れ恐れ詣で「お素戔嗚尊の社を 建てさせてください。 素戔嗚尊様を 独立させてあげてください。」と お願いしました。 大国主命は「[民に難儀を起こした素戔嗚尊じゃ すぐにでも 総社へ送り返せ。罰してやる。]と 言いたい所じゃが 民のために 良い事を そこで 今後 末永く行うなら 許そう」と 言い許しました。村人は 思い付きで「素戔嗚様は 奥様の櫛稲田姫命の力を借りて 毎年 色々の作物の収穫の良し悪しを 作物を 植えつける前に 知らせて下さると 言ってられます。」と 言いました。それを聞いて 大国主命は 素戔嗚尊の独立を 認めました。 村人は 大谷の森に 素戔嗚命の社を建て 森神社と 呼びました。「三谷日名の百怪談」
昔 昔 加茂惣社宮の神様は 国造りをしていた 素戔嗚尊 Susa-no-o-no-mikotoでしたが、いつの間にか 素戔嗚尊は お稲荷様 Oinari-samaである宇伽之御魂命 Uka-no-Mitama-no-mikotoと一緒に 小さい 摂社の森神社に 閉じ込められ 姉の天照大神 Ama-terasu-oomikamiと素戔嗚尊の跡継ぎの大国主命Oo-Kuninusi-no-mikotoに代わっていました。天照大神の神格の元で 大国主命は 虎の衣を着る狼のように 大威張りして 素戔嗚尊や 宇迦之御霊命を こき使っていました。摂社は みじめなもので 村人に 殆ど 見向もしてもらえず お祭りも してくれません。しかも 大国主の命と宇伽之御魂命は 素戔嗚尊の腹違いの子供で 大国主命は 末っ子とされますので 稲荷様の方が お兄様です。お兄さんやお父さんが 姉や伯母はともかく 子や 弟の下で 働くのでは 面白くありません。そこで お稲荷様と素戔嗚尊は「早く独立して 立派なお宮に 住みたいものだ」と 考えましたが 大国主命は なかなか 独立を 認めてくれません。ある日 嵐の神であり森の神である素戔嗚尊は 不満の余り 天空の雲に登り 大嵐Arasiを 起こさせました。大国主命と天照大神は 嵐に苦しむ村人を 助けるために 大わらわでした。お稲荷様は「チャンス」だとばかり 大国主命の隙を見て 総社から 逃げ出 し 森神社毎 宇甘川に 飛び込みました。お稲荷様は 稲を育てる神様なので 雨と雷がないと 力を 出せません。素戔嗚尊の雨と 雷の力を 借りたのですが 素戔嗚命は 荒ぶる神様でもあるので 加減という物を 知りません。流れは 思ったよりも速く 波は 思ったよりも 激しくうねり 泳ぎのあまり上手Jyouzuでない お稲荷様は 溺れそうになりました。 持って来た太鼓Taikoを ドンドンと 叩いて 助け を呼びました。泳ぎの得意な 素戔嗚尊は 嵐を起こすのに 夢中で お稲荷様の危機に 気が付きませんでした。総社から 天照大御神が お稲荷様の遭難に 気付いて 美原の川岸に 引き上げてくれました。天照大神は甥の大国主命に お稲荷様の独立を 勧めたのですが 大国主命は「民に苦しみを 与え民の苦しみを 見捨てて逃げるとは 何事か」と 叱り飛ばしました。 それでも 天照大神の口添えもあって 稲荷様は 総社に 帰る事が 許されました。素戔嗚命が 太鼓 の流れ着いた所に 戻ってみましたが 稲荷様の行方が 知れないので しかたなくそこの森神社に しばらく 住む事にしました。総社の社から 余り離れていないこの地の人達は 惣社から 無断で 逃げ出した 素戔嗚尊を 崇拝する訳に いかないので 素戔嗚尊の社を 建てるに建てられませんでした。せめてお稲荷様の持ち出した太鼓が 残っていたので そこを 太鼓町と呼んで さしあげる事にしました。町とは言っても 寂しい茂みの地で 危険なため 誰も参詣できません。素戔嗚尊は「もっと 遠くに行かなければ 独立できない」と 気付きました。素戔嗚尊は 再び 嵐を起こし 大洪水となった宇甘川に ぼろぼろの社毎 飛び込みました。ぼろ社は 大谷辺りに 流されました。番見屋敷の者が ぼろ社を見つけ 大声を 上げると 大谷の荒神社で 素戔嗚尊の到着を 待っていた牛頭天王Gozu-tennnou(素戔嗚尊と習合)は その声を聴いて ぼろ社を 岸に引き上げてるよう 村人に 頼みました。その時 滑った石に 足を取られ 転げながらも ぼろ社を 引き上げた者が いました。その人の住む処を「 辷り石Suberi-isi」と 言って 末永くその功が 讃えられました。荒神様は 「素戔嗚尊のために 新しい社を 建ててくれ」と 村人に 頼みました。荒神様は 祟りやすい神様ですから 不機嫌に させると ひどいめに 遭わされます。 しかし 村人は 惣社の大国主命の強い力を 恐れていましたので 惣社に 恐れ恐れ詣で「お素戔嗚尊の社を 建てさせてください 素戔嗚尊様を独立させてあげてください」と お願いしました。 大国主命は「民に難儀を起こした素戔嗚尊じゃ すぐにでも 総社へ送り返せと 言いたい所じゃが、民のために 良い事を そこで 今後 末永く行うなら 許そう」と 言いました。村人は 思い付きで「素戔嗚様は 奥様の櫛稲田姫命の力を借りて 毎年 色々の作物の収穫の良し悪しを 作物を 植えつける前に 知らせて下さると 言ってられます」と 言いました。それを聞いて 大国主命は 素戔嗚尊の独立を 認めました。 村人は 大谷の森に 素戔嗚命の社を建て 森神社と 呼びました。「三谷日名の百怪談」 高谷 大谷森神社の独立 Independence of Takaya-Morijinnjya shrine:高谷森面 北緯34度51分36秒・東経133度46分12秒に 森神社が建ち 素戔嗚命が 祀られてます。森神社は 元 総社宮の末社でしたが 江戸時代中期の洪水で 宇甘川Ukai-gawaに流され 美原江下Mihara-Egeの対岸の森原に 留まりました。一緒に 太鼓も 流れ着いたので ここを太鼓町と 名付けられました。次の洪水で 再び流され 大谷集落の南方の荒神社の上流に 留まりました。そこで 住民は 森神社を 宇甘川から引き上げ 森大明神として 荒神社の地に 祀り)ました。「加茂川町史」 森神社を 宇甘川から引き上げ時 岩に足を取られ辷った者が 住む辺りを 「辷り石」と 呼ぶようになりました。「大谷村人より口伝」 森神社では 粥管祭りをし 作物の収穫の吉凶を 占ないます。 平成23年(2011年)11月3日
森神社の粥管祭 Porridge Pipe Festival "Fortune-telling using a tube of porridge and bamboo"
天明の大飢饉にあった時 この地の農民も 凶作に 苦しみました。そこで 農民は 年々の作物の豊凶を 知ろうとして 粥管を使い占いを 始めたとされます。毎年2月第2日曜日に 鍋の中に 洗米と女竹の竹筒を 入 れ炊き 粥を作ります。竹筒に 粥の粒の入り具合で その年の作柄を 占います。境内に 四本の竹を 立て しめ縄を 張りその中央に 竃を置きます。水を7分目入れた鍋の中に 洗米 5勺を入れ 10㎝程の女竹の筒に 早稲 中稲 晩稲 木綿 畑物の符号を 付けて入れ 蓋をしてから 火入し20分程 粥を 煮上げます。宮司が 竹箸で 竹筒5本を 取り出し 神前に供えると 氏子の目前で 竹筒を 二つに 割って 粥の入り具合を 調べます。竹筒に 粥粒が いっぱい入る場合を9合 殆どは入らない場合を 零合と 定めます。より多く入った作物を 優先して 作付けします。 加茂総社:北緯34度51分51秒・東経133度45分30秒 加茂市場惣社1567番地 境内の摂社に 森神社があります。 太鼓町:江下付近で 社が 引っ掛かる可能性のある 宇甘川が 大きく曲がり 即ち 流れ が岸にぶつかる地形は 大月の淵(老僧淵)しかありません。 大月の淵の堰の 江下集落の対岸の杜Moriの中 北緯34度52分5秒・東経133度46分2秒付近に地蔵が 祀られています。 町の元の意味は 区切られた所の意味でしたので 人の住むばよとは 限りませんでした。しかし 人口が増え 道で区切られた場所が増えると 人が 多く住む処の意味が 生じました。 森:高谷2228-2233・2238・2274番地 森面:高谷2325-2333・2334-2340・2345-2347番地等 森免:高谷2341番地、森神社の建つ辺り スヘリ石・辷石:高谷2388-2389(北緯34度51分41秒・東経133度47分13秒)・2392・2393番地 森原:美原1301(NEシール美原工場 北緯34度52分8秒 ・東経133度46分7秒)・1304-1307・1310番地 大曲リ:美原1395番地 早見屋敷:高谷2405番地 平成23年(2011年)11月3日
豊野 生贄の原 Field for sacrifice
豊野の椿下Tubaki-simoの池の原(田土)の八畳岩に 賊が 住み着いていました。悪党退治に 西波Sai-na-miと言う 勇士がやって来て 池の原に 賊を おびき出し戦い 賊の大半を 退治しました。この原を 人々は、生贄の原と 呼び 現在は 池の原と呼ぶようになりました。村人は 西波に 感謝し 神として 祀ったのです。それが 今の椿の「西波神Saipa-sin」だと 言います。さいぱ紳と 読む人も 居ります。「椿下の村人より口伝」
「北緯34度52分47秒・東経133度43分49秒辺り 池の原は 昔は 大変寂しい所で 人が 寄り付かない所でした。介護制度の無い昔 寝たきりの人が いると 精いっぱいの生活の中で 介護する事は 大変な苦痛であり 農作業等に 難儀したであろう と想像します。そのため、姥捨てUbasute 爺捨てJijisuteすることが 有ったと言われます。この地に 昔 姥捨てされた との伝説が 有ります。そのような野原を 遺棄埋めの原 遺棄埋ヶ原 生き埋めの原だとか 生けの原 等と 呼んでいたらしく、それが 訛って 各地に池の原と 呼ばれる地名が 残るのであると言われます。この地の地名の由来は 遺棄埋めの原だそうです。」 「やまびこ会」
西波の意味絵を考察る A Study of the Meaning Picture of Nishinam
田土椿下の 西波神は 下の神で 以前は 男根など セクシャルな物が 奉納されていたとされます。前述の伝説によると 西波神は 村に侵入する賊を 退治したとされる 神です。この神格は 村に侵入する賊や 病気のを防ぐ 才ノ神・塞ノ神の神格に 似ています。才の神は 杉谷の才の神のように耳の病の神 上竹田中才ノ1796番地の西隣地の金精神社と名の付けられた 才の神と思われる神社の様に下の神の神徳を 持つ場合が しばしばあります。また 椿下の西波神社は 新町の西波神社を 分霊したとされます。新町の隅々まで 探しましたが 新町に 西波神社が あった痕跡は ありませんでした。高梁御津線(31号線)と黒土北線(305号線)の交差点・小桜バス停・黒土寺ノ鼻1351番地の道 向いに 黒土的場の才の神が 祀られます。そこより西へ 即ち 賀陽町舎方向に少し進むと 蜂谷に向かう分岐が あります。その南道路脇の豊野蜂谷と 竹荘新町 の境 竹荘信藤地706番地の東 北緯34度51分45秒・東経133度41分57秒に 才の神らしき護符が 祀られています。これ等の状況を考慮すると、西波神は 才の神(塞ノ神)で あろうと 推測します。才の神Siai--no-kamiは 強引ですが、才の神Sai-no-miと読め更に変化を 加えると Sai-na-miとも読め。Sai-na-maiに 西波の字が 当てられ 更に それが 音読みとなり、Saipa saibaと なったのでしょう。 平成23年(2011年)11月3日
塞の神 Sai-na-mi
豊野椿(崩れやすい地の意味)には 大切な食べ物や家財道具 等の村の物を盗んだり 壊したりしました。時には 若い娘を 攫ったりもしました。この山賊は 不思議な 病気を持っていました。山賊には 免疫が有るらしく 発病しないのですが 山賊の血や 分泌物や 糞用 等に触ると 村人が 罹り 時間をかけて発病し 稀に死ぬのです。発病した者は 近くの原に 隔離し 治るのを 待って村に 返しましたが 死ぬ人もいたので この原を 生贄の原と 呼びました。山賊が 村に現れ続けるので 病気を移されないためには 逃げるしかありません。困った村人は 村を 山賊に明け渡し どこかに 避難しようと 相談していると そこへ光り輝きながら白馬 に乗って 新町の武者夫婦が 旨そうな酒を 持って やって来ました。
村人が 見た武者の顔は 目が大きく 見開き、頭に 2本の角が 有り口は 大きく裂けて 大きな牙が ありました。村人は「新たな鬼が 現れた」 と 怖れ 家々に 隠れ 様子を 伺うと 鬼のような姿をした武者は 穏やかな声で「我等は 新町塞の神Sai-na-miと 申す正義の戦士なり。この先の新町に 祀られしに うかつにも 賊の八畳岩の賊共に椿の 蚕食を 許し 民に 苦難を 被らせり。これは 我等の恥なれば 賊や病を 苛みsainami これ等を 悉く 必ずや退治せん。」と名乗りました。神々しいその口上を 信じ 村人は 仔細を話し「賊は 鯨飲を 好み 馬肉を肴にする。」と 教えてくれました。それを聞いて 武者は 美酒と 己の細馬を 見通しの利く 広場の生贄の原に 繋いtunaiで 置きました。手下を引き連れ 鬼の大将が 現れ 一団は 酒と細馬を 見付けると 我先に 酒に群がり 細馬を捌きsabaki 酒宴を 始めました。そこへ 武者夫婦が 前にも 増した美酒の八醸酒を 携え現れ「お仲間に入れて下され。」と 言うと 既に 酔が回っていて警戒心を 希薄にしていた 鬼達は 塞の神の鬼然とした 風貌と 仕草を見て 仲間に 入れてくれました。
村に祀られていた 塞の神が 胸をはだけ 腰紐を 緩め 絡み合いながら 官能的 な踊りを披露すると 鬼達は 大歓声を 上げ 新町の武者夫婦が 持ってきた 八醸酒を 奪い合うようにして飲みました。強い酒を 鱈腹飲んだ鬼の大将が 体の痺れに気付いて「毒酒だ。」と 叫び武者夫婦に 切り掛かってくると 酔いつぶれているとは言え 鬼達は 強く激しい乱闘に なりました。それでも それは 後の祭りで 鬼達は 次々に 退治されました。それでも村人は 賊の血塗られた地に 入ろうとせずにいたので 武者夫婦は「伊邪那美神Izana-mo-no-kamiと伊弉諾神Izana-gi-no-kamiの八醸酒は 全ての病を 治す妙薬である。 賊の病の元は 消滅した。」と 諭し 賊の血の付いた剣を 舐めて見せまた。村人達は 賊と流行り病から 村を救ってくれた 塞の神と 新町の武者夫婦を 旅や航海の守護神 賊や病気の侵入阻止の神 下の病 婦人病 縁結びの神 安産の神 子孫繁栄の神としても祀りました。だから 西波神社には 男性のシンボルが 納められているのです。生贄の原の地名は あまりにも快くないので 現在は池の原と 呼んでいます。「椿下の村人より口伝」
西波大神:いかなる神か 村人達は 語りませんでした。侵入した山賊と闘い、身体の下の部に関する(夫婦和合、泌尿器疾患等)神は 猿田彦命Saruta-hiko-no-mikotoと天鈿女命Ame-no-Uzume-no-mokoto(猿女Saru-me)夫婦と習合した 道祖神を 思い出させます。 中国の道祖神は 日本のさえの神(塞神 才神 妻神 斎神 性神等)と 習合しました。堂内に 鬼に似た 対の面が 掲げられています。猿田彦命は 天狗と習合する程の 強面Kowamoteです。天鈿女命は 天の岩戸の前で 裸踊りした 芸能の神です。天孫降臨の折りには 高天原の軍勢を 蹴散らかした 猿田彦命の正体を聴き出すよう 爾々杵命Ninigi-no-mikotoに 命じられていますが その時「手弱女Taoyameだが 面勝Menkati」と 表現される程の 強面の女神で 天の岩戸で見せた姿で 猿田彦命を 魅了し 高天原に 寝返りさせました 二柱の性の営みは激しく 道祖神像に その様子が表されています。 西波神社:豊野 北緯34度52分53秒・東経133度43分53秒 八畳岩なる大岩:八畳岩山の頂上付近 北緯34度53分16秒・東経133度43分45秒 豊野6813番地に大岩があります。3個の岩からなり 中央の岩の下部の隙間に3尊の仏像が 祀られるそうですが 著者は 仏像を 確認しておりません。 八疉岩:豊野6536・6537・6540番地 椿池の原:北緯34度52分47秒・東経133度43分49秒辺り 伊邪那美・伊弉諾の唾:「https://ja.wikipedia.org/wiki/神産み」 塞の神:「サルタヒコ - Wikipedia」「天孫降臨 - Wikipedia」 道祖神・猿田彦命:「nihonsinwa.com/page/157.html」「塞之神神社 - 安岐郷誌 (agimura.net)」 病の元:梅毒を想定した架空の病原体「https://ja.wikipedia.org/wiki/梅毒」 平成23年(2011年)11月3日
埋葬の歴史 History of burial in Jsapan
墓は 縄文時代から 立てられています。平安時代には 貴族や 豪族は 薄葬令により葬られましたが その他の者の葬の場は 高貴の者も 庶民も 定められた葬の場に差別なく葬送され 貴族 等は 盛土塚(土葬) 石積塚(火葬墓)に 葬られました。庶民の多くの死体は 木棺に納められたり蓆Musiroの上に置かれたり 放棄されたり(風葬 鳥葬)しました。亡骸を 穢たもの(伝染病の懼れ)として 触るべきでないと されました。葬送場所に 放置し死者と 餓鬼の世界でる葬送地に 生きている者は 殆ど近付きませんでした。「www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=408」「japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial09.gaki.html」 江戸時代前迄は「喪葬令Souspou-ryou(大化の改新の翌年 646年)に よって 民衆の墓は 禁止されました。「www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro26.html」 しかし 喪葬令による縛りは 次第に守られなくなり 庶民の一部が 大型の墓を立てられるようになると「墓石制限令 天保2年(1831年) 「https://uguisu.skr.jp/history/haka3.html」「www.hakaishi.jp/books/index.html」が 発せられ 庶民の墓の大きさが 制限されましたが 庶民が 墓を作る事が 解禁されました。しかし 実際には 墓石を立てたり 墓地所有できたのは 支配階級や 権力者や 蓄財者に限られ 百姓等 一般庶民の多くは 屍は 放棄され 一部の者が 川辺 海岸 山の中に埋葬 或いは 放置され 運が良ければ 土饅頭に 卒塔婆Sotobaの墓標を立てられていましたが 次第に 庶民の者達も 墓を 建てるようになって行きました。百姓町人に対する墓石制限令は 明治時代になって 廃止されるまで 続いています。「detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1248317062」 仏教思想では 死後は「無」即ち 遺体は抜け殻ですので 遺体投棄場所 が各地にありました。「okwave.jp/qa/q7939170.html」 戦国時代 等の敗戦者・戦死者等は 関係者や 地域の住民が 供養塔を 建てました。合戦後 数十年程過ぎた頃に 遺族 等が建立する場合もありました。「okwave.jp/qa/q7939170.html」 江戸時代初期迄の埋葬法は 土葬 火葬 水葬 野葬(投げ打ち・鳥葬) 林葬(樹上)岩窟葬でしたが 江戸時代には 多くは土葬で 一部で火葬されました。「japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial02.cremation.html」 江戸時代の江戸では 溺死体は 沖に向け 突き流す事が 定められていましたが 地方では 遺体回収する事が 一般で あったようです。「www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=488」 江戸時代の死刑は下手人 斬首 打ち首 火あぶり 鋸引きでした。下手人以上の罪の者は 成仏できないとされました。首と胴体とが離れていると 成仏しないと信じられていましたので 下手人の胴と首は 繋がれ 遺族に 引き渡され 下手人以外の死刑囚の遺体は 供養が 禁止されていて 試し切り等に 供されました。巡礼には 死に装束を 身に着け「死後は その地の作法で 葬って下さい。連絡不要。」としたためた 手形を 懐に携 え旅立ち 遺体が 発見場所に その地の作法で 埋葬されました。巡礼者の接待や 弔る事は「功徳を積むと 地獄の裁判 で罪一等が減じられる。」と され 町役人や 庄屋 等が 埋葬しました。「okwave.jp/qa/q7939170.html」 江戸時代の墓には「埋め墓 :ミハカ サンマイ ボチ・ヒキバカ」と「参り墓:ラントウバ ラントウ タッチョウバ サンマイ」に 別れている 場合がありました。埋め墓は 山奥等に 遺体を葬りました。遺体は 悪臭を伴うほか 死因が 流行病である可能性が あるので 多くの場合 お参りはしませんでした。「https://ja.wikipedia.org/wiki/両墓制」 京都音羽山清水寺の舞台は 寛永10年(1633年)に 徳川家光よって 再建されました。昔 清水寺辺りを 鳥野辺Tori-no-beと呼ばれ 化野Adasi-no 蓮台野Rendai-noと 共に 京都3大葬送地でした。多くの死体が この舞台から 放棄されたと されました。悪臭を 避けるために 高い舞台に なっていると 言われます。「kyotohotelsearch.com/blog/2011/06/01/kiyomizunobutai/」 江戸中期以前の墓地を持たない人達の埋葬地や鳥葬地(共同墓地)については「吉備中央町の伝説 歴史伝説 共同墓地」を参照ください。 平成23年(2011年)11月3日