化気神社の妖怪退治 毛木神社の妖怪退治2 じ化神社の命名 名前の交換 吉備国の分割 よざんな話 吉備津彦命とイサザ王 温羅伝説 嵯峨の皇子 筑紫の賊退治 謎のイサザ王
加茂川町史の化気神社の妖怪退治 Defeating the monster in Kegi-jinjya shrine written in the history of Kamogawa-tou/Town
皇紀300年(推定で西暦130年頃)吉備津彦命が 加茂の地に 御食津大神Miketu-no-ookami(気比神宮Kehi-jinguu・案田のに勧請された気比神宮は 化気神社Kegi-jinjyaと 呼びます)を お祀りになった頃 妖怪変化が 出て 住民を 恐れさせました。化気宮の西の方に 火柱が現れたので 吉備津彦命は 弓を 取ってこれを 松の大樹を 盾にして 覗いました。この松を「覘いの松」と 言います。矢を 放たれましたが 矢は 松の枝に 掛かりました。その矢の掛かった松を 「矢懸かりの松」と言います。馬上から岩を 足係りにして 乗り上げ 二の矢を 放たちました。その足掛かりにした 約6畳位の大きさの岩を 駒石Komaisiと 言います。矢は 怪物に命中し 一大音響を 発し 石となり 飛び散りました。上体であった部分の落ちた所を「立 石」(上田西)と言い その場に残った部分の石を「的石Matoisi(松尾神社近く)」と 言います。 矢は破片となって 空高く ヒラヒラと 飛んだ所を 高平Takahira(細田)と言い 細田の辺りで その様子を 見られなかった所を 目無Menasiと言い 矢の落ちた所を矢柄Yagara(細田)と言い 遠くても 音の聞こえた所を大鳴Oonaru(上田東)と 呼ぶようになりました。これらの地名は 現在 小字名として 残っています。「加茂川町史」
覘いの松も 矢懸かりの松も 現在は 枯れて なくなっています。駒石には 蹄型の模様が4 から5個ありましたが、現在は 目立ちません。
細田野呂の村人の語る化気神社の妖怪治 Defeating the monster Kegi-jinjya shrine told by Hosoda-Nooro villagers
吉備津彦命が 祟神天皇に四道将軍の一人として 西国平定を 命じられました。その過程で 後の加夜国Kaya-no-kuniに 攻めて来ました。化気宮の辺りに 鬼と言う 妖怪だか 山賊だか わからない者が 住み付いて村人に 災難を齎していると 聞いた 吉備津彦命は 軍勢を 引き連れ 鬼退治に やって来ました。鬼の大将は 神出鬼没の不思議な 術を使い 兵を 惑わすので 兵は怯え 戦おうとしません。吉備津彦命は 馬に乗り 鬼の正体を 松の木陰から 窺い その結果 術はまやかしであると 知ると 近くの大岩に 馬の片足を 乗せ キリリと弓を引き 放つと 矢は 鬼に届か ,的石の側の松の枝に 掛かってしまいました。聖の馬でしたので その大岩に 馬の蹄の跡が付き 駒石と呼ばれるように なりました。普通の弓では 効果ないと解ると 千鈞の強弓Senkin-no-goukyuuを 取り出し 再び 引き絞り 矢を 放ちました。鬼は 射抜かれまいと 大岩に 変身し 矢を 弾き飛ばそうとしましたが 矢は 鬼の想定以上に 強力だったので 大矢は 見事に鬼を 射貫きました。岩となった鬼は 大爆発を起こし2組 計4つに 分かれて 飛んで行きました。一つは 松尾神社近くに 残り的石と言われ 1つは 立石に落ち 立石と呼ばれました。1つは 城山裾の細田公民館近くに落ち 1つは 大畑の近くの旧街道沿の植松に 落ちました。今 植松には才の神と習合した 地蔵菩薩が 祀られています。大岩と 衝突した矢は 大畑Oobataでは 壊れて バタバタと 大きな音を 立てながら 高平の上空高くを ヒラヒラと 飛んで行き 細田の矢原に 落ちました。目無しで は山に遮られ 飛んで行く矢は 見えませんでした。的岩が松尾神社近くにあると言う事は 毛気神社から 松尾神社に 向け 矢を射た事になります。的石の近くの大松は 昭和中期に枯れました。現在朽ちた株を残します。「細田野呂の村人より口伝」
立石:上田西黒ハケ1043番地付近の畑 北緯34度52分44秒・東経133度47分15秒に 地神Jijinの文字が 彫られている石が 立っています。下竹荘郵便局の配達人は「この石が 伝説の立石で この地の名の由来だ。」と 言います。扁平で いびつな形状をしているので 割れた岩を 連想させますが 小さい事から 推測して やや 無理な解説です。立石に 突き刺さるように 立つ大岩を 探しましたが 見つかりませんでしたし 立石の村人に尋ねても 過去に それと思われるような大岩は 無かったと言います。
飛石:細田公民館の隣の北緯34度53分48秒・東経133度47分7秒の細田1193-1番地の水道蛇口の脇に 飛び石はあり コンクリートに半分埋まります。 塞石:細田公民館から 細田高平に 向かう途中に 左下に向かう 旧道の山道が 有り 新道に 沿って大きくカーブして 新道と出会います。 奥吉備街道(吉備高原北部広域農道)の旧道の中間地点の右上 つまり 新道が 右カーブする辺りの 道下 北緯34度53分51秒・東経133度46分56秒に 塞石はありました。才の神だったのでしょうか。細田野呂の村人は「野仏の近く岩がある。」と言いますが 見つかりませんでした 覗いの松:伺いの松は 駒石の近くに あったらしのですが 枯れてしまい どこにあったか 解りません。 目無:北緯34度53分47秒・東経133度47分22秒を 囲む道の 内側で 目無には 4軒の民家が 有ります。細田2011・2199番地等です 地名の由来はわかりません。 女無の転訛であれば 窪地の無い地となりますが 目無しは むしろ盆地状の 地形です。女無の佳語なのでしょうか。 高平:目無より 下土井側に進むと 細田高平に向かう案内が あります。右に入れば 北緯34度 53分54秒・東経133度47分20秒付近が 十数軒からなる 高平集落です。細田 1665・1904番地 等です。三谷にも 高平の地名は ありますが 民家は建ちません。 三谷737・757番地 等です 高平地名で 住宅の建ってい るのは 細田1903番地だけです 平とは 山間の平地 或いは 突き出た地形の端を表します。 大鳴:上田西204番地 222番地 223番地を びびノ木と呼び 上田西1934番 地と1936番地を大鳴(大成 大成)と呼びます。住宅は 建っていません。鳴の付く地名の多くは「なだらか」に 関わります。 矢柄:上田西182・188番地等 細田1397・1549番地 等に 及ぶ 広大な地域です が 住宅は 建ちません 矢柄池は 下土井下加茂線(372号線) の大畑交差点を 西に向かい 久保田神社 の取り合い道を 過ぎた 次のY字路を 南(左)に向かうと 鋭角な Y字路があるので 略 戻る方向の道 に進み 又 次のY字路の右の道を 選び 進むと 眼下 北緯34度53分28秒・東経 133度47分5秒に見つかります 矢柄とは矢の箆No・矢竹の異称です。 箆の生産地だったのでしょう。 大畑:北緯34度53分29秒・東経133度47分22秒辺りが大畑で 数軒からなる大畑集落(大畑1490・大畑2119番地 )があります。下土井下加茂線の大畑交差点に 大畑バス停が あります。 大畑地名で 住宅が建つのは 細田1607番地だけです 大きな畑も無く 広くもありません。広い地でありたいと言う 願望から生まれた 小畑の佳語でしょうか 。 矢原:細田公民館から 三谷に 下る交差点の右手 細田1116・1165番地ですが 矢原ですが 住宅 は建っていません 北緯34度53分56秒・東経133度46分58秒付近です 矢は 急峻な地に付けられる事が多く、原は 山に対する語として用いられます 急峻と言っても 規模が小さいので 矢原は 鏃Yaziriの生産地だったのでしょうか 平成28年(2016年)4月1日
案田 化気神社の命名 Naming of Kegi-jinjya
化気神社は 旧上田村の案田化気山に あります。第10代崇神天皇暦10年に孝霊天皇の皇子 大吉備津彦命を 四道将軍に任じ 吉備国に 派遣しました。異母弟 若日子武命と共に 針間(播磨)国から 本宮山に来た折り 本宮の峰に 御食津神MIKiketu-no-kami(この場合 食物の神)を 祀りました。越前国敦賀気比神宮と同じく 伊奢沙和氣神Isasawake-no0kami神(気比大神Kehinp-ookam)を 祀ります。化気神社の名は あろう事か 気比を 上下間違え 且つ 比を化と読み誤り 化気神社となったと 言われます 加茂川町の「資料参考」
昔 越前国 敦賀気比神宮Kehi-jinguuを本宮山に 勧請しました。神社の名前を伝える 使いの者が 社名を記した書面を懐にして 道を急いでいたのですが 途中 運悪く大雨に遭遇しました。使いの者は 必死に書面を護ろうとしたのですが 全身ずぶ濡れになってしまいました。本来なら 大事な書類ですから 大雨に遭遇する事を予想し 油紙に包んでおくべきでしたが 自然現象を甘く見て 用心しなかったのです。用心 を怠った事が 悔やまれ 心配になり 書面を見てはならないのですが 封を開いて見ました。すると 案の定 書面は雨で 酷く濡れてしまい 紙面を 見詰めましたが 書かれていた社名が 判読できませんでした。使いの者は これでは 村に帰れば 半殺しの目に合されるか 運悪ければ 殺されると思い 書類を偽造する事に しました。書の達人に 偽造を 依頼しました 、。達人は、[「ひけぐう」に 似た名前だった。]と 言う使いの者の言葉を聞いて 比気神宮と書きました。使いの者は 村に戻り 宮司に恭うやうやしく書面を 手渡しました。宮司は 社名を見て 慌てました。勧請元が「けひじんぐう」と 知っていたし 書面は 達筆で 使いの者の手とは とても思えなかったからです。宮司は 書面をそっと奥に持ち込み、「比とか化は似ているので化気宮の間違いだろう。執筆者の間違いを咎められては 気の毒だ。」と考え 密かに書面 を偽造しました。それで 化気神宮と言う名前が 付けそうになりましたが 更に 改名されて化気神社となったのだそうです。 「村人口伝」 平成23年(2011年)10月27日)
名前の交換 Name Replacement
仲哀天皇と神功皇后は 熊襲退治に遠征する前に 敦賀に滞在しました。次いで 神功皇后は 三韓征伐の後に畿内へ戻ると 部下の武内宿禰に託して 幼い我が子(後の応神天皇)に敦賀へ 禊ぎをさせました。仮宮で 休む皇子の夢に地元の神が 名前の交換 を申し出ました。そこで 名前を 交換しました。則ち“伊奢沙別の名は 元来 皇子(応神天皇)の名で 誉田別命Hondawake-mikoto(応神天皇)が 地元の神の名前で あった事に なります。地元の神は 翌朝 名前交換の証に 鼻に傷付けられた 多くのイルカが 皇子に 献上されていました。それで 伊奢沙別命は 御食津大神Miketu-no0kamとか 気比大神Kehi-no-ookamiと 呼ばれるように なりました。「氣比神宮・角鹿神社 - 伝承怪談奇談・歴史秘話の現場を紹介|日本伝承大鑑」平成23年(2011年)10月27日)
吉備の国の分割[]Splitting Countries of Kibi-no-kuni
応神天皇は(即位22年)秋9月6日 淡路島に 狩りに出かけた後 天皇は 淡路から 吉備国の小豆島Azukijimaを経由して10日には 葉田Hada(備中国賀夜郡服部郷=岡山県総社市東部)の葦守宮Asinimori-nomiyaを 訪ねました。すると 御友別Mitomoeake(妃の兄媛Ehimeの兄)は 兄弟子孫を 膳夫Kasiwadeとして 食事を 奉りましたので 天皇は 御友別の謹惶Kasikomariぶりに 大喜びました。そこで 吉備国Kibi-no-kuniを分割しました。川嶋県Kawasima-no-agata(現在の岡山県朝口郡と玉島市)を長子の稻速別Inahayawake(下道臣Simomiti-no-omiの始祖)に与え 上道県Kamitumiti-no-agataを 中子(Nakatuko 次男)の仲彦Naksatu-hiko(上道臣Kaitumiti-no-omi 香屋臣Kaya-no-omi(の始祖)に与え三野県(Mino-no-agata 備前国御野郡御野郷 現在の岡山県北半分・旭川以西)を弟彦Otohiko(三野臣Mino-nomiの始祖)に与え 波区芸県Hakugi-no-agata(未詳=広島県比婆郡か岡山県笠岡市だろう)を 御友別の弟の鴨別Kamo-no-wake(笠臣Kasaomiの始祖)に与え 苑県Sono-no-agata (備中国下道郡曾能郷=現在の岡山県吉備郡真備町)を兄の浦凝別Urakori-wake(苑臣Sono-no-omiの始祖)に 与え 織部Hatoribeを 兄媛に与えました。[吉備国の歴史 - 歴史の史実研究所] これ等の伝説通りなら 伊奢沙別命(応神天皇の元の名)はこの地 即ち 旭川の西部を 分割され 国の力を 削がれた事になりますので 住民は伊奢沙別命を不快いに思った事でしょう。確かに 備中地方には八幡神社が多いのですが 加茂川町や 美作地方に応神天皇を祀る神社は 少ないようです。化気神社が 気比神社でなく 神体を 鹿の角とする 不思議さに この伝説が関係するのでしょうか。
平成23年(2011年)10月27日)
面白い話が 聴けたので 孫に 話してやれば さぞや 喜ぶだろうと思い お爺さんが 孫を 膝にのせて ニコニコしながら 毛木神社の名前の由来をし「伊奢沙別命ぁ応神天皇(誉田別命Hondawake-no-mikoto)と 名前を 交換しておる。応神天皇は わしらの国の吉備国う ばらばらに6つに割けて 妃の兄媛Ehimeの兄の御友別Mitomowakeの子供達に与えたんじゃ。こんなエコヒイキぃされたわしら地元民にすりゃぁ 伊奢沙別命ぅ 素直に「いささわけのみこと」様と、気比宮を 素直に「けひぐう」と呼んで 信仰できるはずもなかろう、勝手ぅされた 地元のもんは 意地ぅ張っおるんじゃ」と 話をすと、孫は「気比と気化を間違えたの ほんまか せっかちで お馬鹿さんの神主さんじゃね でも こぎゃぁにぼっけぇ間違いが 許されて 皆に化気様と呼ばれて 崇められとるじゃよね その神主さんは 誰にも 馬鹿にされなかったんじゃよね そんならわしが 国語のテストで 字を間違うても もう お爺ちゃんも お父ちゃんも 叱らんよねぇ ねぇ 。 ねぇ。 お爺ちゃん 。 お爺ちゃん。 特に お母ちゃんには 良う言っといてよね。」と 言いました。お爺ちゃんは「言おうとした趣旨たぁ 違ぅとるが。こうなるとは トホホ。」と思いましたが「解った。解った。 お母ちゃんには 良く言うとくけぇ この話ぁ わしが したと言うちゃぁおえんぞ 。」と 言うしか有りませんでした。そしてその後 孫はお 母さんに「そねぇな屁理屈ぁ 世の中じゃぁ 通りゃぁせん。 真面目に 勉強せられぇ。」と 叱られたそうな。「著者の古い友人の話祖父の話」 平成23年(2011年)10月27日
崇神天皇Sujintennou は 五十狭芹彦命Isaseri-hiko-no-mikoto(岡山の桃太郎)を 四道将軍として 吉備国に 派遣しました。異母弟 若日子武命Wakatake-hiko-no-mikoto(稚武彦命・若日子建吉備津日子命・若建吉備津日子命・香川県の桃太郎)と共に 針間(播磨)国か ら出陣し 若日子武命は 吉備国の鬼の大将の温羅Onra/Uraを 討ち取りました。天皇は 若日子武命を 吉備津彦命に 任命しました。兄が ジロリと睨んだので 総大将の兄に 慌てて 吉備津彦命の職を 譲り 兄を大吉備津彦命と 呼びました。温羅は 討たれてなお 首には生気があり 時折 目を見開いては 唸り声を 上げました。気味悪かったので 吉備津彦命は 犬飼武命Inugai-takeru-no-mikoto(お供の犬)に命じて 犬に首を 食わせて 骨としました。それでも 唸り続けるので 竈の下に 地中深く埋めました が 温羅 唸りは 止まりませんでした。余りの しつこさに とうとう 五十狭芹彦命は 頭が狂ってしまいました。備前牛窓に 仮泊をとり 病気の治療をする事に なりました。ここ等 辺りの豪族は 心をこめて 病気の平癒Heiyu 戦勝祈願を しましたが 治りませんた。ところが ある日 長田庄本宮山 より 霊光が牛窓の海の上に 映りました。その光を 浴びると突然 不思議にも13年も続いた 温羅の唸る声 は止んで 吉備津彦命の 脳の病気も 治りました。本宮山の加護に 感謝し 讃岐(四国)や安芸(広島)の鬼を 退治 に 出かけました。戦いが 終わって 吉備津彦命は 本宮山にやって来ました。本宮山は 途中 嵯峨(でこぼこしていて険しい)な道の上 茨が 茂っていていました。茨を かき分けかき分けしているうちに 道に迷ってしまいました。 すると 白鹿が現れ首を ふりふり付いて来るよう 招くのです。 白鹿に 付いて行くと 無事に 山の頂に辿り着きました。 これは又 伊奢沙和氣神の霊験Reikenであると 信じ 新しく神社を 築き 神宝として「いさざ王」と言う 丈1尺8寸4分の 鹿の角を 祀りました。 牛窓の海を思い 海神社Kai-jinjyaと 呼びました。 その後 大和漆上郡春日大明神の4柱 武甕槌神 齋主神 天兒屋根神 比賣神を祀り 伊奢沙和氣神と合わせ5柱の 祭神となりました。「村人口伝」
崇神天皇(第10代天皇 紀元前97~30年)の頃 百済の皇子である 温羅が 鬼神となり 吉備国に 飛んできて 新山に 居城を構え 岩屋山に 楯を構えて 西国から 都へ送る 貢船や 婦女子を 略奪しました。人民は 恐れて 居城を 鬼ノ城と呼び 朝廷に その乱暴ぶりを 訴えました。朝廷は 大いに憂い 武将を 何度も遣るも 悉く 都に 追い戻されました。そこで 武勇に勝る 五十狭芹命を 四道将軍の一人として 派遣しました。命は 吉備の中山に 陣を布き 西は 片岡山に石楯を築きました。さて 温羅と戦うと 変幻自在の鬼神は 戦うこと 雷霆のように 凄まじく さすがの命も 攻めあぐみました。命の射る矢は 必ず 鬼神の投げる岩と 空中で 絡み合い 海に落ちました。命は 千釣の強弓で 二矢を 同時に 発射 すると そのうちの一矢が 温羅の左眼を 射抜きました。流れる血潮は 川となって 流れ さすがの温羅も たじろぎ 忽ち 雉なって 山に隠れましたが 命は 鷹となり 追詰めると 温羅は 又 鯉となり 血潮の川(血吸川)に 潜ったのです。命は すかさず 鵜となって これを 噛みあげました。温羅は 命Mikotoの軍門に下り 吉備冠者の名を 命に献上しました。命は 鬼の首を 刎ねて 串し刺して 曝しました。しかし この首が 何年となく 大声で唸り 止まなっかたのです。命は 部下の犬飼建に命じて 犬に喰わせましたが 肉はつきて 髑髏は なおも 吠え止みませんでした。そこで 命は その首を 吉備津宮の釜殿の下に 埋めました。しかし その後も 13年の間 唸りは 近里に 鳴り響いたのです。ある夜 命の夢に 温羅の霊が 現われて「吾が妻で 阿曽郷の娘阿曽姫をして 釜殿の神饌を 炊かせよ。もし 世に事ある時は 竈で 占い給え。 幸であれば 裕かに鳴り 禍であれば 荒らかに 鳴ろう。命は 世を 捨ててのちは 霊神として 現われ 給え。吾は 艮御崎となり 一の使者となって 四民に賞罰を加えん。』と告げましたた。「吉備国の平定、吉備津彦、温羅、孝霊天皇 – 古代史俯瞰 by tokyoblog (sakura.ne.jp)」 温羅:穏やかな人と言う意味 或いは 朝鮮の人と言う意味です。朝鮮の亡命皇子で 最新式の製鉄技術を 吉備国に伝えたとされます。 吉備津彦命:吉備津を 護る男の偉人(神)と言う意味を持つ 役職名です。 犬飼武命:犬を飼う職業集団(犬飼部)の頭で 桃太郎伝説の 犬に 当たる人です。 13年間の唸り:温羅が 退治されても 温羅を慕う 地元の民は 13年間 吉備津彦命に 抵抗し 現吉備中央町の加茂川地域付近を 制圧し終わると 吉備国の抵抗が 止んだ事を 意味する物語でしょう。本来 吉備津彦命が 治めた地ですから 多くの神社で 吉備津彦命を 祀るだろうと思われますが この地域から 美作に掛けて 吉備津彦命を 祀る神社は ほんの少ししかありません。「吉備中央町の神社」 平成28年(2016年)2月2日
嵯峨の皇子 Prince of Saga\tennnou
44代 元正天皇 養老8年(724年)に 嵯峨の皇子が 牛窓で脳の病に 掛かり苦しんでいたので 地元の豪族達や 家来達 が 尽力して治療に 当たりましたが 一向に 治りそうもありませんでした。ところが ある日 長田庄本宮山より 霊光が牛窓の海の上に映りました。すると 嵯峨皇子の脳の病が 治りました。本宮山の加護に 感謝し 戦いが終わって 嵯峨皇子は 本宮山にやって来ました。本宮山を 茨をかき分けかき分けして登るうちに 道に迷ってしまいました。 するとと 白鹿が現れ 道案内をしてくれ 無事に山の頂に 辿り着きました。 これは 伊奢沙和氣神の霊験であると信じ 新しく神社 を築き 神宝として「いさざ王」と言う 丈1尺8寸4分の鹿の角を 祀りました。 牛窓の海を 思い海神社と 呼びました。その後 大和漆上郡春日大明神4柱 武甕槌神 齋主神 天兒屋根神 比賣神を祀り 伊奢沙和氣神と 合わせ5柱の祭神となりました。「加茂川町史」「三谷の村人より口伝」「化気神社」「化気神社の名前」 「御所」 平成28年(2016年)2月2日
嵯峨天皇弘化年中 賊筑紫に入寇す。皇子征伐途次 邑久邑牛窓にて御惱給ふ。供奉の人々御惱平瘡 賊徒平定の祈願なし給いしに 忽ち長田庄本宮山龍王宮の燈明海上に映ず。春日明神の加護ぞと御感あり。龍王宮 気比明神に御参拝ありて 三根結の杉を御手植えあらせられ 高山の峰に春日明神の社を建てらる。嵯峨皇子の御駐ありし処を御所が畝とて 名に残れり。奈良の春日に縁みたる地名多し。春日明神分祀の時つけたる名ならんや。奈良 水谷川 三笠山 猿澤池 新池 白藤瀧 当地 水谷川 三ッ山 申池 新池 白瀧「御津郡史p395」 平成28年(2016年)2月2日
今から1200年以上の昔 光仁天皇の宝亀四年(773年)の頃の事 安志の里(現在の姫路市安富町)の山奥に 巨大な 鹿が 棲んでいました。村人達は この馬鹿でかい鹿を「伊佐々王Isaza-ou」と 呼んで恐れていました。体長は およそ6m 角は 7つに分かれ 背中には 苔だか 笹だかが 生えていて 足には 水かきがあり 目は爛々と光っていました。この怪物は 既に 数百年も 生き続けていると言われます。 数千頭の鹿を 眷族にして 山々を荒らし 獣や人を 襲って 食べたのです。伊佐々王の狼藉は 年々酷くなり 獣も里人も 安志の里に 住めなくなりました。この有様を 聞いた天皇は「伊佐々王退治」の 勅令を 播磨に 発しました。勇敢な 兵士達でしたが 怒り狂った伊佐々王 はこれまで 以上に 凶暴になり 倒す事が できませんでした。止む無く 山を囲み 木を伐り 山を焼き逃げ 場をなくすと さすがの伊佐々王も 疲れ果てて ついに草の生い茂る 渓流に 追い詰められました。多勢の兵士の攻撃に 伊佐々王は 最後の力を 振り絞って 荒れ狂って 渓流の岩床に 大きな穴を 幾つも空けました。固唾を 吞む兵士達を 睨み返し「この後消ゆることなかれ。」と 言い残し 岩盤にその姿を留めて 死にました。大鹿が 横たわったように見える岩の穴は「鹿が壺」と 呼ばれるようになりました。伊佐々王が 退治されたので 人々は安心して 里へ戻りました。それでをこ の郷を「安志Anji」と 呼ぶのです。「hach8.web.fc2.com/fudoki/densetsu/isasa00.html」「tyz-yokai.blog.jp/archives/1076296176.html」を参照しました。 著者の感想:伊佐々王の正体は雪彦山Seppi-zan(兵庫県姫路市北緯35度4分0秒・東経134度39分0秒)の雪解け水で 谷を下る途中で 岩をえぐり 鹿が壷(北緯35度3分33秒・ 東経134度37分59秒) 鳥ノシコミ 五郎在壷 尻壷 鹿の尾 底無 駒ノ立洞 五郎田壷 雑樋壷 等の甌穴なのでしょう。大鹿退治は 大規模な治水工事を表しているのでしょう。 平成24年(2012年)6月2日