足守藩処刑場  山田朝右衛門 六兵衛5人組頭となる 文禄・慶長の役異聞  お吉の名前が心配 与太郎騒 37頭牛動供養塔

竹部 足守藩処刑場 Execution site of Asimorihan domain竹部村 上野村は かつては足守藩の領土でした。足守藩は 豊臣秀吉の正室の「ねね」の兄か弟の杉原家定が木下姓を 名の入り後 慶長6年(1601年)に 徳川家康より2万5千石の領地を頂き 足守藩を 興しました。寛政12年(1800年)に 幕府から 村替えを 命ぜられ、翌年 木下勝俊は 所領を取り上げられ 竹部村等は 天領となりました。大阪の陣で 功績のあった 勝俊の弟 利房が 足守藩を7年後に再興し、廃藩置県する迄 存続しました。https://ja.wikipedia.org/wiki/足守藩 その藩内の極悪人の処刑場が、竹部村内の山奥に 有ったと言われます。この処刑場が どのような役割を果たしたか 定かで有りません。江戸に おける小塚原Kozukahara/Kozukappara処刑場のような 役目だったのでしょう。「町役場職員である村人より口伝」

足守藩処刑場跡:72号線の吉備中央町岡山市北区の境 北区掛畑1596-1に 産業廃棄物処理業サンビルドの処理場があります。ここから 72号線を  超えた 広面34度49分1049分10秒・東経133度47分59秒の低い山に 足守藩処刑場跡が あります。廃棄物処理場までが 処刑場だった可能性があります。    木下㒶定Kinosita-Kinsadaと 桑華蒙求Soukamoukyuu:文化財保護委員の植木克己は「竹部の天神社に 木箱に納められた 桑華蒙求と 言う藩校の教科書が 奉納してある」と 言います。表書きは「桑華蒙求 壱部参冊備中国上房郡竹部天満宮蔵書」、裏書に「天神社の祭神菅原道真公を 尊祟し、自作の桑華蒙求の書籍を 妙福寺の寺僧を 使いにして奉納する。足守県主 峯豊子㒶定Aoi-Houhou-Kinsada享保二年」と あるそうです。足守藩第六代藩主 木下㒶定です。豊氏は 豊臣姓を意識して 使われたのであろうと されます。    江戸時代の処刑:江戸時代の死刑は 罪の重さで 幾つかの方法がありました。武士は 切腹 死罪 斬罪であり、庶民には Harituke 火罪 死罪 下手人です。死罪 下手人 斬罪は 首切りの刑です。死罪と 下手人は 牢屋敷内で処刑され、斬罪は 野外で 執行されます。下手人は 首切りで 終わり、死体は 引き取り手があれば 引き取れます。死罪は 首切りの後、刀の試し切りにされ 死体は 刑場に 埋められました。斬罪も 野外の処刑場に 首を晒さsarasaれ 死体は その近くに 埋められますした。磔は 磔刑Takkeiと呼び、市中引き回しの上、十字架に 縛り付けられ  左右から 槍で突き、遺体は 処刑場に 埋められました。火罪とは 火焙りHiaburiの刑で 主人殺し 等した重罪の者が 受け、焼けた 遺体を 犬やカラスの餌にしました。残酷な死刑としては 鋸挽Nokobiki刑で 両肩を切り、鋸を 付けて 野外に晒しその後 首だけ出して 埋め通行人に 自由に挽かHikaせ、最後は 市中引き回しの後 磔刑にしました。野外での首切りは 獄門と呼び、晒し首にしました。足守藩の処刑場は 斬罪や 獄門目的の施設だったのでしょう。大抵の犯罪は 5人組が私刑Rinntiし 5人組が 手に負えないものだけが 御上Okamiに 通報され、公の刑罰を 受けたので 江戸時代には 裁判は 殆ど有りませんでした。そのため 5人組の手におえない 重罪犯を 減らすため 惨い見せしめに したのです。江戸中期以降、太平の時代になると、処刑は 残酷にと エスカレートしました。釜煎Kamairi 釜茹 牛裂 車裂 簀巻Sumaki 等が 登場しました。https://ja.wikipedia.org/wiki/死罪_(江戸時代)」「wheatbaku.exblog.jp/23705837/

 

山田朝右衛門 Asauemon Yamada

山田朝右衛門と 言う獄門の処刑人がいました。皮一枚を 残し 一刀の元に 首を切り落とし、切り落とした首を 抱えるように 死体を 崩れさせる首切りの名人でした。臍Hesoに 挨拶Aisatuして死に、苦しみが なく 死後も 人のためになる と牢番 に聞かされるので、処刑される者は 山田朝右衛門に 切って貰う事を 望んだのです。彼のこの業を「首抱き」と 言いました。山田朝右衛門の本職は 獄門で 処刑された遺体を使い、刀の試し切りをする事だったのです。ところがこの男は 遺体から 肝臓を取り出し 乾燥させ「人胆丸 」を 作り販売し、大名程の力と 財を成しました。 「大江戸下遺構―人斬り浅右衛門の時代・氏家幹人著・平凡社新書」「https://ja.wikipedia.org/wiki/山田浅右衛門」 山田朝右衛門は 8代迄、継がれました。代々の朝右衛門は 処刑の有った夜は 血に酔って 不快感を覚え、大酒を 飲んだそうです。人々は 朝右衛門の気持ちを 察せず、死刑者の怨霊に 取り憑かtukaれたと 悪評を立てたそうです。人胆丸は 山田丸 浅右衛門丸Asaemon-gann 仁胆 浅山丸とも 呼びました。胆石や 胃潰瘍激痛 等の激痛や 肺疾患の効果があり、鎮静作用があると されました。製造、販売は 山田朝右衛門だけに 許可され 侍社会に 販売され、巨万の富を 蓄えました。又、死刑囚の小指を 娼婦に 販売しました。娼婦は その小指を 馴染Najimiの客に 愛の証しとして 使ったようです。もう一つの副業は 刀の鑑定でした。https://ja.wikipedia.org/wiki/山田浅右衛門」「www.uraken.net/rekishi/reki-nihon012.html」    人胆丸の販売とは 物凄い話ではあります。しかし、当時は 法令上  宗教上の理由で 獣肉を 食べる習慣はなかったので、イモリ 等の黒焼き 等 と同様に 良質の蛋白源として、また 脂溶性ビタミンの補助食品として 著効があったたでしょう。禁断の獣肉を 食べさせ 治療する 医者や 祈祷師Kitousiも いたようです。岡山藩は狐Kituneや 嘴太鷹を 薬として 加茂川の庄屋に 注文しています。明治3年(1870年)明治政府は 人肝 人脳髄 人陰茎の密売を 禁止しましたが、闇売買が 流行ったと 言われます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/カニバリズム」「加茂川町史」

 平成24年(2012年)5月6日

 

三納谷 六兵衛5人組頭となる Rokubei became the head of 5ningumi "five-family unit"

 三納谷の六兵衛が 寛政13年( 年)1月23日 五人組 組頭に なりました。郡奉行所から 大庄屋の文太郎に 書面で 許可が 伝えられました。「加茂川町史」    岡山藩 池田光政の家老 博忠は安政元年(1854年)下屋敷普請の賃金を 銀札で払い、翌日に 銀札の切り下げ安政の札潰れを 行い 貨幣価値は 1/10に なりました。一時 旧札と 新札が 流通していました。https://ja.wikipedia.org/wiki/池田博忠

三納谷の5人組の組頭を 皆の入札で決めて、庄屋を通し 郡奉行に申し出、寛政13年(1801年)1月23日に 藩に申請書が 受理されました。28日に 岡山城下の郡奉行所に大 庄屋と六兵衛が呼び出され、奉行所の者全員が見ている中で 挨拶し、五人組帳を 長々と聞かされた後、血判を押し 正式に任命され 29日に戻る事になりました。村の者は 皆で悦Etu(お祝い)を しようとしようと 下土井の荒神下の者は 68軒に 回文にしました。村八分になっていた 1軒を除き 全員が 参加を希望しました(30軒分の祝いの記録が残り、37軒分の記録は紛失)。村人は 新札(デノミネーション後の札)で 祝儀をしたいのですが 村には 使い古した札しかなかったので 前組長の利三郎に 尋ねると「使い古された札でも 問題はない  わしは雉Kijiを1羽と徳Toku(徳利・とっくり)を 一つ持って行く」と 答えました。この話を伝え聞いた者達は「下加茂の者も 悦に乗り(加り)たい者が 何ぼうか居る」「小森の者も 悦をしたい者がおる」「上田の中にも 六兵衛さんと 親しい者がおる」と 悦をしたい者達が 現れました。その中の文次郎は「わしは豊岡村の文太郎の代理の者じゃが、文太郎の言う事には お樽料Otaru-ryouとして 古札12匁Monme出すそうじゃ。ha

aせにゃぁならせにゃぁならんが、文太郎らっし(らしく)もないが そちらに 行けるのは 2月19日の晩方でなけりゃおえん(だめです)。立替ておいてぇな」と 百姓代 文次郎に 頼みました。利三郎が 組頭の給米に 興味を持つと、文次郎は「年に3から4斗じゃが、貰えん時もあるそうじゃぞ。持ち高20万迄の者は高掛物(村の諸雑費に充てる持ち高に応じて出す年貢)が免除されるんじゃぁ」と 教えました。利三郎が 六兵衛を羨むurayamuと、文次郎は「馬鹿こくもんじゃあ無ぇ 責任ばぁ大きくて 辛ぇ仕事じゃぁ  政治に 物を言われんのに、役人や 名主や 文太郎に 扱き使われる  仲間が悪さぁしたら、罰せにゃぁならん  村八分にしたり 時にゃぁ 殺したりせにゃぁならんのじゃぞ  長尾の娘や 池の原の話を読んでみぃ  わしなら良う知っとる者を 村八分にしたり 殺したりする指示ばぁできん  わしなら 成りとうないわい」と 反論しました。利三郎は「悦と言っても、慰め(会みたいなものじゃ」と 思ったそうです 。「加茂川町史」

5人組:豊臣時代には 五人組主に下級武士)とか 十人組(主に農民 町民)とか 言う組織がありました。5軒から10軒の家を 1組とする 隣保的自治組織です。豊臣秀吉が 慶長2年(1597年)に 5保制を 参考にして 京都で 作りました。政治をし易くするために 農民同士が 互いに見張り合い、問題が起こると 共同責任を 取らされました。組内のキリスト教徒を 密告させる事が 大きな目標で有ったので、組外の者が 組内の者を 密告した場合は、組の職務怠慢として 組中の者が 罰金刑を受けました。江戸時代には 農民等も五人組に 編集されました。農家の組み合わせ方は 色々で、隣同士の組 生産高の多い家と少ない家の組み合わせ 等 5~10軒で 組みました。怠け者が出ると組替しました。 組の代表者を五人組頭と言い名主 庄屋の下部に置かれましたが、村内の政治に直接参加できませんでした。五人組は連帯責任 相互監察Kansatu 相互扶助Douo-hujyoの単位であり、領主はこの組織を利用して 治安維持や 村や町の中の争議の解決 納税の確保 法令の伝達周知の徹底を 目論んだのですが、家が 潰れtubureたり、当て嵌めようのない禁令だったり、飢饉時 等では組 全員 あるいは村全体の者が納税不能になったり、五人組 等の単位で 解決できない問題も多く、また2国に 跨り 領主が 異なる組もあり、理想通りに 運営されない場合が 多かったのです。反面 五人組を 上手くumaku使い、間接的に 名主や 庄屋の権威を 高め 彼らが 富と権力を 独占的に握ら(にぎらる事で 住民の生活を制約し、町村の自治を 強化させる事に 成功しました。それ故 組内に 犯罪者が出ると 組で処罰させられ、村八分(五人組 等が行う、葬式と 消火以外の付き合いを しない私的刑罰)や時に私刑Ritiが行われました。奉行所は 申し出がない限り、例え 死人を 発見されていても 捜査しませんでした。江戸末期、日本に来た ある外国人は 日本では 悪事や殺人が あちこちで行われるのに 裁判が起こされない事を不思議に思い、本国に報告しています。また、年貢米納付の責任を 共同でとらされ、納められない者が出た時は、組内の者が 不足分を納めました。 五人組御仕置帳と言う禁令書が 安政2年からあって、五人組が 署名連判し 掟に違反しない旨の誓約をし、1部は 領主や 代官所へ提出し、1部を組内に 保管しました。五人組御仕置帳は 表紙を含めて50丁以上に上ると 言われます。 明治3年(1870年)に 五人組は廃止され、目代Mokudaiに 名を変え、明治5年(1872年)に 五保制の保長Hotyou)と 名を変えました。第二 次世界大戦中の隣組に 応用されましたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/五人組」 「加茂川町史」 村八分:村内の10の付き合い、即ち 成人の祝い 結婚の祝い 出産の祝い 家の建設の祝い 病気見舞いと 扶助 水害 等の相互扶助 消火の時の扶助 葬式の悔やみと扶助 法事の付き合い 旅の安全祈願の内の2つ、つまり「葬式 消火」以外の付き合いを しない事です。いうならば 猿蟹合戦の 猿のように 扱われる事です。    長尾の娘:長尾の娘が 行儀見習いで 岡山城に 登り 殿様の目に留まりました。殿様は許嫁がいると知ると、村に 返しました。与頭(組頭)は 城で娘が不始末を侵したと思い、許嫁に 娘を殺させました。    池の原・投げ打ち:江戸中期に一般庶民が墓を立てる事が許される迄は、死人の殆どは 簡単に葬られるか風葬にされました。そのような地はそ の後には  老人や 病人を 生贄にする場所に 使われる事がありました。死亡率の高い病気の流行時には 組長の責任で 隔離場所に 利用されたとも伝えられます。三納谷の投げ打ちの場所は 不明です。  

平成23年(2011年)12月18日

 

岨谷 馬越 唐人宗七 Souhiti who was a chinese

文禄の頃 豊臣秀吉は朝鮮に派兵しました。その時 協力した唐人の宗省恭を朝鮮に残して置く訳にゆかないので、日本に連れて来ました。足守の木下家で世話して宗吉の養子にして宗七と改名しまた。慶長元年(1596年)に代官が難波氏に変わるのに合わせ、宗七は御林山の番人としてこの地 藤田集落に住み付きました。子孫繁栄したかに見えましたが断絶し、一族の墳墓(ふんぼ)は荒れ果てました。木下家の家臣の石原左衛門が、これを嘆き墓を再興したとされます。唐人宗吉墓 実高麗人(こうらいびと)、弘化4年丁末三記と示した墓の他 塔が7基あります。宗吉の墓石は最近造り直されたらしく、1つの面に古墳磨滅文字不分と読める字が刻まれています。「吉川村史」「https://jokky2.exblog.jp/i31」「https://jokky2.exblog.jp/23750855

馬越の唐人宗吉墓:北緯34度47分24秒東経133度44分15秒 唐人宗吉の墓を唐人お吉の墓と言う者がおり、一部の住民はそう信じているようです。残念ながら唐人お吉が吉備中央町と所縁(ゆかり)を持ったと言う記録はありません。 唐人山:吉川2132.・2260番地等  唐人山頂上:北緯34度47分23秒東経133度44分42秒 下唐人山:吉川2155-2157・2161-66・2172-2176番地        平成23年(2011年)9月28日

文禄・慶長の役異聞 Another story of Bunroku-Keityou-no-eki war

 昔 スペインは世界にまたがる大帝国でした。狙いを付けた地に宣教師を派遣し、言葉巧みに住民をキリスト教に入信させ、その結果としてキリシタンが増えスペイン人の人口が増えると軍隊を送り伝道地の国土を征服したので世界中に領土を持てたのです。そして占領地の男性や土着男性の子を妊娠した妻を殺したり女性にスペイン人の子を産ましたりして独立の反乱の眼を摘み取りました。織田信長はこの事情を知っていたので、スペインが日本に来る前に日本を統一する必要を感じ、急速に鉄砲の数を増やし比叡山を焼く等の禁じ手を使いました。信長亡き後 豊臣秀吉は信長の思想を継続し「天下統一を果たしたなら安定な政権を作るため国内の反乱を防ぐために刀狩をしよう その前にまだ武力を残している全国の大名を結束させ大明帝国を支配下に置き、朝鮮を対スペインの緩衝地帯にしよう」と思っていました。

秀吉は非常手段を使って天下を統一すると、日本に従属するようにと求めてきたスペインの使者に対し強硬に「スペインの属国にはならない スペインの方が日本に臣下の礼を示し貢物を差し出せ」と突っぱねました。使者は調査をすると朝鮮や中国に殆どない鉄砲が日本には溢れ(あふれ)る程にある事に驚き「日本の城は堅牢で武力も優れている」とスペイン国王に報告しました。その当時スペインに屈服していなかった東アジア地域の国は中国 朝鮮 日本だけでした。しかしイギリスとの戦いで無敵艦隊を失っていたためスペインは直ぐには日本懲罰の行動を起こせませんでした。それを見て取った秀吉はスペインよりも早く大明帝国を日本の支配下に置くためにいち早く行動を起こしました。敵対関係にあった青葉城伊達政宗もスペインの恐ろしさを知って秀吉の説得に嫌々ながら応じ、秀吉配下に加わりました。小田原城北条氏直は秀吉に屈する事は我慢ならず抵抗しましたが、城内には秀吉の対スペイン作戦に従いたい者も多くいて長評定の挙句、秀吉に対し開城しました。すると秀吉は文禄元年(1952年)急ぎ李氏朝鮮に攻め込みました。それを見て、日本の武力の程の報告を受け取っていたスペインは貢物を山と積み平和条約を持ちかけました。スペインの腹黒いやり方を見抜いていた秀吉は拒否の返信をしましたが、書簡を積んだスペイン船は遭難しスペイン国王に意思が伝わりませんでした。先を急ぐ秀吉はスペインからの返信が待てず文禄2年(1592年)原田喜右衛門をマニラに派遣し書簡をスペイン総督府に届け臣下の礼を求めました。たまたまその時マニラに派遣されていた明国正規軍約2000人がスペインの総督府を突然襲いスペイン兵を追い詰めたので、原田喜右衛門は賺さ(すかさ)ずスペインに加担しあっという間に支那兵を殲滅(せんめつ)してしまいました。スペインのゴメス総督は戦国時代を勝ち残った日本の武士の勇猛さに恐怖し日本と戦う事を放棄しました。秀吉の要求にノラリクラリと事を引き延ばした挙句にスペインは「日本と対等の関係を結びたい」と偽り、宣教師を送り込んで来ました。秀吉はこの作戦に騙さ(だまさ)れましたが、慶長元年(1596年)土佐の浦戸に漂着したスペインの貨物船の乗組員達は救助した日本の友好的な対応に感謝しスペインの狙いの真相を語り、また積み荷の示す証拠品もあってスペインの陰謀を詳細に知る事ができました。秀吉はスペインの陰謀に怒り国内のスペイン人を強制退去させようとしました。

      平成23年(2011年)9月28日

 

お吉の名前が心配 I worry about my name is okiti

昔、お吉と言う小学生の女の子が  おりました。お母さんは「良い事が 続くように」と 思いお吉と名前を付けたのです。しかし お吉は 唐人お吉の話を聞くと、無茶苦茶な悪い生活をした唐人お吉と 同じ名前である事が 気になって仕方くなり 母に相談しました。お母さんは「人の性格は 名前に引かれて 変わる」と 占い師に言われて 娘の将来が心配になりました。ある家庭訪問の日に「うちの子は 唐人お吉と 同じ名前じゃ  唐人お吉みみたいに育ったら どぎゃぁしよう  そうならんようにするにゃぁどねぇに 育てれば良かろうか 教えてつかぁせぇ」と 先生に相談しました。お母さんは 学校の先生は 教養があり、何でも知っていて何でも 教えてくれると 思っていたのです。先生は「お母さんは 自分の名前で 人生が決まったと思うとるんですか  あんたぁお吉ちゃんと もう 8年も一緒に寝起きして 生活しとられるじゃろう  うちは未だ2年しか、しかも 学校でだけでしか お吉ちゃんと 一緒におらん  お吉ちゃんの事は お母さんの方が うちよりは ずっとずっと 詳しゅう知っている筈じゃ お吉ちゃんは良い子に育っとると 思うんなら、自信を持っ て今まで通り育てりゃぁ良ぇが」と 答えました。傍で聞いていたお吉ちゃんが、笑いながら「そうだよ クラスにおる3人の秀ちゃんが おる。皆 秀吉さんみたいに 天下取りに成っちゃぁ 困るもんね」 と言ったとさ。「岨谷の村人のとの雑談」

 

岨谷 与太郎騒動 Altercation with Yoyarou

備前藩槙谷村と松山藩岨谷村は 隣り合っていて、山の入り合い権で しばしば 騒動を起こしていました。天和3年(1683年)7月15日の昼頃 槙谷村の百姓7人が「こうの野呂山に 柴刈りに来ました。大荷処Oodokoroに 馬と長兵衛の弟の与太郎と言う8歳の子供を 置いて 谷を下り、下草を刈っていました。すると  与太郎が「馬の鞍Kuraが盗まれる」と 大声を挙げました。驚いた吉十郎が 崖を駆けの登り 見ると、馬鞍が2背 無くなってい て馬の脇に3人の者が 立っていました。

吉十郎が 助けを求めると、善右衛門を 始め他の者が 駆け上って来ました。

3人の内の1人が 駆け戻り 善右衛門に切り掛かって来ると 善右衛門は 持っていた棒で 刀を払い除け、相手との間を 広げました。男は 今度は吉十郎に 切り掛かりましたが、棒で強く払う と相手は 仰向けに倒れ、敵わkanawaぬとみると 刀を投げ付け 逃げようとしました。棒で払った刀は 運悪く馬の傍にいた 与太郎の前に 飛んで行き、その男は 刀を拾い戦いに敗れた 腹いせに与太郎に 怪我させようと 切り付けると、気が動転していたため 手元 を誤まり急所を切ってしまいました。知らせは 槙谷の村に伝えられ 村人が 集まり鞍を探すと、鞍は 槙谷の山の中に有りました。「犯行を目撃されそうになったので 犯人が 証拠品を槙谷側に隠し、槙谷の者の犯行に 見せようとした」と 考え 犯人は 岨谷村の者と推測しました。岨谷の庄屋に 掛け合おうと 清兵衛と 六兵衛が かんすが田Kansu-ga-turu迄来ると、岨谷村の庄屋 難波助右衛門が 村人5~6人従え 槙谷に向って やって来ていました。「槙谷の者が 大勢 岨谷に入り込んで来て 山を荒していると 山番が 報告して来たので、抗議しに 槙谷村に行く所だ」と 岨谷村の庄屋が 言うと「それは違う 槙谷の者が 岨谷村に 入ってはいなかった 現場を見てくれ」と 槙谷村の者は 反論すると「鞍は 備前藩側(槇谷)に有ったと言うのか  領土侵犯の証拠の鞍 を村人は持って帰っていない ならば 現場は 松山藩側ではないだろう  だとしたら、いまさら 現場を確認する必要は 無かろう」と 言ってその場を濁し返って行きました。翌日 30日に 水谷藩(松山藩)の郡奉行から、池田藩(備前藩)の郡奉行 広内権右衛門の元に 飛脚が走り「備前国より 松山藩に入り3人が 芝刈りをしていたのを、足軽役の山番が 見つけ咎めYTogameた所、悪口雑言を 吐い て槙谷村分に 引いたので、山番が 村境目迄 追い掛けると 童が馬を引いていた  その鞍を 領土侵犯の証拠として 差し押さえようとすると、童が 声を上げ 7~8人を呼び、その者共 が棒で打ち掛かって来た その激しい様子から 山番は、その現場が 他領と 勘違いしたと思い 引き戻ろうとすると、槙谷村の者は 14~15人とな 山番の足軽に 打ち掛かって来た  止む無く山番が 刀を抜いて 防御の構えを取ると 棒で刀が叩き折られ、危険を 避けるため 逃げだしたが、その折り 折れた刀を 投げ捨てると一人の男の股に 少しばかり当たった  相手が怯むhirumu隙に 折れた刃先を 拾い手裏剣Syurikenn代わりに 使うと、馬を引いていた童に 心ならずも 当たってしまった  役人が 出張って吟味Ginmiすると、この事件は 足軽の正当防衛であり 相手は 槙谷の百姓で有ると 解ったので 申し入れる」と 伝えて来ました。両藩の言い分が異 なりましたが、藩同士の諍いIsakaiを 公儀(徳川幕府)に知れると困ると 判断し、備前藩は「全ての藩は 公儀より 国を預かっていて、民はその国に 付随して預かっている  それ故 他領との民同士の出入り(争い)に 奉行等 藩の役人が 指図すべきではない  民間同士のイザコザは 民間同士で 収めるべきである」と言う方針を示し 近在の村々の庄屋を 仲介し、両村の庄屋間で 穏便Onbinに 事を 済まさせようとしました。松山藩も これに 義理立てし、藩主左京亮は 備前の使者の申し出に 応じ、加害者の足軽を 斬罪に 処して 事を収めました。この時の家老が 水谷太郎左衛門で有ったので、薬師堂に 経典を奉納した人物が 特定されました。「村人口伝」「大和村史」「寺院伝説・狩下手な殿様」    入り合い権:限られた地域に限り 山林 原野 漁場を 共同で利用し、草刈 薪炭材伐採 魚介漁 等を 許し合う権利を 言います。公有地の事も 私有地の事も有り、契約書等は 一般になく、過去の慣行に依って 公序良俗に 従がっている場合が しばしばあります。    こうの野呂山:調査中   大荷処:調査中   かんすが田:調査中    水谷左京亮・水谷勝宗:初代松山藩藩主の水谷勝隆長男で 寛文4年(1664年)父の死去により 第2代藩主となりました。新田開発や 水路の建設 城下町の建設 松山城改修(現在の天守閣の姿)に 力を灌ぎました。  水谷勝重:備中松山藩の水谷家の一族で、松山藩家老職に 就いていました。水谷氏は 南谷の薬師堂に 経典を奉納した折に、青銅製の灯明台と 燈籠を 寄進しましたが、燈明台は 壊れて捨てられ、燈籠は第二次世界大戦中に 供出を求められ 行方不明となりました。    南谷の薬師堂:北緯34度46分50秒・東経133度41分57秒  平成24年(2012年)12月12日

 

 吉川河内田 37頭牛供養塔 Memorial tower of thirty seven cattles

72号線(岡山賀陽線)鳴滝・河内田道との交叉点を河内田に進み、左手の田中産業の前 北緯34度48分40秒東経133度45分39秒に 「大日如来豊後灘■舩斃牛三七頭塔 百人講 施主河内喜一 大正一四年一月廿一日」の牛供養碑が 有ります。当時は 牛馬が死ぬと、講の者が 共同で葬ります。37頭の牛の難破死を 悼んだのでしょう。

備後灘から瀬戸内海へ航海する航路は「一に来島(Kuru-sima 二に鳴門 三と下って馬関瀬戸Bankan-no-Seto」と言われるように、備後灘から 来島海峡を通過し 安芸灘に抜ける 海運路は 瀬戸内海の最大の難所とされ 潮流は 10ノットに達する事が有り、海難の名所でした。大正12年(1923年)に 関東大地震が 発生し、豊後灘に も津波が届き、被害が出た との記録が あり、大正13年(1924年)10月に31日に 西表島北東で海底火山が 何回も 大爆発しました。大量の軽石が 噴出し付近一帯の海面を 埋め尽くし、海水は 沸騰しました。海底火山の爆発により、鳩間島Hatoma-jima海岸に 押し寄せた軽石は 黒潮の本流に載って 同年10月頃には 九州 四国の海を漂い 翌年の10月には 北海道の礼文島Rebun-touに 達しました。次いで 津軽海峡を抜け、親潮の流れにぶつかり 下北半島を 南下しました。https://ja.wikipedia.org/wiki/西表海底火山

岡山県では 大正時代初期には 和牛の有力な生産地で、役肉牛使役牛の改良を 進めていました。岡山の使役用牛は 体格強健 四肢が強く 農耕用 運搬用として 好評でした。岡山県は 大正11年(1922年)4月4日 岡山県諭告第1号を以て 備作種と 名を付けました。子牛の生産は 1年間に14000頭を 越える程で、県北部で 主に小牛を生産し、中部で 生産育成し、南部で 主に肥育しました。優秀さが 評判になったの で荘 円城の牛は 農繁期に 岡山北部の農家に 貸し出されていました。宮崎県では 大正初期から 使役牛馬 及び 牛の品種改良の為に 牛の需要が 急激に増加しました。中でも 特に食肉品種 宮崎牛のブランド化に 力を入れていました。備作種の和牛の美味しい肉質に 注目し、外来種との交配を 試みる者がおり、恐らく備作種を 種牛として 借りたのでしょう。買い取るよりも、借りる方が 安かったからです。

okayama.lin.gr.jp/tosyo/history/2-2-2-32.htm