藤沢城 腹切り八幡 本堂の策略 常光寺合戦 常光寺合戦異聞 二十七人南無阿弥陀仏 姫屋敷

田土 藤沢城の歴史的伝説 Historical tradition of Tado-Hujisawajyou castle

藤沢城に 関する伝説は 色々あって、統一的で ありません。上加茂付近では 何度か 毛利軍と、伊賀久隆軍 が戦っていると思われますが、それ等の戦いが 混同して伝えられていると 考えます。

藤陽伝・伊賀氏と虎倉城記・虎倉城麾下(きか)であったろう諸城(2)に「藤沢氏の旧記によれば、相模国藤沢の住人、俵藤太秀郷の後裔 藤沢太郎信恒は 関東で 源頼朝の挙兵に 戦功をたて、その子の藤沢左馬進頼兼は 頼朝の命により 平家討伐のため、備前加茂庄に 至り 藤沢城を 築いたとされます。大永初年(1521年)毛利氏が まだ台頭しなかった頃、伊賀伊勢守勝隆は 隠居し 昌信と号し この城 藤沢城に籠った事があると  云われています。虎倉城の備中方面への防備強化として、伊賀河内守の 弟 伊賀出雲守光昌は備 中に進出し大原城を築き、虎倉方は 加えて湯山城 小谷城 大畑城 藤沢城等幾重にも 城塞を築き、神原氏 仁熊氏 等の一族を 置き、又 伊勢守自身も 藤沢に入り 備えを固める等重要な要地でした」と 記載されています。kibi2011.blog81.fc2.com/blog-category-6.html

応仁(1467~1469年)から明応中期(1469~1480年頃)赤松家と  毛利家が 争う頃 伊賀氏は 毛利家麾下にあり、赤松上総介政村 が松山城衣笠長門守村氏を 攻めた時、加茂総社(現在の総社では在りません。高祖山に在った素社の後身)の神田を赤松家が 奪い、惣社の建物を 幣殿Heidenまでも 壊し、藤沢城の建築資材に 充てたとされます。「 加茂川町の遺跡:国只誠、笹田宏一、能勢康幸」

天正8年4月の毛利氏伊賀氏の上加茂合戦の折り、中央方面隊の毛利方大将の 粟屋与十郎が 城を一時 牛耳りました。毛利軍が 加茂崩れの後の敗走中は 桂源右衛門が しんがり隊として護りましたが、同年頃 将軍義昭の仲介で 毛利氏と 宇喜多氏伊賀氏は 和解し、藤沢城も 竹之庄も 虎倉城 伊賀久隆の傘下に戻りました。

永禄2年(1559年)9月 備前国の沼城の 浮田和泉守直家は 備中国の毛利輝元の幕下Bakkaに ありました。毛利輝元が 九州へ出陣(永禄2年:1559年)した留守に 備前の虎倉城Kokura-jyou主 伊賀久隆を大将にして 菅野城城主である 土師兵部尉道継(土師作兵衛)に 竹ノ庄 吉川村 中津井村 等を 侵略し、稲を刈り 掠め盗り(乱取刈田 刈田狼藉ました(多分、永禄10年:1567年)備前方(虎倉方)の悪行を 止めるために 毛利方は、備中備前の境の藤澤に 城を築き 砦(とし、中島加賀守を 城主としました。その部下として 毛利勢は 中島世兵衛 中島與介 野山清右衛門 荻野源左衛門 小寺石衛門 小倉四朗兵衛 中村掃部 高橋善七 福光九兵衛等150騎、芸州(安芸国:広島)からの加勢に 井上源左衛門 児玉與七郎 轉藤右衛門等100騎他、合計3000余騎が 城に籠もりました。伊賀左衛門久隆の手勢の川田又左衛門守帯刀 伊賀與次兵衛 片山弥左衛門籠置が 度々藤沢城を 攻めましたが 取り返せませんでした。。毛利方の三村元祐 石川左衛門 中島加賀守 野山宮内少輔は 虎倉方の靸田城Tudumida-jyou 鼓田城)の構えを 良く攻めましたが、虎倉方の片山弥左衛門 河田又左衛門 河原源左衛門の護りは 堅く 防戦に 成功しました。備中(毛利)勢は 虎倉城に迫り 尾崎に 構えれば、虎倉勢は 険しい森に 隠れ、300騎が 峰から谷筋に 協調宜しく 鬨Tokiの声を挙げ、鑓先Yarisakiを揃えsoroeて 突きかかりました。備中勢で 真っ先に進んだのは 中島世兵衛 小寺石衛門 芋上源左衛門 児玉與七郎だったのですが 討た)れ、三浦兵庫 山田小太郎は 手負いし、雑兵は780騎許りBakariが 討ち死にしました。中島加賀守 渡邊石見守 宍戸善左衛門ら1500余騎が 掛け合い、真っ向勝負を挑み 攻めかかりますが、伊賀方が100余騎で 打ち掛かると 毛利方の残兵は 山の尾根へ引き上げました。伊賀左衛門久隆は 自ら城より 川邊Kawabeやうす谷(ナカ村:臼井谷)、かわや谷(関谷・せきたにあるいは三宅谷:上加茂)で 戦いました。伊賀の家来の片山與七郎 土井惣馬 河原四兵衛は 弓で多数の敵を 射ち落としました。萩坂(Hahisakaでは 土井惣馬を 中島弥兵衛が 討ち取り、首を 毛利輝元に 差し出しました。中島加賀守が単独で西方の尾崎から攻め靸田城を攻め取り城中に火花を散らすと、伊賀勢は 虎倉城に 逃げ込みました。毛利に 従う上山兵庫 鳥越左兵衛 根矢與四朗の200か300騎を 援軍に送ったので、靸田城主は 捕虜になり近郷に 監禁され 仕置きされました。「中国兵乱記」

永禄10年(1567年)8月中頃、宇喜多直家は 毛利軍が 九州の陣に 赴いた隙に 乗じ、弟の宇喜多忠家を 大将にして 5300余騎を 備中に侵入しました。毛利勢は 竹ノ庄の工藤の知らせによって、植木秀長等は 兵士を率いて 馳せ参じました。これに浮田(宇喜多)勢は 不利に転じると、浮田直家は 自ら出陣して 戦かうと、浮田に 詮なく 毛利勢は 降参しました。この時藤沢城も 浮田勢に 取られました。天正2年(1574年)春の末 毛利輝元 小早川隆景は 備中に出陣して 宇喜多直家の領地を侵略し、更に 備前を 標的にしました。備中竹ノ庄に 陣取って、藤澤城 福山城に やって来て、宇喜多勢に 味方する近くの城主達を 追い落とし上加茂合戦鼓田合戦n)等:虎倉合戦)、更に 員数を 加え 備前国、虎倉の近辺まで 焼き尽くしました。伊賀左衛門久隆は 虎倉城に立て籠もり、毛利勢が 攻め掛かると 反撃しました。天正8年(1580年)4月13日に 毛利方の馬廻りの武士の 児玉小次郎元兼 粟屋與十郎 神田宗四朗らを 大将に 立て 大軍で 藤沢城に 攻め上りましたが、城にも 近郷にも 人は1人も 居ませんでした。夜が ほのぼのと明ける頃、虎倉城に 押し寄せるべく 藤澤城に集結し、気勢をつけ 大軍を上加茂に送りました。上加茂に 向かう途中にも 人はいませんでした。虎倉城勢は 上加茂に 待機していたので、近くの峰筋に 弓鉄砲300丁を 物陰に 潜ませましたが、依然静まり返って 敵襲は 一向にありませんでした。毛利勢が 自信満々、慢心した頃合いに 伊賀勢は 城から打って出て、切り掛りました。毛利勢は1度に 崩れ逃げ惑ったので、粟屋與十郎は 備えを立て直そう と引き返して 応戦しました。そこを 伊賀の家来の片山與七郎は 川越えに 鉄砲で 撃ち 粟屋與十郎を 落とし、片山の仲間の者が 川に入り 波を越えて来て その首を刎ねました。大田垣(太田垣源衛門)も 続いて討ち死にし、2人もの大将が 討ち死にしたので 残党は 気を落とし 逃げて 行きました。伊賀勢は 隙間がない程の大勢で 追いかけて 騎兵を 打倒しました。

名護屋與十郎 井上源左衛門 小寺石衛門 轉藤右衛門 等は 上加茂の うすい谷(臼井谷)で 力を合わせて 戦いますが、皆、討ち死にしました。神田宗四朗は4か所に 傷を受け、あわや 討たれるかと 思われましたが、粟屋孫次郎が 馬で駆け付け 抱き上げ 馬に乗せ、粟屋は 歩いて退却しました。児谷(児玉)小次郎元兼なる兵は 追い来る敵 を打ち払い打ち払い 引き上げて行く時 大変多くの傷を負ったのですが、事ともせず 小高い所に 馬で駆け上り 大きな声で 名乗りを上げ、敵味方の注意を 集め「引け  引け」と 仲間を鼓舞しました。熊谷玄蕃 岡宗右衛門は 歩いて、弓の名手の井上七郎兵衛は 弓で 敵を威嚇し 追い払い追い払いして 児玉の加勢をしました。ここ で戦いますが、100騎程に なった所で おき坂(荻坂:下加茂から備中へ下る坂:加茂市場より長丸・上る坂:萩坂が現在の名)まで 引き返えそうとすると、まだ この集団に 加わりたい者が 取り残されていたので、三沢摂津守とその部下の野尻蔵人は 取って返し暫くsibaraku抗戦し 救い出し、毛利勢は 退却に成功しました。毛利軍が 兵を整え 直し反撃する所へ、土井某(なにがし:土井の何とかという名の物 土井三郎右衛門が 馬に乗って 友軍の制止 を振り切り 敵陣に 駆け入りました。河原六郎左衛門は 土井を見知っていたので、駆けより 切り合い 討ち取りました。河原六郎左衛門は かつて伊賀氏の家来で あったのですが、何らかの理由があって 伊賀勢から 追い出され毛利家に 仕えていたのです。この戦いでは 備前の地の案内役として 選ばれていましたので この大敗 を恥じて 落胆し、騎乗せ ず戦っていましたが、図ずも 土井に 出会い 討ち取った事で やっと汚名を 拭いnugui去れました。この傍Sobaに 毛利方の山縣三郎部兵衛 もいました。山縣は 粟屋與十郎と断金(切ることのできない友情)の契りを 結んでいて「死ぬる時は 一緒に死のう」と 約束していましたが、敵によって 押し隔てられていたからです。福山まで 退却した時「粟屋が 虎倉の城下で 殺された」と 聞いて「粟屋の死を知らないで 退却し、生き残る事は 出来ない 黄泉Yomiで 巡り合って 申し開きしたい」と 直ち に唯一人で 虎倉の城下に 攻め込みました。大声で「山縣三郎兵衛 ここにあり 我は大剛(たいごう)なものなり 思う仔細(しさい)あり ここで 討ち死にしたく 参り越した  勇気ある者は 出会いたまえ」と 名乗りを 上げました。それを 聞いて、城内から「あの剛の者を 討ち取りたし」と 名乗り出る者が 10騎も 打ち出て来て 戦いました。元より山縣は 死を覚悟していましたので、散々に 戦いついに 討ち死にしました。この日、毛利勢の闘死した者は 130余人で、手負いした者は 数知れませんでした。虎倉方で 討ち死にしたのは、土井某(馬が暴走して討ち取られた者)だけで 他にいませんでした。伊賀左衛門久隆は 大いに喜び、岡山城に注進すると、宇喜多直家も 大いに褒めて 加勢を加えると 約束しました。

毛利輝元は 軍議を開き、この陣藤沢城福山城か不明:宇甘川が 敵の侵入を阻むとすれば 福山城でしょう  藤沢城は 備中賀陽寄りで 勝山城は 更に遠くにあります)は 敵地に食い込んでいる他、渡り辛い川に 阻まれ 進軍に 不便で有るとして、離れた地の勝山に 城を 築きく 事にしました。桂源左衛門 赤川二郎左衛門 岡宗左衛門 並びに 三村家家臣の竹井宗左衛門 等を集め 勝山城を 守らせ、毛利輝元 毛利隆景は 松山城に 帰って行きました。「上房郡史」

加茂市場の藤澤の山は 虎倉側が 牛耳っていましたが、芸州 藤澤城を乗っ取り、青屋與十郎(粟屋與十郎)が 城主としてやって来ました。その後、領内(竹庄 竹荘 田土)の生産物は、藤澤城 と 虎倉城とで 半分ずつ分け合う事が 合意されました。鷹城を 浦上宗景が 攻めた折、虎倉城の者は 後陣の控えHikaeとして 出征しました。その留守に 約束を破り 藤澤城より 虎倉城へ不意打ちを 仕掛けました。留守を預かる者は 城内の妻子 下女 端の者まで 呼び寄せ、旗刺物(旗指物)を 指さsasaせ、数百人が 城山の後の広面と 上加茂の間で 陣を張り構えました。藤澤城の者は、この挙動は 予想外の出来事でしたので、上加茂の坂の上より 下り 軍議を 開きました。その時 虎倉勢で 役立ちそうな者は 下加茂へ廻って来て、上加茂の後ろの10ヶ村の山の高みへ 登りました。その中の 片山彌左衛門(この時は與左衛門と名乗る)は 鉄砲の名手で あったので、柳の陰に 隠れていて敵の大将の 青屋與十郎を 狙い撃ちし 撃ち落としました。片山の後ろで 構えていた者達が、ヒタヒタと 攻め掛かると、敗軍は 方々へ 逃げ惑いました。逃げる者を 追いかけ、その中 に土井三郎左衛門は 唯ひとり深追いして 討ち死にしました。大将の青屋與十郎の他大勢が 討ち死にしたので、藤澤城 に残っていた者は 芸州に 退きました。「下土井の庄屋の土井六郎兵衛の話「上房郡史」

備中と 備前の境に 藤沢城が有ります。その城 に毛利輝元がやって来ました。伊賀久隆の家来の河原六郎右衛門は 勘当され浪人をしていて、毛利輝元は 彼を居候させていましたので、備前の地の案内役 に仕立てました。藤沢城か ら華やか に拵えてKosiraete「虎倉城の実力を 見てやろう」位の気持ちで、上加茂まで 進軍しました。虎倉方は 足軽が 集まり 加茂川越しに鉄砲で 応戦し、毛利方の青屋與十郎と 言う巧妙高い侍が 加茂村の片山與七郎(後の彌左衛門)の鉄砲で 川越しに 狙撃され 首を取られました。その時 加茂村の 葛原Kuzuharaも 手柄を立てました。その後 散々に追い詰め、うす谷(臼井谷) かや谷(かはや谷:関谷谷または三宅谷)で 多くの兵が 討ち取られました。中おぎ坂(中荻坂:萩坂の中頃)に 追い詰めた者の中の加茂の侍の土井と言う者の馬は 悪癖があり 暴走し、河原六郎右衛門が 寺(下高下・しもこげ荒神社) にいて 土井を 討ち取りました。土井方では 彼の他に討たれた者が いませんでした。毛利輝元は 陣を引き払いました。「虎倉物語 又兵衛の書」「上房郡史」

備中国小倉城(備前国虎倉城の旧名)を 攻めに 毛利輝元 毛利隆景小早川隆景が 芸州の沼田城を 出立し、小倉城の前線として 多氣庄Taki-no-syou(竹荘・恐らく貞徳寺跡)に 陣を移しました(恐らく天正8年 天正2年の備中兵乱の時には妙本寺野山寺に本陣を構えました)。すると 福山城(御津郡福山村)の敵兵は かねてからの計画通 り退散して おりました(恐らく天正8年)。毛利軍は 乗っ取った福山城の塀を 修理し 軍兵を 配備するために、有漢より 福山城に 入りました。この噂を聞いて 一揆(抵抗者の集団:心を一つにする集団)も 原(郷人)も 家や 財産を捨てて、小倉城の麓に集まっていました。天正8年4月13日、毛利方の馬廻りの衆の 児玉小四郎元兼 粟屋與十郎 神田宗四朗を 宗徒(命令に従う者:命を受けた大将)として 夜中に 一揆の者 と原を薙ぎnagi倒そうとしたましが、近里にも近郷にも 人は居ず、人に会う迄 進軍しようと 駆り立てられる気持ちに 任せて3里程道を走り 夜遅明け(夜が明ける頃)に 小倉の尾崎に辿り着きました。城内側の者は 準備万端、構えていた 弓鉄砲300挺Tyou余りを揃えsoroeた兵が 峰々や 谷々に 駆け廻り 一斉に射ち立て 射ち立てしました。寄せての足並みは 取次Sidoroに なって 退色濃いと 見るや、粟屋與十郎は 馬で駆けより 見方を鼓舞し 乱れた備えを 立て直そうとしましたが、混乱していて 整えられませんでした。しかし  有功Ukou(功績をあげた)な兵士で あったので 怯む(Hirumu事なく 駆け巡り下知Geti(命令)しますが、雨の脚(雨霰・あめあられ)のように降る矢に 正中Seityuu(体の縦方向の真ん中)を 射抜かれて 落馬し死にました。これをみて 太田垣の某太田垣源衛門が 走り懸り、これも また討ち死しました。一備Hitosoroeの大将 が討たれた上、地理に 不案内で 更に 夜中予定外に 山野を走り続けた疲労 が甚だしく 力が出せずに 退きました。勝ちに乗じた小倉勢は 追いに追い 射掛けると 死傷者が多く出て 堪らず毛利勢が 引き下がりかけると、毛利勢の中の者の児玉與四朗 名護屋與十郎 土井源右衛門 小寺右衛門尉 轉藤右衛門 等が所々にて 反撃して 戦い討ち死にしました。神田宗四朗が 4か所も 手負いしたのを 見て、粟屋孫次郎は 自分の馬に 抱き乗せ 自らは 歩いて退いたので その勇猛ぶりに 毛利輝元は大変感謝 し讃えました児玉小次郎元兼が取って返 し闘い、傷を数か所蒙っkoumutuたのですが、父の勇猛さに 負けず劣らず、小高い所 に走り上り 名乗りを上げ 挑むと、扣hikaえるのを見て 退いていた毛利勢は 1か所 に数百人 駆け集まって来ました。小倉勢は この威勢に 戸惑い(尻込みしました。児玉と共 に離れず 戦ってきた熊谷玄蕃と 引き返して来た井上七郎兵衛は 大弓に 大矢を番え 数人を 打ち伏せると、岡宗左衛門も 高い所に 馬を乗り上げ 退却を味方に下知し味方を退却させました。猶もnaomo小倉勢が縋りsugari付いてくるので、三澤摂津守と家来の野尻藏人が 取って返し、暫支えて戦う間に、味方は 遼に 落ち延びました。http://kinpukrin.blog.fc2.com/blog-entry-424.html その中で 河原六郎右衛門 は反転し、敵の一人を 馬上より 突き落とし首 を掻き切って差し上げた様は 厳めikaameしい 挙動でありました」。毛利方の山縣三郎兵衛は 粟屋與十郎と朋友Houyuuの契りを 結んでいました。敵に よって二人 は押し隔たらされていましたが、福山城まで 引き返した時、傍)にいた何者かが「山縣よ  粟屋が 討たれたのを 知らないのか」と 尋ねました。山縣は「さては與十郎、討ち死にしたか  死ぬ時は 一緒と 約束を 交わした」と して、直ぐに 小倉城の麓へ 押し寄せて、唯1人、坂の中腹辺り に攻め上がり「山縣三郎兵衛と言う大剛の者なり  思う仔細Sisaiありて 討ち死にせんと ここまで 来りけり 出会い 給え」と 名乗りました。小倉勢は これを聞いて「あっぱれ 大剛の者なり  吾Ware打ち取って 名を挙げん」と 20~30人が 打って出ると、山縣は「元より生きて帰ろう」等と 思ってもいないので、駆けより 散々に戦い ついに そこで討たれてしまいました。 http://kinpukrin.blog.fc2.com/blog-entry-424.html」 この日、毛利勢の討たれた者は 雑兵を 含め130余人でした。毛利輝元の朝臣(朝廷に仕える臣下)は「味方が 深入りした」と 聞き及んで 危険を感じ取り、本陣を50余町、黒土まで 押し戻しました。小倉方も これを聞いたのですが、長追いするのを止めて 福山城辺りまで 帰りました。福山城は 小倉方 に付き出している山であり、こちらからすれば 渡り場に 適した所がなく、川を隔てていたので 便が悪い として 勝山に 城を築き、5月3日 桂源右衛門 赤川次郎左衛門 岡宗左衛門、更に、三村の家人の竹井宗左衛門(当時、竹氣庄竹井村の領主)等を 相副Aizoeに つけて立て 籠らせました。同5日、毛利輝元 毛利隆景は松山城に帰って行きました。「陰徳太平記]

http://kinpukrin.blog.fc2.com/blog-entry-424.html

備中備前の境 藤澤と言う山に 芸州から 毛利勢が 城を築き葛原宮内少輔野山宮内少輔 青屋與十郎を 大将にして10000人許Bakariが 城を守っていました。虎倉城から 両者が 睨み合っていましたが、天正8年4月14日の暁に 毛利勢が 出陣し、清常山の城に 陣取りました。伊賀左衛門久隆も 虎倉城を2丁程 出張しました。先備えSakixzonaeは敵陣(清常山城)に 向かう山(陣山番神山蕃神山野山nosanに 土井治郎兵衛3000余騎(人) 弐構えNi-no-kamaeは 上加茂村の八幡山に 新山兵庫1300予騎 右の構えは 穢多村に 河原越中1500騎 河原備中1200騎は 旗本を務め、久隆の後ろ備えは下Simoに引いて 川田平内 に350騎 萩坂には 河原六郎右衛門当時六郎右衛門は毛利方に付いていました  河原源左衛門との間違 あるいは 同名の者)3600余騎 上野の構えは 備中との境に 勝田孫右衛門2000騎 宿村の構えは 河原源左衛門と 土井治郎右衛門と 川田七郎 等3600騎 惣軍(総軍)の弱点を補う遊軍は 贅田源次と 杉本四朗左衛門と 坂部内蔵500騎が 配置されました。右の軍は 作戦を守り 敵を谷に追い落とし、移動の難所に 引き付け 取り囲んで 攻め落とそうと 相談し、味方は 夜の内に 城より出て道のりの半分近くまで 下って来ました。翌日15日の朝は 思いの他 霧が深く敵も 味方も どれ位の人数がいるのか も解らない程でした。先備えの片山與七郎は 鉄砲 を摶ちUti出し、葛原三之丞は 弓を持ち 藪景Yabukageに 忍び寄り、敵を 待っていました。青屋與十郎が 采配を振って軍勢に 下知し、川の端に 踏み込んで 留まっていた所を 葛原三之丞が 胸を射抜き 首を取りました。これを見て 虎倉勢 は勢いを得るばかりで、毛利勢は 怖気ojike付いte

で 1戦も交えず 引き上げました。1里程追い討ちし、侍の首130人、雑兵の首230人を 討ち取りました。伊賀久隆は 大いに喜んで、晩方には 虎倉城に帰りました。その後 藤沢城から 侵略の手を 伸ばす事は 有りませんでした。この時に手柄を立てた者 は多くいました。「虎倉物語」  神原右京は 藤沢城の近辺ま で入り込み、敵と撃ち合いになり、首を取り 手柄を立て、感謝されました。「虎倉物語」  藤沢城の近辺で 片山與七郎 と仁熊勘兵衛とが 首の取り合いをしました。清常山の岸 で片山與七郎が 敵と組合になっていた時、仁熊勘兵衛が 通りかかったの で助勢を 頼みました。仁熊勘兵衛は 弓で 射ち殺して 首を刎ねようとしましたが、與七郎は「自分が組倒し、仁熊殿に 助勢をお願いしたのだ だから 仁熊殿に 首を渡す訳には いかない」 と主張しました。私闘になり掛かった時、運よくそこへ 神原右衛門が 通り掛かり 仔細を尋ねて「侍が 助勢を願うと言うからには、主導権は 片山殿にある事になる  仁熊勘兵衛殿は堪忍すべきである」と 問題を解決し、片山與七郎が 首を取りました。「虎倉物

毛利軍が天正7年(1579年)に藤沢城入城した。「上加茂原の村人のより口伝」

藤澤:田土2955-2958番地 出口:田土2996・3003番地 ココ路:田土2877番地 田土3104・3461番地等 木戸の城山・船山城:下土井大上621番地の西 北緯34度52分58秒東経133度45分45秒 加茂市場藤澤城・狸ヶ城:下土井幸元701番地の西の山 北緯34度52分2秒東経133度45分6秒    加茂総社:現在の総社では在りません。高祖山Takazou-yamaに在った素Soijysa/Sojyaの後身です。場所は確定できませんが、それと思われる目を引く平坦地は北緯34度51分14秒東経133度45分45秒です。    靸田城・鼓田城:御津本陣山 北緯34度47分35秒東経133度49分37秒    ウス谷・臼井谷:北緯34度50分2秒東経133度47分32秒付近    カハヤ谷・関谷:北緯34度50分28秒東経133度48分9秒付近    萩坂・荻坂:加茂市場 大高下等の坂で 北緯34度51分31秒・東経133度45分55秒 長丸口に通じます。    杉山城:浅口市鴨方町大字小坂東 北緯34度33分41秒・東経133度34℉34分    岡山城:北区丸の内 北緯34度39分57秒・東経133度56分10秒    鷹城:東広島市河内町戸野 北緯34度30分55秒・東経132度47分39秒 安芸沼田城:東広島市志和町七条椛坂 北緯34度28分5秒・東経 132度38分15秒 勝山城:下土井山端1632-1番地の北の丘 北緯34度52分40秒・東経133度15分40秒    清経山:上加茂 北緯34度51分1秒・東経133度47分56秒    白坂:下加茂田中2046番地宗林寺 北緯34度51分32秒東経133度48分51秒東の約480m ふれあい荘 北緯34度51分28秒東経133度49分6秒の南から 広面日和2977番 北緯34度50分2127秒東経133度48分49.71秒や 広面キブ子3428番地 北緯34度50分28秒東経133度49分22秒に 至る山道 城坂:加茂市場2039・2201番地等 虎倉尾崎:調査中です。地名ではなく 虎倉の端の方の意味で 伊賀端igahaと俗に呼ばれている 三宅坂の山の上でしょう。 荻坂:高谷613-624・641-689・693-695番地 福山城:加茂市場 北緯34度51分49秒東経133度46分5秒    八幡山:上加茂原 北緯34度51分15秒東経133度48分28秒で八幡神社が祀られます。    八幡鼻:上加茂61番地 陣山・番神山・野山・のさん:広面・上加茂 北緯34度50分28秒東経133度49分16秒 陣山:上加茂2875番地 穢多村:調査中 八幡山の布陣の後に示され 右の構えとあるので 下加茂保木 あるいは 真瀬良辺りかも 知れません。穢多村の存在地 は地図 に残されませんでした。 平成24年(2012年)11月28日

 

小森 腹切り八幡 Hatiman's harakiri "cutting open the abdomen"

小森二川の川の中に 腹切り岩があると 言われます。小森城山に 城があった頃、伊賀修理が 敵に 囲まれた折り、八幡太郎が 山に 畳を敷いて 滑り降り、小森川の川中にある腹切り岩の上で  切腹したと 伝えられています。切腹した辺りを 八幡淵と 言います。「加茂川町史」 茂川町史に 記載のある腹切り岩は あるにはありますが、小さい岩で 洪水でもあれば 流されそうな大きさで、実際に 昨年の嵐で 少し位置を 変えました。腹切り岩は 小森城山の頂上付近の小森川側にあり、山肌に 突き刺さるような 上方面が 平らな巨岩です。この石の上で  船型に加工した畳を 敷き 八幡が 切腹し、その後 誤って 山肌を 麓迄 滑り落ちましたました。滑り落ちた所に 仮の墓を立て 後に 切腹岩の近くに 祠を建てました。この戦いで 名はわからないのですが、馬上の武士が 岩に 躓き落馬し 討ち取られたと 言い伝えられています。此れとは 別の話ですが、かつて 八幡淵の辺りで、諍いIsakai事が あり 数人の死人が 出たと言われます。「元伊賀十三流の子孫の小森双六の村人より口伝」

 森清山に登ってみると 古老の言う形の大岩と 八幡の墓があり、その真下の畑跡に 古老の言う形の八幡の仮の墓が 見つかり、小森温泉前の駐車場に 馬が躓いたという岩も 桜の木を添えて 半分ほど 埋もれていました。天正8年(1580年)上加茂合戦では 小森城は 戦わずに毛利軍明け渡し 焼き払われたと 伝えられます。それ故 その時全ての古文書等の歴史的資料は 悉く失われたそうです。「小森二川の村人のより口伝」 川の中で 腹を切ったのであるなら、城主の命乞い等を 敵の大将にお願いしようとしたのでしょう。お城で 腹を切ったのであるなら、何か 大失敗して 責任を取ったか、城主の無血開城の命令に 抗議するために切腹したのでしょう。

 昔 小森城は 織田信長と 同盟した岡山城宇喜多直家の家老の 虎倉城の伊賀久隆の支配下にありました。城主は 伊賀修理でした。その配下に忠節で心高い部下に八幡太郎Hatiman-tarouと言う侍が いました。天正8年の春に 宇喜多直家に 裏切られ 怒った毛利輝元は 凡そ30000の兵で 虎倉城に 向かって進軍をしていました。八幡は 敵兵の斥候が現れると 察知し、城山の麓を 警備していました。すると案の定 敵の斥候が 八幡渕に 潜んでいるのを発見し八幡の率いる兵が 襲うと敵は 逃げました。すかさず 斥候を警護していた敵の騎兵軍が 攻めかかると 八幡配下の者は 蹴散らされました。八幡は 部下を守るために 敵兵群に切り込み八幡大菩薩を 彷彿させるように 鬼神の如く敵兵を 次々に 追い払うと、敵将の騎兵は 部下を守るために 大岩 を飛び越え 八幡に 挑もうとしました

しかし 焦りのあった敵将は 馬術の心得を過信し 大岩に 馬の脚を取られ 馬が転倒しました。その勢いは凄まじかったので 勇猛で 鍛え抜かれた その武士の首の筋肉であっても 重い兜を 支え切れず 不幸にも兜ごと 頭を地面に 叩き付けられました。一瞬 眼が晦んだ隙に 八幡は 敵将を 組み伏せ、必死に 抵抗する敵将の首を 搔き切りました。敵将の首を持って修理に戦況を報告し、籠城し 徹底抗戦し 毛利軍が虎倉に向かうのを阻止すべきと 進言しましたが、修理は 意外にも無血開城し 虎倉城に 篭もると 言ったのです。八幡は現実に 成功した戦術を 示し 再び抗議しますが、修理は 虎倉城の城主 伊賀久隆の命令には 逆らえないと 言うのです。八幡は この作戦に 納得できず、櫓の前の大岩に 船型に 加工した畳を敷いて 切腹し 城主の意向に抗議しました。切を切って 目が眩む と重心を失って 畳の船は 大岩から 山肌に落ち、敵軍の襲来に 備え 樹木を切り 見晴らしを 良くしてあった急峻な山肌を 辷りSuberi落ちて行きました。それでも 八幡の願いは 叶わず、修理軍は 城の者 里の者を 引き連れ、武器や 食料となりえる物 全てを携え 虎倉に向かいました。久隆の作戦は 図星を得て、農兵中心のおよそ15000の虎倉勢の兵は 毛利の大軍に 大勝利しました。そして  戦いが終わると 村人達は、優しく 面倒見の良い八幡の無念を思い 八幡を悼み、俄造の墓を立て、後に 焼け落ちた城山を 整地し 腹切り岩の近くに 墓を移し 葬りました。それからは 村人は 燈明を 絶やす事なく、また毎年正月には打ち揃って参りするようになり、その習慣は 現在も 続いています。「加茂川町史」「元伊賀十三流の子孫の小森双六の村人より口伝」「小森二川の村人のより口伝」「上加茂合戦」を 基にした物語です。

小森城山頂上:北緯34度54分5秒・東経133度47分57秒    腹切り岩:北緯34度54分59秒・東経133度48分0秒    八幡の墓:北緯34度54分59秒・東経133度47分59秒    八幡の仮の墓:北緯34度54分59秒・東経133度48分3秒近く    馬の躓き岩:北緯34度55分2秒・東経133度48分1秒近く    八幡淵:北緯34度55分6秒・東経133度47分56秒付近    加茂川町史で言う腹切り岩:北緯34度55分6秒・東経133度47分54秒    八幡大菩薩:武神 神道の応神天皇 八幡神社の主祭神の本地仏 平成23年(2011年)7月19日

 

竹部 本堂の策略  trick at Hondou in Kamigamogassen battle

天正8年(1580年)4月  毛利尖鋭軍 約3万余が 妙本寺や 竹荘の陣屋を 引き払い 藤沢城へ移り、虎倉城に 総攻撃する動きを 見せました。迎え撃つ 虎倉方は 百姓を交えた 俄かNiwaka軍 およそ 1万6千で、一気に 踏む潰される状況でした。虎倉城は 主家 宇喜多直家の援軍が期待されないと 判断した 伊賀久隆は 領内の全ての小城も 民家も 捨て 兵も 住民も 虎倉に移し、点在する小城を 無血開城する事で  虎倉軍の戦意は 低いと 思わせ、慢心し 油断し 密集した毛利軍に ゲリラ戦を 挑もうと 計画しました 。この作戦に 住民は反対する者は無く、続々と  虎倉に集まりました。すると4月13日に 毛利軍は 藤沢城を発ち 下加茂から虎倉に兵を 進めようとしましたが、大変な 霧に惑わされ 上加茂 に出てしまい、止む無く 清経山に陣を 張りました。霧により制限された視野の中、地の利の無い毛利軍は 加茂崩れと言う大敗をし、下土井勝山に 城を 築き 安芸国に 帰る準備をしました。「上加茂原の村人のより口伝」「賀陽町史追補版」  この上加茂合戦の直前 伊賀久隆は 何かの理由があって 夜遅くなり、虎倉に 帰れなくなりました。止む無く 清経の農家2軒に 頼み、宿を乞うと 農家は 快く宿泊させてくれました。この農家を「借り屋」と 呼びました。又 仮屋と も 呼び、鴨神社が 大明神屋敷から 麓に下ろされた時の 仮の社を 祀った所ともされます。「竹部坂元付近の村人もより口伝」  伊賀一族は 長田庄の地頭(荘園の管理の役職)として 赴任してきました。戦国時代に入り 荘園と 豪族の対立が 生まれると、伊賀久隆は 神社 寺院を 保護し、民衆の心を掴み(つかみ)ました kibi2011.blog81.fc2.com/」「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-category-2.html」「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-94.html」「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-category-1.html」「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-5.html

 上加茂合戦の折り、法華宗の寺院の重友山法福寺本堂を 焼き 虎倉軍の本隊が 竹部に 居るように見せかけ、毛利軍を 惑わせる事に 成功し 毛利軍の加茂崩れの要因となりました。

焼け跡の輪塔 宝篋印塔等は 竹部の人達が 持ち帰り それぞれに 祀りました。寺院の有った辺りの小字名は 本堂です。

現在、法福寺は上野に移っています。「竹部坂元の村人のより口伝」

天正8年(1580年)4月 毛利軍約3万が 竹荘の陣屋を 引き払い、粟屋与十郎の守る 藤沢城へ移り 虎倉城に 今にも 総攻撃する動きを 見せました。迎え撃つ虎倉方は、大方は 農民兵およそ1万6千余で、一気に 踏む潰される状況でした。真っ向勝負では とても勝ち目がないのは 必定 領内の全ての小城も 民家も 捨て 兵も 住民も 虎倉に 移しました。この作戦に 住民は反対する者は 無く、続々と 虎倉に集まり始めました。4月11日天候は 雨で、時期に 似合わず 寒い日でした。農民達の不安が 気がかりで、伊賀久隆が 陣中を見回っている時、農兵達は 日頃の経験から「この分じゃぁ 数日は 物凄ぇMongee霧じゃ 朝方ぁ一寸先も 見えまいと話しているのを 聞きました。久隆は 日頃から神社 寺院の保護に 努めていたので、竹部に 復興させねばなるまいと 思っていた 荒れ果てた古寺が 有る事を 思い出しました。恐らく 数日中に 毛利軍が 藤沢城から 下加茂に向け 進軍を 開始するであろうとの斥侯Sekkouの報告を 受けると、急いで 毛利軍が引き払った 竹部に向い 鳴滝 鬼突Onituki坂元 等の法福寺の旧檀家を 集め「法福寺を 焼いて大騒ぎし、我が軍の本隊が 竹部に有ると 見せかけたい」と、依頼しました。村の者は 信心深い久隆の この信じ難い言葉に 大いに 驚き 反対しました。両者の話し合いは 夜近くまで続き「戦後 必ずや 復興する」と 久隆が 熱く語ると、以前より久隆に 絶対的な 信頼を持っていた住民は 納得し、燃やせる物は 何でも本堂の丘に 集め 虎倉からの指図を 待つ事にしました。急ぎ 虎倉に帰る久隆でしたが、立ち込める霧の中を 夜の山道を 進む訳には ゆかず、清経に差し掛かった時 止む無く農家に一夜の宿を 頼みました。頼られた栄光に 鴨神社氏子衆は 大喜びし 2軒の農家を 紹介しました。久隆は「この2軒を 今後、借り屋と呼び 後々迄の名誉とし 必ずや礼をする」と 約束しました。霧の薄まる12日、虎倉に 付いた久隆は 明日は 濃い霧が立つ事を 祈っていました。毛利軍は 霧が治まりかけたので、13日に 藤沢城を発つ決心をしていました。13日 薄霧の早朝 福山城 十力城を攻め僅かの抵抗で落とし、破竹hatikuの勢いの初戦勝利に 機嫌を良くし、意気揚々と 本体が 出陣すると、間もなく 霧は深まり 進軍は儘amaならず、戸惑い 戸惑い進む事に なりました。かつて虎倉方の老中役であった 河原六郎右衛門は 訳合って毛利配下に加わり 毛利軍の道案 内役をしており それなりに 正しい道を 案内していましたが、突然西の空が 明らむと「虎倉方は 遥かharuka遠い西に 陣取っている そこは 虎倉から 最短距離にある 上加茂に 違いない  そうであれば わが軍は下加茂の遥か東を 進んでいる事になる  だとすれば、西に 進路を 変える必要があるだろう  現在の場所 を村人に尋ねよう」と 軍議をしました。しかし どの民家を 訪ねても 人っ子一人いず、斥侯も 霧に惑わされ 現在位置を 確認できませんでした。頼る情報は 夥しObitadasiiい数であろう篝火Kagaribiの西の空の明かりだけでしたので、西に 進路を 変えました。すると 岩井谷に 出てしまいました。清経山の城の虎倉方は 虎倉に移動しており 蛻Monukeの殻でしたので、毛利軍は これを占拠し 本陣としました。地の利を 生かした虎倉方の諜報員は この様子を、各地に 張り巡らした 狼煙台Norosidaiを 通じ 虎倉に 知らせました。虎倉方は 野山Nosaanに 集結し 三宅坂に 兵 村民総出で 出向き、あらん限りの篝火を 焚き あらん限りの幟Nobori を山々に立て 一斉に気勢の声を上げました。突然の 思いもよらぬ 大軍の出現でしたが、圧倒的な兵力に 驕りOgori 田舎侍の力は いかなるものか見てやろう」と 毛利軍の兵は、直ぐ最近の辛川崩れを 味わった事を 忘れ 攻めかかろうと 霧の川を 渡り始めました。久隆の案の定 霧の中での地の利を 巧みに生かした地元の者達に とって 毛利軍は 敵ではなく、毛利軍は 加茂崩れとなり 散り散りに 逃走し、常江田城 鍋谷城 等に 逃げ込み 籠もりました。「賀陽町史追補版」「竹部坂元付近の村人もより口伝」「伊賀久隆の信仰」「竹部坂元の村人のより口伝」を基にした物語です。

本堂: 北緯34度49分8秒東経秒 竹部130-132番地 藤沢城跡:田土二熊 北緯34度51分40秒東経133度44分57秒    竹荘陣屋:恐らく鶴首山貞徳寺跡 北緯34度52分3秒東経133度41分24秒でしょう。 仮屋・借家:伊賀久隆の仮の宿の他に もう一つの伝説が あります。鴨神社が 大明神屋敷から下ろされた時の 仮の祀り場と いうものです。 仮屋:上加茂861・875(北緯34度50分54秒東経133度48分15秒・876(北緯34度50分55秒東経133度48分15秒・902番地等 具足山妙本寺・野山寺:常入道1501番地 北緯34度48分34秒東経133度42分16秒付近 備中兵乱の時も毛利軍は 本陣を敷きました。    倉城:岡山市北区御津虎倉 北緯34度50分10秒東経133度50分4秒    清経山城跡:上加茂 北緯34度51分1秒東経133度47分56秒    勝山城跡:下土井山端1632-1番地の北の丘 北緯34度52分40秒東経133度15分40秒 加茂崩れ:上加茂合戦の結果を 言います。毛利軍は 死者多数を出す中、伊賀方の犠牲者は1名であったとされます。 辛川崩れ:毛利軍12000と宇 喜多軍との 辛川口での戦いの 毛利軍大敗北の事です。辛川崩れした毛利軍は 南下した後、竹荘に 陣を張っていた部隊に 合流し 上加茂合戦に向かいました。 上野の重友山法福寺:上野重友423番地 北緯34度50分50秒東経133度46分55秒 何妙法蓮華経天尊上・日蓮上人三百五十周年記念文化・十年の石碑と燈明搭・五輪塔:田内橋を渡った竹部道ノ内328番地の投打川添い 北緯34度49分45秒東経133度47分5秒 日蓮上人坐像・南無妙法蓮華経の題目石碑・三池宮氏子講中の石碑・大山道の道標:中橋の南 竹部田元1491番地34度49分5949分5133度47分2247分22秒 南無妙法蓮華経の題目石碑・燈明搭・地神: 乗木山妙福寺の道向い、北側の茂みの中 北緯34度50分7秒・東経133度47分41秒 2基の宝篋印塔と3基の5輪塔:竹部坂元2784番地を 眼下に 北西に曲がり 暫く登ると、前方に 墓場が見える地点 で山道を 右に進むと 別の小さい墓場が有ります。小さい墓場を 迂回して上った所 北緯34度49分47秒東経133度46分48秒        平成.25年(2014年)4月10日)

 

常光寺合戦 Battle at Jyoukoujijyou castle

伊賀久隆の家老の 鍋谷城主の河原六郎右衛門は 優秀な兵法者でした。それ故に 出世争いをする同僚の者達には 目の上のたんTankobuであったので、嫉みSonemiを 買いました。それで「毛利方に内通している」と 讒言Zangenする者があり、伊賀久隆は これを信じ 河原六郎右衛門を 討つ事にしました。河原六郎右衛門に「重要な用事が有るので、常光寺に来い」と 伝え、河田七郎に 接待させました。油断した 河原六郎右衛門主従20数人を、小阪 片山が 討ち取りました「加茂川町史」

伊賀久隆の家老 河原六郎左衛門直次は、有能な兵法者でした。河原氏と 出世争いをしていた土井氏や 片山氏は 命を懸けて 戦場を駆け巡っているのは自分達なのに、軍師ぶる河原だけが 重用される事に 不満を抱いていました。伊賀久隆と 宇喜多直家が 毛利氏方から 織田氏方に寝返ると、片山氏等は「河原六郎左衛門は 毛利氏の信頼が 厚過ぎる 毛利方のスパイである」と 伊賀久隆に 嘘の報告をしました。そこで久隆は「河原氏よ 日頃の働きに酬いMukuiたい  振る舞い事をするので 定光寺城に 出向いて来られぇ」と 河原六郎左衛門に伝え、河田七郎に 接待させました。片山等氏の動きを 察知していたので、用心しながらやって来た 河原六郎左衛門主従20数人でしたが、周囲は 静寂で 人気が全くいなかったので 油断してしまい、勧められるままに 美酒に酔い酔い痴れた頃合いに、宴会場の周囲に 掘られた穴から 突然に 小坂氏 土井氏 片山氏の兵士が飛び出し 河原主従を 滅多切りにしました。「豊岡上上光寺の村人のより口伝」 現在の豊岡上に大鶴山常光寺があり、その裏山に 定光寺城が聳えていました。 常光寺は 現在、存在しませんが かろうじて寺の跡を 偲ばせ五輪塔の跡と 壊れた上人墓があります。5輪塔跡は、北緯34度54分1秒・東経133度45分42秒です。   平成23年(2011年)7月7日

 

常光寺合戦異聞 Another story of Jyoukouji-Gassen

天文17年(1548年)の頃、尼子氏が 三浦氏滅ぼした時、伊賀久隆親子は 尼子氏に与し 久世の寺畠城を 攻めました。寺畠城城主 河原六郎右衛門と 久隆の軍略の掛け合いは 凄まじいものがあり 互いに 相手の能力を 褒め讃えながらの戦いでした。そして 寺畠城が 落城すると久隆は 類稀なる 六郎右衛門の能力を  惜しみ 説得し 味方に引き入れ、虎倉の家老職に 取り立て虎倉城(小倉城)方の北の要の砦 鍋谷城を 護らせました。永禄4年頃(1561年・元亀3年・1572年とする説も有ります)河原六郎右衛門が 野山宮内少輔益朝Noyama-kunaisyouyuu-Masutomoを 突然訪れ「主人の伊賀久隆が 下人の讒言Zangenを信じ、私を 討とうとしています  どうか匿ってください 備中へ亡命し 毛利家に尽くします」と 言うので、益朝は「元 敵であった美作の河原が 久隆に重用されているのでは、譜代の将に 妬みを持たれるのは 当然だ  懺悔されて当たり前である」と 思いました。益朝が 忖度Sontaku(相手の立場を思いやる)の姿勢を 示すと すかさず用意していた誓約書を 提出しました。それを受けて 益朝は 西郡の幸山城Kouyama-jyouの城主の石川左衛門石川源左衛門久式でしょう)へ 取り次ぎました。二人の相談の結果  河原を 荒平山Arahirayama主の川西三郎左衛門が 匿う事になりました。「豊岡上上光寺村人より口伝」「賀陽町史追補版p791」 備中兵乱が起こると 三村元親に 信頼されていない 竹井直定大月七郎左衛門尉信通と与して 恩ある 石川久式を騙し 毛利方に就き 天神丸を 落とそうと 策略しました。策略は 図星で 毛利氏は 松山城を 難なく手に入れました。時は 過ぎ 織田信長の足音が 備前や 備中に迫ってくると 情勢を見て 宇喜多氏が 毛利氏を離れ 織田氏方に寝返ると 久隆は宇喜多氏に従い 織田方に与しました。ところが 常光寺合戦で 討たれた筈の河原六郎右衛門は 六郎左衛門と名乗り 生きていて 天正8年(1580年)毛利軍の道案内役を引き受け 伊賀久隆に挑みましたが、霧に惑わされ 道を違え 上加茂に導き、加茂崩れの原因を作りました。「豊岡上上光寺村人より口伝」

定光寺城跡:上光寺の村の古老は「ここ北緯34度54分5秒東経133度45分37秒に昭和初期には城跡がまだ残っていて、悪友と戦争ごっこをして遊んだものだ 頂上付近に墓があり、あちこちに穴が掘ってあった 結構広い。」と告げました。探索すると確かに墓場があり、平坦地の境付近に人が一人入り弓を構えられる程の大きさの穴の跡が沢山あり半円状に並んでいました。多くは堆積物で埋まっています。この穴に兵士が潜み敵を待ち受け、城に来た敵兵を悟られずして包囲したのでしょう。この城跡の規模の大きさは 鍋谷城 常江田城の規模に匹敵します。光寺合戦は麓の大鶴山常光寺で行われたのではなく、この城で行われたのでしょう。なぜなら、伊賀久隆は神仏を大切にしており、寺の地を血で汚すとは思えませんし、戦いの場がここならば、村人が巻き込まれる危険性は少ないからです。備前伊賀氏の鼻祖 伊賀頼氏が長田荘の地頭として豊岡上に派遣され築いた城でしょう。上光寺の上人墓は頼氏の墳墓かも知れません。

二十七人・南無阿弥陀佛の碑:豊岡上上中須賀290番地の隣 北緯34度53分58秒東経133度45分512秒 豊岡地区農村公園内 常光寺合戦の折りの犠牲者の供養塔を後世の人が立てたのでしょう。    鍋山城跡:鍋谷の下加茂和中615番地の西 上加茂薬師262番地の北の山 北緯34度52分1秒東経133度47分40秒付近

鍋谷城跡:上加茂朴ノ木319-1番地の北北東 下加茂鍋谷1028番地の南西の山で、北緯34度51分54秒東経133度47分56秒付近。    松山城跡:高梁市内山下 北緯34度48分33秒東経133度37分20秒    虎倉城跡:岡山市北区御津虎倉 北緯34度50分10秒東経133度50分4秒    幸山城跡:総社市清音三因 北緯34度39分5秒東経133度45分21秒    荒平山城:総社市 北緯34度41分54秒東経133度42分57秒    伊賀久隆:生年不詳~ 天正9年(1581年)4月の戦国時代から 安土桃山時代の備前国の武将で、伊賀守 左衛門尉 津高郡虎倉城主です。    片山宗兵衛久秀:肥後細川藩の氏家甚左衛門配下に 片山宗兵衛の名があります。鍋山城の城主です。   竹井宗左衛門:三村家家臣の竹氣庄竹井村の領主でした。三村方の居候Isourouの浪人、竹井宗左衛門直定と 大月七郎左衛門尉信通は 小早川隆景 等の示した 出世話に 三村氏をあっさりと 裏切りました。  河原六郎左衛門直次:河原六郎右衛門と 河原六郎左衛門と言う人物は 同一人物か、異なる人物か 解りませんが 様々な伝説に 同じような設定に 登場します。この後の加茂川合戦の伝説には 常光寺合戦で暗殺されている筈の 河原六郎右衛門が登場します。    土井下総守三郎衛門貞綱:足利氏の大名 宇都宮時綱は 落ちぶれ、伊賀家の客分となっていましたが、伊賀兵庫頭の三男 伊賀下総守三郎衛門貞綱を 宇都宮家の養子としました。しかし 貞綱は 虎倉城の家老職を担うため、勤伊賀伊勢守の配下に戻り、土井氏と 名乗りました。    大月(作月・大槻)七郎左衛門尉信通:三村氏の 代々仕える 竹井宗左衛門直定の下に 仕える武士で離小屋城(北緯34度49分25秒東経133度39分32秒)の城主です。    勝法師丸・入澤勝左衛門吉勝:松山城が落ちると 三村元親の一子勝法師丸は 逃げる途中で 伊賀久隆配下の者に 捕らえられ小早川隆景に 渡されました。あまりにも利発だったので、成人すれば 毛利氏に 刃を向け 難なすであろうと 恐れて、隆景は 頼久寺で 勝法師丸を 斬首しました。    上加茂合戦:天正8年 織田氏の進出を機に 裏切られた毛利氏は 宇喜多直家を 成敗しようとしました。障害となる 虎倉城を落とす事を 優先     しましたが、加茂崩れを 起こしました。    平成23年(2011年)7月7日    現在、常光寺城跡は     完全に破壊され、跡形もなくなっています。 平成26年(2014年)10月21日

 

広面 姫屋敷 Hiding place for ladies

伊賀久隆は 羽柴秀吉が 福原城戦や 上月城戦後で見せた 凄まじい残虐さ徳川幕府の作話かもしれません)から 一族の女性子供を 守るため羽柴秀吉軍との敗戦に備え 姫屋敷に 隠れ住まわせました。虎倉城に 事ある時は ここに 砦を築く手配だった。「広面広前の村人のより口伝」

天正5年(1577年)10月 羽柴秀吉は 織田信長の命令で 播磨国を 攻めに 姫路城に入城し、備前国 美作国 播磨国の境の上月城Kouduki-jyouを 攻めました。この時 上月城は 毛利氏方の宇喜多直家の支配下に有り、虎倉城伊賀久隆は 毛利氏と 宇喜多氏と 同盟関係にありました。同盟と言っても 勢力は毛利氏 宇喜多氏 伊賀氏の順でしたので、宇喜多氏の家老位に 扱われていたので、宇喜多氏に 従い伊賀久隆は 上月城の赤松氏の 援護をしました。宇喜多伊賀連合勢の激しい妨害攻撃を 受けながらも、羽柴勢は 上月城を攻め落としたので 城を守っていた赤松政範は12月3日に 切腹しました。城兵達は 政範の首を差し出し 秀吉に 降伏し 命乞いをしましたが、秀吉は 許さず 城の内 城の外の残党も 悉くKotogotoku追っ手を 掛け 捕えました。男は 斬殺 婦女子は 備前美作の国境に 数珠繋ぎに 縛って引出し、女は磔刑Takkei 子供は串刺しに しました。一連の福原城の戦いでも 秀吉は250人以上 を斬首しました。http://www7a.biglobe.ne.jp/~fujimoto/harima2/koutuki22.html」    この残忍さを見た、伊賀久隆は 羽柴秀吉が 虎倉城に攻めて来る事を想定し、人里離れた地に 城内の女と 幼い子供を 匿いKakumaiました。広面中寄1916番地と 広面薮ノ内1857番地の間の山道を 登り、T字路を 右に曲がると、Y字路に なります。道なりに 上の道を 東に進むと、耕作放棄地の平坦地が重なります。次の3叉路を 上(北)に  向かうと、石垣を 伴なう 5枚程度の平坦地耕作放棄地

と思われる平坦地が 重なっており  破壊された墓場跡のようにも見える石積の塚状構造 小さい石製の祠等が 有ります。その平坦地が 姫屋敷です。この道を 北に進むと 広面岩目に出ます。姫屋敷に 築城するのでは 山城としての防備上 条件は良くありませんが、鼓山であれば 難攻な構えが 築けそうです。実際に 広面には 伊賀方の城があったと言う人がいますが、その場所を示す人に 出合いませんでした。  姫屋敷:広面 北緯34度49分27秒東経133度48分36秒    上月城:北緯34度58分31秒・東経134度19分24秒 福原城・佐用城・作用城:北緯34度59分47秒・東経134度21分5秒 大高山・鼓山:広面広奥 北緯34度49分13秒・東経133度48分53秒 第2代吉備津彦命五十芹彦命 桃太郎物語桃太郎のモデルが 温羅(桃太郎物語のの大将のモデル)鬼ノ城戦の折り 留霊臣命(桃太郎物語ののモデル)が 陣を張ったと されます。  平成24年(2012年)12月16日