寛保元年(1741年) 権増と言う独身男が、備前国の片田舎に 住んでいました。正月に 良い夢を 見ようと 枕の下に 宝船に 七福神を 描いてある絵札を 敷いて 年忘れのお神酒を 頂き 眠りました。お酒の お蔭で 快く眠れ 縁起の良い初夢を見る事が 出来たのです。夢の中では 奥谷の山が 富士山のように高く 頂には 雪の冠を頂いています。その頂から 黄金の鷹が現れ 茄子Nasuの大木に 止まりました。鷲は 突然光を放ち「これ権増 3日の後 大雨が 降り 古墳が 崩れ 3種の神器が 2組現れる。3種の神器は 1日1回 願い事を叶える。 しかし 転ぶと 背が1分(約3Cm)低くなる。」と 告げました。正月の朝になると 弟の権助が 新年の挨拶やって来ました。夢の話を 弟にすると「お兄さん この話は 2人だけの秘密にしよう。」と言いました。
正月4日、雪が 降る季節だと言うのに 夢の通り大雨が 降りました。古墳の入り口が 崩れ 2組の剣と鏡が 流れ出していました。兄弟は 他にも 宝物が 埋まっていないかと 思い 崩れた土砂を 堀ると 銅鐸が 掘り出されました。二人は 其々の家に 持ち帰って 床の間に 飾って 価値ある宝物に見とれました。 風呂に入り 疲れを 癒し 寿命が 延びたような 感覚に 浸ったのです。望みが 叶えられると言うので 捕らぬ狸の皮算用の 祝い酒を 飲みながら 望みを あれこれ考え 上機嫌でした。そして、権増は 寝ようとしましたが 期待が 邪魔して なかなか寝付けませんでした。疲れが 取り切れないまま 翌朝 目を覚ましました。起きるのも面倒で「誰か朝飯を 作ってくれんかのう。」と独り言を言うと 願いが叶って ガラリと戸が 開けられ権助の嫁が「権助が 良ぇ話を なんか知らんが 有り難がたがっとった。 そのお礼の ほんの 志じゃぁ。」と 朝食を 作り 持って来てくれました。権助の嫁は「お父ちゃんが "何か わしの背が 昨日の朝より 夕方の方が 低いような気がする"と 言うんじゃ。お兄ゃんはどうじゃろう。」と 尋ねました。権増は 願いが叶った事に不安を 感じ「夜に寝転んだが あれも 転んだ事になるんじゃろうか.」と 気になったのです。それで 朝飯を頂いた後に 背丈を計り 柱に背丈の印を 付けました。不安の日を過ごして 翌朝を待てず 夕方に背 を測ってみると 背の高さは 朝方よりも1分(約3㎝)程 低かったのです。「毎日背が一分づつ低うなったら おえん事になろう。」と びっくりして思わず「背丈を 元の長さに戻してくだされぇ。」と 夢に出た黄金の鷲に 頼みました。又 又 困惑の夜を過ごし 翌朝早くに 背を測ると 元の背丈に 戻っていました。怖くなって 弟を呼びだすと 権助も 同じ悩みを 訴えました。そこで 背の縮む霊力を持つ危険な3種の 神器を 骨董屋に 持ち込み 売り飛ばしました。たいしたお金にならなかったそうです。「昭和30年1955年 三谷百怪談」
吉備中央町では、高祖山等で 古墳が崩れ 埋蔵物が流れ出したと言う記録を見ますが 奥谷古墳が 崩れ埋蔵物が 流れ出したと言う 記録はありません。 写真の古墳:上加茂薬師267番地から、山道を東に入ると直ぐに 北緯34度51分2秒・東経133度48分24秒に 見つかります。祟り:誰でも 朝の身長は 夕方の身長より 高いのです。中学生位の 育ち盛りの人だと 2Cm位の差が ある場合も あります。「https://www.dais10.com/entry/2019/10/09/080000」「https://zakkioh2.com/height-asaban-sa-tsuikanban」 どうせ願うなら 著者であれば「〇もいらなきゃ〇もいらぬ 私ゃも少し背が欲しい。」と 願うでしょう。
平成24年(2012年)2月21日
寛保元年高祖山 Takazou-yama mountain at 1st.Kanpou
寛保元年(1741年)の頃、高祖山の麓\に神の磐と言う7間×30間位の塚が 有りました。8月12日 台風の後 この塚が 崩れました。土の中から 2振りの剣 1面の鏡 1個の破壊している銅器 瓦の器 鈴 その他 何だかわからない物が 多く出て来ました。剣の長さは 4尺2寸の物と3尺4寸で 酷く風化していて 仔細は 解らない程でした。鏡の径は 9寸1分 銅器も 酷く壊れていましたが 8寸2分×Ⅰ尺:927匁でした。この埋蔵物は 素戔嗚尊が居住していた頃の物であろうと 下竹荘史の著者は 想像しています。鏡と銅器は 冨澤村成就寺が 保管しましたが この寺の住職が 3世紀か4世紀の頃に 他の寺に 携帯して 寺替えしましたが その後の事は 不明となりました。剣は 中村の市十郎という百姓が 保管していましたが 家が絶えたので これも 所在が不明となりました。「下竹荘村史」 北緯34度51分13秒・東経133度45分44秒の高祖山には 大きな岩が意味ありげに列をなしていたり 輪を作るように配置してあったりしますす。古代の祭祀場の跡であるか 異なる所有者の土地の境でしょう。祭り盤座も かつて有ったとされます。壊れた古墳跡を 探しましたが 特定されませんでした。 平成24年(2012年)10月31日
豊岡上 上光寺に 住む大森肇さんの 昭和初期の経験談です。昭和の初め 頃遊びは\ チャンバラごっこや 戦争ごっこや S合戦(陣取りごっこ)や 相撲でした。ある日の遊びで お友達と 戦争ごっこを 定光寺城跡で しました。当時には 朽ち果てかかった 城らしき建物が 建ち その庭には 人が入れる程の 深い穴が 建物 を囲むように 並んでていたそうです。
肇は 戦争ごっこが 始まると 掘られていた穴に 入り 敵方の友達を 待ち伏せしていましたが 夕方になっても 友達は 攻めて来ず とうとう日が 暮れました。友達は「肇は我儘ばぁ 起こして 勝手に 山ぁ下りた。」と 思い 夕方になったの で 皆 家に 帰ったのです。この夜は 月もなく 暗くて 山道は 見えないし 意地もあって 穴の中で 寝る事にしました。狐や 鳥の奇妙な 声がしました。未だ 山犬 と呼んでいた 狼が 山にいると 信じられていた時代です。怖ろしくて オシッコが 漏れそうで 眠るどころでは 有りません。「どうしょうか。今より もそっと 恐体Kyoutei事を 考えりゃぁ 目前の恐とさは 忘られ 御伽話Otogibanasiの中の世界 を 楽しめる。恐てぇ物は 地震 雷 火事 親父Oyajiじゃ。その中で 一番恐てぇと 思う お父の事を考える事にしょう。お父ん 拳骨Genkotu たん瘤Tankobu 瘤を冷やしてくれるお母ん 母んは御上 大神 狼 狼らしい声が聞こえる。余計 恐てぇ事になった。他の事ぅ 考えよう。御伽話の火事にしよう。カチカチ山 狸の背中の火事 猿蟹合戦 栗がはじけて火事 浦島太郎は煙でお爺に。 知っている物は 全部きょうとうぎたないだけじゃ。」等と 連想 遊びをしました。そして「この恐とさの中で 寝るのが 一番恐てぇ。 何が 有るのか解らんけぇ恐てぇ。何が起こるか 解らんけぇ恐てぇ。 いつ起こるのか 解らんけぇ恐てぇ。 どぎゃんなふうになるか 解らんけぇ恐てぇ。 寝れば 何も見えん。 寝れば 何にも 考えられん。 寝れば 逃げ出す事もできん。 じゃけぇ寝るもんか。 じゃが 何で わしは 逃げんのじゃろう。狼より 暗闇の方が 恐てぇんじゃろうか。 狼を恐てぇと 思うとらんのじゃろうか。河原六郎右衛門は 何も知らないで殺された。 何も知らなかったんじゃけぇ 恐とうなかったんじゃろうか。ならば 寝れば 良ぇのに 寝られん。狼は 何で来んのじゃ。 狼は 何を 考えとるんじゃ。 狼は わしを 恐とがっとるいるじゃろうか。 狼は わし が狼を 恐とがっとるのを 知らんのじゃろうか。」と 支離滅裂な 思いが 脳裏を 駈け廻る内に いつの間にか 朝を向かえました。家に帰って 安心た肇は「狼を 恐てぇと思っていたが 狼が 恐てぇんじゃぁなくて 本真は狼 が何をするのか 解らんけぇ恐てぇ 。何も 悪い事が 起こらない事が解っている事が 安心。」と 気が付きました。また「安心な 所で寝るのが 恐とさや 辛さを忘れるのに 一番良い方法。」と 解り ゆっくりと寝ました。「上光寺森氏談」 常光寺:豊岡上324番地 上光寺:豊岡上289・411番地等 北緯34度54分1秒・東経133度45分42秒辺り 常光寺城跡:落合加茂川線(66号線)と豊岡上小森線(371号線)の交差点(亀山八幡宮)の北の山の頂上付近 北五34度54分16秒・東経133度45分41秒が定光寺城跡です 初代長田荘の地頭 伊賀頼氏の居城と想像されますが、平成26年(2014年)1月頃 作平され 完全に 破壊されました。 きょうとうぎたない・恐体汚い:怖いのですが大して怖くない。 河原六郎左衛門直次/河原六郎右衛門:伊賀久隆の家老で 有能な兵法者であったため 妬まれ 出世争いをする者達が 伊賀久隆に懺悔すると「振る舞い事があるので 定光寺に 出向いて来るように。」と 命じられました。定光寺に 出向くと 河原六郎左衛門主従20数人は 暗殺された筈です。しかし 河原だけは 生き残っていて 天正8年(1580年)の上加茂合戦では 伊賀方の裏切り者 河原六郎右衛門として 毛利軍の道案内役を 務めています。 平成23年(2011年)11月3日
昔、昔、富永大王Taiouの龍王谷の龍王宮には 龍の大王が 住んでいました。天正2年の備中兵乱の後 地元の伊賀久隆は 同盟国であった安芸国の毛利輝元と 袂を分かち 織田方に付くと 天正8年(1580年)4月に 毛利軍が 攻めてきました。 藤沢城から 加茂市場に向かう 毛利の大軍は 擦れ合う鎧の金気の音や 馬の蹄の音を響かせ 進軍しま しので 金気や騒音を嫌う龍神は その物々しい不快さに 怒りました。怒りの炎は 付近の川に霧を起こし 村中を霧の海にしました。それでも 久隆の虎倉城の出城 鍋谷城 常江田城 福山城 等には 兵も民もなく 無血で占領できたので 気分よく 進軍していました。ところが 道案内をしていた 元 鍋谷城主の河原六郎右衛門は 霧の海に 道を誤り 毛利軍を上加茂に 導いてしまいました。止む無く兵が 一人もいない清経城を 占領し 戦いに 挑みました。
しかし 地の利のある 久隆軍の弓矢 鉄炮の攻撃に 堪らず 総崩れ(加茂崩れ)しました。敗北した毛利軍は 龍王谷の近くの船山城に退却 富永城と勝山城を 築き 反撃を試みました。富永城は 龍王の滝の隣地でしたので 金属の擦れ合う音に 大王は 再び怒り 大雨と 山崩れで 毛利軍に 大惨事を見舞ったのです。度重なる不運に「どうも この地に 留まる事は 天が 許していない。」と 毛利輝元は 伊賀久隆に 占領地を 返還し 毛利軍兵士の犠牲者を 悼んで 建てた 千人塚 等の供養の使節の入国を許す事を 約束させ 安芸国へ引き返しました。其の後も 時々 龍王は怒ったのでり 和田川付近は大雨で 崖を崩れを繰り返しました。
昭和29年(1954年)頃は 和田川に沿う道は まだ 整備されていませんでした。それでも 都会でも 左程普及していないと言うのに 高価な単車(オートバイ)を操る 若者の集団が 爆音を轟か(せ 交通信号等ない 山間部を 機嫌よく 走り抜けました。龍王は 不埒な金属的な爆音に 又 又 腹を立て 付近の山筋を 雨水で破壊しました。 「三谷野呂の百怪談」 今日も 崖崩れの修復工事のための 法度張りHattoubari(通せん棒)が 置いて有ります。和田川に向く 法面Norimenの崖崩れ防止のために設けられた ロックボルト工法のコンクリート構造体の連続は あたかも 鱗をまとった ウネウネとくねる龍の体のようです。
龍王宮:明治初期に土井神社に合祀されました。 大王集落:富永大王 北緯34度52分59秒・東経133度45分17秒付近 龍王谷・竜王滝:富永34度52分4452分44秒・東経133度45分13秒 ここの近くに 地獄谷と呼び 昔の共同墓地がありました。 逗留田上池:富永大王 北緯34度53分5秒・東経133度45分6秒 逗留田下池:富永大王 北緯34度53分10秒・東経133度45分13秒 せいひろ城・富永跡:富永大王 北緯34度52分44秒・東経133度45分20秒 藤沢城:田土・加茂市場 北緯34度51分40秒・東経133度44分57秒 船山城:下土井倉城 北緯34度52分58秒・東経133度45分45秒 勝山城:下土井桑ヶ市山端 北緯34度52分40秒・東経133度15分40秒 平岡の千人塚:上野八十原 北緯34度50分53秒・東経133度47分7秒 裕園の五輪様:河内田五輪山 北緯34度48分42秒・東経133度45分35秒 河原六郎右衛門:作州寺畠の城を 落とした時 伊賀久隆が 虎倉へ連れて来て 鍋谷城を与え 虎倉城の家老としましたが 同僚達に毛利のスパイと懺悔され 常光寺合戦で 死んだことになっていますが、三村方に逃亡し 備中兵乱の時 三村元親を裏切り 毛利方に付きました。宇喜多直家が 織田方に就くと 伊賀久隆は 直家に続きました。毛利輝元の怒りをかい 毛利方の粟屋与十郎は 河原を道案内させ 虎倉城に向おうとしましたが 霧で道を失い 毛利軍を上加茂に導いてしまいました。ここで上加茂合戦となり 河原は 土井三郎右衛門を 討ち取りました。土井は 上加茂合戦での伊賀方の唯一の犠牲者です 平成24年(2012年)8月20日