昔、須佐能Susa-no-oは 神殺しをしたり 高天原Takamaga-haraの社に ウンコをする等する等 心の荒んだ 悪たれでした。そのために お姉さんの天照大神Amsaterasu-oomikamiに 叱られ 高天原を 追い払われ 葦原中国Asihara-no-nakatukuniに お腹を空かしてやって来ました。後の加夜国備前に 来て見ると 洪水が 度々起っていました。その荒れた 川に箸Hasiが 流れて来ました。箸が流れ来るからには 上流に 人が住んでいるに 違いありません。やっと 食べ物にあり付けると 思って 川上に 登ると お爺さ んとお婆さんが 泣いていました。泣く訳を聞くと「私達は脚無津蛇(Asi-na-tuti手無津蛇Te-na-tutiと言う この川に住む 蛇神の和魂(Nigimitamaで 稲を護る正義の戦士です。八岐大蛇Yamata-no-oroyiと言う 私共の荒魂Aramitamaと 戦いましたが 荒魂は 8つも 頭を持ち 大山や 大谷をも 跨ぐ程の巨体で 砂鉄を含む赤土を 川に流し込み 大雨を降らせ 洪水を 起こさせるのです。余りに強いので 残念ながら 手も足も 出せません。私共が 稲の女神を 産み育て 美田に住まわ せ 水を制御しようとしても 八岐大蛇は 川を氾濫させ 稲田ごと 女神を 飲み込むのです。 既に 稲田の神の7柱の娘が 呑まれました 大切に育てている この奇稲田姫(櫛名田姫)Kusinada-himを 今夜 奴が 呑み込みに来るのです。」と 答えました。見ると 櫛名田姫の美しい事 須佐能は 本当は 悪たれでしたが 良い男ぶって「娘と娘の護る田を わしにくれ。それなら 大蛇 を 退治してやる.」と お爺さん お婆さんの 弱い立場に付け込んで 邪(な心を 起こしました。お爺さん達は 須佐能が 天照大神の弟と知ると「見るからに 荒つか者なので 嫌だ。」と 思いましたが「娘を むざむざ大蛇に 飲まれるよりは 娘が 少しばかり 嫌な目に合う方が 余程どましだ。」と 考えて 嫌々承知しました。すると 須佐能は 神様ですから 神通力を使って 櫛名田姫を 櫛に変え 頭に刺して 逃げ出せなくしました。櫛名田姫は お爺さん達に「櫛名田で採れた米を 7回絞った 八塩折之酒を 醸して作り 8つの門を 設け それぞれに 酒を満たした桶を 置くように。」と 頼みました。大蛇は 櫛名田姫を 呑み込めると思って ウキウキ気分で やって来ると 良い臭いのする 上等の酒が 置いてあるではありませんか。
根からの呑兵衛Nonbeiの大蛇は 喜んで 強い酒を ガブガブ飲みました。美味しい事。美味しい事。すっかり飲み干して、グデングデンの酔いたん坊に なりました。櫛名田姫は「今です。 酔いが 醒めない内に 掛かりなさい。」と 好機である事を 知らせると 須佐能が「卑怯者)」と叫ぶ 大蛇に 切り掛かりました。泥酔しているとは 言え 百戦錬磨の大蛇の戦いの技は 凄まじく 何度も何度も 死の淵に 立たされましたが その都度に 櫛名田姫の的確な助言で 切り抜け やっとの思いで 退治できました。須佐能は 櫛名田姫が自 分の持ち合わせていない優しさと 英知を備えている事を 知りました。「あわ良ければ 弄んで 美田である 櫛名田を 横取りしてをやろう。」と 思った事を 恥じ 命を 救ってくれた 櫛名田姫を 尊敬し「生涯の伴侶にしよう。」と 心を 改めました。荒魂の姿の神が 心温かいに和魂の姿の神に 変身した瞬間です。高祖山に 手に手を取って 登ってみると 目の前に美しい雲海が 広がっていました。「ここに住もう。」と 目と目で 思いを伝え合うと 須佐能は「綺麗kireiな雲だ。雲が八重に重なている。この雲が 山を囲んで 別嬪Beppinさんの櫛名田姫を よく護ってくれてるようだ。」と 言って 館を 建てる事に 大乗り気になりました。その後は 櫛名田姫に 惚れ抜いて デレデレの須佐能は しっかり者の櫛名田姫の言う事は 何でも聞いてやり 優しく強い正義の味方の神様であり続けました。 加茂市場の村人より口伝」それで、櫛名田姫(櫛稲田姫神)と 須佐能(建須佐能神)を祀る和田の素盞嗚神社Susa-no-o-jinjyaは 女性を大事にする神社だと 言われるのです。「富永に住む女性より口伝」 「ヤマタノオロチ - Wikipedia」「娘を食らうヤマタノオロチ。日本神話で有名な大蛇の伝説 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!ヤマタノオロチ<ヤマタノオロチ伝説> - 編纂1300年を迎えた【古事記の神話【中国山地の歴史⑦】ヤマタノオロチの源流|みんなでつくる中国山地】 平成24年(2012年)2月25日
高祖山組岩:北緯34度51分19秒・東経133度44分27秒 高祖山旧総社跡:北緯34度51分19秒・東経133度44分27秒付近 古墳の崩れた跡:北緯34度51分15秒・東経133度45分47秒の近く 神原:北緯34度51分19.秒・東経133度44分27秒付近/金原(製鉄産業の地あるいは砂鉄のとれる地)からの転訛でしょう。御北神原家の稲荷神社には鉱山の神である金山毘古命・金山毘女命が祀られています。 カミヤ:湯山320・418番地等 神谷の多くは金谷の転訛です。小屋谷:湯山798-801 作業小屋があった谷 シブリ谷:湯山1058・1250番地等 シブリは鉱物が剥き(むき)出しになった地 勝負廻リ:湯山1240番地 祖母 祖父と同じく勝負 菖蒲は ソブ(鉄気のある土や水)の訛Namariであることが しばしば あります 高祖:湯山1291・1301番地 歌垣:湯山1929・1947番地等 特定の日に 場所を定め 老若男女が 集会し 共同飲食しながら 歌を掛け合う呪的信仰行事で 実質的には 今風の合コン(男女の合同宴会)や 成人式のようなものです。 垣ノ本:湯山2039・2040番地 垣は人夫等を 囲う宿舎 後三十代:湯山2088・2100番地等 代Yoとは製鉄過程を 言 、一代毎に溶鉱炉(カグツチ)は 作り直されます。30回目のたたら製鉄を行なった地 金久曽:湯山2439-2443番地 金糞・製鉄残渣 即ち 糟・カス 日名:陽の当たる所 或いは 火のある所に 付けられる地名です 前者の場合、多くは陰地と 対になっています 後者の場合 砂鉄採取 と強く係わります 日南:加茂市場718・1031番地等 藤澤:加茂市場988・989番地 藤地名の多くは 砂鉄採取に関ります。 土砂の粒子の大きさを分別する 筵状の構造物は 藤等のオドロで 作るからです いささ久保:加茂市場1769・1774番地等
金屋:加茂市場1096・1467番地等 直線に切り取られた崖地が続きます。 金谷:通称であって 正当な地名では ありません。 金屋の訛りでしょう。 北緯34度51分44秒・東経133度45分20秒 金屋橋:加茂市場北緯34度51分28秒・東経133度45分16秒 貫抜橋:閂とは一種の錠 貫抜とは 閂 鉄砲水 或いは 溶鉱炉の溶けた鉄の 取り出し口の栓の事 北緯34度52分0秒・東経 133度45分26秒 藤澤山:加茂市場金比羅神社の建つ丘 北緯34度51分49秒・東経133度45分9秒 藤澤城山:加茂市場と田土の境34度51分4151分41秒・東経133度44分57秒
八雲立つ山の姿 須佐能命が 住んだので この山を高貴な日本人の先祖の住んでいた山と言う意味で高祖山と言うようになり、須佐能命の部下の神様が 住んでいた所を 神様が住んでいた原と 言う意味で 神原Koubaraと 呼ぶようになりました。「下竹荘村史」「仁熊の村人より口伝」 この近くに 製鉄をしていた名残の地名や 赤土の掘削地跡があります。八岐大蛇の悪行とは 砂鉄を採るために荒らされた 川の氾濫の事でしょう。加茂市場は 金屋の市が 立つ 地だったのかも 知れません。吉備中央町の農閑期には 砂鉄を採取する副業が 盛んに行われたようですが 江戸時代の金穴流しの時期制限・鉄穴場新設禁止や 政府による 昭和46年(1971年)「水質汚濁防止法」で 基づいた禁止で この習慣は無くなりました。鉄穴流しによって川は荒れ 波止Hato(船付き場として利用できる構造でなく 波消しに適した構造です。)が 多く加茂総社付近にあるので しばしば 宇甘川は 氾濫したろうと想像します。今でも 藤沢山に金比羅神社が建ち 夏祭りには 藤沢山と金屋とを 提灯で繋ぎ 加茂総社の水難除けや 宇甘川の安全を 祈ります。
この物語が 語られた 文献と 思われるものがあります。 伝説1:素戔嗚尊が 高祖山Takazuyamaにいた時 素戔嗚尊の重臣達が 多く住んでいた高祖山の麓の地を 神原 Koubaraと言われます。「下竹荘村史」 伝説2:寛保元年(1741年)の頃、高祖山の麓ふもとに 神の磐と言う 7間×30間ぐらいの塚が 有りました。8月12日、台風の後 この塚が 崩れました。土の中から 2振りの剣 1面の鏡 1個の破壊している銅器 その他瓦の器 鈴等 多く出て来ました。剣の長さは 4尺2寸の物と3尺4寸で 酷hidoく風化していて 仔細は 解らない程でした。鏡の径は 9寸1分、銅器も酷く壊れていましたが 8寸2分×Ⅰ尺:927匁でした。なお何だか 判別できない物が 沢山 出てきました。この埋蔵物は 素戔嗚尊が 居住していた頃の物であろうと 下竹荘史の著者は 想像しています。鏡と銅器は 冨澤村成就寺が 保管しましたが、この寺の住職が 3世紀か4世紀の頃に 他の寺に 携帯して 寺替えしました。鏡と銅器のその後の事は 不明となりました。剣は 中村の市十郎という百姓が 保管していましたが 家が絶えたので 所在が不明となりました。「下竹荘村史」 伝説3:天照大神が 支配者であった頃、素戔嗚尊(須佐能命)が 葦原中国に 追放され 王位を失った時 須佐能命が住んだので この山を高貴な日本人の先祖の住んでいた山と 言う意味で 高祖山と言うようになり 須佐能命の部下の神様が 住んでいた所を 神様が住んでいた原と言う意味で 神原Koubaraと呼ぶようになりました。「下竹荘村史」「仁熊の村人より口伝」 この近く に 製鉄をしていた名残の地名や 赤土の掘削地跡があります。 八岐大蛇の悪行とは、砂鉄を採るために荒らされた川の氾濫の事でしょう 加茂市場は 金屋の市が 立つ地だったのかも知れません 伝説4:素戔嗚尊は 霖Nagaame(梅雨時の事)の頃 青草を 笠や蓑にして 宿を探しましたが 悉 断られました。ようやくにして 備前国石上簸川Hikawaに 辿りたどり着きました。脚摩乳Asi-nsa-duyti 手摩乳Te-na-dutiの家に 泊まった折り あの八岐大蛇に 酒を飲ませ 酔い潰れさせ 持っていた 十握釼Totuka-no-tutrugi(韴靈釼Hutu-mitsama-no-turugi 布都御魂)で 切り殺します。草薙釼Kusanagi-no-turugiを 大蛇の体内より 取り出し 天照大神に 奉ました。熱田神宮(龍靈神社)に 納められています。青草の笠蓑を ここで初めて脱いで 奇稲田姫Kusinada-himeを妻にし 備前国に 暫く住みました。この事は 日本記第3の1の忌部正直の口伝に 乗っています。この地は 備前国津高郡上市場の高祖山の麓の神原であると 言います。「下竹荘村史」 高祖山(北緯34度51分22秒・東経133度45分43秒)は 高谷と 加茂市場の境にある山で 江戸時代中期以前の 庶民が 墓を立てる事が禁じられた時代の人の共同埋葬地と 想像します。この辺りは 所謂 奥山で 人の住まない地でした。現在は吉備高原都市の一部です。高祖とは 素戔嗚命の意味でしょうか。遠い先祖の意味でしょうか。高曽:湯山12511630番地等 高祖:湯山1291・1301番地
上竹 大村寺の蛇骨塚 Snake bone mound in Oomura-ji
昔 昔の話しです。上竹に それはそれは 大きな蛇がいたそうです。どこを住処にしているか解らず 神出鬼没に 現れ 狸や狐や山鳥等を食っていました。処が ドンドン育ち 餌が 不足するようになると 民家に迄 やって来て犬や猫や鶏等も 食うようになりました。 畠や田の作物も 這いずって 容赦なく 踏み倒すので 村人は 大村寺の僧侶に[法力で以て 退治してくれるよう。」頼んだのですが「拙僧には 殺生はできぬ。」と 断り続けていました。しかし 子供が この大蛇 に飲み込まれそうな事件もあり 大村寺の伽藍に住み着くようになると 小坊主迄 和尚に 蛇胎児を 願い出ると 「殺生はならぬ。」と言う 釈迦の教え処では ありません。和尚は 大蛇が 寺に現れた所を 僧侶総出で 孔雀明王法を唱えさせながら 危険を潜り抜け 大蛇の胴に縄をかけさせ 十王堂の柱に 結わえさせると大蛇は首を 狂ったように 激しく 振り 又 柱を折ろうと 絞め 付けたので 十王堂は 壊れんばかりに揺れたのです 。流石の和尚も 恐れをな「[本気で この大蛇を退治せねばならない。」と全法力を持って 孔雀明王法の呪文を唱えると 次第に法力が 発光され 終には大蛇の息を 断ったのです。和尚は 殺生の罪に苦しみながら大蛇の屍を十王堂の裏手に蛇骨塚を作り葬りました。著者が 大村寺を訪れ十王堂の裏手や その奥の林を 探しましたが 蛇骨塚らしい遺構 は無く 又 住職に尋ねましたが「そんな物ははない。」と言れました。令)2年(2020年)8月9日
神瀬 水谷街道の大蛇 Giant snake in Mizitani-road way
昔水谷街道は水谷川に沿っていた山道で 旭川の船戸 即ち 村の産物を 岡山城下に 運ぶ交通の要所でしたが 高瀬舟を 引き上げる他は 人は 滅多に 通いませんでした。稀に 高瀬 船を 使わず 荷を上り下げする馬子が おりました。水谷川の支流の合流点に は 地蔵菩薩像が 祀って有り 支流の先には 地蔵滝が 三段に 流れ落ちていて その辺りは 一匹の大蛇の縄張りでした。ある時 力自慢で 蔓細工と 投げ縄が 得意な 馬子が 鈴を付け シャンシャンと熊除けしながら 馬に 炭俵を 積んで 水谷街道を下っていると 地蔵菩薩像にの近くで ピイピイと音がし 馬は その音が 気になるようで 立ち止まり 強引に引っ張っても 鞭で尻を 叩いても 前に進まなくなったのです。仕方なく馬の機嫌を 取ろう と手綱を 緩めると 馬は 支流を上り 始めました。すると 生臭い臭いが し始め 臭いは 次第に強くなり 柴を 薙ぎ倒す音がして 何者かが 熊を追って 滑るように 通り過ぎたと思ば 得体のしれない生き物は 滝の渕に 飛び込んだような水音を 立てたのです。馬子は 馬の後を追って 淵の岸に付くと淵には 熊を 飲み込もうとしている大蛇が いたのです。馬が シャンシャンと鈴を鳴らすと熊をを呑み込みながら 蛇 はピイピイと馬に呼びかけるのでした。馬子は「馬が自ら蛇に飲まれようとしている。」と感じ 又 大蛇の食欲に魂消たので 馬を 近くの大木に 急いで 繋ぎ止めました。馬子は強欲者であったので「あの大蛇を 捕って 鱗を甲冑屋に売れば 例え甲冑屋に売れなくても 皮を剥いで 蛇の抜け屋 に売れば どんなに 儲かるだろうか。」と 無謀な事を考えていたのです。
しかし無造作に近づけば 大蛇に 飲み込まれます。馬子は「山の神様 日吉大権現様。水の神様 水神様。 この馬子めに 知恵と 力を与えた給え。」と身勝手を 願うと 馬を繋いだ傍に 太くて丈夫な 藤が3本 幸運にも 生えていたので 鉈で切り取り 葛の皮を剥き 「大クチナワが熊を呑み終わる迄には。」と 投げ縄を作り上げようと 試みました。「藤の皮を剥くピイピイとなった音に大クチナワは どうしているだろうか。」と 大蛇の様子を見に行くと大蛇は 蛇の鳴き声と 僅かに異なる音に 怪訝そうに 首をもたげてシュルシュルと渦巻く淵の水に乗って 体を丸め 熊を 呑み終え 口を広げ 馬が飛び込むのを待ち受けていたのです。馬子が「これでも食らえ。」と 投げ縄を投げると 大蛇が 投げ縄の輪に食い付いたので 蔓を引っ張ぱり上顎を捉えると 岸向うの樹に 結び付け きました。大蛇が蔓に巻き突き 岸を登ろうとしたので 投げ縄を投げると 蔓に巻きついた胴に 今度も うまく係ったので その蔓を 大蛇の頭とは 向いになる岸に立つ 樹に 結びました。これで大蛇は身動きを制されました。口を開け閉めして 上顎に掛った蔓を噛み切ろうとするのですが 残念な事に 蛇には牙以外に 歯がないので咬み切れません。口を開けた下顎に投げ縄を打つととこれも 又 又 うまく捉えたので 根限りのt力で大蛇の口を 最大に開き 蔓を 樹に 結びました。口を制し得たので 馬子は 鉈で大蛇の首を叩き折りました。地蔵菩薩はニコニコして 子供が 犠牲になる前に 大蛇を仕留めた 馬子の蛮勇を 見ていたそうです。 俗信・1:蛇はピイピイと鳴く。(蛇は 声帯が無いので 泣けません。シャーと音を出すのは尻尾の皮です。) 2:葛を剥くと ピイピイと音がする。嘘です。皮は丈夫で 剥くとピーと避ける様に 感じるだけです。 3:夜に笛を吹くと 鬼が出たり蛇が出る。子供のしつけのための屁理屈です。
平成221年(2009年)11月13日
田土 鶏を守る神様 Gods who protect the hens
昔 沢山の鶏を飼っている農家が ありました。農家の息子は 鶏が 話し合っていると 思っていました。息子は 鶏が 何を話しているのか 知りたくなと 立っても座っても 居られず 希望を 叶えてくれる神様 を知りたくて お爺さんに 尋ねると「そンげぇな偏屈な神様等居らん。いや素戔嗚の神なら 偏屈者じゃ。叶えてくれるかも 痴れん。」と言うのです。それを聞くと 態々 和田の素盞嗚神社を 訪れ「わしを 動物の言葉が解るようにしてくだされぇ。」と 願いました。素戔嗚尊は「少年が動物の言葉を知って 何になる。じゅあが 面白そうじゃけぇ そうさしてやろう。」と 神力を 掛けたのです。
息子が鶏に餌をやると「これはうちの。あんたはそこのを 食べねえ。」等と 話している と雀が鶏小屋に飛んで来て 小屋から はみ出した鶏のエサを「儲け。儲け。」と 言って 食べ始めたのです。すると 年老いた番犬が 出て来て 追い払うとすると 雀達は「又 爺さんじゃ。嫌な奴じゃ。田圃の稲でも食べようぜ。」と 飛んで行ってしまいました。」そのうち 蛇や鼬が 卵を食べようと やって来て 柿の木を伝ったり 穴を掘って 鶏小屋に入ったのです。老犬は 急いで蛇や鼬が 小屋に入る前に 追い払おうとするのですが動きが鈍いので 間に合いません。蛇達が 逃げる時も「畜生。畜生。」と 言うだけで 働きになりません。お百姓のお爺さんは「無駄飯食らいの役立たず。殺してしまおう。」と言いました。少年は 年寄り犬に「どうするんだい。」と 尋ねると「子分の犬が 居れば わしが 指揮するんで なんとかなる。」と 答えたので 少年 はお爺さんに[もそっと仰山の犬を 飼やぁ 蛇ぅ 追い払ってくれるんじゃねぇの。」と 提案しました。お爺さんは「成程。」と 孫の頭を 撫でながら言って 近所から 子犬を 沢山もらってきました。処が 遊び盛りの小犬達は 小犬達を 叱る事の出来ない 年寄り犬を 馬鹿にするばかりで 仲間を呼んで 来て 増えた蛇達と じゃれ合うばかりです。年寄りの犬は 息子に「わしゃぁ年ぅ取り過ぎた。お坊ちゃん。小犬共が わしの言う事を聞くよう 躾けてくだされ。」と言うので「年寄り犬に 躾け方を 教えてもらいました。年寄り犬が 蛇を追おうとすると息子は 蛇に飛びかかり 蛇と戦う振りをしました。それに従わぬ小犬達を 戦いに参加するよう 銃後射撃(敵にひるみ 進軍を止めた自軍兵を 後方から射撃し脅して 命を惜しまず 突撃を するよう促す射撃)するように 駆り立てたのです。すると 小犬達は 年寄り犬が 蛇等を追おうとすると 一斉に飛び出て蛇達を 追い払うようになったのです。蛇達は諦めて「わしらじゃぁ 手にやぁわん。豊野の八畳岩の親分に あの犬共を 始末してもらおう。」と 言って逃げて 行きました。数日後 胴の太さが 一升瓶程も あろうかと思われる 蛇が やって来て 小犬共を 呑もうと し始めました。年寄り犬が 小犬を助けようと 首っつらに 食い付きましたが 力が弱く 歯が立ちません。小犬達も 大蛇に食いかかりますが巻きつかれたり 尻尾で 払われて 一匹一匹 大蛇に呑まれて行くのです。腹の中から 外から 攻め立てられ 大蛇は 次第に弱って来たので 息子と お爺さんは 鉞や斧を 持ち出して 大蛇の首や背中の骨を叩き割りました。それでも 大蛇は うねり続け 犬を全部呑み込んだ所で 動かなくなりました。おじいちゃんは老犬を殺そうとした事を恥じ 偉大な番犬達の供養塔を 鶏小屋の近くに立てました。それから 供養塔が放つ霊光を恐れてか 鶏に 蛇の被害も 鼬の被害も なくなったそうです。「村人口伝」 平成6年(2024年)11月20日
富永 山の神 Goddess of mountain (submission to one’s wife))
昔 昔のその昔 長尾の西北の山は とても険しく 清々しい山で 山の神が 住んでいましたそうな。山の麓に 美男美女の夫婦が 住んでいて 妻は 逞しい筋肉質な夫が 大好きで 嫉妬深かったのです。夫は 樵を生業に しており その山を 手入れしていて 山に入る前には 髭を剃り 散髪し 風呂に入って 身を清めていたので 妻はそれが 気になり 夫にその訳を 尋ねると「あの山には 山の神が 住んでおられるので 身綺麗にしてから 山に入るのだ。」と 答えたそうな。妻は信心深く先祖を大切にする夫を 益々 惚れたそうな。ある日 夫が 弁当を忘れて 山に入ったので 妻も身を清め 小綺麗にして 山に登ったのです。すると夫は 険しい崖の半ば辺りで 白い大きな綱を 命綱にして どでかい洞の入った木を 放置すると倒れそうなので 切っていました。しかし 妻が 能々見る と命綱に 見えたのは 白い大クチナワ(大蛇)だったので 妻は「クチナワが 夫を食おうとしている。助けなければ。」と 思い突いてきた丈夫な杖で 前先の事も 考えずに 大クチナワに 殴り掛かりました。クチナワは クチナワで 男を離せば 男が 崖下に 落ち 死ぬると思い 打たれるままに 男を 安全な処に 運ぶと あまりにひどく打たれたので うんのびて(気絶して)しまい 正体を 現しました。
その姿の美しい事 神々しい事 妻は「山に こんな女を匿って。浮気者め。」と 激しく嫉妬 し 夫を問い詰めると 夫は「この方は 山の神様で いつも 危険から わしを 守ってくれているのだ。なんてことを 山の神様に お前はしたのか。」と 答えたそうな。正体を現した山の神は「わたくしの夫は とても疑り深いのです。私の住むこの山を 手入してくださ るこの方を 守っていただけで 情を交す仲ではありません。ただ 私が この方を 助けているのを 夫が知ると 疑りの余り 何をするか知れないので 白い蛇に 化身していたのです。誤解させて ごめんなさい。」と 誤ったそうな。妻は 恋敵が 冤罪と 知りましたが 白蛇を 退治した位では 山の神への 嫉妬の炎は 治まらず 夫の出かける時は 必ず同伴したそうな。世間では この夫婦を 鴛鴦夫婦と 呼び お上さんを 山の神様程美しい と言ったとか 言わなかったとか 言い伝えられているそうな。それで 口やかましい妻を 山の神と 呼ぶのだそうです。又 それで 長尾の荒神様には 山の神 が祀られているそうな。 ピンヒョロロ 鳶の糞「冗談話」令和6年(2024年)11月23日
蛇に関する伝説に ついては「加茂川町の伝説 妖怪伝説 蛇女房」を参照下さい。