浄戒坊の猫 浄戒坊の猫2 毘沙門天 毘沙門天の旅 吉祥天が七福神でない訳 無言問答 妙顕寺の火事 大草履 泣く赤ん坊 妙顕寺と妙本寺の名前の交換 天野幽乱 蹴飛ばし幽乱 恋田の三上様 三上様の妖怪蛇胎児 伝常寺の蜘蛛 くもの化け物

上竹 浄戒坊の猫 Cat live in Jyoukai-bou

延享Enkyou元年(1744年)大塚の作兵衛と言う 農夫に 目出度くも その妻が出産しました。その夜 おかしな音がして 子供が寝床から 消えました。作兵衛は 明かりを灯し 探しましたが いくら探しても 見つかりませんでした。誰 が言い出したと いう訳でもなく、「浄戎坊で 飼われと 、猫の仕業Siwazaじゃ。」と 言う噂Uwasa が広まりました。作兵衛は 噂を信じて 浄戎坊の和尚に 文句を言いに 行きました。「わしの大事な 子ぅ取って 食うた 猫ぅよこせ。」と 作兵衛が 大声を出すと 和尚は「証拠Syoukkoぁねぇ。まあ。休んでゆかれぇ。酒と当てぇ用意するけぇ。」と言って 酒肴Sakanaを振舞ったのです。作兵衛は「確かに。証拠ぁねぇ。噂ばぁ信じて 荒ごうて 迷惑ぅ掛けた。」と 言って 機嫌を直しました。酒を勧められ 飲んでいると 浄戒坊の猫が 帰って来ました。古猫は「わしが 作兵衛さんの子を 引いて来たんじゃぁねぇ。この寺の縁の下に 住み付いとる 大鼠のせいじゃ。作兵衛さんの 仇ぅ 取ちゃろうと 思うて 掛かって行ったんじゃが わし一人じゃぁ 手に負えんのじゃ。大西家にも わしと 同じ位えの 正義の猫ぅおる。二匹掛かりで 挑みゃぁ勝てるかもしれん。大西の大猫に 加勢ぇ頼むけぇ、借りて来てつかぁせぇ。」と 言うのです作兵衛は 半信半疑で 翌日 大西の大猫 を借りて来きました。大西の猫は 牛位の体格で 縞模様があり 直ぐに 浄戒坊の猫と 気が合い 仲良しになりました。その夜 2匹は縁の下に 入って行きました。暫くの間 猫と鼠が 咬み合う 夥しObitadasiい激しい音がしました。すると 大鼠が 山門から 逃げ出し 山の中へ 逃げていきました。それからは 神隠しの禍がこの村から無くなりました。                       「加陽町史」「上竹村史」

浄戒坊の猫

延享延享元年(1744年)大塚の作兵衛と言う農夫が おりました。結婚して子供ができないで 悩んでおりましたが 大村寺に参詣し 子授けを祈願すると 目出度くも その妻が 出産しました。出産を 祝の親戚中での 大騒ぎが 終わり 夜は更け 辺り が静まった頃 おかしな音がしました。作兵衛が不思議がって見に行くと 妻はぐっすり寝ていて 子供が 寝床から 消えていました。作兵衛は 明かりを灯し あちこちを 探しましたが いくら探しても 見つかりませんでした。妻と作兵衛は落胆し 重苦しい日 を送っていました。誰が 言い出したと言う訳でもなく「浄戎坊で 飼われとる 猫又の 仕業じゃ。猫ぁ歳ぅとると 人間と同じ様な 力ぁ持つ 化物 になるんじゃ。」と 言う噂さが 広まったのです。作兵衛は 平静さを失っていましたので 噂うわさを 鵜呑にし 信じて 大村寺の浄戎坊の和尚 に文句を言いに行きました。「わしの大事な子ぅ取って 食うた猫ぅ 隠さずにこけぇ 出されぇ。仇ぃ討ちてぇ。」と 作兵衛が大声を出すと 和尚は「里人の言う事にゃぁ 理が無ぇ訳ぁじゃぁ無ぇが 証拠ぁ無ぇ。証拠ぅ無うて 作兵衛さんの子ぅわしの猫が とり殺したと 決め付けられるんは 合点が ゆかん。筋違ぇじゃろう。長う 飼うとるけぇ 殺されるんは 不憫で 叶なわん。誰が 何ぅ言うたか知れんが 証拠無しにゃぁ 渡せん。まあ 休んで行かれぇ。間もなく 猫が 帰って来るけぇ。問い正しなされぇ。酒と当てぇ用意するけぇ。」と言って 酒肴を 振舞ったのです。酒好きの作兵衛は 酒を勧められ「確かに 証拠ぁ無ぇ。噂ばぁ信じて 荒あらごうて迷惑ぅ掛けた。猫が帰ってきたら 真実ぅ 話してもらわぁ。」と 言って機嫌を直しました。酔って 微睡んでいる時 作兵衛の夢現Yumeututuの中 浄戒坊の猫が 現れましたので 作兵衛が 子供の事を尋たずねねると 古猫は「わしが 作兵衛さんの子を 引いて来たんじゃぁ無ぇ。わしゃぁ 作兵衛さんの家が どこもかも 知らん。猫ぁ いつも行く所 以外行かん。わしを 作兵衛さんの家の近くで 見たと言う者ぁ おらんじゃろう。この寺の 縁の下に住み付いとる 大鼠のせいじゃ。大鼠ぃ 赤ん坊 咥えて 床下に入ったんで 赤ん坊 取り返そう思うて 掛かって行ったんじゃが わし一人じゃぁ 手に負えんかったんじゃ。大西にも わしと同じの正義の 牛位の大きさの猫又ぁおる。二掛かりで 挑みゃぁ勝てるかもしれん。大西の大猫に加勢ぇ頼むけぇ 借りて来てくだされぇ」と 言うのです。目が覚めた 作兵衛は 半信半疑で 翌日大西の大猫を 借りてました。大西の猫と 浄戒坊の猫とは 直ぐに 気が合い 仲良しになりました。その夜2は 裏手と表に分かれ 縁の下に 入って行きました。ワギャギャァ、グワー、チュチュぅチュー、ドタンバタンと-暫くの 、猫と鼠が 激しく咬み合う夥しい 音が しました。すると、ヨタヨタしながら 大鼠が山門から逃げ出しした。2匹の猫を連れ 作兵衛が 山の中を探索すると大 鼠が息絶えていました。それからは 頻繁に起こっていた 神隠しの禍が この村から無くなりました。           

 大村寺は最盛期、浄戒坊(5387 5515番地)、壇土坊(5586番地)、精進坊(5635番地)、般若坊(5630番地)、安忍坊(5442番地)、谷の坊、天台坊(5399番地)等12ヶ坊を 数える程 栄えていました。浄戒坊は現在、存在しません。 大西:」上竹5163~6479番地

大村寺は村公会堂の約400m北方、北緯34度50分5秒・東経133度39分37秒付近、上竹5600番地に建ちます。現在の大村寺は壇土坊です。平成23年(2011年)9月15日 

浄戒坊の猫の正体

お父さんが 浄戒坊の猫の話を しました。坊やは、お父さんに質問しました。

子:何か。浄戒坊の猫の話ぁ 解り難ぃ話じゃよねぇ。どぎゃあに 大きゅうても 鼠に赤ん坊は 持ち上げられんじゃろう。 父:そうじゃよ。解り難きぃじゃよね。「鼠が引く。」ちゅぅと いう 諺ぁ 有るんじゃ。「一人でいると 鼠みてぇな弱ぇ者にでも 攫われそうな程心細うなる。」ちゅう意味じゃよ。「鼠に、引き込まれる。」ちゅう諺も あるんじゃよ。「一人でいた人が 急に見えんように なった時 大鼠が 巣に引き込んだんじゃろう。」と、昔の人ぁ 考えたんじゃよ。子:そうか。その諺の所せ為いで 鼠が 子供ぅ 引き込んだ事にしたんじゃな。作兵衛さんに 何で お酒ぇ 飲ませたんかなぁ。 父:お酒を 適度に飲むと 良ぇ気持になるんじゃ。飲み慣れる とお酒ぇ見る と飲みたくなるんじゃ。 子:そうかぁ。まともに話ぃ すりゃぁ大喧嘩Oogenkaになるだけ じゃろうと思うて 好きな お酒ぅ勧め 怒るんを忘れさせたんじゃな。どんな気分になるんか 飲んでみようかのう。 父:そこに気付くたぁ お前ぇでぇれぇ天才じゃ。じゃが 酒ぇ 飲むんは 大人になってからじゃ。 子:でも 一向にちいともすっきりせんのう。何で 鼠ゃぁ お寺の猫より 強かったんじゃろうか。それに 借り来た猫たぁ 役に立たんと言う例えじゃろう。じゃけぇ役に立たないんじゃよね。大西の猫ぁ普通の猫と違うとったんかのう。 父:長野県に よう似た話があるんじゃよ。恙虫ちゅう病気ぃ流行っはやって 村人ぁ困っていたら 大鼠が虫ぅ全部食べてくれて 村から病気い無くなったそうじゃ。村人ぁ、大鼠に感謝しごっつぉうする、大鼠ぁ もっと大きゅうなって 貰う餌だけじゃぁ 足りんようになって 畑ぇ荒すように なったんじゃそうな。村人ぁ 困って 猫にやっつけさしょうさせようとしたんじゃが 日本中の猫ぁ 鼠に勝てなかったんじゃそうな。せぇで 唐ちゅうという今の中国の牛位ぇの猫ぅ 連れて来て 鼠ぅ退治したんじゃと。 子:長野県の鼠の生き残りが おったか。牛位ぇの大きさの猫ぅ。物凄ぇのう。じゃとすると 虎の事かのう。虎なら 借りて来た猫にゃぁ ならんじゃろうからのう。これで すっきり したがぁ。 父:そうじゃよ。長野県の話しぃ真似たんじゃろう。長野の話しぅ真似た話ぁ 他にもあるんじゃよ。とらと、ぶち、とかね。

 平成23年(2011年)9月15日

 

上竹 袈裟掛 毘沙門天 Bisyamonn-ten

袈裟掛けのお百姓さんが 家を整理していたら 毘沙門天像が 見つかりました。お堂が できるまで とりあえず 蜜柑箱に 祀っていました。お堂が できたので その中に祀ろうとする頃には お百姓さんの家は 豊かになりました。その噂は 村中に広まると 夜に お堂辺りで ガサガサ音がしたので 朝方 確かめると 毘沙門天は 蜜柑箱から 旅に出かけ お留守になっていました。近所の分限者が「天井で 毎日 不審な音がする。鼠か 貧乏神が 居付いた。煩くて寝られない。」と 困っていました。お百姓が「家の毘沙門天様が 分限者のあなたの家が 気に入って 毎日 奥さんの吉 祥天様と 天井裏で 転びあっているのじゃろう.」と 言うと 次の日の夜遅く お堂の辺りで 不審な音がしました。朝になって 確かめると 毘沙門天は 長旅から帰って お堂の中でくつろいでいました。「上竹 袈裟掛の村人より口伝」  毘沙門天は インド神話のヴァイシュラヴァナ(神の子)が原点で す。 ヒンドゥー教では クベーラと 呼び  財宝神とされ 武神としてのイメージは ほとんど ありませんでした。中央アジア 中国に 伝わると 四天王の一尊として 武神守護神とさ れるようになりました。「よく聞く者」の意味で 多聞天Tamon-tenとも 訳し 呼ばれます。帝釈天の配下で 仏世界を 支える須弥山Syumi-senの北方に 位置する 水精埵の天敬城に 住み 又は 地球上の4つの大陸の中の北倶盧洲Hokkuru-syuuを 守護すると されます。夜叉や 羅刹を 配下とします。日本では 四天王の一尊とする場合「多聞天」、独尊像の場合「毘沙門天」と 呼びます。七福神の一尊とされ 財宝神 蓄財の神として 信仰され 江戸時代以降は 勝負事に 利益があるとして 崇められました。珍しく 妻帯する仏で 妻は吉祥天と されます。https://ja.wikipedia.org/wiki/毘沙門天

 

毘沙門天の旅 JOURNEY OF Vaisravana

毘沙門天は 仏教世界の中心の須弥山を 守っていました。仏の国の仕事を 部下の八大薬叉大将 二十八使者等 に任せて 邪鬼を 閉じ込めた甲冑を着け 片手に宝塔を持 ち 片手に鉾を持ち 一人で旅に出ました。そして 竹荘袈裟掛に 辿り着きました。すると 大雨に合い 大慌てで  近くの家の倉に  逃げ込みました。倉の中には 何もありませんでしたので「すばろうしい家じゃ 一夜の宿の恩にちいとばぁ働いちゃらにゃぁおえまぁ。」と 呟いていると 家主の翁が 物音に 気付いてやってきて「あれぇ。 毘沙門天様じゃ。 毘沙門天様は 北の神様じゃ。 北の山にゃぁ 猪や 狼が居る。蛇女房と言う化け大クチナワも 居る。 退 治してもらいていもんじゃ。  その上蓄財の神様じゃ。  逗留してくだされぇ。」と 言って粗末な 祭壇を 作り祀りました。家主は 毘沙門天に「まずは 狼ぅを退治してつかあせぇ。」と お願いしました。毘沙門天は「おお よっしゃ。 世話ぁねぇ。倉の中に 居るだけじゃぁ 体が鈍って どうにも おえん。」と 言って鋒を振り回 し 助けてやりました。家主は その度に「有り難や。有り難や。良う働きなさるので お疲れじゃろう。すばろうしい お膳の用意で 悪うございます。爺ぃに 免じて許してつかぁせぇ。」と 甲斐甲斐しく世話をして気分を盛り上げて 次々に 課題を申し出 願うので  旅立つ機会を 失って 長逗留したのです。人間にとっては 何だいな課題でも  毘沙門天にとっては たわいのない願い事ばかりです。流石 に飽きがきて「仏使いの荒いお人じゃ  旅立とう.」と 思った頃 家主が「毘沙門天様のおかげで 狼や猪の肉や皮が 良ぇ値で売れました。お金も 出来ましたんで 倉ぁ立て直し 傍にお堂を こさえますけぇ お入りくだされぇ。 お堂が できるまで 相 済みませんが この蜜柑箱で こらえてくだせぇ。」と 言うのです。毘沙門天は「厨子に祀られては 外出もできん  今のうちに脱出じゃ。」と 甲冑を 影武者にして 箱から 抜け出しました

毘沙門天は ある家の天井に 留まりました。その家主は「天井裏で ゴソゴソ音がする。そう言やぁ 夕べの夢に 吉祥天様が 現れた 。 毘沙門天夫婦が 転びおうておるんじゃろうけぇ 邪魔ぁせられん。」と 言ってお坊さんを 呼んで 木像仏を祀り 経を上げてやりました。すると 翌朝 宝寿のご利益が 発光し 木像仏が 金の仏像に変わっていました。家主は「吉祥天様  毘沙門天様の心尽くしじゃ。 有り難い。」と 感謝しました。毘沙門天は「泊まってやるだけで あねぇに喜ぶならんなら 村中の家に泊まろう。」と 思いました。「爺さん所の 毘沙門天夫婦が 泊ってくれると お宝が貰えるそうじゃ。」と 言う噂が 広まり 邑中が 少しずつ豊かになりました。成金の立派な 見越しの松のある家の家主は この噂を聞いて 爺さんの処に 忍び込み 蜜柑箱の中の甲冑を 毘沙門天様と思い込み 盗み出し 封印を切り 自宅の屋根裏に 押し込みました。甲冑に 封印されていた邪鬼が 解かれ暴れ出し 成金の主人も 奥さんも  病気になりました。噂を聞いた毘沙門天は 成金の家に行ってみると 邪気がのさばっていました。甲冑を 着直した思沙門天と 邪鬼が 激しく戦い 邪鬼を 再び甲冑に封じ込めました。疲れを いやすため 翁の家の蜜柑箱の戻り「やっぱり ここが一番 寛げらぁ。」と 休みました。翁は 長旅から戻った 毘沙門天を 見つけ「長旅で お疲れじゃろう。 袈裟掛けの蛇女房 退治して貰わんといけんので 蛇女房が 現れるまで 新しいお堂で ゆっくりお休みんせぇ。お堂造りは けっこう草臥れるもんじゃ。」と 毘沙門天を 労いました。毘沙門天は 乗りかけた船で 蛇女房が現れるのを「今か。今か。」と 今も待ち続けています。「上竹 袈裟掛の村人の冗談話」  袈裟掛けの毘沙門堂:玄賓の袈裟掛け岩の隣 北緯34度50分44秒東経133度39分46秒    袈裟掛・ケサカケ:上竹2097・3817番地等  平成24年(2012年)4月24日

 

吉祥天様が七福神でない訳 Reason that Kissyou-ten do not belong to Hitihuku-jin "seven deities of good luck"

 七福神恵比寿 大黒天 毘沙門天 弁財天 吉祥天 福禄寿 布袋様でした。男の神様達は 美しい女の仏様が 二人もおられたので 大喜びしました。でも2人の美し過ぎる仏様の虜になり 仏の道の修業を 疎かにする者が 次々出て来ました。男の仏様や 神様達も 女の仏様ばかりが 持て囃されるので 面白くありません。そこで、皆で相談し「美人比べをして 勝った者を 七福神に残し 負けた者を 寿老人様と 取り替えよう。」と 決めました。審判員は 男の仏様や神様ばかりですので 二人の女の仏様は 必死で 美貌 を 磨き上げました。事前運動の最後の日が近づくと 吉 祥天様は 熟女の美しさを 強調し 男の神様や 仏様の男心を 惑わす姿をし 男心を惑わす立ち振る舞いをしたのです。男の仏様や 神様は もうメロメロです。弁財天様は 未婚の若さを 強調し 乙女を装い 且つ「皆様の嫌がるトイレの守り神にも なります。」と 訴えました。男の仏様達は「ションベン臭い小娘め。」と 言って 興味を持ちませんでした。投票結果は 当然ながら5対0で 吉祥天様が 圧勝しました。それでも弁財天様は 諦めませんでした。弁財天様は 梵天を夫に持ちますが 皆が 独身と思い込んでいる事をいいことにしておもむろに 歩み出て「皆さまは 御存じ無いようですが 吉祥天様は 結婚しておられます。 お子様も 5人おられます。 そうですよね。 毘沙門天様」と 言 い出しました。毘沙門天様は 顔を赤くして 妻である吉祥天様を 慌てて自宅に 連れ戻しました。妻の監督不行届きを恥じ 毘沙門天様は修行の旅に立ちました。それで 吉祥天様は 七福神から抜け 毘沙門天様夫婦は 竹ノ荘の袈裟掛の 家々の天井裏に 暫くの間 身を隠したのです。「酔いどれ著者の冗談話」「en-park.net/words/7775」「毘沙門天の旅」参照  平成24年(2012年)4月24日

 

北 妙本寺 無言問答 Silent questions and sirent answers

見延山の 西念兼喧Kenkenと名乗る修行僧 が 雲水となって 諸々の寺に 寝所を求 めながら 全国行脚し 修行の一環として 無言問答を していました。これまでに 対戦した住職は 悉く その僧侶の無言問答の 仕草Sigusが 理解できなかったので 問答に 敗れ 住職の席を 追われました。ところが その天下に名の知れた問答修行僧が 妙本寺を 訪ねてくると言うのです。日具上人Nitijyou-syouninが 番神問答で 卜部兼具に 認められ全国的な 評判を得ていたので 妙本寺の住職は 代々 問答に 長けている との評判が 高かったからです。しかし その時の住職は 無言問答を した事が 無かったので 勝てる自信 等 全くありませんでした。兼喧が 同じ宗派の僧であっても  西の身延と呼ばれていた 妙本字の先輩達の成した評判を 落とす訳にもいきません。その当時 妙本寺に かなりお馬鹿な 色呆けIrobokeしている 頓菩Tonboと いう小坊主志望の小僧が 通っていました。住職は「頓珍漢Tontimkan振りで  理解しがたい面を持つ頓菩なら 兼喧を 少しは惑わすかも知れないし 負けたとしても 小坊主志願者なので 寺の名に傷が付かない。」 と 思い、やけくそになって 頓菩に 兼喧の接待を任せる事にしました。おつむに 若干の問題を持つ頓菩は 和尚から信頼を得たと 勘違いし 喜んでその大役を 引き受けました。兼喧が 悠然と現れ「我は 兼喧と言う雲水成り。住職殿に 無言問答を 申し込む。」と 申し出るとと 頓菩が「これは 。これは。 旅の雲水様  和尚さんは 今 雪隠に 詰めておられます。雪隠が 終わるまでの間 わてが お相手いたします。」と 挨拶に応じました。兼喧は 年端もゆかない少年が 相手と知ると愚弄Gurouされたと思い 怒りを感じ「一瞬にして コテンパンにやっつけて 妙本寺に 恥をかかせてやる。」と 思い 鼻息を 荒くしました。早速 兼喧は 民間の隠語である 銭zeniを 示す 法印を 結び「仏法の奥義Ougiは いかに。と 問いました。

自分の気になっていた事しか頭にない 頓菩は「そぎゃぁにおちんちんは 細くねぇ。違う。 違ぅ。」 と 手を細かく振りました。冷静であれば 少年が 勘違いして 問答を 返したかも知れないと 疑う筈ですが 頭に血が上っている兼喧は 考え違いし「そんな 当たり前の問答は 止めろ。」と 言ったのだと思い 片手の指を 5本立て両手を広げて見せ「孫悟空の五本の指の物語に 出て来るように 釈迦の手の平は 無限に近い広さだが 小坊主の心の広さは 釈迦の世界の広さより 広いと言おうとしているのか。」と 尋ねました。頓菩は 両手の指を広げて突き上げて見せ「5人だと。あんごう言うな10人以上に  口説かれた。」と 答えました。兼喧は「仏陀の10倍よりも多くの仏の世界を 知っている。」と 答えたと思い 3本指を立てた後 銭の指型を作り3回繰り返す仕草を見せ「3000尊の如来に迫るお人なのか。」と 尋ねました。頓菩は 5本と1本指を立て激しく 3回降り「ろくでもねぇ事ぅ聞くな。1日に3度が 限界かと言うんか。1日5回の日もあったがぁ。」と 答えました。兼喧は「釈迦の前後 6000尊の如来を 越え て全宇宙を支配しておる。」と 答えたと思いました。今までの問答の相手は 緊張し恐れを持っていたのに この少年は 全く億びれず 自身満面で 笑みさえ浮かべていたので さすがの兼喧も「小坊主様の仏の知恵は 無限の大きさに違いない。これ以上の問答は 恐れ多くて出来ない。一宿一飯も求め難い。小坊主ですらこの実力だから 和尚は さぞかし知識深いのだろう。」と 思い早々に 別れの挨拶をし コソコソと 退散し見延山に戻り 西の見延に 手を合わせ 毎日拝んだそうな。「妙本寺山門を訪れていた老婆より口伝」少しばかり 尾籠な話ですが 語りべの老婦に免じて 許して下さい。よく似た物語に 岡山に伝わる饅頭屋 利吉と 雲水 東念の「無言問答」が 有りますhttp://i.prodr.com/zen/z-mugon.html具足山妙本寺本堂・隋神門・ご本尊・番神堂:北緯34度48分31秒東経133度42分15秒 如来:一説では 最高位の仏 釈迦以前に3000尊 釈迦の後に2999尊現れると言われ 他の説あります。   孫悟空の五本の指の物語:釈迦如来に「俺は 地の果て迄も 飛べせる。」と 宣言し 金団雲に乗って 地の果の5本の柱を 見つけた悟空は それに 小便で 署名し 戻ってくると 釈迦の指に 証拠の署名がありました。地の果て迄 飛んで行ったつもりが 釈迦の掌を 巡っただけだと 知って 釈迦に恐れをなし 逃げ出しましたが 逃げる間も与えられず 五行山の下敷きに されました。  平成24年(2012年)4月24日

 

北 妙本寺に係る伝説 Legends related to  Myouhon-ji Temple

妙顕寺の火事 Fire at Myoken-ji Temple

京都の妙顕寺の6代目住職日具上人が 吉備中央町北の妙本寺に 隠居して 入山しました。その後 京都吉田家の卜部兼倶Urabe-Kanetomoの質問に対し 独特の番神説で 納得させ 現在の 妙本寺の番神堂を 卜部兼倶に 寄付させました。ある時 京都の妙顕寺が、火災に会いました。妙顕寺は「桶に水を汲んで持って来い。」と 言うので、その訳は 解らないまま 寺僧は 経を唱えながら 水を汲んで届けました。京都妙顕寺は 喜び、謝礼をしたと 言います。「賀陽町史」   

泣く赤ん坊 Crying Baby

日具上人は 赤ん坊が 泣く声を聞いても 何を訴えるのか判らず 自分では 何もしてやれないので 居た堪れない程の 気持ちになりました。そこで 日具上人は 赤ん坊の泣き声が 聞こえない所に 葬るよう 遺言しました。村人は 遺言を守り、死後  妙本字東方の人里離れた所 隠れに 葬り 日倶堂を建立した.。「賀陽町史」 

大草履 Big straw sandals

妙本寺の仁王門には 対の大草鞋(が掛かっています。村人が 納めたと言います。住職の奥様は「具足たぁ 胴や手足ぅ守る道具で 履物だけjじゃぁねぇ。 具足戒たぁ お坊さんが守るべき戒めの事じゃ。具足山たぁ それが由来じゃ。  ありゃぁ 自然発生的に 足の病に ご利益があるんじゃと 評判が立って 仁王門に 履物ぅ 奉納する風習が生まれたんじゃ。お寺に足繁く通って貰うにゃぁ 足が丈夫でなけりゃぁおえん。履物ぅ納める人が いるんで 履物ぅ受け入れる施設ばぁ 作ったんじゃ。山号と健脚信仰たぁ 関係ありゃぁせん。」と おっしゃいました。

 妙顕寺と妙本寺の名前の交換 Exchange of names between Myoken-ji temple and Myohon-ji temple

 嘉慶元年(1387年)日蓮宗の興隆に 不満を持っていた 比叡山の僧兵は 妙顕寺の伽藍を 壊したので 寺は 若狭小浜に 避難しました。明徳4年(1393年)足利義満が 斡旋し 三条坊門堀川(現堀川御池)に 伽藍を再建し 比叡山の僧兵の鉾先を 逃れるために 名を 妙本寺と 改めました。この時 妙本寺は 妙顕寺と名を 変えました。応永18年(1411年)に 足利義持は 自らの祈願寺としました。応永20年(1413年)寺は またもや 比叡山の僧兵により 壊されました。永正18年(1521年)足利義稙により 二条西洞院(現中京区)に 再建されました。その前後に 寺号を妙顕寺に 戻されました。https://ja.wikipedia.org/wiki/妙顕寺

北  妙本寺 泣く赤ん坊 Why is the baby crying

昔 とても慈悲深い 偉い日具上人と言う お坊さんが 具足山妙本寺におりました。赤ん坊は 自分で 何かしたくても 何もでないので 泣いて意志を 大人達に知らせるより 仕方ありません。泣いている理由が 解るのはお母さん位で お坊さんには 全く解りません。お坊さんは 泣く赤ん坊に 何かしてあげたくても 何もできないので 赤ん坊が 泣くのを見るのが 辛かったのです。赤ん坊が 泣く事が 度重なると 赤ん坊の泣き声を 聞くのも いたたまれなくなりました。しかし お母さん達は 赤ん坊が 生まれると直ぐに「元気に育つよう。」拝んでもらうために お坊さんを 訪ねて来ます。赤ん坊が 泣き始めると お母さん達は その訳を直ぐに理解し お乳を飲ませたり 御湿Osimeを 取り換えたり あやしたり 寝かせ付けたりして 上手に泣き止ませます。お坊さんが お 母さん達の能力に 感心するしかありませんでした。天明8年(1788年)のある日 参詣していた赤ん坊が 突然に激しく泣き出し お母さんが 何をしても 泣き止みませんでした。お坊さんは 不思議に思い、仏の力を借りて 心を鎮め赤ん坊の泣き声を聞き分けようとしました。お坊さんには 不思議な事に「親寺が火事だ 小桶に水を入れて持って来てくれ。」と 聞こえました。親寺である 具足山妙顕寺が 火事と言われても たった一桶の水では 火を消すのに 役に立つ筈も 有りません。お坊さんと 赤ちゃんの目を 合わすと 今まで一度も 赤ん坊を泣き止ます事が できなかったのですが 不思議にも この時は 赤ん坊は 泣き止みました。お坊さんが 赤ちゃんを信じて 桶に水を汲んで 大急ぎで 京都に向かいました。周りの者は「お坊さんの気が 触れた。」と 馬鹿に しました。お坊さんは 徳が高い人でしたの で神憑りしKamigakarisi アッと言う間に 京都に着きました。親寺は 火に包まれていました。親寺のお坊さんは 喜び 桶の水を 本尊に供えて 火事が 治まるよう 祈祷しました。すると 不思議に 火事は治まりました。親寺は 焼けた寺を 建て直そうとしたのですが「火を出した  縁起が悪い寺の名前のままでは 建て換えさせない。」と 周りの仲の悪い お寺 が反対しました。お坊さんは 自分のお寺の名前である 妙本寺を 親寺と 交換し 自分の寺の名前を 妙顕寺に しました。親寺は 喜び お坊さんのお寺を 大きくしてくれました。お母さん達は お坊さんが 赤ん坊の泣く訳が 解った事に驚き 足が 丈夫で 火事に間に合った お坊さんを ますます尊敬し 遠くからも お母さんが 赤ん坊を 連れて来るようになりました。遠くから来るお母さんの草鞋は ボロボロになっています。歩くのも 痛いのですが 偉いお坊さんに 会いたくて 我慢していましたのです。すると又  赤ん坊が お母さんに 解らない泣き方をして お母さんを 困らせました。お坊さんは又 心を鎮め 赤ん坊の泣く意味を 聞き取りました。赤ん坊は「お母さんの足が痛い。」と 泣いているように聞こえましたので 新しい草鞋を 作って お母さんに 履かせてあげました。お母さん達は 大喜びで 健脚の坊さんが お母さん達の足の弱みを たちどころに 見抜く眼力に 驚き ますます 尊敬するようになりました。有り難がる お母さん達は お礼に 草鞋を お寺に奉納するようになりました。そしてお寺の山門は草鞋で 埋まりました。それを見た何も知らない者達は このお寺は 健脚の仏様が 祀られていると思い 大草履を 奉納するようになりました。お坊さんは「足が 丈夫になって 何度でもお寺を訪ねて来て欲しい。」と 思い 草履を納められるよう 山門に棚を 造りました。これ以降は お坊さんには 何で赤ん坊が 鳴くのか 又 解らなくなりました。

お坊さんは 赤ん坊の泣く声を聞くのが 再び 堪えがたくなったので「死んだなら 赤ん坊の声が聞こえない所に 葬って欲しい。」と 言い残し亡くなりました。村人は 日具上人の遺言を 守り 人里離れた地に 葬りました。それで 日具上人のお墓は 山深く の[隠れ]に  立てられているのです。2つ伝説「賀陽町史」「妙本寺奥様の説明」「妙顕寺と 妙本寺の名前の交換」    妙本寺:北緯34度48分30秒東経133度42分15秒 隠:北2569-25712577・2578番地 墓を立る事が 禁じられていた頃の 集落用の 共同墓地と考えています。この辺りに「 隠れん城」があったようですが 遺跡を 見つけられませんでした。日具堂の地が城址でしょうか。 日具堂:妙本寺駐車場の右手の道を 右に曲がりながら上ると 十字路となります。そのまま進むと 上る道と下る道の二股の道が分かれるので 道なりに右の上る道を進むと 峠を思わせる場所の左手 北緯34度48分26秒東経133度42分31秒に 日具堂が 建ちます。 いくつかの墓石があり 土手の高みに 孤立する墓石 が立っています。これが、日具上人の墓石です。  平成23年(2011年)8月5日

 

 

岨谷 大古屋 天野幽乱 Amano-Yuuran

明治3年(1870年) 高梁Takahasiから 天野幽乱と言う人が 金毘羅信仰を 広めるために 大古屋の山に 流れて来て 小さな小屋を建てて 占いを 始めました。良く占いが当たるとして また病気平癒の祈祷も ご利益があるとして 近在からも 人が集まり 大繁盛でした。幽乱は 信者を 並べ 一人一人の尻や 背中を 蹴飛ばすのが お呪いOmajinaiの手段でした。幽乱は 滝に打たれ身を清め 明治6年(1873年)10月吉日に 丸い輪の中に 磨崖神像Magai-Sinzouを 修業のため彫り上げました。この金剛像を人々は 天野様と 呼びました。金剛の下には 花頭窓Katou-mado型に 窪みが 掘られています。「大和村史」

蹴飛ばし幽乱 Yuuran's admonition by kick

天野幽乱の占いが 良く当たると言うので 色々の悩みを訴える者が やって来ました。昔 娘だった女達が「若い頃に戻りたいので その方法を教えて下さい。」と 言って訪ねてきました。幽乱は「若返りの方法を教えてやるが やり方を間違えると 赤子になるぞ。大抵の女は 欲張り過ぎて 生まれる前に戻る者もおる  。それでも良いか。」と 答えました。女達は「うちも 欲張りそうじゃ。止めさせてもらう。」と 言うと、幽乱は 女達を一列に並べ「枯れ木に 花が咲かんと気付いたか。この愚か者め等。 曲がった腰を伸ばしちゃる。」と 言 って、腰を 次々蹴飛ばしました。ある男が「人の財布を拾って盗んだ。人に知られたらと思うと 気になって寝られん。」と 尋ねて来ました。幽乱は 庚申堂の話をし「三尸の虫は 騙せん。天帝に 告げ口される前に 虫を捕まえないと 命を 縮められる。」 と 言いました。男は「それじゃぁ ますます寝られん。」と 反論したのです。幽乱は「欲が 身を滅ぼす事が 解ったかぁ。財布を拾って 懐に仕舞い込んだ この手が悪い。」と 言って手を 蹴飛ばしました。ある老婆が「部屋に居るのに 泥棒に 隙を狙われる  泥棒に 悩まされん方法はないもんかのう」。」と 聞きに来ました。幽乱は 鼠教の話をし「参られたか泥棒殿。 入られたか泥棒殿。 盗みますか泥棒殿。 帰られますか 泥棒殿。」と お教を唱え続けなさいと 答えました。老婆は「そんな暇はねぇ。面倒臭いのでできねぇ。」と 言うと、幽乱は「何時も 部屋におるだけじゃろう。できん事は無かろう。 努力もせんで 願いが 何で叶おう。」と 諭しました。お婆は「じゃが 年を取ると尻が重うてならん。」と言うと「この怠け者め  尻を軽くしてやる。」と 言って、お尻を 蹴上げしました。ある日 身体障害があり 知能の遅れた少年が「親からの遺伝で 不幸に生まれた  幸せになりてぇ。」と 教えを乞うと 幽乱は「確かに 世間の者は お前を不幸の元に生まれたと言うじゃろうのう。じゃが 幸せを見た事が 有る者がおるか。 幸せは 誰にも見えん。 見えん物はそこにないんじゃ。 今が幸せじゃと考えるだけで お前の頭の中は 幸せになれる筈じゃ。親の遺伝子を 馬鹿にするのは 親を馬鹿にししているのと同じじゃ。 お前は 親に感謝しとらんと 言うんか。」と 諭しました。少年は「解るには解る。じゃがやっぱり不幸なまんまじゃ。」と 不満を言うと「この親不孝者め。目ん玉覚まさせちゃる。味噌汁を 持って来い。」と 言って 味噌汁で顔を洗わせました。少年は訳も解らず「出直してくる。」と 納得できないまま帰りました。幽乱は「しもうた。蹴飛ばすのを忘れた。」と 反省しました。貧乏な老人がやって来て「人生に1日で良いけぇ 金持ちになりてぇ。触るものが 金にしてくだせぇ。」と 言って訪れました。幽乱は「触るものが皆 金になるようにしてやらぁ。食べ物を 食べようとすりゃぁ 食べ物が金になって食えんぞ。 頭を掻くと お前の頭は 金になって死ぬる。それでも良いか。」と 答えました。老人は 恐ろしくなり引き下がろうとしました。幽乱は「この欲張り者め。身の程を知らせちゃる。 服を脱いで肩を出せ。 欲突く張りの荷を降ろしちゃらぁ。」と 言って首筋を蹴下ろしました。ある金持ちが「勝手にお金が増えるので 仕事をしなくて良くなった。 退屈で仕方なぇ。退屈の苦痛から逃れてぇ。」と 言ってやって来ました。幽乱は「退屈は素晴らしい時間じゃ。 無駄な時間ではない。 どうしても嫌なら 財産を人に分けてやれぇ。 欲しがる者が 押し寄せて来て財産が無くなるまでは 大忙しになるじゃろう。 貧乏になれば 働かなければなるめぇ。退屈な時間なぞなくなろう。」と 諭しました。「だめじゃ。 贅沢を 1度すると 止められん。」と 言うと、幽乱は「贅沢が文化を産む。 贅沢は素晴らしい事じゃ。じゃから 余った金の使い方を 考えて走り廻りねぇ。  この贅沢者 走り廻るよう に韋駄天Ida-tenになれぇ。と 足を後ろから蹴って 突き揚げました。学者が「私は 知識で 満ち溢れておるが 努力した 私よりも 才能の無い者の方が 世のためになっとるように見える .本当は 私に 才能が無いのじゃろうか.」と 言って来ました。幽乱は「知識の世界に 埋もれているんじゃな。才能が無いと言ってやれば お前の気持ちは 楽になるだろう。 努力に見返りを求めるから お前の心に葛藤が起こるんだ。 無理した努力は 疲れるだけで  浅い知識でも 良\いので 全体を良く見ろ。1部分を 丁寧\に見ても 良い考えは 浮かばんぞ。 希望を持て。 希望は目の前にも無いし ましてや過去にもない。 明日にしかない。お前の努力は 価値ある物だ。しかし過去の偉業を以って ありきたりの生活の中に価値を見出せ。」と 諭しました。学者が「じゃがどうすれば良ぇ。」と 尋ねると、幽乱は「応用力を身に付けなされ。まず目標は最初の1歩を 踏み出すことじゃ。  その後に お前の知識が 役に立つ。この頑固頭を柔らかくしてやる。」と 言って、頭に拳骨Genkotu代わりの蹴りを 喰ら\わせました。あんなこんなで、乱暴な説法でしたが 贅沢な苦しみ 或いは 我儘Wagamamaな苦しみから 救われた と言う評判は 評判を呼んで また面白い説法が 聞かれると言うので 難問奇問を携えて 天野詣Zmano-moudeは 盛況をなしたそうな。摩崖仏: 社賀陽線(57号線)を 吉備中央町から 総社に向かい 豪渓に向き 左に曲が所を 直進して 57号線から離れます。ルミエール病院に向かう道を 右に見て大古屋川に沿って進むと 大古屋集落があります。集落を通り過ぎると 右下に ペンション[紅]があり そこから後を振り向くと 右手奥に 左写真の奇岩が見えます。その下の山道の急勾配を 九十九に登ると 天の岩が 見つかり 磨崖仏に 出会います  。大古屋4号橋まで行くと 行き過ぎです。 北緯34度45分39秒東経133度41分7秒の近く     大古屋・大小屋:岨谷3631・3754番地等   「大和村史」「村人との雑談」  平成23年(2011年)9月27

 

竹荘 恋田の山上様 Sanmjyou-sama in Koida

恋田の 三上様は 高梁御津線(31号線)を豊野から 正力に向かい その途中 新谷写真館を 過ぎると 右に入る道が分岐します。多地公会堂を過ぎると 右手北緯34度51分31秒東経133度40分29秒に 岩泉池があります。これが大滝の成れの果てです。池の反対側に多くの石造物が祀られています。一番左は 地神碑で その右の小さい石碑は 魔法社です。その右の仏像の台座には「五〇〇大先位  岩山市右衛門 前嶋岩治良 前嶋房蔵 前嶋直八 市村銑蔵 大月佳蔵」と 記されています。次の山上大権現神変大菩薩らしき仏像の左縁に「荒組住人」と 記され、その後ろに 小さい石碑があります。その右の山上大権現らしき仏像の右縁には「講組十八人 安政(正の下に 攵)五年十一月 小井田組 山根組」と、その後ろの 山上大権現らしき仏像の頭部は 割れていて 左縁部に「講組十五」と 記されています。 総称して 三上様と 呼ばれています。山上様の訛りと 考えられます。それ等の右に 常夜燈が 立ち「奉燈」と 記されています。   或いは 3人の上人の意味で3上様と言うのでしょうか。「竹荘恋田の三上様は、大滝のほとりにあります。なぜかこの滝では 入水Nyuusui自殺する人が 後を絶たなかったのです。噂Uwasaが噂を呼んで 自殺希望者がドンドン集まって来たからです。村人は この事態に困惑していました。見ると大蛇が 自殺希望者がくると 不思議な力で 呼び寄せて餌にしていました」。「賀陽町史」平成23年(2011年)9月29

 

山上様の妖怪蛇退治 slaying the Sname monster by .Sanjyou-sama

竹荘恋田の大滝では 入水自殺する人が 後を絶えませんでした。「この大滝で入水すると 苦しまずに しかも確実に死ねるし 屍Sikabaneが 誰にも見つけられないので 誰にも 迷惑が 掛からない。」と 言う噂が 噂を呼んで 自殺希望者がドンドン集まって来たからです。村人は この印象の悪い事態に 困惑しました。ある日、山岳修行をした経験のある 勇敢Yuukanな村の男が 何日も 滝の見える場所で 何事が起こっているのか 観察しました。名所とは 言っても 毎日 自殺願望者が 訪れる訳ではありません。根気よく見張っていると林檎Ringoのような良い香りが 棚引いて来て 麻薬に侵されたように 心地良く 思考する意欲がなくなり そして香 りに 誘 われ 母なる海に 包まれたい気分になったのです。しかし 心の強い男だったので「おえん。意識ぅ保たにゃおえん。じゃが眠るンを堪えると 鬱陶しUttousiiい 嫌な気分になる。 口の中で 林檎の熟みUmi過ぎたかざ(におい)や 味がして 舌べろが 腫れたような感じがする。六月頃 の寝苦しい夜に感じる 感覚じゃ。鬱陶しさに 勝って 見張らにゃぁおえん。」と 思い直し 10日間程 怪しげな 誘惑に耐えながら 観察を続けると 特に気怠い(Kedarui快い気分になる日が やって来ました。気を張り直し 辺りを窺うと 入水自殺の名所と聞きつけた者が 滝の上にやって来て いました。渦巻き迸Hotobasiruる滝を見下ろすと 死の恐ろしさが 蘇ったのか 飛び降りるのを 躊躇しています。すると 滝壺に 白い大蛇Orotiが 現れ 赤い舌を ベロベロ出して を送り出していました。快い感覚に 抵抗し 尚も観察すると 大蛇の発する魅力的な悪臭が 漂って来ました。あの憂鬱な 体の反応が 起こり 次第に高まって来ます。半面 大蛇の気に 触れた自殺願望者は 恍惚Koukotuの表情になり 蟠るWadsaksamaru迷いが消し飛んだのか 静かに吸い込まれるように 滝壺に飛び込み ゆるりゆるりと 自分の意志で 大蛇の口に 向かっって 進んで行ったのです。大蛇は 入水願望者を 大きな口を開けて 待っています。大蛇の口が 入水者を 包み込むように 飲み込みました。飲み終わると 大蛇は雷光を発し 水に隠れました。男はこの光景を見て「並の者なら 大蛇の法力に 掛かって 催眠され 飲まれてしまう。 わしが 無事だったんは 奇跡じゃ。もそっと 滝の近くで 見張っとったら 催眠されて 食われたじゃろう。 桑原。 桑原。」と 考えながら 村に帰って 皆Minnaと 対策方法を相談しました。男は「わし等の手にゃぁ合わん。 今  一宮に 役行者En-no-gyoujysa(山上様)の技の伝承者の三上様が おいでになっておる。 役行者様は大蛇退治の名人じゃけぇ その伝承者じゃたら 大蛇退治ぅできよう。頼もう。」と 言うと 皆は「そねぇな偉いお方に 頼むんは 恐縮するが 他に良ぇ方法が見つからん. 無理を承知で 頼もうや。」と 言う結論になりました。村長Mutraosaが 腰を低くし 行者を訪ね 事の仔細を伝え 大蛇退治をお願いすると 三上様は快く引き受けてくれました。行者が  恋田の大滝の崖上に立つと 大蛇が現れ 大きく開いた口から シャーシャー と 気を繰り出します。その度に 行者は ふら付き 倒れそうになりましたが 直ぐに 体制を整え 印を結び 孔雀明王の呪法を続け 毒気を消し 続けました。大蛇は 自殺希望者を 苦しむことなく死なせてやっていると 徳を 確信しており 行者は 村人の苦しみを救う 徳を 必ず果たす覚悟をしていたので 互いに譲るわけには 行きませんでした。徳と徳の競い合いの 3日間の 長い長い互角の法力の鬩ぎ合いSemegi-saiでした。大蛇は 食い貯めができるので さほど体力の消耗を しませんでしたが 苦行を続けていた 行者は 痩せ細っていたので 息も絶え絶えになりました。それを見た大蛇が 勝利を 確信し 気を緩めた瞬間に 行者は 信じられない程の 天まで響き渡ろうかと思われる程の声で を入れると 一瞬にして 大蛇は もんどりうち 死に絶えました。村人は 感謝し 行者をもてなし お礼のお金を差し出そうとしたのですが 行者は「その錢を使うて ここにわしの石像を 祀りなされ。二度と魔物は 住みつく事はなかろう。」と言って 寡黙に 悠然と 立ち去りました。村人は 行者の言う通りに 山上様 三上様等の石仏を作ると それからは 大滝に邪悪の蛇は 住み付かなくなり 自殺志願者が 来ても 滝壺に向かうと 山上様の法力によって戸惑ったあげく 自殺を取り止めました。そればかりか ここで知り合った男女の自殺希望者達は 不思議にも 恋に落ち 生きる喜びを感じ 立ち去るので 恋田と呼ばれるようになりました。「賀陽町史」    恋田・肥田:竹荘1787・2124番地等 肥沃な地が 地名の由来も考えられます。美濃国から 土岐大炊亮頼武Tok-ooino-suke-Noritake(彦太郎)が 竹庄肥田村に落ち延びて来て 肥田の名を 名乗り 住み付いたとされます。 肥田氏の名田が 恋田等の地名域を広めたのでしょう。 施鬼免:竹荘2024番地  恐らく 庶民が墓を 造る事が許される以前の いわゆる投げ打ちや 姥捨て山と呼ばれる庶民の共同墓地の場所でしょう。   仏教行事施餓鬼に関る と思われますので 寺の管理地だったかも知れません。    役の行者・山上大権現・神変大菩薩Sinben-dsaibosatu:山岳信仰を 極め幾多の妖怪大蛇を 退治しました。 中臣鎌足Nakatomi-no-Kamatari  大海人皇子Ooama-no-oujiを助け その後 吉備国一宮Iti-no-miyaに来て 吉備中山を いわゆる黄金噴く地としました。 孔雀明王教の妙法を 会得し あらゆる毒を 消滅させ得ました。 雲を操る術も会得したので  雨乞いの仏神としても  崇められます。https://ja.wikipedia.org/wiki/役小角」  平成23年(2011年)9月29

 

田土 岩王山伝常寺の妖蜘蛛 spider lived in iwaouzan-Denjyouji temple

昔 王山伝常寺が 栄えていた頃の話です。伝常寺に 蜘蛛が住み付き 修業場に 巣をを作りました。山岳修業僧達は 油断すると 糸が顔に張り付くので 蜘蛛の巣に 悩みました。しかし 仏門にいるので 殺生もできず 遠くに連れ出し追い出すのですが 直ぐに戻り巣を張りました。猿顔をした新米が 修業に加わると蜘蛛共は 猿顔の男に 不思議な能力を 感じ取ったのか 猿顔の男を 利用してやろうと思ったのか  蜘蛛はどこかに行ってしまいました。暫くすると 本尊に備えていた供物が 時々無くなりました。「最後に 就寝する新米の猿顔の山伏 が  激しい修行で 腹をすかし盗み食いをしているのだろ。」と 責められ 猿知恵のイヤシン坊と 呼ばれました。濡れ衣を晴らすため イヤシン坊は 寝ずの番をし 犯人を 捕まえようとしました。すると 真夜中に 僧侶が 天井から現れて お経を唱えながら お供え物を 天井裏へ運んで行きました。イヤシン坊は 先輩達に その話をしましたが「 天井裏に 坊さんが 住める訳けぁねぇし 捜して見たが おらんぞ。盗み食いの言い訳じゃ。 お前ぇが 泥坊じゃ。」と 言 って更に 責められました。イヤシン坊は 悔しくて「化け物を退治してやろう。」と、粘っこい餅を作り お供物としました。その夜も 案の定 化け物が現れて 餅を天井裏に運ぼうとしましたが 粘っこい餅が 天井に当たると粘り付くのでうまく運べません。もがけば もがく程に 餅は伸びて広がり 蜘蛛の巣の様な 鳥餅になりました。「しめた.。まんまと罠 に掛かった。」と 思い イヤシン坊坊は「この泥棒坊主め。」と 天井に登り 泥棒を 捕まえようとしましたが 鳥餅に 手も取られ 足も取られ 身動きできません。すると大蜘蛛が 現れ鳥餅の糸を 上手に伝い やって来て イヤシン坊を 見事な迄に 縛り上げました。これでは 餌にされると 思い 先輩達の助けを求めようとしましたが 蜘蛛の糸で 猿轡sarugutuwaされていて 大きな声を出せません。ドタバタしようとしても 身動きが取れず 先輩達を 起こす程の音がしません。翌朝 先輩達が 起きてみると イヤシン坊が見当たらないので「あの野郎。 修業が 辛くて夜逃げしたかぁ。」と 思って 朝のお勤めをしようとすると 天井から餅の糸が垂れていました。不思議に思い 天井を覗いてみると 大蜘蛛が イヤシン坊の生き血をまさに吸おうとしているではありませんか。先輩達は「猿の奴 猿轡をされとる。助けにゃならん。」と 孔雀明王教を 声を合わせ唱えると 大蜘蛛の術は 破られ 普通の蜘蛛に戻って 天井から逃げ出しました。先輩達は 追いかけ庭先で 更に呪文を掛け 蜘蛛が 妖力を使えないようにしました 。山伏達は 蜘蛛の化け物が 栄養を付け 更に力を 蓄えれば 自分達も 餌にされたかも知れないと思うと 知恵を働かせた 初心者の山伏に感謝し2度と上から目線で見る事はありませんでした。「田土 桜坂の村人より口伝」    現在の岩山王伝常寺:田土桜坂2836番地、北緯34度51分40秒東経133度44分6秒 本尊は神変大菩薩Sinben-daibosatu山上様 現在の伝常寺の北の分岐を 東に進むと 僧侶の供養塔や 大きな寺の跡があります。 孔雀明王教法:山岳信仰の確立者 神変大菩薩役行者が習得した全ての毒を取り除く術  平成28年(2016年)11月23日

 

くもの化け物 Monster of spider

ある所のお寺の話です。本尊にお供えをして置くと いつの間にか無くなりました。「きっと誰かが盗み食いしておる 退治せにゃぁなるまい 。」と  和尚が 思い 法力を込めたネバネバの餅を作り お供物の上に塗って置きました。すると 何処かの坊さんが 白い法衣を着て現れ  一拝みして お供え物に手で触れると お供え物は祭壇に張り付いていて 持ち上がりませんでした。お供え物を 離そうとしましたが 張り付いていて 力いっぱい引っ張っても離れません。足でお供え物を挟み 根限り力で引っ張ると お供え物に足が張り付き 剥がれなくなりました。根限り暴れまわると お供えは祭壇から剥がれましたが 手足は 着いたままでした。口で食いちぎろうとすると 口も張り付いて 取れなくなりました。流石に苦しく 終に白衣の坊さんは 姿を現し 大蜘蛛になったそうな。「加茂川町の昔話 河原澄江」     平成30年(2018年)10月3日