子宝観音 子宝観音物語 粋な観音様 和の碑 三宅不動 老僧の淵 大山参り 夜泣観音 五明の悲劇 大智明権現碑
寺屋敷の太鼓丸付近で 開墾中に 1.8寸の銅製の 観音菩薩像が 掘り出されました。最初 金製でしたが 何度か 法院が 拝する内に いつの間にか 背丈が 少しばかり低くなったような気がし 仏像は 銅製に なってしまいました。それでも 近所の子宝に 恵まれないご婦人が 試しに 拝んで見ると 子宝に恵まれ、更に 不妊女性3人が 拝むと 2人に 子宝が恵まれました。子宝に 恵まれるご利益があるとは知らず 拝んでいたこの屋の祖母が 双子を生ぬ等して 計12人の母と なりました。長年 子供が生まれなかった お孫様も ご利益が 有りました。「尾原 苅山の村人の経験談」 平成28年(2016年)5月11日
昔 苅山に〔茂]と 言う男がおりました。働き者だったので もっと畑が欲しいと思って 畑を増やす事にしました。大ガッソになっていた 苅山城跡の寺屋敷の辺りを お父さんと 一緒に 開墾しました。ガツンと 鍬が 何か堅い物に 触れました。「又 癖の悪りい 石ころじゃ。」と 思って 掘り出してみると なんと 金の観音菩薩像でした。「有り難や。有り難や。」と 言って「掘り出し観音。」と 呼んで 仏壇に お祀りしました。この観音様に どんなご利益があるか知りたくて 法院様に 頼んで 拝んでもらいました。法院は「一度じゃ解らん。」と 言うので 何回も 拝んでもらっていると 法院は「照見様が見える。ご利益ぁ 子宝に 恵まれる事じゃ」。」と 言いました。茂は「なんじゃ。その照見様たぁ。」と 尋ねると 法院は「備中守藤原実高と言うお方が おって 寝屋の長者と呼ばれていたんじゃが もんげぇ教養のある 照見様ちゅう 奥方aぁ もろうたんじゃ 。 お似合いの二人の夫婦仲ぁ ぼっこう良うて 何不自由無く幸せな毎日ぅ 送っていたんじゃ。じゃが 子が おらんのだけが 不満じゃたんじゃ。ある年 奥方ぁ 大和の国の初瀬寺Hase-deraの長谷Haseの観音様に 詣でたら ひょっこり子を 授かったんじゃ。その照見様じゃが。」と 答えました。それを 聞いて喜んだ茂は 沢山のお布施を上げました。
すると お父さんが観音様を見て「茂ぅ どねぇになっとるんじゃ。観音様が 銅に化けとる。緑青がふi獲る とる。」と 言うので 法院を 呼び付け 訳を聞きました。法院は「観音様ぁその人の願いぃ その者に合ぅた姿で 聞いてくださり、その者に合ぅた姿で 叶えてくださるんじゃ。 じゃけぇ この姿に 変化されたんじゃ。 これが 庶民の者が 子宝ぁ授かる つまり ご利益ぅ 頂ける 有り難ぇ時の 姿じゃ。」と 堂々と言うのです。茂は「なるほど。まぁ仏ぁ仏じゃ。あたら疎かにゃぁできまぁ。」と 思って 大切に 仏壇に 祀りました。茂の友人に 鴛鴦夫婦の名を 地で行く者が居りました。しかし 何故か10年間 添い通しているのに 奥方に 子供が出来ず 跡取りの心配をする歳に 成っていました。茂が 掘り出し観音の変化の話をすると その夫婦は「そりゃぁ 上手げに 騙されたんじゃなかろうか。じゃが物ぁ 試しじゃ。 拝まして頂戴ぇ。」と 言って 拝んで 帰りました。すると 夫婦に 子が 恵まれました。それを聞き付けた 不妊に悩む者が 次々と 3人やって来て 拝むと この人達 も 目出度く ご利益を 得ました。その上 毎日観音様に お供物を上げていた茂の母が 産気付き 双子を産みました。次の年も 身籠り 双子が 生まれました。次の年には 三つ子が 生まれました。そしてついにに 12人の母親に成りました。驚いた茂は「恐てぇKyoutee 事じゃ。 また婆さんに もっと子が できちゃ困ろうもん 秘仏にせにゃぁおえるまぁ。」 と 言って観音様の厨子を 封印しました。時に 男が訪ねて来て「有り難ぇ観音様ぁ 祀られておられるそうじゃ.。 わしぁ男じゃけぇ 妊娠は せんけぇ 物の話の種にするけぇ 拝ませてぇくれぇ。」と オズオズトと まどろしくたのみました。すると 茂は「おえん。 あんたみてぇな上男Jyoutoko(色男)にゃぁ 拝ませられん。 あっち こっちに 父無子Tetenasigoう 生まれたらどねぇする」。」と 言って 断りました。時代が変わり 日本の合計特殊出生率(一人の女性が一生に産む子供の平均数)が 極端に低くなったので 子供が増えて欲しいと 願うようになった 茂は 自由に参詣してもらうようにしたそうです。現在8名の不妊に 悩むご婦人の7人に 子宝に恵まれました。心配された 父無子は 増える事は 無いように見えます。「尾原苅山の村人より口伝」「鉢かづき姫のお話 (murata35.chicappa.jp)」 大屋敷・寺屋敷:尾原刈山 北緯34度55分13秒・東経133度44分51秒 観音堂:尾原1401-1403・1413-1415番地 観音堂跡:尾原前地1427番地の北・道の東 北緯34度55分14秒・東経133度44分58秒 太鼓丸:尾原1417-1418・1421・1516・1519番地 仮山1507番地の東・馬乗り場の南東 北緯34度55分9秒・東経133度44分53秒 仮山:尾原1419・2017番地等 尾原仮山1447番地:北緯34度55分9秒・東経133度44文47秒 尾原仮山1507番地:北緯34度55分8秒・東経133度44分54秒等 馬乗場:尾原1473・1474・1510番地 仮山1507番地の北東の鼻 北緯34度55分10秒・東経133度44分51秒 おおがっそ:化け物が住んでいるような深い繁み どねぇ:どんな具合に できまぁ:できない筈だ うまげ:うまい具合に おえるまぁ:しないとダメでしょう おえん:だめ 平成28年(2016年)5月11日
昔 観音様を 信じていた 結婚願望の強い 可愛らしい女の子がいました。ある夜 夢枕に 観音様が現われ「あした拝みに来られぇ。最初に合うた男と 結婚せられぇ。 幸せになれらぁ。」と お告げになりました。娘は 心をときめかしながら 観音堂で 待っていると 貧乏くさい男が やって来ました。「なんと。すばろうしい男じゃ。あねぇな男に 嫁がせるTotu-gaseruたぁ 観音様もいけずじゃ。」と 思っていると みすぼらしい男が 石に躓いてTumadui-te転んだ所へ 突然 馬を走らせ 凛々しい若武者が やって来ました。娘は「流石sasugeぁ観音様じゃ。なさる事が 粋Ikiじゃ。」と 言って 若武者と 結婚しました。「早く子供が欲しい。」と 願うのですが 夫は 摩利支天を信じ 妻にも 拝ませ 武芸に励むばかりで 見向いて ももらえず 3年経っても 子供ができませんでした。「嫁kaして3年 子無きは去れ。」と ばかりに「三行半Mikudarihan」を 書かれ 郷に追い返されました。娘は 意地悪な観音様に「お告げ通りにしたんに 不幸になった。」と 文句を言うと その夜 観音様が 再び 夢に現れ「まさか。あの男が ひょろどうてかやるたぁ 思わんかった。 明日 も一度お参られぇ。上男Jyoutokoぅ 待たしておくけぇ。」と お告げになりました。母親と連れ立って 出掛けると あのみすぼらしい男が 観音堂の掃除をし 終わり「わしにゃぁ どぎゃぁして 嫁が来んのじや。 こぎゃぁに お守りしとるんじゃ 。 観音様。 早うお告げの通り嫁をぅ 世話してつかぁせぇ。」と お願いして居ました。母親は 信 心深いその男の独り言を 聞いて 娘の事情を 男に話し「観音様のお告げじゃ。娘の婿mukoになっておくれぇ。」と 頼みました。娘は「あねぇな男じゃ 嫌Yaじゃ。 本に 観音様ぁ いけずじゃ。」と 嫌がりましたが 母親に「出戻りの癖ぇして 贅沢ぅこくもんじゃぁねぇ。これも 観音様の 端からの お考えに 違ぇねぇ。信じねぇ。」と 言われて 娘は 渋々 結婚しました。娘は みすぼらしい夫との子供を 生みたくなかったので「観音様 子供を授けんでくだせぇ。」と 頼みました。
しかし 夫は 観音様に感謝し 妻よりはるか に熱心に 毎夜 観音様を 拝みましたので 間もなく子宝に 恵まれました。「いけずな 観音様じゃ。 なして うちを ひょうたくるんじゃ。」と 始めの内は 言っていましたが 自分の子供は 可愛いkawaii)もので 父親似の子供が 笑う姿に 幸福を感じ 嬉しくなりました。子供が 好きになると 疎ましかったはずの夫が 上男に見えて来て 好きになりました。夫は 相変わらず 粋な計らいをする 観音様を熱心に拝み 妻も 積極的になったものですから 二人には 大勢の子供が 生まれ 家は栄えました。「馬には乗って見よ。人には添うて見よ。」です。「尾原苅山の村人より口伝」 じょうとこ・上男:色男 美男子 すばろうしい:貧乏くさい みすぼらしい いけず:「いじわる」を意味する女性言葉 ひょろどう:フラフラする ふら付く かやる:ひっくり返る なして:なんで ひょうたくる:いじわるする からかう 平成24年(2012年)4月22日
和の碑 Ston monumennto of Wa "Harmony"
茂の家の近くに 観音様と一緒に 観音様に護られた仏達と 行倒れの地蔵様が 仲良く住んでおりました。東の丘の上に 住んでいた仏達は 彼らの微笑ましい 仲良しぶりを 見ている事が 好きで 堪りませんでしたし、村人も 毎日のように 参詣する事が 楽しみでした。処が 自動車が 使われるようになると 観音堂の前の道は 自動車が通るためには 狭く不便でしたので 広げる事になりました。観音様と 観音様に護られていた仏達は 手狭となった境内から 寺屋敷に新しいお堂を 建て そこに引っ越させられる事になり お地蔵さんは 崖上に 移されました。仲良し達が 人間の都合だけで 離れ離れにされるのを見ていた丘の上の仏達は 一人ぼっちになった地蔵様が 寂しがるので 自分達だけは 絶対にここに留まり 遠くから地蔵様を励まそうと相談し「行かん。 行かん。」と 踏ん張りまし。寺屋敷に移された仲良しの二尊の仏(供養碑)は 「地蔵様に 合いたい。合いたい。」と 夜な夜な 泣きました。踏み留まっていた 丘の上の仏達も 道路拡幅工事に 合わせ 現在の刈山札所に 墓石ごと 移転させられました。仲間が増えても 2基の墓が「地蔵様に 合いたい。合いたい。 帰りたい。 帰りたい。」と 夜泣きし続けたのです。うるさく騒ぐ仏達に 村人達の足が 遠のき 仏様と人間との 和が 乱れました。すると村には 土地の所有を廻って いざこざが 起こったのです。いざこざを 経験した茂は この仏達の友情を見ていて 人間の身勝手が 悲しくなり 村人と相談 し 夜泣している2尊の仏と 2基の墓を 元の地に戻してやる事にしました。これを切っ掛けにして 村人の話し合いも進み 土地の売り買いの話も 決着が付き 平和が取り戻されました。茂は 和の重要性を感じ 人 自然 仏の和を願って 和の碑を立て 十数年に渡り 広大な敷地 に 躑躅tutujiや皐月Satukiの木や 花々を植え 人の心 仏の霊を和ませnagomaseました。花の咲く季節には 街道を行く旅人や 村人が 脚を止め、刈山の山を 愛でます。「尾原 苅山の村人より口伝」を基にした物語
帰りたいの墓・行倒れの地蔵:落合加茂川線の塚原橋で 刈山に向かうと Y字路となるので 南東に道なりに進むと 左手北緯34度55分15秒・東経133度44分58秒に小さい平坦地があり 3基の墓と1基の台石が 有ります。2基は 並んで立ち園その内の一基は 石製の厨子に 囲まれた 輪塔であり 1基は 石塔で この2基が「帰りたい。帰りたい。」の墓です。かつて ここに 観音堂が 建 っておりましたが 現在の寺屋敷に 移されました。 観音堂の南西 尾原1427番地の北東 北緯34度55分13秒・東経133度44分59秒に 行き倒れの巡礼者を悼んで 祀った 地蔵 が立っています。
加茂市場萩の坊の如意輪観音像は 秘仏でした。扉を開け 観音像を見ると 祟られ 盲目になると 伝えられていました。とある時 住職は「もう年老いた。 御本尊を拝まずには死ねない。死ぬ前に一度で良いから 御本尊を 拝観したい。」と 思うよなり お堂の扉を 開けました。観音像は 鋭い光を発し 老僧の目を焼き 光りを失わせました。老僧は 盲目となった事に悩み苦しみ 世を儚んで 大月の淵に 身を沈めたそうな。又 別の人が言うには 「老僧が 誤って大月の淵に 嵌まった。」 或いは 「大月の淵で 溺れかけた少年を 援けようとして 水の犠牲者となっ た。」そうです。大月の淵の名は, 大月家が管理していたので その名が付けられ この伝説に基づき 老僧渕と も呼ばれます。「加茂市場の村人口伝」
昔 和田の青木の森の宗林山に 宗林寺Syourin-*jiと 言うお寺が 有りました。素戔嗚Susa-no-o様が 祀られている神社の別当Bettouでしたが、素盞雄神社を 青木の森に残して、井原の青木に 引っ越して来ました。ここでも 宗林寺は 青木の祠Aoki-no-Hokoraを見捨てて 加茂市場の元兼Motokaneに 引っ越して来ました。ここでは 御上Okami(池田光政)の方針で お寺を 止めさせられましたが 檀家Dankaの人が 苦労を重ね 下加茂の吉田に 牛頭山宗林寺を 建てました。元兼には 萩の坊だけが 取り残されたので 萩の坊の如意輪観音様は すねました。お堂に隠れ「誰も見てはならぬ 見た者の目が焼く。」と 宣言しました。天の岩戸に隠れた 天照大神より 恐ろしい宣言をしたので 寺に務める者も 檀家衆も 恐縮し お堂を 開帳する者は いませんでした。その寺の住職も その教えを 守り お堂を 真面目に 管理してきましたが 年老いて来ると「死ぬ前に 一度位は 御本尊を 直接拝みたいものだ。 随分と御開帳していないので さぞ御本尊様は 埃Hokoriまみれになっていよう。 お浄めして 差し上げたいものだ。」と 考えるようになりました。一度 思い込むと その思いは 募るばかりです。この老僧は ついに 好奇心が 心の抑制に 勝りました。合掌し 神仏の加護を 祈りながらも 恐る恐るお堂の扉を 開け 御本尊を 拝もうとしました。修行を 極めた僧侶でしたが 恐れる心は 仏の加護に 僅かな疑念を 持っていた 証でした。すると 輝かしい光を 御本尊が放ち その鋭い光は 老僧の目の 網膜を焼いたので その日から 老僧は視力を失い 暗闇の中で 暮らすようになりました。自分の犯した罪を 悔いながら 仏に尽くす修行を 重ねるうちに 自分の修行の未熟さを 悟りました。すると目は見えないのですが 周囲の様子を 手に取るように 分かるようになったのです。老僧は「私は悟り 仏の境地にいる 恐れるものは 何もない。」と 慢心しました。ある日 川にはまった子供の助けを呼ぶ声がしたので 老僧は躊躇なく 声の方向に 正確に進み 雨で増水していた川に 入り少年の救助に向かいました。
水の勢いは 想定以上に激しく、足を水蘚Mizugokeに 取られ 不覚にも 転落してしまいました。老僧の脳裏に一瞬「ああ。目が見えていたなら水の勢いを 想定できたのに。」と 更なる能力を望む 欲望が 過ったyogittaのです。一端 悟りを失い 目の不自由さを感じると 心の迷いの深みに溺れるかのように 川の深みへ 深みへと 流され ついに 少年を助けられず 溺死Dekisiして しまいました。村人は 老僧と少年をを憐れんで 近くの川岸に 地蔵を立て 祀りました。それでこの渕を 老僧淵と呼ぶのです。またこの淵は 大月家が 管理していたので 大月の淵とも 呼ばれました。このことが有ってからは お堂を開けようとする者は 無くなり、お堂は古びても 修理できないので ボロボロのままなのです。別の伝説では 光を失った 老僧が 身を儚んで あるいは 誤って 大月の淵で 亡くなったとされます。「美原江下の村人より口伝」
牛頭山宗林寺:下加茂2046番地 北緯34度51分31秒・東経133度48分51秒 和田・牛頭山観音堂:宗林山・青木山頂 北緯34度53分30秒・東経133度43分59秒 井原・青木山明王寺不動院:北緯34度53分37秒・東経133度45分22秒 元兼牛頭山萩の坊・不動明王加茂霊場:北緯34度51分51秒・東経133度45分54秒 老僧淵・大月の淵:加茂市場大鳴16-1番地(北緯34度52分1秒・東経133度45分54秒)の東の宇甘川の流れの速い辺りから その北 加茂市場滝山上10-2番地(北緯34度52分4秒・東経133度45分57秒)の東 宇甘川が 堰き止められている所迄 少年を悼んだ地蔵・奥の院3番の石仏: 堰の向こう側の杜の中 北緯34度52分5秒・東経133度46分1秒 老僧畑:加茂市場2080番地 寺田:加茂市場2090-2092番地 地慶:加茂市場2095・2186番地等 平成26年(2014年)10月13日
「念仏踊りは 古くから行われていましたが 年末Tosisueに 災害の無い時期が 続いたので 神主さんに払う 初穂料や 和尚さんに払う布施が 勿体なく思い 念仏踊りを病めました。すると 疫病が 流行り 村人 に犠牲者が 出たので 反省し 念仏踊りを再開しました。 「年末に残る伝説」
昔 年末Tosisueと言う所で 年仏踊りを 毎年 欠かさず8月16日に行っておりました。淡々と年月は 進みますが、これと言った難儀な事件は 起きませんでした。お祭りのご利益Goriyakuが 無いなら 初穂料や お布施を払うのは 馬鹿らしいと 言う事になって、お祭りを 取りやめる事にしました。数年後の年末Nenmatuに インフルエンザが 年末Tosisueに 迫って来ました。当時の医療では インフルエンザの流行を 止める術も 治す術もありませんでしたので お婆さんが一人犠牲になり 多くの人が 苦しみました。村人達は 困惑し 対策を取るために神瀬年末の子安観音堂に 集合し 話し合いました。 「小森で 風邪が流行って おえんようになった者が おるそうじゃ。」「きょうてぇのう。 谷風邪(谷風の死因は御猪狩風Oikari-kaze)かぁ。 雲助風邪かぁ。」「違う 女子Onagoの名前がついとる奴じゃ。」「じゃぁ お七風邪かのう。 お駒風邪か。」「違う それ。久松留守の札ぁ 貼る奴じゃ。えーと お染風邪じゃ。」「どえれぇ事じゃ。隣の婆ぁさんが おえん事になった。ぞ」「なに 一 族の者もおえなかったんか。」「念仏踊りを 止めたんが おえんかったんかのう。」「神や仏の祟りじゃと言うんか。今迄ぁ ここらぁ 神瀬言う位じゃけぇ 神のご加護が あったと思っていたんじゃが 違うたのか。」「念仏踊りぃ せにゃぁ おえんじゃろう。 念仏踊りぃしていた時ぁ こぎゃぁな事ぁ 一度も無かったもんな。」「じゃ。 じゃ。 仏様を 粗末にしたんが おえんかったんじゃ。 今年からぁ しゃんと 念仏踊りい また始めようや。」そう言う事で 念仏踊りは 再開されました。そうすると年末に 平和が戻りました。「神瀬 年末の村人の口伝」 子安観音堂:神瀬196番地の北西 北緯34度55分32秒・東経133度50分27秒 谷風邪:谷風と言う横綱は「わしが 倒れた所を見たけりゃぁ風邪(谷風邪)で寝とる時に見舞いに来ねぇ。土俵の上じゃぁ わしが 倒れるのは 見られん。」と 啖呵を 切っていました。その谷風が 風邪が原因(御猪狩風)で あっさりと 死にました。天明の頃(1781年~1789年)に 流行した インフルエンザを 谷風邪と 江戸の人達は呼びました。 雲助風邪:明和3年(1766年)3月頃の風邪の流行があり、雲助 火消し 鳶Tobi 等の間で 流行し 多数が 死亡しました。この時の風邪を「雲助風邪」と言います。 お七風邪:八百屋お七の歌が 流行っていた時の文化元年(1804年)の流行の風邪の事 お駒風邪:お駒を 題目にした 義太夫が 流行っていた時の 安永の頃(1776年)の風邪 お染風邪:寛政4年(1792年)お染・久松の 芝居が 流行っていた時の風邪。 野崎から発した 悲恋が 全国に伝染するように 広まる世相に似て風邪が流行し 罹ると お染の燃える恋心のような熱が出て 火に火照ったように 顔が赤くなったので お染め風邪と 名付けられました。「久松さんは 留守なので お染風邪さん 来ても 無駄です。」との意味で「久松留守」とか「お染御免」と 書かれた 守り札を 軒に張りました。 明治23年(1890年)から 翌年に掛け、野崎からインフルエンザが 流行り始めたので「お染風邪」と名付けられました。やはり「久松留守」の守り札が 軒々に 張られました。 その他のインフルエンザ:お世話風邪 稲葉風邪 だんぼ風邪 ねんころ風邪 津軽風邪 薩摩風邪 琉球風邪 アメリカ風邪等が有り 最近では香港風邪 スペイン風邪 アジア風邪 ソ連風邪 等と 言うものも有ります。 極 最近では 鳥インフルエンザが 人型インフルエンザに 変わる事が 心配されています「https://machi-log.net/?p=46565&page =2」「https://influ-info.jp/basic/history.html]」「インフルエンザの流行と歴史|インフルエンザ情報サービス (influ-info.jp)」 平成23年(2011年)10月7日
供養塔伝説:昔 大山参りし お水を頂いた帰り道 萩坂で 力尽き亡くなった村人が いたので 供養塔を立て 祀りました.「加茂川町史」「加茂市場村人より口伝」
伊勢原・雨降山大山寺の雨乞いの仕来たりの伝説:神職 住職の清めを済ませ 白行衣Siro-gyoui、白手甲Siro-Tekkou 白脚絆Siro-kyahaを身に着け 茣蓙姿Kogoza-sugataに 雨具 菅笠Sugegasa 鈴を 携え「懺悔Zange 懺悔 六根清浄Rokkon-syoujyou」と 唱えながら 大山に進みます。飲食用の時 睡眠時以外は 大山寺で お祓いを受け頂いた神水は 立ち止まらず 地に置かず 水を零koboさず 持ち帰ります。聖水が 持ち帰られると 神主に 拝んでもらい、皆で お神酒を 頂きます。竹藁俵Takewara-dawaraに 御幣Goheiを持ち、笛太鼓で 囃しながら 池や 川に 繰り出します。神主が 祝詞Noritoをあげ 和尚が 教を 読む中 男達は 川や池に入り 梵 天人形や 神主 和尚や 巫女に 水を掛け 六根清浄を 唱えます。雨が降ると お湿り正月と称し 休養を とりました。伯耆角盤山大山寺Houki-Kakuban-zan-Daisen-jiでの 仕来たりも これに準じたそうです。「加茂市場村人より口伝」
命がけの大山参りf Visigt to Dai-sen mountain at the risk of one's life
下加茂の里は 来る日も来る日も 雨が 降りませんでした。「8月 日照りは 里芋に祟るTataru」の諺Kotowaza通りお盆までに 雨が降なければ 野菜も米も 枯れてしまう程の旱魃Kanbatuが 続いたのです。村人は 困り 雁首Gankubiを 並べ相談し 大山参りをする事になりました。雨男 天輔 降三が大寺僧正と 山王宮宮司の代参に 選ばれました。大山は 牛馬の守護神ですが 五穀豊穣 雨乞いの神でも あります。三人は 大山雨乞いの仕来たりを 教えられ「絶対に守らないといけない。」と 言われ 大山寺に向け 装束具足を整え 加茂市場から 豊岡 鹿田 三坂 釘貫 鳥居峠 郷原 延助を通過し 横手道に入りました。途中で 吉川 田土から来た10人程の代参に 合流しました。「懺悔 懺悔 六根清浄 懺悔 懺悔 六根清浄」と 唱えながら 山道を 歩き続けました。大山寺で 池さん神事のお祓いを 受け、ご神水(お水)を頂きました。吉川 田土から来た代参は 小さい水筒に 少しお水を頂いたのですが 下加茂の3人は「あぎゃあにちいとのお水じゃぁ 足る物か。10人もいてだらしないのう。」と 笑って大きな 徳利に一杯づつ 並々と お水を頂いたのです。ゆうに 20Kgに なったと 思われます。帰り道では「立ち止まるとその場所に 雨が降ってしまい ご利益(Goriyakuが 減る 。水を零すと神様を愚弄Gurouした 事になり ご利益が失われる。」と 聞いていました。勿論 地に置けば 止まった事になると思いました。だから 村の人達の苦しみを 思えば 馬鹿正直な3人は 夜になっても 歩き続け 用を足す時は お水を仲間に預け 排泄意を 鎮めると 後を追い掛けました。水を飲むのも弁当を食べるのも 歩きながら 済ませました。疲労 空腹 脱水の上に 重さに耐える 正に命を懸けての 帰路となりました。加茂市場が見える所の 萩坂Ogisakzでは 大寺の和尚や 村人が 心配して迎えに出て来ていました。息も絶え絶えで 力なくふら付く三人の姿を見て、急いで村人は60Kgの徳利を受け取ったのです。
徳利を渡すと、降三は 力尽き意識を失って倒れ 介抱の甲斐kaiもなく息 絶えました。お水を 山王宮に運び 神主に拝んでもらい 皆で お神酒を頂きました。村人は 梵天(大型の御幣)を 先頭にし 神主と 和尚と 巫女が 水を持ち 笛太鼓で 囃しながら 宇甘川Ukai-gawaや 溜池に水を運び 皆で お神酒を頂き 山王宮の神主が祓いをし 和尚が 読経しているところへ 村人達は 六根清浄を 唱えながら 神主と 和尚と 巫女の頭上に お水を注ぎ 溜池や 川にも お水を注ぎました。沢山の水を 注いだので 他の地域より早くより多く雨が降ったのです。村人は 降三に 感謝し 萩坂に 供養塔を立てました。雨が降ったので 仕事を 休み お湿り正月を 過ごしたそうです。「大山のお水取り」「雨乞い神事」「大山参りと供養碑」 大山参り犠牲者の供養碑: 加茂総社から のびのび小学校に 向かう道の加茂総社の直後の荻坂の途中 北緯34度51分53秒・東経133度45分33秒にあります 。南無阿弥陀仏と読めます。 梵天:釈迦Syakzの悟りを 率先して 布教した仏 伯耆大山・剣ヶ峰:北緯35度22分16秒・東経133度32分24秒 角磐山大山寺:北緯35度23 分28秒・東経133度32分6秒 伊勢原大山阿夫利神社Oo-yammaAhuri-jinjya・雨降神社:北緯35度25分15秒・東経139度15分25秒 下加茂日吉神社:北緯34度51分46秒・東経133度49分25秒 下加茂牛頭山宗林寺:北五34度51分31秒・東経133度48分50秒 大寺:下加茂1311・1397番地等 日吉神社の西の此谷川対岸にあったとされる寺で 現在ありません。 山王宮・現在の日吉神社:下加茂1128(北緯34度51分35秒・東経133度48分50秒 宗林寺宇甘川対岸 大山堂隣地)・1129番地 加茂市場加茂総社宮:北緯34度51分51秒・東経133度45分30秒 平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備人出版】が発行されました。P339~P344に「大山参り」に関する民話が載っています。
平成24年(2012年)5月17日
杉谷山千光寺は 池田光政による岡山藩の寺院統制の時 廃寺の憂き目を見ました。室町時代の作とされる本尊の千手観音像は 真庭の一色の清水寺に 移されました。住職の枕元に 毎夜千手観音が現れて「すぎたに。すぎたに。」と 夜泣きし千光寺に帰りたいと 訴えたため 元の千光寺に戻されました。「杉谷山千光寺」
寛文の頃、江戸時代の3大名君と評判の池田光政と言う殿様が、岡山が 貧し過ぎるので 岡山を良くしようと 鳥取から 岡山に引っ越してきました。岡山の人達は 信心深く 仏や神様を敬うので あちこちに 沢山 お寺や 神社がありました。村人達は 亥の子様 荒神様 摩利支天様 地神様 お稲荷様 水神様 庚申様 村社様 総社様 等の神社や お寺の氏子や 檀は それぞれの神社やお寺に重複して複雑に関わり合っていて それぞれの小神社や小寺に それぞれ神領や 寺領があり 免税されていました。そこで 池田光政は 多くの小神社や 小寺、徳川幕府が快く思っていない宗派の寺を 合祀あるいは 廃寺し廃止した寺領 神領からも 年貢を払わせ 税収(年貢)を取り立てました。その時 千手観音菩薩を 本尊としていた 杉谷山千光寺も 小寺として廃寺になりました。福聚山清水寺Hukujyu-zan-Seisui-jiの和尚は 廃寺になった 千光寺の千手菩薩像は 不思議な力を持っていると 聞いて 欲しくなりました。そこで「御本尊を わしの寺へ 譲って下されぇ。」と 千光寺の住職に頼んだのです。千光寺の和尚は 「円城寺へ移す。」と 言ったのですが「円城寺には 立派な千手観音様が 既に鎮座して居られよう。同じ寺に 千手観音が2 尊もなくても良かろう。」と 説得され清水寺に 預けました。清水寺の和尚は「有難や 有難や 立派なご本尊が 来られた。オン・バザラ・タラマ・キリク・ソワカ。」と 喜んで 読経し 本堂に千手観音像を 祀りました。すると その夜から本堂で 泣き声がするようになりました。和尚が 耳をそばだて聞くと「帰りてぇ。 帰りてぇ。 杉谷ぃ。 杉谷ぃ。 シクシク。」と 小声が聞こえるのです。「その内 仏も諦め 泣かなくなる。」と 思って毎日 丁寧に 読経し 千手観音菩薩像の機嫌を取ろうとしました。読経中は 静まるのですが 読経が 終わると 少し泣き声が大きくなりました。次の日も次の日も それは 続きました。和尚と 観音菩薩の我慢比べが 限界に達する頃になると 寺の梵鐘が「千手観音の奴。煩るそうてuru-souu-te叶)わん。 眠れん。わしぁ 怒った。ゴワーン。 ゴワーン。」と ヤケクソを 起こしたのです。流石の修行を積んだ 和尚でしたが 寝不足に苦しめられ「煩うて眠れん 帰りてぇ杉谷。杉谷ぃ。シクシクと泣くな。 ゴワーン・プンプンと怒っるな。耳が痛ぇ。仏よ・梵鐘よ諦めてくれぇ。」と 気が狂いそうでした。ところが 和尚の希望は 叶わず 観音菩薩像は 泣き続け 梵鐘は 怒り続けたので 和尚は耐えられず「解った。 解った。仏様。 杉谷に戻りなされ。」と 言って 古びて 寺突Teratukouの餌場になっていたお堂を 元の杉谷に 再建立し 千手観音を戻すと この騒ぎが治まりました。「千光寺の夜泣観音伝説 杉谷山千光寺:杉谷屋敷ノマヘ1054-5番地の北 北緯34度56分26秒・東経133度44分57秒で 高野神社の境内 福聚山清水寺:伝説によると一色の清水寺と言われますが、関にある福聚山清水寺の事でしょう 夜泣きの鐘が 真庭市指定文化財になっています。 北緯35度0分13秒・東経133度40分19秒 高野:杉谷:1063・1064・1066・1067-1077番地 シシドウ:杉谷1079番地 ミトウノ前:杉谷1081-1083番地 寺突:キツツキ 平成26年(2014年)10月15日
五明に 厳格な性格の男がいました。男には 可愛がっていた孫娘が いましたが 父無仔Tetenasi-goを 孕みhara-miました。男は ふしだらな 孫娘に怒り 田に立てた柱に 娘を縛り 牛の角で 突き殺させました。村人は 突き殺された 母子を悼み 遺骨を 甕に入れて 野に葬りました。時が 過ぎ この地に 草地松三郎が 住み付き 一族は 繁栄しました。ある時 一族の住む集落の道から 馬が滑り落ち 岸を壊しながら やっとの事 這い上りました。すると 甕が 露出ましたしたので 松三郎は 古老の語る哀れな母子の遺骨であろうとして 地蔵を立て祀りました。松三郎が 死ぬと 一族は慈悲深い鼻祖を讃えるため 供養塔を 地蔵の脇に立てました。「五明の村人より口伝」
昔。 昔。五明の村に とても格で 意地っ張りの男が 住んでいました。一人孫娘と 二人暮らしをしていて 目に入れても痛くない程に 可愛がっていました。孫娘は すくすく育ち 容姿端麗で 温厚な娘に育ったのです。孫娘は 加茂大祭で知り合った若者と 恋に落ちました。「男女七歳にして席を 同じゅうせず。」との 風潮の時代 大人の恋をしている事を 祖父が 知れば 厳格な祖父に 二人の中は 引き裂かれるに 決まっているので 内緒にしていたのです。処が 子供を 目出度く 授けられました。次第に大きくなるお腹を見て 祖父は 孫娘が自分の眼を盗んで ふしだらな行為をした事を知りました。祖父は 相手が 誰か聞き出そうとしますが 祖父が その人を知れば どんな事をするか解らないので 娘は「誰だか解らない。」と 答えま た。それを聞いて「誰の親とも解らない父無子は 産ませない。堕胎しろ。」と 迫りましたが 娘は 愛する人の子を産みたくて 拒み続けたのです。祖父は 一度 言い出した事は 絶対に引込めない 頑固者でしたので 世間体を考え 自分の手で 人知れず娘を 堕胎させようと考えました。夜中を待って 人気のない田たん圃ぼに 孫娘を連れ出し 杭に縛しばりり付け 牛の頭で 腹を ジンワリと 押させました。人知れず 堕胎させるには この方法しか 思い付かなかったからです。処が 普段は おとなししく 従順な牛でしたが 孫娘の腰巻のひらめきに 興奮し 突然 孫娘に角で 突きかかり 親子諸共 刺し殺したのです。祖父は 浅はかな知恵を 後 悔しましたが 後の祭りです。娘を 家に 連れ戻し 涙するばかりです。可愛い孫娘を い つまでも 傍そばに 置いて置きたくて、葬式を しませんでした。黄泉国Yomi-m-kuniにも 天国にも 行かせる訳に ゆかなかったからです。祖父が死に 村人達が 家を整理すると 開かずの間があり 大きな甕に 孫娘の遺骨が有ったので 野に葬りました。時が過ぎ 墓標が失われた頃 この地に どこからか あの娘を訪ね 草地松三郎が やって来て 住み付き一族を増やしました。ある時一族の住む集落の道から 馬が 滑り落ち 岸を壊しながら 足掻き 這い上りました。雨で 柔らかく崩れやくなっていた岸は 激しく崩れ 遺骨の入った甕が 露出して来たのです。松三郎は 村の古老に この甕について尋ね 悲劇の娘の事を知りました。牛に突かれた哀れな母と胎児の遺骨であろうと察し こつこつと地蔵を彫り出しました。松三郎は「わしが死んだら わしの墓に この地蔵を立ててくれ。」と 遺言して亡くなりました。松三郎の妻は 供養墓を 地蔵の脇に立てました。妻は「本真はこの哀れな娘を 愛していたんでしょう。 あんたに尽くした私に 感謝しているなら 頭を下げなさい。」と 地蔵の頭を強く抑えると そのはずみで 首が折れました。それで 地蔵の首は 折れているのです。そして松三郎の子孫は 末永く繁栄し 松三郎を 鼻祖と 崇めました。「五明の村人より口伝」 草地松五郎鼻祖の碑: 五明の加財神社の近く 高富シンヤ628番地の脇 北緯34度55分10秒・東経133度48分57秒に立ち 台座の右側面に文化八年 (Kanoto未Hituji二月〇日と刻まれています。 平成25年(2013年)6月15日
高梁御津線(31号線)を 加茂市場から 下加茂に向かう途中 美原mihara家下egeの美原入川176-1-1の番地の南隣 北緯34度52分12秒・東経133度46分52秒に 巨石が祀ら れ 大智明権現と 刻まれますています。大山の山頂に現れた 万物を救うとされる 地蔵菩薩(智明権現)信仰は 平安時代末以降 牛馬の加護のご利益を 願う人達を 大山寺に集め 賑わいました。江戸時代になると 大山寺は全国一の「大山牛馬市」として栄えました。「地蔵信仰と大山牛馬市 | 日本遺産大山 (daisen-japan-heritage.jp)」「信仰と結びついた全国唯一の牛馬市 | 大山開山1300年祭 (daisen1300.org)」 江戸時代の終わり頃まで 牛馬は 農民にとって大切な働き手であったので 牛馬が死ぬと 死体は丁寧に その地に埋葬され 馬頭観音菩薩像 大智明権現碑 南無阿弥陀仏碑等の供養塔を立て 供養されました。高価な 牛馬の購入の為 多くの村では 牛馬講(頼母子講 百人講 万人講)等と 言う 共済制度を 設けており 講員は 利息を示し 牛馬講から お金を借りる事ができました。講員でない者が 講からお金を借りる時には 倍の利息を払いました。牛馬が死ぬと 博労が聞きつけ 毛替え(牛馬の買い替え)を 勧めました。
お爺さんと老牛 Old man and old cow
昔 大事に 牛を飼っていたお爺さんが 居りました。牛は20歳となり 年老いて働けなくなりました。家族の者は「売って皮にして貰えぇ。」と 言うのです。お爺さんは 嫌で嫌で ころくに 眠れませんでした。しかし 家族の強い要求に負けて なんもかんも諦め ひずらしい天道さんに 後ろめたさを感じながら 泣く泣く 牛を売りに出かけました。牛は 悲しく鳴きながら ボトボトと お爺さんの後を 付いて来たました。大山の競市にSeri-iti に着きましたが お爺さんは 牛と別れる事ができませんでした。売ろうと思っては「こねぇな 年寄りの牛をぅ 買うもんなんか おるもんか。」自分に云い聞かせ 止め 止めては 売ろうとしている間に 日が暮れて 競市が 終わりました。お爺さんは 牛を連れて 家路に付きましたが 足が いばる程の長い道のりだったので 家に着くと 牛は力尽き 死にました。家族の者は「何で 牛ぅ売らんかったんか。 売りゃぁ子牛ぅ 買う金の足しになったんに。よざんな仕事ばぁ増えた。」と お爺さんを責めました。お爺さんは 悲しみに暮れ 牛を大智明権現の前に それは大きな穴を掘って ざざぶりの中で 体に 鞭打って 葬りました。力落ちして 牛を葬ったので 葬り終わると 力付き お爺さんは 倒れました。お爺さんが 牛を売らなかったので 子牛を買うお金が無く 家族の者は 先々の農作業を思うと 茫然となりした。そんなところに 博労が 寄って来て 牛の購入を勧め 博労は「牛馬講から お金ぅ 借りりゃぁえぇが。」と 言うのです。家族の者は お 爺さんは けちん坊なので 牛馬講に入ってる筈hazuがないと 思ったので「2倍ぇ利息ぁ払えん。」と言って 断ると、博労は「お爺さんは 大智明権現を 祀る所に 牛 ぅ葬った。 じゃけぇ 牛馬講に入っておる。」と 教えてくれました。家族の者達は お爺さんに感謝し そのお金で新しい小牛を買う事ができ その年の年貢を払う事が できました。家族の者達は 牛を人と同じように 大切に飼うようになり 牛に 辛い仕事をさせる時には 大智明神様と お爺さんの墓参りを 欠かしませんでした。「村人より口伝」「牛馬講」「智明権現」 大山道:全国から大山参り が行われました。その道 を 総称して大山道と 言います。 吉備中央町で 大山参りと言えば 伯耆大山参りHouki-daisen-mairiを 指しますが 関東で 大山参りOoyama-mairiと言えば ,神奈川県伊勢原市大山355番地に建つ 大山阿夫利神社参りOo-yama-Ahuri-jinjya-まいりを 指します。 伯耆大山角磐山大山寺:鳥取県西伯郡大山町大山9番地 北緯35度23分28秒・東経133度32分6秒 伯耆大山博労座駐車場:北緯35度23分21秒・東経133度32分16秒 平成263年(2014年)12月20日