昔 役行者En-no-gyoujyaが この地に来て、大平山を見て「瑠璃色の光が、夫Yoboroに 徹りToori(透けて通り)、瑞雲Zuiunの掛かる峰を 囲んでいました。行者は これを見て「不思議である」。」と 思い 木を切り 草を分け渓(Taniを渡り 山を 登って この地に来ました。
すると 2匹の鬼が 住んでいたので 行者は「どう言う訳で ここに住んでいるのか。」と 尋ねると 鬼は「この地は 薬師如来の司る浄土で 天仙や神龍の遊ぶ(自由に暮らす)所です。我等は この霊場を守るために ここに 住んでいます。」と 答えました。行者は 薬師如来の霊像を 彫って「これを 安置し 利世護国Rusei-Gokokuしなさい。」と 言い終わると 2匹の鬼は 毘沙門天Bidsyamon*tenと 持国天Jikoku-tennに なって 立ち去りました。そこで 行者は 毘沙門天と持国天の霊像を 彫って 薬師如来と共に 堂を建てて 祀りました。その後 行基菩薩Gyouki-bosatuが この霊場の事を聞きつけて ここ に 寺を建て仏教の法を 修行しました。
空から「我名号Gamyougou)一経其耳Ikkyou-goni衆病悉除Syubyou-Situjyo身心安楽Sinjin-Anraku」と 声がしました。行基菩薩はその声を 聴いて ますます 心から歓喜し 長らく ここに住み 遂には 弟子を取り ここに住まわせました。しかし 世の盛衰は 有るもので この寺も 興廃を 繰り返しました。天正の兵乱の時 寺の建物の多くは 焼けて 今は 僅かに 小寺を残すだけに なりました。古くから「山不在高有仙則名 池不在深有龍則雲(雲は霊の間違いでしょう」と 言われており この寺は 亦mata 大きくは 有りませんが 天仙や 神霊が住む所なので その霊名を 消さないように 後世に 伝えるために 書き残します。「賀陽町史追補版」 よぼろ:膝の裏側の窪み 強靭な脚 健脚の人 瑞雲:目出度い色である 紫 或いは5色の雲 利世護国:世に利益を与え 国の安泰を図る 我名号:私の名前を一.回 唱ええなさい 一経其耳衆病悉除:それを聞いた者の病気は ことごとく 治ります 身心安楽:身も 心も 安楽になります 山不在高有仙則名、池不在深有龍則雲:山は 高ければそれだけで 霊(計り知れない神秘な力)を供えるものではなく 仙人が 住んでいればこ そ 霊峰となり 名高い池は 深ければ良いと言うだけのものではなく 龍が 住んでいればこそ 霊泉となるのである。 カセ谷:豊野3410・3412・3413番地 宇フ:豊野3414・3415番地 天福寺:豊野toyono天福寺tenpukuji3416番地 北緯34度53分51秒・東経133度42分45秒 西ノ谷:豊野3417・3420・3421番地 二子岩:豊野3422・3425-3434・3436番地 平成23年(2011年)7月23日
天福寺は 町内最高峰の大平山の山腹 豊野カセ谷3412番地にあり 天台宗の修験の寺とし 役小角の開基と 伝えられます。豊野の修験者が 大平山の峰より 大法螺貝を吹き 伯耆国の大山の頂上に住む修験者と 交信していました。 その法螺貝は 8升位の大きさで 魔除けの霊力と 雨風を思いのままにする 霊力が ありました。 しかし 大き過ぎたために この大法螺貝を 意のままに吹けるものは この修験者だけでした。伯耆大山からの知らせで 戦争や 盗賊から 寺を 守り 村に火事が あったり 旱魃が あったりすると 雨を降らせていました。 山伏の死が 迫ると「この法螺貝を 意のままに吹ける者は 私しか ません。 未熟な者が 吹けば 災難を招き 嵐や 洪水が 起こりかねませんので 埋めてください。」と 遺言しました。住職は「あの者より上手に あやつれる者は 将来にも現れまい。」と 山伏の遺言に従い 法螺貝を 死ぬ前に埋め その上に 銀杏の木を 植えました。それを見て 山伏は 穏やかな笑顔を残し 亡くなりました。平成27年の銀杏の木は3代目です。「豊野 カセ谷の村人のより口伝」「賀陽町史追補版p828」
ある時 大平山の鬼達が 天福寺を襲い 火を付け 強盗を働きまた。高僧達は 御本尊を 守る為に 屋根に逃れ 本尊を 高く掲げ 読経し 仏の救い を求めました。鬼達は 仏の祟りを 恐れ 逃げ出しました。その時の大鬼 小鬼の足跡が 岩に残りました。「村人口伝」 平成23年(2011年)7月23日
天正の頃 宇喜多直家は 織 田信長方の羽柴秀吉と計らって毛利輝元を 裏切りました。輝元は 宇喜田の護る岡山城を 攻めるため 宇喜田の第一の配下 虎倉城の伊賀久隆の領土を 侵略しました。吉川元春は 美作を 毛利輝元は有漢 、穂井田元清は馬越 鼓田等南部地域の小城を 次々と 攻め落としました。輝元等は 虎倉城を落とすため 藤沢城に集合し 虎倉に向かいましたが 深い霧で進路を誤り 上加茂で 戦う事になりました。ところが 3万の毛利の大軍は 半数の虎倉軍に 加茂崩れと呼ばれる 侮辱的な 敗北を 喫しました。一部の兵は 大平山を抜け 四つ畔城に 逃げようとしましたが 日が暮れ 道を失いかけました。通路に有った天福時を 襲い 火を放ち その明かりで 道を照らし 四つ畔城に 逃げ帰りました。「村人口伝」 平成23年(2011年)7月23日
天福時での鬼退治 Chase the ogre at Tenpuku-ji
昔 伯耆国の大山と天福寺の山伏は 仲良し 互に行き来し 何か異変や 用の有る時は 法螺貝を吹いて 合図をし合っていました。伯耆大山の山伏が 険しい山を登り修行しようとしていると 隣国安芸国の鬼共が 美作に攻め込んで いました。驚いて 大山に戻り 法螺貝を 天福寺に向けて吹き 危険を知らせました。天福寺の山伏は 危険に備え 総出であらゆる想定をして 待ち構えました。幸いにして この時は 安芸の鬼共は 天福寺を避けて竹荘に向かい 御津に向け攻め続けました。しかし 上加茂で 大敗し 安芸国に 逃げようとしたのです。その一部の鬼は 大平山を超え 溝部に向かいました。鬼共が 天福寺を見つけ「丁度よい寺がある。財宝と食料を奪い 寺を焼いて夜道の明り取りにしよう。」と 攻め込んで来ました。見張り役の山伏が 八升はあろうと思われる大法螺貝を 吹き 鬼共を 威嚇しましたが 寺の境内に 雪崩れNadare込み 残酷に振舞い ました。「大風よ吹け。」と 大法螺貝を 虎落るMogaruように吹くと 大風に鬼共をよろめかせ 攻撃を阻止しましたが 鬼共は策 を練り 大風を利用しようと 宿坊に 火を放ち ました。鬼共は 勢い付いて本堂に 襲い掛かり 宝物や 備蓄の食糧を 奪い始めました。御本尊の薬師如来像だけは 守ろうと 住職や 高僧は 火の立ち上る本堂の屋根に 逃れ 御本尊を高く掲げ 必死に読経しました。「雨よ 降れ。」と 大法螺貝を 天に向け雷Ikadutiかと 思える程に激しく吹く と 空は掻き曇り バケツの水を ぶち撒けたような 抜け降りに成り 燃え盛る火が 下火になると 御本尊は 瑠璃色の光を発し 辺りは七宝造りの如くに 煌びやかに映えました。その光を 浴びた鬼達は 仏の祟りを恐れ 逃げようとしました。大雨で ぬかるみんだ道に 鬼共は 足を取られ 天福時の炎の明かりを 頼りに ぬたうちながら 溝部に向かって逃げて行きました。
すると 法螺貝の霊力の籠った雨は 岩をも柔化させていて 岩に鬼達の足跡が 付きました。鬼達はこの足跡を見るのが 恐ろしく 2度と天福寺に 現れる事は 有りませんでした。この時の足跡は 現在も 残されています。この時の事かどうかは 解りませんが この大法螺貝の吹き手が 死を 間際にすると「この法螺貝を 意のままに吹ける者は 私しかいない。 未熟な者が 吹けば 災難を招き 嵐や洪水が起こしかねないので 誰も触れないように 埋めてください。」と 遺言しました。天福時の住職は「あの者より 上手にあやつれる者は 将来にも 現れまい。」と 山伏の遺言に 従い 法螺貝の拭き手が 死ぬ前に 法螺貝を 埋め 誰も掘り出せないように 法力を以て封じ その上に 銀杏の木を植えました。それを見て 山伏は 穏やかな笑顔を残し 亡くなったそうです。平成27年の銀杏の木は3代目です。参詣する人達は 銀杏の木に 長寿と 子沢山を 願いました。「豊野カセ谷の村人のより口伝」「上加茂合戦」「賀陽町史追補版」 法螺貝:法螺貝は 大風を起こす力があり 法螺貝は 水を出し寺の火事を防いだり 消したりする事ができ 法螺貝は 魔除けになるとされます。仏教の教えでは 諸 仏を 招集させるとされます。 銀杏の木:銀杏の木は 魔除け(実が臭いので悪魔が嫌う)に成り 長寿(枯れ難い)と 子宝(沢山の実が付く)に恵まれる ご利益が有ると されます 平成23年(2011年)7月23日
豊野 天福寺の大ほら吹き Such a braggadocio at Tenpukuji ”blowing a trumpet shell”
昔 「これは 天福寺の法螺貝だ。この大法螺貝は 風を起こす事ができる 。 安くしておくから買ってくれ。」と 言って 実演しながら 行商する貧乏な山伏が いました。修行中の俗世が 忘れられない山伏が「あまりに暑い日が続くので 風を吹かせて、暑がる人を 涼ませてひと儲け(\)しよう。」と 思い買い求めました。汗をかいている旅人がいたので 涼しい風を お求めください 安くお分けしましょう。」と 商売を 持ち掛けました。旅人は 喜び 涼しい風を 買い求めました。普通の大きさの法螺貝ならこの山伏でも 鳴らせるのですが この大法螺貝は 大き過ぎて 未熟なこの山伏では 鳴らそうとしても 鳴りませんでした。何度か 試みる内に 偶然ポアンと 音が出ました。風が吹くには 吹きましたが 大雨になったのです。ずぶ濡れにされた客は「涼しければ良いと 言うものではない。」と 山伏を非難しました。「あの野郎 大法螺吹きめ 風と一緒に 水が出た。また酷い目に合うのは 叶わん。 誰かに売って 買った時のお金を 取り戻そう。」と 思い「この法螺貝は 水を出せる。安くするから買ってくれ。」と 売り歩きました。山越えを しようと 思っていた山伏が「ほう 水が出るとな。水筒代わりに成るのか。 軽くて 底も 尽かない。便利だ。」と 言って買いました。山越えしていると 鬼が出て来て「喉が渇いた。 水をくれ。くれなければお前の血を すするぞ。」と 言って 迫って来ました。山伏は 大法螺貝を 吹いてみると 前の山伏と同様に 上手く鳴らせず ブブプーと 臭い汁と 一緒におならの様な変な音が しました。鬼は おならの様な音と 臭いが 嫌いだったので その男を 酷く傷めると 法螺貝を 見るのも 忌々しいらしく そ鬼は そくさと逃げるように 立ち去りました。
「あの野郎。大法螺吹きだ。 水は出なくて おならの汁と音が出た。 鬼に 酷い目に合わされた。また鬼に 酷い目に合わされるのは 嫌だ。誰かに 売り付け 買った時のお金を取り返そう。」と 思って「この法螺貝は 魔除けに成る。鬼も嫌って逃げる。 安くするから買ってくれ。」と 売り歩きました。暫くすると 修業が 進んであと一歩で 悟れそうになった山伏が 悪鬼の囁きを 払い切れずに 悩んでいたので 買いました。瞑想を 開始すると 案の定 瞑想を邪魔しに悪鬼が 出て来て 甘い俗世の喜びを 語りかけて来ました。山伏は ここぞとばかりに 法螺貝を高らかに 勢い良く吹きました。すると 大風が吹いて 洪水になりました。自分の犯した罪の大きさに 驚き 恥じて 法螺貝を 天福寺に納め 現生の心の病の治癒と 安らぎを齎してくれる 薬師如来の慈悲に 縋ろSugarouうとしました。天福寺の山伏達は 大法螺貝を見て「 役小角(En-no-Odunの法螺貝の 再来ようだ。有り難い。」と 言ってその山伏を 弟子にしてやり 大法螺貝の使い方の修業を させました。自由自在に 大法螺貝を操り、自在に 風と 雨と 悪魔を司れるようになった山伏に「立派な弟子が 育った。」と 役の小角も 浄土で大喜びしました。「豊野カセ谷の村人」との冗談話 平成23年(2011年)7月23日
納地 日切堂の女妖怪 Female phantom-monster in Hikiri-dou hall
484号線から 一ッ木で 産業廃棄物最終処理場を 経由し 黒土北線(305号線)に 向かい、黒土北線に沿い 馬頭観音石像等 を見ながら北に 向かい 納地寺尾脇1339番地や 納地有広1339番地の西の分岐を 左に折れ 道なりに カーブして 黒土北線に平行して 西に向かうと 納地槇ノ乢1322番に 出ます。その北 北緯34度50分18秒・東経133度42分3秒に 日切堂が 建っています。堂内には 4組の仏が 祀られます。境内には「ありがたや 松原山の大師堂 ひきりに叶う願いうれしや」の 歌碑が立っています。期限を切って 願い事をすれば 願いが 叶えられると 言い伝えれれているでしょう。この話を聞いた 貧乏で 不細工な お頭の弱い どケチな某地の 男が 日切堂に 通いつめ通い始め 周囲の草を刈り お供え物を供え 仏が被る塵を 払い除け 曲りなりにも 教を唱えました。仏達は その信心ぶりに 感激し 願いを 叶えてやることにしました。仏達が 男に「願いを申されぇ。 」と 気を送ると 男は 気を感じ 恐る恐る「貧乏がつれえ。 分限者にしてくだされぇ。」と 願うと 地蔵菩薩が「易ぃ事じゃ。」と 約束しました。それを信じ 糞まじめに 地を 耕すと 今までにない 見事な作物が 採れ 見る見る内に 分限者になりました。分限者になると お世辞を言う者も出ましたが 地が 間抜けなので 陰では 馬鹿扱いされ続けました。
又も 日切堂に 参って 作法に従い「 知識ぃ 授けてくだされえ。」と お願いすると 弘法大師が「易ぃ事じゃ。」と 言って 百科事典程の 知識を 与えました。富と知識を得ると 男達はそれらを目当てに 媚びを売って 来ました。しかしど醜男Dobusuだったので 嫁になろうとする女性は 現れ ませんでした。今度は 男は 日切堂に「上男にしてくだされえ。」と 頼むと 仏は 「易入ぃ事じゃ。」と 言って 飛び切りの美男子に してやりました。富と 知識と を容姿をものにした男は もてにもて 選びに選んで アントワネットか 楊貴妃かと 思われるような美女達と 付き合いました。しかし どの女性も 直ぐに 贅沢を始めるので どケチ故に 付き合いを 止めました。今度は「私にだけに尽くし 私を 幸せにしてくれる美人を 妻にしてくだされぇ。」と 頼むと 双体佛は「易ィ…..。」と 言いかけて「お前様の欲望ぁ 度が過ぎるとる。 皆と相談するけぇ ちいとばぁ時をおくれぇ。」と 言うのです。男が 帰路に着くと仏達は 相談しました。「楊貴妃やアントワ―ネットを 越える別嬪なんぞ 居らんぞな。居ったとすりゃ 妖怪位じゃ」「あ奴は 人間の嫁とは 言わんかった のう 妖怪でも良かろう。」「玉藻前か 雪娘か それとも 絡新婦か 更科姫かのう。」「おえん。おえん。 歴代の美女妖怪ぁ 誰一匹 夫を幸せにせん。」「じゃ。ぁじゃ。 仕方がねぇ。 新しい妖怪ぃ作ろう。 彼奴の脳味噌ぅそのまんま妖怪をにするのはどうじゃ。」「そりゃぁ良ぇ。そうすりゃぁ 奴の思いのままの妖怪になろう。」」と 相談が まとまりました。男が 参って来ると 仏達は「お前様の願いは これ一つで 全て叶えたことになる。じゃが わし等 仏にも 見落としが あるかも知れん。」と 声を揃えて言いました。男が家に戻ると 雪をも勝る マシュマロの柔らかい肌を持つ 小野小町や クレオパトラにも劣らない美しく 官能的な娘が まめまめしく家事をしながら待っていました。男は「仏様に 授かった娘じゃ。 非の打ち所等 ある筈がねい。」 と言って嫁にしました。これと 言った贅沢もせず 貞節で 料理上手の働き者で 何かを 頼もうとすると あたかも頼みを 先んじて 知っていたかのように 痒い所に 手の届く良くできた嫁でした。始めの内は 嬉しくて 嬉しくて 仕方ありませんでしたが 次第に 余りの糞まじめな 従順さが 鬱陶しくなってきたのです。「こねぇな詰まらん 手応えの無ぇ幸せ 過ぎる生活ぅ 終わらせて 欲 しい。」と 願って日切堂に向かとおうとすると 嫁は それを 前もって察知したかのように 玄関で 待っていて 「うちぃお嫌いなったんですか。」と 尋ねるのです。もう こんな事が 何回続いたか 解りません。妻の行為を 止めさせる事ができず ノイローゼになり 次第に 食も落ちて行き 遂に命を 縮めてしまいました。仏達は「何で 知恵を授けてくれと 願わなかったんじゃ郎。 智慧さえあれば‥‥。 どケチだって 糞まじめさだって 何でもどうになったろうに。わし等ぁ未だ 如来じゃぁ無ぇけぇ ちぃとの失敗ゃ 許してもらえるじゃろう。」と 話し合ったとさ。 「吉川布郡の村人との冗談話」 地蔵菩薩:万物を育てる大地のように 持つ 慈悲の法力で 全ての人を 救います 弘法大師:唐に渡った空海は 当時の最先端の技術や 知識 を日本にもたらしました。 双体佛:猿田彦命と天鈿女命夫婦を 模した仏で 道祖神 子授けの神 夫婦円満の神等です。両神は 天孫降臨の折り出会い共に 天孫を 葦原中国へ導き 後に 夫婦となり 激しく営みます。 〆ノ神:納地1366番地 念佛石:納地1383番地 寺脇:納地1414・1416・1417番地 日切:納地1491番地 堂風呂:納地1496番地 平成29年(2017年)8月30日
妖怪 ベロ長 Ghost with long tongue
昔 昔父親が大地主で 大金持ちの とても欲張りな男が ある所に 住んでいました。その男は 日切堂に 如何なる神仏か 祀られるか 知りませんでしたが 日切した最後の日には 日切堂に 祀られる神仏は 必ず 願いが叶えてくれる事を 知ってたので 1年後には 父が死んで 全ての財産が 手に入りますようにと 邪悪な願いを したのです。すると 満願の日に 父親が ポックリ 亡くなり 驚いたことに 兄弟親戚の者は 一人も 遺産相続を 願わなっかったのです。潤沢過ぎるお金と土地を 手にし 小作 を雇って 自由気ままに暮らしていました。金が 有っても 独りぼっちは 寂しかったので 妻を持とうかと 又もや 日切堂に出かけると 物凄い美人が 何か祈っていました。する とその女性は その男に シャナリシャナリと 親しげに 近寄り「切切堂様に あなたを 授かりました。一緒に 暮らしましょうと 雪のように 白い手で 男の手を握って 来たのです。滑らか でしっとりしていて 柔らかく とても官能的な触感でした。天鈿女命Ame-no-uzume-no-mikotoに魅せられた猿田彦命のように 男は女に 取り憑かれ嫌も 応もなく 妻にしたのです。妻は 早起きで いつの間にか 掃除を済ませ 夫の食事の準備を 終えて いました。そして 一日中 野良仕事をに精を出し 夜が更けると 夫に 寄り添って来るのです。男は 世界一 魅力的で 貞節な妻に 夢中になりました。しかも 食事量も 極端に少なかったので けちん坊の男は 大満足でした。しかし 妻の魅力に 夢中になり過ぎ 精気を失い 腎虚に陥ると 妻は 弱った男の垢を舐め取るように なったのです。これが また心地よく 男は妻の為すがままに 体を委ねました。男は やせ細り 身動きできなくなると 妻は 終に 正体を現したのです。体は まるで骨が無いように柔軟で 肌は シットリし 搗きたての餅の様で 尻尾をクネクネ振って 這いずり廻り 長い舌で 障子の桟の塵を 舐め取り 床の埃舐を 舐め取り 風呂の垢を嘗め取り 出てきたゴキブリを 嘗め取り 畑に出かけては ミミズや虫を 嘗め取っていました。その頃は 埃も虫も少なくなっていたので 食欲が満たされないようで 夫の肌を 嘗め取っていたのです。夫は逃げ出す事も出来ず 終に 舐め殺されました。それを知った村人に 日切堂に 邪な願いを する者は いなくなったそうな。平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。P58に「八尺べろ」と言う日切にでる欲張り者を 舐め殺す妖怪が 紹介されています。平成31年(2019年)8月30日
松山藩の家老の水谷勝重は 武術に長けていました。南谷に 狩に来ると 美しい鷺Sagiがいたので 近くの薬師堂に参って「薬師に 霊験Reikenがあるなら あの鷺を 捕えさせ給え。」と 祈願し、部下に 捕まえさせようとしました。見事に 部下は 鷺を捕まえたので 家老は 仏の霊験に 崇敬Suukeiの念を持ち 法華経8巻と 経箱を寄進しました。「吉備中央町の民話(1)」「村人口伝」 平成23年(2011年)8月16日
中松山藩の家老・水谷勝重は、頭脳明晰Zunou-meiseliで武道に 長けtakeていました。ただ 弓の技術は5歳の子に 劣る程に下手だったのです。しかし 狩り好きで 暇さえあれば 狩りに出かけました。当然 猟果は 上がりません。何も 捕れないと 機嫌を 損ね 政務に支障をきたす程だったので 家来衆は 困っていました。ある日「狩りに行きたい。」と 言うので 家来衆は豪渓Goukeiに お連れしました。猪は逃がす 狐は逃がす 兎も逃がす。この日も 何も取れず 機嫌を 悪くしました。ふと 岩を見上げると その巨岩が自分の顔が 魚を抱いた猫の頭や 大猿の頭に 乗っているように 見えたので「猫の額程の狭い度量か 猿の毛の一本か。」と 暗示されているように思い 不貞腐れHute-kusareて 帰りかけたのです。すると家来が なだめるように「この先に 南谷の薬師堂が あります。薬師如来様のご加護を お受けなさってはいかがですか。イライラを 治めて いただけるかも 知れません。 この先に田に 白鷺)がおります。白鷺は仏神のお使いです。」と 申し出ると 家老は「ならば お前 捕toraまえて来い.。白鷺に 頼みを言い含め 狩りが上手になるよう 仏の加護を 得よう。」と 渋々応じました。
家来は「良いお考えです。さすがに 勝重様です。それでは 私が 捕まえてまいりましょう。」と 田に入り あっさり白鷺を 捕まえました。勝重は 家来の能力を 褒めながら 自分の 狩りの能力の無さを恨みました。そこで 家来の勧めに 応じ 鷺を仏神の使いとして 薬師堂を 参詣しました。家老は「薬師瑠璃光如来様。 諸根具足 除病安楽 安心正見 苦悩解脱 徳を我に与えたまえ 生まれつき下手な弓の腕前を上げさせ 苛立つ性格を直し 精神的苦痛を除いてくだされぇ。」と 祈願すると、家来は「なんと 身勝手な願いをするものじゃ。」と 思いながらも「必ずや 仏様は願いを 叶えてくださいます。」と 仏に 深々と 頭を下げました。家老は「そうか。これで 狩りの腕が 上がろうかのう。」と 不安げに問うと 家来は「勿論で ございますとも。 仏のご加護が ございましょう。」と 自信ありげに答えました。それからの狩りでは、獲物がすぐ近くにいても 逃げず 簡単に 射止められ 家老の悩みは 消え失せ 政務も 捗ったhakadottたそうです。家老は 仏の霊験を 崇敬し 法華経8巻 と経箱を 薬師如来堂に寄進しました。実は 家来達は あらかじめ 獲物を捕らえ 逃げられないようにしておいて 家老に 狩らせたのです。「吉備中央町の民話(1)」村人口伝[ 宮地薬師堂の項目を参照ください。
諸根具足:生まれつきの障害や病気 除病安楽:病気や身体的苦痛を癒し 困窮や 苦悩を 除く努力の助け 安心正見:一切の精神的苦痛や 煩悩から 逃れようとする 努力の助け 苦悩解脱:重圧を 跳ね返そうとする 努力の助け 南谷の薬師堂:総社賀陽線(57号線)を「西」の大和郵便局から 豪渓に向かい 南谷 岨谷上方面に 曲がり 岡山道に 沿って進み 岡山道を 潜ります。それを潜ると 右にカーブし 岨谷や 南谷上へ向かう道と 分かれる T字路があります。南谷上方面に 進むと 右手 北緯34度46分46秒・東経133度41分53秒に 薬師堂が 建っています。改修されたばかりで 美しい姿を しています。ぐんぐん 左左へと 進み 大きく右カーブし 道なり に進むと57号線の 中の谷入口に 出ます。 平成23年(2011年)8月16日
岨谷 豪渓の奇岩 strangely shaped large rock in Goukei
北緯34度45分22秒・東経133度42分16秒 豪渓の岩を 管理事務所の前から 見ています。中央の最上の岩塊は 髭Higeを蓄え 帽子を被ったお爺さん(Ojii即ち-san 家老)に見え お爺さんの下の岩塊は 猫の頭に見え お爺さんと 離れて 右の岩の突起は 猫の耳に見え その右手側は 猫の胴体に 見えます。則ち 猫の額に お爺さんの頭が 乗いるように 見えます。猫の右目を 口とし 猫の耳の中央を 目として見ると 猫の背が 魚の胴体に見 え 全体で怪魚に 見えます。猫の両目を 目として見 その下の 左斜めに下がる岩を 鼻に見立て その下の横に伸びる亀裂を 口に見たてる と全体 で 大猿の顔に見えます。 平成23年(2011年)8月16日
龍角山清水寺の梵鐘の音は 遠くまで良く届くので 天文12癸卯年Mizunoto-U-dosi(1542年)6月 虎倉城主 伊賀久隆が 戦乱の時の合図の鐘にしようとして 盗ませ 城内に 移しました。必要な時に 鐘を叩いても 音が出ないばかりか 音がしてはならない時に 鳴り響くので 久隆は 困り果てました。それで 腹を立てた久隆は 龍ノ口の崖から落として 梵鐘を 壊そうとしましたが 壊れませんでした。仕方なく 梵鐘を 虎倉城の近くの浄光寺に 預けました。暫くすると 梵鐘に 詫び状を添えて 送り届けられました。詫び状に「鐘は 役に立ちませんでした。清水寺よ り離そうとすると 鳴り出し 離れれば 離れるほど 早く 大きな音になります。清水寺に向かうと 音が止みます。鐘は 清水寺に 帰りたがっていると 思われるので 返却します。詫びに 清水寺を 必ず再建します。」と 書かれていたそうです。返却に 来た時の様子を山門近くで 見ていた村の者によると、高曽山Takaso-yama or Kouso-yama杉の枝に 鐘が当たった時 ゴーンと音がしたそうで、その音を 聞いて 鐘を 担いでいた者達は 歓喜の声を 上げ「直った。 直った 。 鐘の機嫌きげんが 直った。」と 言ったそうです。「清水寺の奥方の口伝」 別の話として、梵鐘が 役立たずなので 滝の口の崖から 落とし 壊そそうとしましたが 壊れず、浄光寺に 移しました。それを知った 神原宗右衛門Koubara-Souemon (神原惣右衛門) 神原佐京佐Koubara-Sakyou-no-suke(神原左京)が「もともと 清水寺の梵鐘だから 返してくれ。」と、頼むと 伊賀久隆が 快諾 し返却に応じました。高曽山Takaso-Yama(高祖山Takazou-yama)に 差し掛かり、松の枝に 鐘が当たると 鐘が鳴ったのです。人々は 驚き1不思議な力を持った 稀代の霊鐘だと 噂したと言います。「村人口伝」 久隆は 文13年(1544年)に 清水寺の本堂の再建を 行ないました。 平成23年(2011年)7月11日
戦国時代のこの辺りの大将は 岡山城の宇喜多直家の家老の 虎倉城の伊賀久隆でした。もとは 毛利方でしたが 宇喜多直家が 毛利氏を 裏切り 織田氏に 味方したのに伴い 伊賀久隆も 織田方に 付きました。毛利氏は 怒って 宇喜多氏の城を 攻めたかったのですが 毛利元就は 3本の矢の例えを残して 死んでいたので 竹荘 に陣取っていた元就の孫の毛利輝元は 美作を攻め取った叔父の吉川元春と 安芸にいた叔父の小早川隆景が 竹荘に 来るのを待って 岡山城に向かう為に 邪魔な虎倉城を まず攻め落とそうとしました。3本の矢が 揃うと真っ向勝負しても勝てないので 伊賀久隆は 味方の民も 侍も 虎倉に集め 籠城しようと 構えました。「対決の時が 来たら 遠くまで聞こえる合図の鐘が 必要だと考えました。「清水寺は 荒れ果てているが 幸いにも 梵鐘は 重いので 持ち出されていない。構わないから 盗んで来い。 日頃 手厚く敬ってきたので 仏も 我らの力に成り 罪を 許してくれるだろう。」と 伊賀久隆は 部下達に 命じました。 侍達は 神仏の祟りが 恐ろしいのですが 大将の命令には 逆らえません。夜を 待って 寺に 忍び込み 梵鐘を 降ろそうとすると 揺れただけなのに「ヤ ジャーン。 ヤ ジャーン。」と 鳴りました。それでも 盗み取り 虎倉に 逃げ帰ろうと 凸凹の山道を進むと 揺れる度に「イカーン 。 イカーン。」と 鳴り続けました。木の枝や 草の葉に触れる度に「イケーン。 イケーン。」と 鳴り 清水寺から 離れれば 離れる程に 音は 大きくなりました。「この音なら 備前全土に 一打で 合図できる。備中の敵も 恐れをなそう。流石asugaは 我が殿 久隆様の眼力は 大したもんじゃ。」と 恐れを 喜びに変えて 道を急ぎました。 虎倉城で 待っていた久隆は 部下の報告に 喜んで さっそく 梵鐘を 叩いてみました。ところが 力任せに叩いても 梵鐘は「コーン。」とも 鳴りません。 「鳴らぬなら 壊してしまえ 糞梵鐘」と 言って お城の一番高い所から 滝の口に 落とさせましたが 何度 落としても 壊れません。その丈夫さに 呆れた 久隆は「仏の加護が 有って壊れんのじゃ。 近くの寺に 預けて 叩けば 鳴るかも知れん。」と 思い寺に 移し叩くと「オエーン 。オエーン。」と 小さい音がするだけでした。 すると夜になって 風で舞った木の葉が 当たったり 又 蚊が止まっただけでも「イヤーン。イヤーン。」と 鳴るのです。住職や 住民は 流石に 気味悪がって「久隆様。清水寺の大旦那の神原宗右衛門(Koubara-Souemon 神原左京(KoubaraA-SakyouUnosuke様が 噂を聞いて 駆け付け〔もともと 清水寺の梵鐘だから 返してくれ〕。〕と 梵鐘の返還を 求めています 清水寺に 戻してください。女の腐ったような泣き声を 毎夜 毎夜 聞くのは ご免で ございます。」と 頼みました。久隆は「仕方ない 詫び状文でも 書くから 清水寺に 返してやれ。」と 命じました。 侍達は 梵鐘を 重い気持を堪えて 運びました。しかし 今度は 木の枝に当たっても 岩にぶつかっても 音はしません。侍達は 無口になり 仏の祟りを 恐れました。 やがて 霊峰の高祖山Takazou-yamaの峠に差しかかると 松の枝に 梵鐘が 当たりました。すると「ゴキ・カーーーーーン。」と 心地良い音を 長々と 響かせました。侍達の顔は 俄かに明るくなって「治った。 治った。 梵鐘様の機嫌が治った。 嬉しや。 嬉しや。」と 大はしゃぎに成りました。それからは 侍達の足は 軽くなり 一気に 清水寺まで走り 鐘楼に 梵鐘を 戻しました。 詫び状には「梵鐘を無断で持ち出し 非礼を詫び申し候。 鐘は 軍略には 役に立ち申さず、。清水寺にあってこそ その威を 発揮する物と 存じ候。 罪を 滅ぼさんと 存じ候わば 寺の修復を 約束し候.」と 書かれていました。そのご利益あってか 一地方豪族ながら 伊賀久隆は 西国の第一の雄 毛利両川の3本の矢を 以っての総攻撃を 一夜にして 一名の犠牲者(犠牲者なしとの伝説もあります)を出すだけの 大戦果を得ました。この戦いを 加茂崩れと 呼びます。「賀陽町史」「湯山 寺の前の村人より口伝」 やじゃ:嫌です いけん:行けない 駄目です おえん:駄目です 出来ない 死ぬ 高祖山:素戔嗚命が 祀られていた 山です。高祖 北緯34度51分17秒・東経133度45分47秒 虎倉城:岡山市北区御津虎倉 北緯34度50分10秒・東経133度50分4秒 藤原伊賀伊賀守左衛門尉久隆:虎倉城城主 宇喜多直家が 死を覚悟した時 有能な久隆が 宇喜多家の運命を牛耳ると 恐れ 妹である久隆の妻に 毒殺させました。 宇喜多直家:主君や 人を 次々に暗殺等し 戦国大名になった 日本随一の梟漢KYUUKAN(卑怯な計略者)です。 龍角山清水寺:湯山寺ノ前458番地 北緯34度51分4秒・東経133度43分35秒 神原宗右衛門:伊賀惣右衛門は 大原城(下竹荘黒土土生 北緯34度51分24 秒・東経133度43分47秒)城主でした 後に神原に 御北神原家を作り 神原と姓を変え、久隆の幼い 弟 太郎次郎を 宇喜多氏から守りました 。 神原佐京佐:いかなる人か解りません。伊賀右京は 惣右衛門の祖父です 平成23年(2011年)7月11日