昔 岩男と言う男が三谷陰地の杭坂の裏山に松茸Matutake狩りに出かけると 松茸山に人がいました。「さては 松茸泥棒か。」と 思って そっと近付きました。松茸泥棒(は 美しい娘でした。男は「松茸泥棒に 来る位なら さぞ けちな 梅干し婆さんじゃろ。」と 想像していたので、意外な事の成り行きに 戸惑い 思わず「お茶でもしません」。と 声を掛けました。娘は 泥棒をしていた最中に 突然に現われた男を 怖がり 逃げ出しました。その逃げ足の速い事。山に慣れた男でも 追い掛けるのが やっとで 追い付けず 見通しの悪い曲がり道で 娘を見失ってしまいました。
辺りを探すとその娘が 息を乱し 苦しそうにして 川のほとりに 蹲っていました。岩男は 娘に「どうした。つくばんで(しゃがみこんで)。 足ぃくじいたんか。靑じん(靑痣)がてきとる。」と 声を 掛けると「森様にお参りし 五穀豊穣を 祈願し 化気様にお参り して 食べ物の安心安全を お願いしようとしていたんじゃが 天転ろぼし(自然に転ぶ)に合うた。」と 答えました。「しめた。お友達になれる。」と 思い 男気を 親切気にし「それは 難儀じゃな。 森神社ぁ 参った後 道ぅ失のうたんか。化気様迄 背負 って行っちゃろう。易しぃ事じゃ。 肩がりんなされぇ。」と 申し 出ました。娘は初め「迷惑じゃろうけぇ。」と 言ったのですが 二つ返事で 背負われました 。背中に 若い娘の柔らかい感覚を 楽しみながら 川を ザブザブと渡りました。化気神社の氏子だったので この辺りで 道を迷う筈はないのですが 急坂を 登っていると 円城寺の和尚が 現れて「おい。 そこの男。狭ぇ日本 そねぇに急ぇで 何処ぇ行く。その先ぁ 火雷神社Ho-no-Ikazuti-jinjya/Karai-jinjyaじゃぞ。おまけに その娘にゃぁ 尻尾Sippoが あるぞ。」と 言いました。
ハッと 我に戻った男は 娘の尻尾を 掴んで 放り投ると 狸は オナラをしながら 火雷神社の方へ 逃げて行きました。和尚は 訳を聞くと「狸じゃもの 。山道ぅ走るんは お前様よりゃぁ 早ぇ訳じゃ。川ぁ渡りとうて お前様が 狸に担がれたんじゃ。道まで 方違いKata-tagaiさせられとる。ありゃぁ 火雷神社のキュウモウ狸の親戚じゃったんじゃあなかろうかのう。塩梅良うAnba-you担ぇだ狸に 担がれたのう.
」と言って大笑いしました。「三谷野呂の百怪談」 三谷森神社:三谷竹乢392番地 北緯34度54分25秒・東経133度47分49秒 祭神は宇迦之御魂神 杭坂:三谷388-390番地 毛気神社:案田毛気山5番地 北緯34度45分19秒・東経133度49分22秒 祭神は伊奢沙和氣神Isasa-wake-no-kami(気比大神 御饌大神) 火雷神社・魔法宮:上田西摩法松158番地 北緯34度53分09秒・東経133度47分10秒 祭神は火雷神 魔法様(化生狸キュウモウ)
平成23年(2011年)9月4日
著者が 小学4年生の頃 祖母 と言っても 著者の祖母は 若くして死んだので 祖父の後添えですが 祖母の友人が「白松茸を 採って来てくれれば 高い値で買い取る,」と 言うので 三谷森神社の裏山だったと記憶しますが(はっきりした場所覚えていない)秋の頃の朝早くに 採りに出かけました。著者は 落ち葉に隠れた 拳骨状の若い松茸Matu-take探しが 得意だったので 大勢の子供達が 同居していましたが 著者を 祖母は選んだのであろうと その時は 考えました。祖母も 初めて入った山なので 勝手がわからず 2人で手分けして 探す事にました。松茸は 持山Moti-yamaには 沢山生えるのですが この茸は 滅多に 採れない茸らしく 持山で 見た事 が有りませんでした。数本の預かって来た見本を 便りに 探しましたが なかなか 見つかりません。著者の足音 に怯えて 小さい動物が逃げる音が 時々して 静かの森の中は 気味悪く感じられました。ところが 大胆にも 狐が出て来て 不思議そうに 著者を見ていてゆっくりと去って行くのです。何を思ったか 忘れましたが 後を付けてゆくと 松の木の下に 白い茸が 群生し 菌輪を作って 生えていました。あっという間に 駕籠いっぱいの茸が 採れました。帰ろうと 思い大きな声で 祖母を呼びますが 返事がありません。すると 又 あの狐が現れたので ゆっくりと 誘導するように行く方向 に 付いて行くと 祖母は谷に転び うん伸びていました。竹筒製の水筒の水で 顔を洗ってやると 気が付いたので 杭坂Kuizakoに 挨拶して家に帰りました。祖母の駕籠に も 白い茸がいっぱいでしたが 殆どが 毒鶴茸でしたので 著者が分別してやりました。親切な狐の話を 杭坂の主(祖父の弟)にしても 祖母と同じように 信じて貰えませんでした。祖母は「白松茸を取りに行った事も 毒茸と間違えたことも 杭坂のおじさんにあった事も 誰にも話してはいけない。」と 真面目な顔をして 口止めしました。その時は 幾つかの失敗を重ねた事が 恥かしかったので 口止めしたのだと思いましたが、あの山は 他人の持山で 泥坊の片棒を 担がされたのかも知れないと 思う今日です。しかし あの山は 杭坂のおじさんの持山だったと信じています。あの狐は 杭坂の娘さん達が 餌付けしていたのでしょう。 シロマツタケの記憶:ドクツルタケに似ていますが 茎も傘もドクツルタケは 壊れやすく 祖母の言うシロマツタケは マツタケと同じくらい肉質が しっかりしており 傘にささくれ状の鱗片が有り 茎の根元は細めになり壺がなく かすかにマツタケ臭がしたのを覚えています。食べた事はありません。 シロマツタケ:モミタケ(センダイサマツ サマツ)の別名で 日本全国に分布します。 シロマツタケモドキ:モミタケの事です。そもそも この地域に シロマツタケという茸は ありませんが 祖母はシロマツタケと言い切っていました「マツタケの仲間「シロマツタケモドキ」を食べると脳が混線してバグる | 野食ハンマープライス (outdoorfoodgathering.jp)」「s-kinokonokai.sakura.ne.jp/kinoko/common/momitake.htm」 ドクツルタケ:傘の表面はなめらかで 根元は 球根状に膨らみ 大きな壷を付けます 猛毒です 「https://ja.wikipedia.org/wiki/ドクツルタケ」 シロマツタケモドキの料理:炊き込みご飯等にするとマツタケよりおいしいとされます 杭坂:三谷388-390番地 平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。P78~P80に「松茸」と言う物語が載っています。昭和初期の頃の豊富なマツタケ生産が報告されています。 平成28年(2016年)7月16日
吉川小茂田 古庵狸 Raccoon dog lived in Huruan
昔 小茂田の古ワンと言うとても寂しい所に 古庵Huruwanと言う庵が ありました。庵とは言っても和尚が 在住していました。寺の裏山には 豆狸が 住んでいて 庵に出て来ては 餌を探していました。一人暮らしの寂しさを 和尚は 狸を見る事で紛らわせていました。可愛い仕草に つい餌をやるようになると 狸は 老婆や 大入道に変身し 庵の夜警や 天候の予知を するようになり、鼠や 蛇や狼が 現れると 下駄の音や 盥が 転がる音を たてて 追い払ったり 嵐や 地震等を 知らせました。その頃の古庵では 杓子除きと言う祭りを 行なっていました。「杓子で 食物を掬うように 福徳円満 長寿開運 万福招来を 掬い取り(救い取り)病難 災難を祓いとる(払い取る)祭で各自使い古した杓子を持って来て供養(焚き上げ)するのだと 言われます。この祭りに 来るには 眠り坂Neburi-zakoを 登ってこなければなりませんでした。和尚は狸に「檀家の者が 参る時に 寂しい眠り坂で 狐や貉Mujinaが 騙すんで よだっておるけぇ守ってやっておくれ。」と 頼みました。優しい和尚の頼みでもあり 狸は「化生の術を 磨く良ぇ口実ができた。」と 快く引き受けました。祭の日には ポンポコポンポンポンポンポンとリズム良く腹鼓を打って 囃しました。寂しく 一人でやって来る者があると お婆さんに化け 袋を持って現れ 参 道を先導しました。袋の中には 縁起物の栗や 柿の実 等が 入ってiいて 贈り物にしたのです。雨の日には 傘を差して現れ 大きな蕗HUkiの葉で 作った傘や 茅で作った蓑を 貸してやりました。子供達が 集団で来ると 菓子袋や 白兎に化け 拾おうとしたり 捕まえようとすると スルリと逃げ 鬼ごっこの鬼になって 遊んでやりました。檀家の者は 大喜びで 古庵狸と呼んで 参詣の時が 待ち遠しく 思うようになり 古庵は 賑わいました。しかし 悪戯も 過ぎる事がありました。力持ちを 自慢する者がやって来た時は「自慢の鼻をへし折ってやろう」と 子供に化け「負ぶってと。」甘えました。力持ちは 親切気を出して 子供を「負んぶ」すると 急に重くなり 腰を痛めさせました。知識や 頭の巡りを自慢している者が来ると 頭の毛を むしったりしました。美男を 自慢している者が来ると 高い木から 八畳敷きの玉袋を ぶら下げ 顔に張り付けました。その臭い事 ,臭い事。村人達には 大うけしましたが 当の三人に すれば やられただけでも 腹が立つのに 村人達の笑い者にされて 腹が煮えくりたちました。「あの糞狸を 燻り出して 狸汁にしよう」と 相談し 狸の住処に 松や唐辛子を 持ち寄り 燻しました。不意を 襲われ狸は 煙に捲かれ 神通力が 使えませんでした。哀れにも 狸は住処から引きずり出され 殺されそうになった所に 和尚が 駆けつけ「お気持ちは解るが こ奴には 良い所もある.。」今後は わしが 責任を持って 監督するけぇ ここの処ぁ許してやってくだされぇ。」と 土下座して 頼みました。和尚に こうまでされては 仕方ありません。狸は和尚に 預けられました。それからは 小坊主に化け 和尚のお供をするようになりましたが「和尚さん。小坊主には尻尾がありますよ。」とか「小坊主にしては 腹が出てますね。」等と 挨拶されると、和尚は「四国には 立派な狸が居る。わしの庵も 小坊主を置く程になったけぇ 修行し直せられぇ。」と 狸に身の振り方を 指導しました。狸は 涙して 和尚の申し出を受け入れました。早速 大気見味神社を訪ね 喜左衛門狸に 弟子入りしました。修業を重ね 喜左衛門にひけを取らない 腕前になると 禿狸との化け較べで 功を上げました。喜左衛門は 喜び 嫁を世話してくれ 住まいまで用意してくれました。時が流れ 日露戦争が始まると 赤い軍服を着た兵隊が大活躍しました。クロパトキンの日記には【〇に「喜」「庵」「太」「梅」の字を書いた赤い軍服の日本兵は 撃っても撃って も死なず、射手は 目が眩み 闘争心を失った】と 記されていたと言います。古庵は 古庵狸が 居なくなると次第に寂れ 今は自然の中に消えています。 「吉川千木の村人より口伝」
古庵跡:伝説に基付き 眠り坂周囲を探索しました。眠り坂に 平行して 山道が有ります。山道と 眠坂の間に 幾つかの墓場や 小平坦地が有りますが 建物があったように見えません。一番高い処 北緯34度49分39秒・東経133度44分43秒にある墓場には 五輪塔や 宝塔等が沢山あり 小平坦地を 伴います。 更に 西に向かうと 北緯34度49分35秒・東経133度44分22秒に 広大な桑の栽培放棄地が あります。 眠坂の麓近く北緯34度49分42秒・東経133度44分44秒に 小平坦地があります これ等が 候補地ですが 古庵や 眠坂の地主の方は「この辺りに 寺跡が あったと 聞いた事がない。」と言っておられました 豆狸:豆狸の陰嚢は 普段は縮まっているが 広げると 八畳もあるとされます。多くは 関西以西に棲んでいたとされ.ます。.体格は 犬程で 普通の狸より知能が高いとされます。陰嚢に 息を吹きかけると 人は 部屋や 壁等の幻覚に晒されるとされ 又 自ら陰嚢を被って 別の者や物に化けるといわれます。「https://ja.wikipedia.org/wiki/豆狸」
古庵huruanの地名:吉川小茂田 北緯34度49分42秒・東経133度44分44秒 己ワんkowan・古ワンhuruan:吉川5252・5284・5306-5322・5315-5318・5608-5814番地 眠坂Nemurizako:吉備中央公園から南西西に350m程進んだ処 北緯34度49分39秒・東経133度44分52秒に猩々乢syoujyou-tawaの交差点が有ります その北に平行するように走る細い坂道が 眠坂です。 眠坂・ねぶり坂:吉川5289-5293・5295-5305番地 杓子除き・杓除き: 「杓子で食物を掬うように 福徳円満 長寿開運 万福招来を 掬い取り(救い取り)病難 災難を払い取る(祓い取る)祭で 各自 使い古した杓子を持って来て 供養するのだと言われるが どんな祭りかよくわかりません。「吉川布郡の老婆より口伝」平成28年(2016年)7月16日
古庵狸伝説 Folklore of Old Racoon dog in Koan
吉川西庄田から小茂田に 古庵と言う地があります。木がウッソウと茂り 気味悪い処で 道は狭く曲がりくねっていました。そこに 古庵狸が居て 人をばかし 難渋させていました 加茂川の竹部に 昔 肉屋があって 高梁に肉を買い付けに行った時に 肉を盗み取られたと言います。「吉川布郡の老婆より口伝」平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。p57に「古庵坊主」と言う妖怪が紹介されています。 平成28年(2016年)7月16日
喜左衛門狸と禿狸の化け較べ Comparison of transformation between Kizaemon-racoon tanuki and Hage-tanuki
喜左衛門が 金比羅様へ行くと屋 島の禿狸に出会いました。両者は 化け上手の評判が高かったので 互いにその技を見たくて 早速 化け較べをすることになりました。 禿狸は 1000年の過去を 知っていて 頭の毛を抜いて プーと息を吹きかけ 得意技である源平の壇ノ浦の合戦を 再現して見せました 。 余りの腕に喜左衛門狸は 絶句しましたが 3ヶ月の先を見通せたので そこで 数ヶ月後に 大名行列を 見せてやると 約束し トットと帰って行きました。 当日 呼び出された 禿狸は 約束の場所へ行ってみると 本物そっくりの大名行列が 向こうからやってくるでは ありませんか。感動した禿狸は「負けた。敗けた。素晴らしい。」と 手を打ちながら 行列の先頭に 近寄って行くと いきなり護衛の侍に「無礼者」と 叫んで 切り掛かってきました。喜左衛門に 騙された事を 察した 禿狸は 斬 られる寸前に逃げ 這々の体で 屋島に逃げ帰りました。帰喜左衛門は その日のその時間に 大名行列が そこを通る事を予見していて 禿狸に一杯食わせたのです。「www.iyoirc.jp/post_industrial/post_industrial-4892」 平成28年(2016年)7月14日
喜野明神 Kino-myoujin
喜左衛門狸は 悪戯好きでしたが 大気味神社の眷属としての務めも積極的に果たしました。 神社の神殿が荒れはてた時に 人に化けて 菊間町の瓦屋に 屋根瓦を千枚注文しました。 ところが うっかりと 狸であるとばれ 窯で焼き殺されました 。すると亡霊となって しばしば不審火を 起こしたので 喜左衛門狸の祟を鎮めるため 喜野明神に 祭り上げられました。「www.katch.ne.jp/~msyk-tsj/ookimijinja.html」 平成28年(2016年)7月14日
日露戦争の赤揃 Red lineup in the Russo-Japanese War
喜左衛門狸の亡霊は 日露戦争に 四国の狸の大将として 出征しました。四国の狸軍団は 小豆に化けて 大陸に渡り 上陸すると 豆を撒くように 全軍に 散っていき 赤い服を着て 戦いました。 ロシアの敵将のクロパトキンの手記に「日本の兵隊の中には 赤い服を着た者が混じっており いくら撃っても 進んでくる上に これらの兵隊を 撃つと目が眩む。 赤い服に〇に「喜」等の字の印が付いていた。」と 記されていたとされます「https://ameblo.jp/itukanaranisumu/entry-12198820429.html」 平成28年(2016年)7月14日
禿狸 Hage-danuki "Bald racoon dog"
昔 狸が矢傷を負うと 平重盛に 助けられ 恩義から平家の守護を誓いました。その子孫が 太三郎狸で 平家の滅亡後は 屋島に住み 屋島に 戦乱や 凶事が 起きそうな時は 屋島寺住職に 知らせたといわれます。それ故に太三郎狸は 屋島寺の守護神となりました。 その変化妙技は 日本一と 称讃えられ 四国の狸の総大将の位になりました。大寒には 屋島に 集まった300匹の眷族に 源義経の八艘飛びや 弓流しといった 源平合戦の様子を 見せたと言われます。 屋島寺は 唐の僧 鑑真による開創と伝えられますが 盲目のために 難儀する鑑真Ganjinを 太三郎狸が案内したとされます。屋島寺の住職が 代替わりする時は 寺内の「雪の庭」で 合戦の模様を 住職の夢枕で再現してきたとされます。空海(弘法大師)が 四国八十八箇所の霊場を 開創した頃 霧深い山中で道に 迷った空海を 老人となって案内したとされます。鑑真や 空海に 感銘を受けた 太三郎狸は 狸の徳を高めるべく 屋島に教育の場を設け 全国から集まった若い狸達に 勉学を施していたとされます。後に 太三郎狸は 猟師に 撃たれて死にますが 死後の霊は 阿波に移り 人に憑き 吉凶を予言したり 狸憑きを落としていたと されます 江戸時代末期に 起きたという 狸達の大戦争 阿波狸合戦で 金長狸と六右衛門狸が 相討ちとなった後 双方の2代目同士によって 弔い合戦が行なわれようとしたところ 太三郎狸の仲裁によって 事が収まったとされます 。 後に 日清戦争や日露戦争では 太三郎狸は多くの子分達と共に 満州へ出征して 大量の小豆の粒を 兵士に変えて 日本軍に 勝利をもたらしたとされます。「https://ja.wikipedia.org/wiki/屋島の禿狸」 平成28年(2016年)7月14日
平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。p57に「古庵坊主」と言う妖怪が紹介されています。