鍋谷の狐 狐と河原文太郎 敗軍の霊 逢川の狐 蝋燭を盗る 貴布祢様の狐 文太郎の供養祠 岩崎の川神 大和神社の狐
下加茂 鍋谷の狐 Fox lived in nabetani
大正の初め頃、下加茂山根の安井さん家Tiの母ちゃんと 姉妹と3人が 言っていたそうじゃ。円城黒杭から 河原文太郎さんが 毎年、護摩を焚いて 大般若経の転読をする法要を 行っていて、もんげぇ大きな 木札を 背負って 夜うさりぃ 帰っていると、下加茂の鍋谷に 辿り着くと、提灯の灯が 消えたそうじゃ。付けても 付けても 消えたそうじゃ。狐が 蝋燭の火を 盗んでいたんじゃと。梅原まで来ると 山向こうに、青い玉が フワフワと 動いとったそうじゃ。狐が火 を灯していたんじゃと。「吉備中央町の民話(1)」平成24年(2012年)5月4日
下加茂真瀬良に 河 原文太郎と言う男が いました。山上不動明王Yamagami-Hudou-myououの大きな守護木札を 背負い 大般若経をパラパラ捲りMekuriながら 黒杭 皿井野を通り 鍋谷に差し掛かると 化生狸に 騙されない 等 それ迄ご利益があった山上不動明王のご利益も 大般若経の転読のご利益も 失われたのか 夜道の頼りの提燈の火が 消えました。何度付けても 直ぐ消えるのです。
敗軍の霊 SPIRIT OF THE DEFEATED ARMY
天正8年(1580年) 上加茂清経に 粟屋与十郎を 先鋒隊の大将にして 毛利両川の大軍が やってきました。しかし 初戦で 粟屋与十郎が 討ち取られる等して 伊賀久隆に負け 加茂崩れを 起こした時 鍋谷城 鍋山城にも 敗軍の兵が 逃げ込みました。付近の民家を訪ね 食料を得ようとしたのですが、村には 人っ子一人おらず、食料になりそうなものは どこかに 隠され見つからなかったのです。伊賀久隆の事前の命令で 民も兵も できるだけ多くの食べ物を持って 虎倉に 集結していたからです。兵糧が 尽きた毛利の兵は、やむなく 提燈の明かりを頼りに 野草を摘み 狐や 狸を捕まえて 臭く不味いのを 我慢して食べました。 狐の中には 術を使えるものもいて、毛利の兵隊の提燈の火を消して 仲間の命を 守ったのです。 今でもその子孫の狐は 提燈持った人が 夜に鍋谷を通りかかると、毛利の敗軍の霊と 勘違いして 恐れ 提燈の火を 消すそうです。 狐に合うたら でっかくした マラを見せると 化かされないそうです。「下加茂大寺の村人より口伝 平成24年(2012年)5月4日
兵庫県尼崎市蓬川の狐 FOX IN AIKAWA
遠い昔 蓬川の堤に 色っぽい べっぴんに 化けた女狐が出没し、通りがかりの男に 色仕掛けで男を満足させ 、油断した処で 荷物を捕ったり 川に突き落としたり なおも迫って 生気を抜き取ったりして 困らせていました。ある時 剛の者が やって来て「面白い 化け狐を成敗してやる。」と 言って 手ごろの大きさの陽物石を 持ってやって来ました。そんな事とは 知らない女狐が 色仕掛けを始めると 男はいきなり陽物石を 女狐の秘所に差し込み「ざまぁ見ろ。男根石で 満足したか。」と 悠然と 立ち去りました。流石に 女狐も この痛さに懲りて 蓬川の堤に姿を見せなくなりました。しかし「石マラ 石マラ」と 恨めしそうな声だけは したそうな。 「blog.livedoor.jp/ufodouji-tec_rec/archives/45663684.html」 平成24年(2012年)5月4日
狐が蝋燭を取る THE FOX STEALS CANDLES
狐は ロウソクが好物なので、提燈を 下げて行くと 尻尾 等で 上から提燈を叩き落とし 蝋燭を 盗んで食べると言います。それを させないためには 提灯の上に 手を入れて 持って歩かなければいけないと 言います。提燈の火が消えそうになったり 消えるのは 狐が提燈を 叩き落そうと 試みているからだ と言います。「www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/1460366.shtml」杉谷 有漢 上竹の上ン茶屋kami-n-tyaya下ン茶屋simo-n-tyaya 等出に 蝋燭を取る狐がいたと伝えられます。 加茂八十八巡礼3番奥の院真瀬良札所:本尊は 山上不動明王 下加茂真瀬良1780番地付近の小道を 右に 宇甘川を渡り 左に進んだ所 北緯34度50分54秒・東経133度49分12秒 河原法印(下加茂真瀬良1750番地)が 灯明を 絶やさないと 言われますが、彼の姿は 見当たりませんでした。 地蔵菩薩が 多く祀られています。 下加茂山根:現在の大寺 日吉神社の川向こうの 山根の屋号を持つ安井家は 北緯34度51分44秒・東経133度49分17秒 山上不動明王・浪切不動明王:弘法大師(空海)が 海上安全を祈るため一刀三礼彫刻を 行ない、尊師 恵果阿闍梨の開眼加持を 受けた霊尊です。異国来襲の護りとされていま。。「www.daihou.com/fudou.html」 河原法印は 室戸台風の被害者を 悼むために 真瀬等に 山上不動堂を 開基したのでしょう。 不動明王:大日如来の元 悪魔軍を 撃退し 災害の悪毒を 除き 煩悩Bonnouを断ち 行者を護り 諸願を聞き届ける 決意を貫く仏です「https://kotobank.jp/word/荳榊虚譏守視-125428」 黒杭:上田西 北緯34度53分8秒・東経133度47分1秒付近の集落で、三納谷との境の火雷神社にキュウモウと言う化生狸が 祀られっています。 高見山は 三納谷城で そこにある銅抗は キュウモウの住処とされます。 加茂八十八巡礼74番黒杭札所:本尊弘法大師 上田西有明132-1-1番地の下の高台 北緯34度53分65秒・東経133度47分9秒 加茂八十八巡礼79番皿井野札所:本尊は弘法大師 上田西臺1758番地の臺南で 粟島神社(北緯34度52分34秒・東経133度47分55秒)に併設されます 虚空蔵菩薩:下加茂ゴザイ841番地 北緯34度52分8秒・東経133度47分23秒の上 地蔵菩薩:高梁御津線(31号線)の和中から 上田西に向かう道の右手の崖の中腹 北緯34度52分2秒・東経133度47分24秒 加茂八十八巡1番礼宗林寺札所:本尊は 聖観音 429号線から 高梁御津線(31号線)が分かれる辺りの東 31号線の北 北緯34度51分31秒・東経133度48分51秒 鍋山城跡:上加茂薬師262番地の北 北緯34度52分1秒・東経133度47分40秒 加茂八十八巡4番鍋谷札所:本尊は 弘法大師 129号線の下加茂鍋谷1026番地の東を10m登った所 北緯34度52分9秒・東経133度48分21秒 鍋谷城跡:下加茂鍋谷1028番地の南西 北緯34度51分54秒・東経133度47分56秒 上加茂合戦・加茂崩:御津虎倉の伊賀久隆が 毛利方から 織田方に付くと 毛利軍は3万の大軍で攻めてきまし 天正8年(1580年)上加茂で衝突し 毛利軍は総崩れしました。敗走する毛利兵は 作戦上もぬけの殻になっていた鍋山城 豊岡城 福山城 等に 逃げ込みました。 加茂八十八巡4番奥の院梅原札所:本尊は 弘法大師 高梁御津線の梅原橋を渡った下加茂梅原818番地の裏手の西の上 北緯34度51分44秒・東経133度48分3秒に建ち、祇園様 荒神様が 併設されています。平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備人出版】が発行されました。P222~P224に「ローソクを取る」「提灯を消す」の民話が、p271~P272に加場の原の「提灯がえし」 倉城の「提灯かつぎ」の民話が載っています。P276に福沢才の乢の「抜け首」と言う記事が有ります(毛利の小早川がこの近くの城”おそらく野々平城あるいは笹目城”攻めて来て首を切られ、その恨みを持った首の霊が現れる)。 平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備人出版】が発行されました。P222~P224に「ローソクを取る」「提灯を消す」の民話が、p271~P272に加場の原の「提灯がえし」 倉城の「提灯かつぎ」の民話が載っています。P276に福沢才の乢の「抜け首」と言う記事が有ります(毛利の小早川がこの近くの城”おそらく野々平城あるいは笹目城”攻めて来て首を切られ、その恨みを持った首の霊が現れるのであろう)。平成24年(2012年)5月4日
下加茂の倉庫街Soukotyouの田圃辺りに来て、川下 右岸の田中の貴布祢様に 参ってみると、誰も火を 点さなかったのに 灯 が点っていました。狐か 神様が、お参りの為に 火を付けてくれたのだと 話し合ったそうです。「吉備中央町の民話(1)」
昔 下加茂田中が 開墾されました。農業には 水が大切で 水の供給によって 収穫が 左右されます。そこで 田中集落の水田脇の用水路に 大倉神社と 貴布祢神社を 建てました。貴布祢神社の祭神は 高オカミ神Taka-Okamo-o-ksami・闇オカミ神Kura-Okami-no-kamiです。村人は 闇おかみ神と言う位の神様ですから、燈明し 辺りを明るくすると ご利益が 得られないと考えたかどうかは 解りませんが、年一度の荒神祭の日 以外は 火を点す習慣は ありませんでした。昭和9年(1934年)室戸台風が 下加茂を襲うと 宇甘川 此谷川は氾濫し 下加茂の原は まるで湖のように 全面が 水没しました。大倉神社 貴布祢神社は 勿論流されました。
そこで 田中の村人は 大倉神社 貴布祢神社を 高台に 遷宮しました。この洪水で 川上から 溺死した人が 流れ着いたので 田中 大寺 安井の人達は 遷宮した大倉神社と 貴布祢神の脇に 御崎神社を 建て 身元不明の御霊を 祀りました。河原文太郎は 信心深い人でしたので 宇甘川 右岸に 流れ着いた二人の御霊を 貴布祢神社の近くの岸上に 祀り、毎日 大般若経の転読を してました。下加茂山根の安井さん家Tiの母ちゃんと 姉妹Kyoudaiの3人が 遠くから見ていると 貴布祢神社辺りに 狐火が 毎日のように 現れるので、倉庫街の田圃辺りに 来て、川下 右岸の田中の貴布祢様に 参ってみると 煌々Koukouと 燈明で 辺りは 明るくなっていたのです。その明るさは 暖かい気持ちにさせたので「大倉神社の稲の神様である 下照姫様Sita-teru-hime-no-mikotoと 貴布祢神社の水の神である闇オカミ様は 協力して 稲を育てたくて 狐火を起こし 貴布祢神社に 火を点してくださった」と 3人は 話し合いました。貴布祢神社に 燈明を点 し続けられると 田中は 豊作となり倉庫町の倉庫は お米が 溢れるようになりました。「下加茂大寺の村人より口伝」 実は 河原文太郎さんが 灯明を続けていたのです。
河原文太郎の祀った供養の祠:北緯34度51分27秒・東経133度49分3秒 室戸台風の時の水嵩は この祠まで 届く勢いだったと されます 豊岡下岩崎685番地の北の崖上 北緯34度54分54秒・東経133度47分2秒に川神と 大日如来が 祀られています。いつの頃か 解りませんが、昔洪水があり この位置まで 水嵩が 増したと伝えられます。そうであれば、室戸台風の折りの下加茂と同様に 豊岡下でも多くの家屋は 水没した事になります。
平成24年(2012年)5月4日
豊岡下 岩崎の川神 Kawa-kami in Iwasaki
豊岡上小森線(371号線)沿いの豊岡下岩崎685番地即ち 常江田山の麓の豊岡川側の畑の奥の大岩の張り出しの上に 川神の石碑が あります。かつては 大岩の下が 深い渕だったそうです。南無阿弥陀佛 享保二酉(?)歳の横に 丁と刻まれており、両脇に 小石碑があります。一基は 大日如乗、一基は 中連講と 刻まれています。岡山に、享保元年と 5年に 大洪水が ありました。その時 川に流された少年がいて 水の犠牲者に なりました。その少年を 祀ったものが 川神だそうです。昔、洪水で この高さ迄 浸水した事を示しているのだと 村人は 語りました。北緯34度54分54秒・東経133度47分1秒 A stone monument of Kawa-kami ”god of river” located on a large rock overt at the back of a field on the Toyooka-gawa/river side where is the foot of Tune-eda-yama/mountain It is said that there is a deep pool under the large rock in the past Namu-Amida-butu “we will rely on buddhas that we can't know quantity”, Kyouho 2 Tori “1717”, ? years old and Tyou are engraved on the monument surface There is a two small stone monument on both sides One is engraved Dainiti-nyojyou “dainiti-nyorai/tathagata, Vairocana” and another is engraved Tyuu-ren-kou The big floods happened in Okayama in the first year and fifth year of Kyouhou era A villager told me that 「At that time, a boy was carried away by the flood and the boy became a victim of water A memorial stone monument erected for the repose of the dead boy's spirit here It shows that it was flooded so far at the time of the flood」 平成23年(2011年)3月2日
昔 大和神社の牛像の奉納物の近くに 住み着いた狐は 化ける術を 身に着け、参詣者に 悪さばかりして 困らせていましたが、歳をとり 悟りを開くと お宮守を 始めました。術を使い 埃 雑草や 枯れ葉を 管理し シロアリや キツツキの害を 防いでいましたが、神職の者も 参詣者も 全く気付きませんでした。神社が汚れたリ被害があれば それは自然の出来事であり、きれいに保たれていれば それはそれで 当たり前に 思えたからです。それが 悔しくて なんとか 自分を 認めてもらいたかった 狐は「困っている人を 助ければ 自分の存在を 認めてくれると 思いました。そこで夜に 大和神社の近くを 歩く人の提燈の火が 風で消えそうになると 術を使って 防いでやり。消えてしまって 火打石を 出し付け 木に火を付けようとすると 提灯の火を 付けてやりました。村人達は 勝手に 火が付くので 恐ろしがり 夜に神社に 近づかなくなりました。参詣者が 減った事に 気付いた 勇気ある神主が 火を付けていない提燈を持って 夜回りをし「やい狐 わしの提燈に 早う火ぃ灯しんせぇ。」と 言うと 狐は嬉しくなって 提燈の火を点して やりました。神主が「歳をとっても 悪さを止めんのか。姿ぁみせなされ。説経してくれる。」と 言うと、白狐は 姿を現し 事の成り行きを 話しました。神主は「そうだったのか 話は聞いて見んと 解らんもんじゃ。とんだ誤解をして 悪かった。もう牛しわけmou-si-wakeない。」と 言って 毎朝 狐の住処に 夜守りの報酬の油揚を 届けてやりました。それからは 狐の悪さは 無くなり 狐が神様に 召される迄 大和神社は綺 麗に管理されたとさ。「それで 時々 牛の像の前に 神饌が 供えられるのです。「大和神社のお祭の準備をしていた人との雑談」 平成24年(2012年)10月30日