榎並茂兵衛 岡山藩校 斎藤一興の髭塚 日名忠兵衛 土居清吉入道 伊賀久隆の信仰
豊岡上 上光寺 榎並茂兵衛 Sigebei Enami
豊岡上上中須賀290番地の隣の北緯34度53分58秒・東経133度45分512秒の豊岡地区農村公園内に 地神社が 建ちます。 境内に 代官榎並氏茂兵衛尉重友墓 「延寳二申寅年三月四日 安政丁巳歳註仲春攸」が あります。寛永元年(1624年)大守 光政の時代 榎並茂兵衛は 寛文年中(1161年―1672年)津高郡北部の代官として、民を思う政治を行ないました。この仁政Ninseiの主なものは 豊岡上の草原を開拓し 土道地池Dodouti-no-ikeを掘り 1kmの榎並水道(金子水道Kaneko-suidou)等の用水路を引き 5haの水田を 開拓した事です。民は 敬慕し 彼の死後 春 秋に祭りをしました。延宝2年甲寅年3月に、この人の墓を豊岡上の金森家の裏山 神道山Sintou-zanから 鎮ヶ乢Tin-ga-tawa脇の農村公園に 移されました。「加茂川町史」
岡山藩校 Okayama domain school
池田光政は 寛文8年(1668年)現在の備前市閑谷木谷村延原に 手習所を設置し、3年間の内にその他に 123か所の郡中手習所を 設置しました。将来の村を束ねる可能性のある者を 月の半分 通学あるいは 合宿させました。しかし 実際には 過半数は百姓の子弟でした。榎並茂兵衛は 自らの子共や 多くの旧加茂川町の村役人の子弟、百姓の子弟を紙工手習所Sitori-Tenaraisyoで 教育しました。教育を受けた者達は、光政の進める神社合祀 寺院廃寺に 携わり、旧神領 旧寺領から上がる年貢増加による 財政再建に 功労を上げました。その後 藩の財政悪化に伴い手習所は12校に 縮少されました。この時 紙工手習所は 一端 廃校を免れました。榎並茂兵衛の功績だったと想像します。しかし 延宝3年(1675年)藩財政逼迫Hippakuは さらに悪化し、郡中手習所は 全廃され 閑谷学校に 統合されました。「https://ja.wikipedia.org/wiki/閑谷学校」「加茂川町史」 この時代 旧加茂川町の豪族達は 加茂荘官(戦国時代の備前美作の領主伊賀久隆の重臣達の末裔)と 呼び 苗字帯刀し 領主の様に振舞い 領内の政治 経済 祭り(信仰)に 強い影響力を 与えていました。光政は 武力に頼らず、加茂荘官の力を削ぎ、乱立する神社仏閣を統廃合し、統廃合された神田 寺田からも 年貢を納めさせ 経済切迫を 改善ようとしたのです。特に 日蓮宗に対しては 徳川幕府の政策に従い 処刑者を出す程の特別な弾圧を 加えました。加茂荘官に 対しては 将来仕官させる約束で、それに必要な参考資料として 各家由緒書(血統書等)織田信長からの感状書 家宝等を提出させ.家宝の一部を 除き廃棄しました。何時まで経っても 仕官されない荘官達は 抗議すると、帰農する事を強要されました。逆らうものには 軍事的圧力で脅迫し、それでも逆らった豪族は 攻め殺されたとの伝説が 残ります。一般人に対しては、藩校を作り (前述の事件も この政策も 徳川幕府に対する謀反とされましたが 将軍は 徳川家康に信頼されていた光政を 処罰しませんでした)藩政改革の重要 性を 藩の費用で 教育し (武力に頼れば庶民の反感を買う事は必定) 教育洗脳した百姓を 中心とした勢力で 神社寺院の統廃合を 進め 農耕の質の向上と 節約政策を進めました。
金子水道・榎並水道:土動地池から金子谷川kaneko-daniの西上方を沿って流れ、上人墓の北 北緯34度54分3秒・東経133度45分44秒に注ぎます。 豊岡地区農村公園:北緯34度53分60秒・東経133度45分52秒 土道地池:北緯34度54分38秒・東経133度45分38秒
向山代官屋敷:大木380番地の裏山 向山の北緯34度54分25秒・東経133度46分38秒の竹藪の中に 代官屋敷の地名の平坦地があります 屋敷跡は最近迄、田として使われていました 平成23年(2011年)10月8日
高谷長丸の河田家の裏山に 斎藤九畹Saitou-Kyuuen(斉藤一興)の髭墓が 有ります。斉藤一興の遺事書と共に 斉藤家の菜邑Saiyuu(領地)に 形見の髭が 送られて来ました。村人が 相談して髭を埋め 石碑を立て 供養しました。「加茂川町史」 斉藤一興は(宝暦8年:1758~文政6年:1823年)は 江戸後期の 岡山藩の学者です。幼名は 岩之助 または 清次右衛門で、諱Imina(目上の者から呼ばれる名前)は二興Nikou 字Azana(同輩や目下の者から呼ばれる名前)は 文貫Bunkanと九畹です。岡山藩 斉藤久興の養嗣子Yousis(家督を継ぐ子供:寛政9年:1797年に家督相続)で、実父の上坂貞固の3男です。
家督相続時の知行は(領主が行使した所領支配権)400石で、身分は 大組の組頭(名主を補佐して村の事務を執った村役人 文化3年:1806年) 勘定奉行(勘定方の最高責任者で財政 や天領支配などを司る 文化4年:1807年) 寺社奉行(宗教行政機関 文化5年:1808年) 大目付(高家を 監視して これらの謀反から 藩を守 る監察官 文化10年:1813年) 寄合(高禄高の無職 文化13年:1816年)に 出世しました。江村北海に 儒学を学び、六如Rikunyoに 詩を学び、井上四明 赤松滄州Akamatu-Sousyuu 管茶山Kan-Tyazan) 武元君立Takemoto-Kunryuu等と 交遊しました。寛政11年(1499年)「池田家履歴略記」を 完成させました。「加茂川町史」 髭塚:高谷台1038番地の上方に 台ヶ峰キャンプ場 十力城跡に 木野山神社が建っています 入口から5m位下った、右手の林の中、道より1.5m程奥 北緯34度51分49秒・東経133度46分36秒に 髭塚が立ちます 平成24年(2012年)12月2日
延宝晩年 宇甘川洪水 が起こり、集落や 田畑が 濁流に飲まれました。流路が変わり、耕地交通路も 奪われました。村人は 言葉を失う程 悲嘆にくれたのを見て、日名忠兵衛は 道路の破壊を 修復する決心をしました。流路を 穿ちugati元の流路を 復元し、破綻した堤 数か所を 新しい 堰堤Enteiを 修復し 又築き、標高の低い地に 石を積み 堤を 新設、再度の禍の根を 絶ちました。この時 崖から落とした 2間よりも大きい割石の大岩が 美原の宇甘川左の道に 近い田の中にあったので、この岩が 記念として残されました。忠兵衛は93歳で没しました。
ところが 昭和34年に 伊勢湾台風が 潮岬に上陸し、紀伊半島から 東海地方を中心とし 日本全国に 甚大な被害を及ぼしました。美原の里も 例外ではなく、延宝晩年の台風被害と 同様に 田畑・川岸の破壊を もたらしました。村人は 日名忠兵衛の教訓に従い、県 町の支援を受け 協力して 復旧活動に 身を置きました。無事に 復旧が成ると、碑が 立て換えられました。昭和42年(1967年)12月県道拡幅工事に合わせ、碑と記念の大岩が 現在の地に移されました。「美原野原の村人のより口伝」 日名忠兵衛翁頌徳碑:美原平兵衛田523番地の東北約200m 高梁御津線(31号線)のカーブの北側 北緯34度52分23秒・東経133度46分39秒 平成23年(2011年)7月17日
和田下集落の和田金田番地の北方向の道沿い 北緯34度53分5秒・東経133度44分43秒に 土居清吉入道頌徳碑が 立ち、多くの社が 祀られています。この辺りの土居一族が 護る社です。土居清吉入道頌徳碑は 和田 土居一族の先祖で、伊予の国を守り 長曾我部氏との戦いに破れた後 広島に移り 大阪合戦に参戦、美作に移り、伊賀久隆の客将となった人物の功績を 讃えた碑であると 和田素盞嗚神社の神職に就く村人は言います。土居清良とは 伊予国・西園寺家配下 土居清晴の子です。大友宗麟が 伊予大森城侵攻した折、祖父・土居清宗と 父・土居清晴が 戦死したので、脱出し 土佐国中村の一条氏を 頼りました。功績を挙げ 元服すると 故郷に戻り大森城主となり、三間3村・約2千石の守備のために 鉄砲を 全配下に 装備させ、農業奨励し 経済力を養い、西園寺十五将の一人に 数えられました。大友宗麟 一条兼定 長宗我部元親の攻撃にも耐え、毛利氏に加勢して 中国地方を 転戦しました。豊臣秀吉が 四国征伐に乗り出すと、小早川隆景に 主家が 破れましたが、土居清良は 所領を 安堵されました。しかし小早川隆景が 九州に移ると 後ろ盾を失い、藤堂高虎等の誘いを断り 隠居生活を送り 享年84歳で没しました。「https://ja.wikipedia.org/wiki/土居清良」 村人の話す伝説 と ほぼ一致しますので、土居清吉入道と 四国の謙信の異名を持つ土居清良は 同一人物でしょう。 平成25年(2013年)1月12日
1. 加茂総社宮記に「大永年中時の地頭 虎倉城 伊賀左衛門久隆公より 祈願として 本社未社等建立し、祭礼元の如く 加茂八社神興観式を為す、神領百石を宛行う」とあります。この頃 加茂大祭は 消えようとしていましたが、すたれていた加茂大祭を 復興させました。
2. 伊賀久隆は 総社宮に36丁 和田天王宮に7丁8反 豊岡八幡宮に7反に 平岡天満宮に7反 領内各神社に神領地を寄進し、其の他10社に刀 槍等を 奉献しました。
3. もと 本宮山山頂にあった 化気大明神は 伊賀氏の氏神です。化気神社の言い伝えによると「氏神 春日大明神と申伝へ 古にイザサオウと申し伝ふる白き鹿に乗り 神瀬村へ御越しましまして 来ます申伝へ 鹿の角御座候 其の後、虎倉城主 伊賀様御代までは 神田四十五畝 並びに畑 五反五畝 御付被成候、御宮奉行には 鈴木半之助殿と申伝を被為付其屋敷今に御座候、伊賀様づくしへ御越し 被為成候、太閤様御代に 神田 被召上げそれより 今に御納付仕候得共其地作穂作入り より少しづつ差上申候」と あります。円城寺は 元、本宮山頂に 気喜神社と一緒に 祀られていましたが、弘安年中に 現在地に移り 円城寺となりました。伊賀久隆が 円城寺を 造営しました。その棟札に「願主 権律師隆知 元亀二歳辛未四月吉日 大檀那 伊賀三郎五郎 藤原久隆 大工作主 藤原弥六左衛門」と あります。「加茂川町史」「御津郡史」
4. 応仁の頃「小倉」の地名を「虎倉」と 改め、伊賀一門の主城としました。城地の鎮守として 摩利支天社 天神社 愛宕勝軍地蔵を 祭祠しました。伊賀兵庫頭行隆は 隠居し 道印と名乗り 伊賀伊勢守勝隆が 相続しました。文名3年(1471年)東方の鎮守 虎倉日月宮を 創建した。後 大永7年(1527年)伊賀久隆の時、虎倉神社と 改め 甲冑一領旗章6流を 寄進しました。「加茂川町史」「御津郡史」
5. 重岡神社に 天正年間 虎倉城主 伊賀久隆が 家来の宮重氏を 祢宣し、獅子頭を 献納しました。
6. 「藤陽伝、伊賀氏一族と虎倉城記、伊賀氏と神社、寺社、催事」に[総社宮・石灯籠:加茂市場総社宮に 弘安四年に 建てられた花崗岩の八角灯籠があります。これは、蒙古襲来の一大事に際し、敵国降伏 皇軍の武運長久を 祈願して 直前に 寄進されたもので、弘安四年(1281年)の奉献であるので 伊賀三郎左衛門尉光泰(式部大夫)によるものではないかと 云われています。銘文は 摩滅して読む事は出来ませんが 総社宮は長田庄で、弘安の時代は 最勝光院領として 相模守北条貞時 陸奥守北条業時の下知を受けた事は 東寺文書によって 徴証せらるとの事です。 「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-24.html」
日吉山王社殿棟札:日吉山王社には 正安四年の棟札Munahudaが 残されています。この時代の長田庄の地頭は 伊賀弥左衛門尉頼泰で、伊賀氏と 深い関係であったと言われています。岡山県金石史「所在、津賀村大字下加茂、日吉神社 用材、松板、寸法。長さ二尺四寸、幅七寸五分、厚七分。表、日吉社造営大勧進沙弥構仏大工近次郎、正安三歳(1301年)次辛丑九月八日地引始之、同十月十四日庚辰日棟上、同十一月二十五庚申日神御遷宮、嘉元元歳(1304年)次癸卯九月十四日 備中吉備津宮請咒地鎮、祝師僧信慶 書判、祢宜物部宗恒 書判、祝師僧信慶大徳 裏、日吉社祝正安四年歳次壬寅十月廿六丙戌 慈観坊判 但し、裏は 其の前後に 亘る事項を 追記せるものならん。鎌倉時代初期より 室町時代初期を通し、幕府の家人伊賀氏 世々地頭職を以て 此地に臨み、当社に対する尊信篤く 社殿の造営など……」と 記し、地頭伊賀氏の尊崇厚かった事を 伝えています。 「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-24.html」 鷲林寺の梵鐘:鷲林寺は、天暦元年の創建と云われ 旧和田村にありましたが、庄内を度々移転したと云われ、梵鐘は 木山寺に移され、その後、昭和の大戦に 供出されてなくなりました。梵鐘の銘文 備前国津高郡長田庄中村牛頭山鷲林寺 新撰鐘此方教体以音聲為佛叓天下 叢林以禮楽為清規爰有耕然黙主 比丘尼理常明此理故忽以年来所持天神 筆之金字法萃経一部施入當寺令僧 道林普化一字一銭少縁頓成千均大器 可謂願力所全大切不奇寅夕鏗々扣 推良哉依此上善々々祝延皇国万歳儒 日増輝本寺両檀那益昌家門繁栄山門 弥堅開山基業三途八難盡脱輪筈法界 有情同證圓通仍唱伽陀以當銘記矣 七軸金文較半銭 千鈎重器鎮長田 聞聲悟道不寄特 驚起牛頭峰頂眠 幹緑比丘 道休 大檀那 藤原朝臣伊賀左衛門尉頼兼 前伊賀太守沙弥直兼 寺比丘益極在宥謹誌 太歳 明徳二(1391年)辛未十一月日 これは、南北朝の統一となり 五十九年間の争乱の時代も 終わり 足利義満の専制政治が 始まる 最も足利政権が 充実した時代の幕開け頃で、備前長田庄は 鎌倉時代以来 地頭職として任官する 伊賀氏の領地であり、皇室御領として安定した地域で、伊賀頼兼は 有利な 立場にあり、この銘文は その頃の頼兼の意志を 表明しています。「地頭」と書かず 一地域ではなく 長田庄全体の領主としての立場を 宣言しています。一方、弟の直兼は 伊賀家本貫地である 伊賀の国の太守でしたが、南北朝 五十九年間の戦いで荒廃し 将軍近侍といえども その領地は 安全とは言えず、南北朝の動乱により、事実は 将軍 天皇 護良親王などの 御教書濫発によって 領有は 名目上のものとなって しまいました。鎌倉時代よりの領有で 太守といえどもどうにもなりませんでした。 「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-24.html」 虎倉神社・虎倉日月宮:応仁から 文明にかけての頃、乱世に 対抗するため、堅固な城地の必要性から 虎倉城築城がおこなわれ 弱そうなイメージのある「小倉」の地名を 強そうなイメージの「虎倉」と改め、伊賀一門の主城として 構えました。その規模は はなはだ広大で 何千何万もの兵を 収容するに 足りるもので、天然の峻険な 山容が 安易に近付くことを 許さない 非常に堅固な要塞です。しかも、外郭を 東は宇甘川、西は加茂川の流れで 天然の外濠とし、備前備中美作の交通の主要路を 押さえる 重要な土地でした。城地の鎮守として 摩利支天社 天神社 愛宕勝軍地蔵を 祭祠しました。兵庫頭行隆は 晩年にいたり、隠居し 道印と号し、伊賀(服部)伊勢守勝隆が 相続しました。文明三年(1471年)城地東方の鎮守として 虎倉日月宮を 創建しました。後、大永七年(1527年)伊賀久隆の時、虎倉神社と 改称し 甲冑一領旗章六流を寄進しました。更に後年、元和八年(1623年)には、虎倉城の忠臣 三十七人の霊魂を 合祀しています。尚 虎倉落城後も 正月には 甲冑を帯し、槍刀弓矢を 携え 虎倉城に上がり 弓始めの式を 行っていたと 伝えられています。「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-24.html」 加茂総社宮記:加茂総社宮記「大永年中時の地頭虎倉城伊賀左衛門久隆公より祈願として 本社未社等建立し、祭礼元の如く 加茂八社神興観式を為す、神領百石を宛行う」と あり、すたれていた加茂大祭を 復興させたのは 大永年間でした。「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-24.html」 神領寄進:伊賀久隆は 信仰心が深く、領内各神社に 神領地を寄進しました 正徳三年(1714年)の記録では 各社以下のとおり神領地を 所有していましたが、太閤検地以後、これらは 取り上げられました。総社宮・三十六丁 天王宮・七丁八反 八幡宮・七反 天満宮・七反 其の他十社、刀 槍等の奉献多数 この信奉を見ても 正に武に生きる者の宿命と緊張、生へのあくなき追求と 絶対に負けられない命をかけた勝負の定め をつくづく感じさせられます。摩利支天は 武の信奉として、木山寺(家久も奉献)は 勝負運の寺として有名です。 「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-24.html」 化気大明神:化気大明神は、伊賀氏の氏神として尊崇され、元は本宮山山頂にありました。祭神 神武甕槌神 経津主神 天児屋根命 姫大神と 申伝ふるに依り 故に 御祭典に 御供奉申候。氏神春日大明神と 申伝へ 古に「イザサオウ」と 申伝ふる白き鹿に乗り 神瀬村へ御越しまして来ます申伝へ 鹿の角御座候 其の後虎倉城主 伊賀様御代までは 神田四十五畝 並びに 畑五反五畝御付被成候、御宮奉行には 鈴木半之助殿と 申伝を 被為付其屋敷今に御座候、伊賀様づくしへ 御越し 被為成候、太閤様御代に 神田被召上げそれより 今に 御納付仕候得共其地作穂作入りより 少しづつ差上申候。云々 この化気神社の祭神四柱は、奈良の春日大社と全く同じ祭神で、藤原氏の氏神であるところから 特別崇敬して 宮奉行をつけ 神田を寄進し、鎧具足を奉納しました。 「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-24.html」 円城寺:元は 本宮山頂 に気喜神社と共に祀られていましたが、弘安年中に 現在地に移り、円城寺となりました。十六の僧坊があり、寺領 三百貫 伊賀久隆 円城寺を造営し その棟札に、願主 権律師隆知 元亀二歳(1571年)辛未四月吉日 大檀那 伊賀三郎五郎藤原久隆 大工作主 藤原弥六左衛門。「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-24.html」 清水寺:天文十三年( 1544年)伊賀久隆公は 備中湯山の清水寺を再建造営しました。備中下竹荘湯山龍角山清水寺勧学院縁起「敬白 勧進沙門修造備中国上房郡龍角山清水寺本堂、仰当山者比叡山之末流仁安三年(1168年)大檀那平相国清盛公草創也、彼本尊大慈大悲観世音菩薩出大唐天台玉泉寺而鎮座於此地、以来運歩人隆除三毒難、正和五年(1316年)国主再建焉侶磐若坊法師 又応永十八年(1411年)安芸守沙弥掃部助修理之、又天文十三年(1544年)備前小倉城主伊賀左衛門尉久隆公傾首霊前因茲為治国利民再建之…………」このように、伊賀久隆は 神仏への信仰が厚く神社仏閣の再建も積極的に行っています また、清水寺には 丸山城主末裔の墓があります 湯山清水寺の伝説によれば、江戸時代初期、備中国住人で伊賀氏の末裔、吉川四郎左衛門久直の一子 角太夫久益は 一族菩提のため二十九歳で入信 一心に仏道修行し、延宝四年(1676年)六月十三日より 断食の行に入り、七月四日、寿七十五歳で入定したと伝えられています。大信入戒知蔵禅師。「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-24.html」 日吉神社:天文十八年(1549年)伊賀久隆が 日吉神社を再建しています。天文十八年(1549年)酉二日九日日吉山王棟札 御津郡津賀村大字下加茂 日吉神社 用材 松板棟札 寸法 堅三尺🔴三 横五寸五 釼先高七分 敬白奉造立棟上日吉山王社後宝殿 御本殿家益伊賀藤原左ヱ門尉同若子様 御立願解同脇本願高屋俵兵衛尉重国判 同敷地四至傍事重谷之内前ハ谷河限り 山は南はやけをのはなを限り 東は日吉谷中をのはなを限り 北はまさ谷限 同備前国長田庄大工 藤須弥六左ヱ門 小工 藤須新次郎 千時天文拾八年(1549年)季配上莚始二月九日同三月二十三日癸己舜有謹言 裏 日吉社祝札天文拾八季三月廿三日 癸己日 本願者 高屋俵兵衛尉重国判 藤は 姓 左ヱ門尉は官職名で 藤原左ヱ門とは 伊賀左衛門尉久隆の事です。この棟札から、伊賀左衛門尉久隆には この時若子が生まれているのであるが、この子は伊賀与三郎隆家(後の家久)ではなく 虎倉相続もしなかったとする考えもありますが、素直に伊賀与三郎隆家(家久)であると 捕らえる方が 自然ではないでしょうか? なお日吉神社の境内拝殿の右に 神門寄りに 五葉の松があります。周囲目通り 八尺三寸 高さ百余 、樹姿約三十尺の処より五枝を分かち真立す。樹齢四百余年 近隣に 比類なき銘木なり。里人この樹の由来を伝えて 曰 大 永七年(1527年)正月 伊賀藤左ヱ門尉 備前赤坂郡鍋谷村より虎倉城に移るや、居城乾方の鎮守とし 1527社を 崇敬し、男子の神授を 立願し、この樹を 奉植したるに 幾許もなく、長子三郎五郎 虎倉城に 生誕生誕せり、よって その奉賽のため 天文十八年(1549年)春、父子の本願を以て 社殿を建立奉献す。「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-24.html」 円城寺造営:円城寺本堂棟札 願主 権律師隆知元亀辛未四月吉日 大檀那 伊賀三郎五郎藤原久隆 大工作主 藤原弥六左ヱ門 この頃の備前の構図は、織田氏と浦上氏とが 結び、織田氏と出雲の尼子氏が 結ぶ、その尼子氏に 美作の三浦氏 後藤氏 備前の伊賀氏 宇喜多氏が 結ぶといった状況でした この頃(元亀二年・1571年)宇喜多直家は 岡山城を築城し、虎倉城 伊賀久隆親子も岡山に 居館を構えました。ちなみに 織田信長の伊勢長島一向一揆の鎮圧(天正2年 1574年)には、織田軍の将として、伊賀伊賀守の事蹟があります。この伊賀氏は 美濃伊賀氏を 祖としています。伊賀光宗の弟 光資が 美濃国の稲葉山城に 居城して稲葉氏と称し、その子孫が 美濃尾張に 栄えたのです]と 記されています。「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-category-10.html」 伊賀久隆・伊賀左衛門久隆・藤原久隆家益・伊賀藤左ヱ門尉・伊賀伊賀守・伊佐左衛門尉:生年不詳、天正9年(1581年)謎の死を遂げた 戦国時代から安土桃山時代の 備前虎倉城主です。伊賀氏の変を 起こした伊賀光宗に 繋がる 備前国長田荘の地頭 伊賀頼氏の4代の子孫で、妻は宇喜多直家の妹で、子は伊賀家久です。始め松田氏に 次いで宇喜多氏に 仕えまし(1579年)に宇喜多氏が 毛利氏から 織田氏に与すると、虎倉城は 毛利氏との最前線となりました。兵も民 も虎倉に集結させた久隆軍によって 天正8年(1580年)4月14日に毛利氏は 加茂崩れしました。 加茂総社宮:氏子地域は加茂市場の一部です 旧社格の郷社 加茂市場惣社1567番地 北緯34度51分51秒・東経133度45分30秒 地頭:鎌倉幕府や室町幕府が荘園や国衙領(公領)を管理するために設けた領主 虎倉城:岡山市北区御津虎倉 北緯34度50分10秒・東経133度50分4秒 加茂八社神興観式:随神門前の左右に鴨神社 化気神社 松尾神社 日吉神社 素盞嗚神社 亀山八幡宮 天計神社Amahakari-jinjya 三所神社 八社の神輿が 一列に並び 数千の指頭で支え、高さを競います 天王宮・日吉神社:下加茂稗谷1479番地 北緯34度51分46秒・東経133度49分25秒 亀山八幡宮・豊岡八幡宮:豊岡上亀山184番地 北緯34度53分59秒・東経133度45分35秒 吉備中央町の神社では珍しく、吉備津彦命を祀っています 天満宮:上野天満696番地 北緯34度50分48秒・東経133度47分44秒 本宮山山頂:上田東 北緯34度54分13秒・東経133度50分44秒 化気大明神宮・気喜神社・化気神社:案田氣喜5番地 北緯34度45分19秒・東経133度49分22秒 円城寺:円城寺屋敷742番地 北緯34度53分31秒・東経133度48分22秒 連権律師隆知Gon-no-rissi-Takatomo:律師とは僧正 僧都の下の僧の五位の殿上人に価する位で、僧尼の統領官職です。権とは副官を意味します。大律師 律師(中律師) 権律師の位があります。雑賀隆知は大内氏家臣の雑賀範治の子で大内氏に仕えました。 毛利元就の防長経略により弘治3年(1557年)4月に大内氏が滅亡すると、隆知は 嫡男の隆利と一緒に 毛利氏の家臣となりました 最勝光院:現京都市東山区 北緯34度59分15秒・東経135度46分22秒 法住寺跡の境内 相模守北条貞時:在職、弘安7年(1284年)~正安3年(1301年)の鎌倉幕府第9代執権で 8代執権伊賀時宗の嫡男です 牛頭山鷲林寺・宗林寺:現在宗林寺は下加茂田中2046番地 北緯34度51分31秒・東経133度48分51秒 医王山感神院木山寺:真庭市木山 北緯35度1分2秒・東経133度42分54秒 道休:遍路道で亡くなる事 太守:守護大名を指し、複数の守護職兼任者に良く使われました 摩利支天社:摩利支天(摩里支天 末利支天 摩利支菩薩 摩利支提婆)は陽炎(Kagerouを神格化した、日天の眷属で仏教の守護神 護身 戦勝 蓄財等の神 天神社:「てんじんじゃ」或いは「あまつかむやしろ」と読み、天満宮(天神社:祭神 菅原道真)とは異なった神社です 愛宕勝軍地蔵:愛宕山白雲寺(右京区嵯峨愛宕町 北緯35度3分36秒・東経135度38分4秒)の本尊は勝軍地蔵(将軍地蔵)で、愛宕権現は勝軍地蔵の垂迹軍神として武士の信仰を集めました 龍角山清水寺勧学院:湯山寺ノ前458番地・湯山清水194番地 北緯34度51分4秒・東経133度43分35秒付近 大唐天台玉泉寺:如潅頂荊洲玉泉寺 丸山城:吉川小茂田の館城 北緯34度49分54秒・東経133度45分1秒付近 鍋谷城:鍋谷の下加茂和中615番地の西 上加茂薬師262番地の北の山 北緯34度52分1秒・東経133度47分40秒 鍋山城:上加茂朴ノ木319-1番地の北北東 下加茂鍋谷1028番地の南西の山 北緯34度51分54秒・東経133度47分56秒 伊勢長島一向一揆:文正元年(1466年)から天正8年(1580年)に本願寺門徒等が起こした一揆で、織田信長と数度に渡って合戦しました。 稲葉山城:美濃国井之口の金華山(稲葉山) 北緯35度26分3秒・東経136度46分56秒 平成26年(2014年)1月30日