巫女岩文覚上人と巫女 巫女岩 文覚小人と巫女 お福さま 難波立達 玄賓の袈裟掛けの大岩 難波佐吉 松山藩農兵東組 浅尾騒動と農兵

下加茂 巫女岩 文覚上人と巫女 Saint Mongaku-syounin  and Miko/shrine maiden

下加茂明神山の麓宇甘川Ukaigawaの川中に 巫女岩 と呼ばれる大きな 花崗岩があります。明神山には 文覚屋敷Mongaku-yasiki(古墳)があって文覚上人が 住んでいたとされます。明神山の向かいに 坊主山が あります。坊主山には 巫女が 住んでいて 二人 は修業を一緒にしていたので、二つの山に 綱を張って 往来していました。ある時 巫女が 誤って 川の岩の上に落ちて 死にました。巫女は 無病を 研究していたので 村人は 病気治癒の神として崇め、憐れんで 祠を建て、幟を立て 祀りました。病気の快癒Kaiyuに 御利益Goriyakuがあるそうです。邪道で 人を騙し 神通力を得て、巫女になった 女の溺死した所とも 言われます。「加茂川町史

 

巫女岩 Shrine Meiden rock

明神山と 坊頭山の中央 北緯34度51分10秒東経133度49分10秒の 明神山側の川岸に 接しています  この岩に 参り 疣を治してもらったと言う人 3名に会いました。  下の写真で示した「白い塗料で 八の字が書かれた 女性的な姿の川中の岩が 巫女が 落ち身を 砕いたとされる岩で この写真の川岸の岩が 病気平癒の霊力を持つ岩で、川中の岩も 祭りの場でしたが  増水で 祠や 幟が流されるので 中止した」と 言われます。女性的な姿の岩は 巫女岩と 関係ないという 久西の村人もいました。川岸の岩は 大雨になる度に 川上側の岩の下の砂が 流されるので 川上に 少しづつ移動するそうです。

 

文覚上人と巫女 SAINT MONGAKU-SYOUNIN  AND MIKO/SHRINE MAIDEN

明神山の文覚上人と 坊主山の巫女は 修業を一緒にしていたので、二つの山に 綱を張って 往き来していました。巫女は 長年の研究で 人間が 病死しない霊力を 込めた大岩の作成に 成功したので、文覚上人の評価を 得ようと 明神山に その大岩を 抱えながら 渡っていました。すると 「文覚は行動力はあるが、浮気者の乱暴者で、悪口を良く言い、天狗を 祀っていた「愚管抄」と 言う噂と「巫女も 元 邪道を犯し、神を 偽り神通力を得た女だ」と 言う噂を聞いていた男は「巫女 と文覚上人は こそこそと悪さをしている」と 思っていたのです。巫女が 綱を渡っているのを見つけ 声をかけました。「文覚は人妻と 浮気し しかもその女を 殺した奴じゃぞ  お前も悪たれじゃそうな源平盛衰記」」と 嘲りAzakeriました。巫女は 毅然として見返し「私は ともかく 文覚上人様は それを悔て、荒行に 耐えた偉い人じゃ  文覚様の愚弄は 許しません」と 反論しました。

さらに、男が「何ぅ言うか  後白河法皇)を 馬鹿にし、伊豆に島流しにされているじゃろう  源頼朝の悪友じゃと聞く  お前は 文覚に 惚れとるんか  2人で こそこそ何うやっとる」と 重ねて鹹かいKarakaiました。巫女は  怒りのあまり 手足が 激しく震え、重い岩を 支え切れず 誤って 岩毎 谷底に 転落し 巨岩に 激突し 砕け死にました。激突した岩は 巫女の屍Sikabaneの形に 変形し、霊力の有る岩は 川岸に 飛んで行きました。それを 見ていた愛宕山の村人は「文覚上人は 若い頃の確かに 不徳をした  じゃが それを 恥じて 二度も死ぬ目に合いながらも 不動明王に 尊敬される程の剣と 例えられる荒行を 為し終えた 偉い方じゃ  巫女はその文覚上人の徳を 慕い、病による死を逃れる術Subeを 共同研究するために 通っていたのじゃ  病から わし 等を 救おうとしていたんじゃが」と 男に教えました。男は 巫女を 阿婆擦れ扱いし、鹹かった事を 反省し、旗を立て 巫女を その岩の上に 祀ったのです。それから 村人は、その祠に 病気の平癒祈願に お参りするようになったのです。 「下加茂創庫町の村人うより口伝」「加茂川町史」を基にした物語。 口伝者は「子供の頃 何度も 病気平癒のため お詣りし  ご利益を 貰った。特に 疣には 絶大な効果があった。」 と 話してくれました。 文覚:遠藤盛遠  平安末期から鎌倉初期の僧で 初め上西門院に 仕えていた頃 同僚の源渡(渡辺渡)の妻の袈裟御前に 横恋慕の末に 殺し、反省し 出家しました。諸国の霊場で 修行し 空海を崇敬し,後白河法皇に 神護寺興隆のための荘園の寄進を要求すると 伊豆に流され、源頼朝に出合いました。治承3年(1179年)平清盛が 後白河法皇を 幽閉すると、京に戻っていた文覚は 伊豆の頼朝に 平氏打倒を勧めました。建久1年(1190年)に 神護寺の復興 建久8年(1197年)東寺の復興を 果たしました。しかし 後白河法皇が 没し、正治1年(1199年)頼朝が没すると 内大臣 源通親に 謀られ 佐渡に 流されました。許されて 京に戻りましたが、後鳥羽上皇により 対馬に流され 没しました  吉備中央に 住んだとされる史実はありまん https://kotobank.jp/word/文覚-143127

文覚屋敷:下加茂明神山の西南側の谷筋の中腹 北緯34度51分6秒東経133度48分56秒(この地図座標は 正確でないかも知れません。)に中央に 4m×4mの古墳2基が あります。昭和4年(1767年)に 碑を建てましたが、後に愛宕山の宋林寺が、碑を 寺内に 移しました。古墳は 毎月 献灯されていましたが、平成の時代には 人が 訪れなくなりました。前方後円墳で 上部は 破壊され、壊された炭焼き釜状の形をしています「加茂川町史」    明神山頂上:北緯34度51分16秒東経133度49分29秒 坊頭山頂上:北緯34度51分6秒東経133度48分56秒 かつて 寺が 建っていたそうです 頂上には 大岩 が散乱しているそうです

文覚供養碑:北緯34度51分30秒東経133度48分49秒 文覚上人の墓標 明神山の文覚屋敷の前に 有った物を、毎年 お詣りしていたが、時間んも 労力もかかり 危険もともなうので 宗林寺(参道の左脇の斜面)に 移されました 明神山:下加茂久西の村人は、水晶や 雲母が 取れたと言います。「加茂鉱山は 昭和8年(1933年)頃に、モリブデン(輝水鉛鉱)を 採掘していた  最盛期には80人ばかりが働いていたようです  銀屏風を立てたような 立派な鉱脈で 戦争中であり 兵器生産に 利用されたようです。 鉱脈が切れると ガラスの原料として 硅石を 採掘していたが 昭和20年頃と推測されますが 買受け人の死去により  自然消滅た」たと言う人がいます。https://ameblo.jp/narivans/entry-12359742393.html」  平成263年(2014年)10月2日

 下土井 お福さま Mrs Ohukusama

三浦貞勝の妻のお福(⓵549―1643年?)が 高田城落城後 下土井に疎開して、院政を敷いていた。「下土井定の坊の村人のより口伝」 お福は お鮮Osenとか 太万Oomanと  呼ばれました。太万は 大万の書き間違いから始まった名前ですが、思い違いが そのまま後世に 伝えられました。大万は 高貴な女性とか 天下万民と言う意味です。お福の出生 没年などは 不明ですが、一説によると 天文18年(1549年)三浦氏(鷹取氏とか船津氏とも言われます)一族の娘として生まれ、1559年 美作 高田城主 三浦貞勝に 嫁ぎ、桃寿丸Toujyu-maruを 生みました。三村家地親との戦いで 三浦貞勝が 自決し果てると、20歳の頃 縁者の牧藤左衛門 江川小四郎らに 導かれ 桃寿丸と 共 に お福は 加茂村下土居(現在の下土井)の母方の縁古Enko土井家に 落ち延びました。美人の誉れ高いお福の噂は 備前沼城主の宇喜多直家の知るところとなり、沼城に 招かれ 永禄10年(1567年)乞われて 宇喜多直家と再婚し、天正元年(1572年)宇喜多八郎(秀家)を 出産しました。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が  高松城を攻撃していた頃、宇喜多直家は「しりはす」という、悪性腫瘍で 天正9年(1581年)に 死亡しました。直家は 死の数ヶ月前、沼城で  羽柴秀吉に 八郎を引き合わせていました。天正10年(1582年)羽柴秀吉が 備中松山城を 攻める折 岡山城に度々訪れ お福の美しさに 女好きの本性を出し、宇喜多八郎が 元服した祝いに 猶子Yuusi(軽い繋がりの養子)とし、秀家と 名乗らせ お福を 秀吉の側室にしました。お福は 高田城の復興の約束を 秀吉にさせましたが、桃寿丸は 震災で 無き者になりました。悲しみを癒すため 美作湯原温泉に 籠もりました。秀家は 秀吉に 庇護され、天正14年(1586年)秀吉の養女の前田利家の娘 豪姫を 正室に迎え、四国攻め 九州攻め 小田原攻め 朝鮮攻めで 大活躍して 5大老の一人に加えられました。

秀吉の養子で、秀家が殺されず 重用されたのには お福の影響が 大きかったのでしょう。お福は 秀吉の死後は、備中の地で 尼僧になり 円融院Enyuu-inと 名乗りました。秀家が 関ヶ原の戦いで 副大将として敗戦し、その責任を 問われ 八丈島に 流された事を知らず、天正20年(1592年)に 他界したと言われます。岡山城下 三勲小学校東の高台の「塔の山」に 「おふく」の墓とされる 五輪塔が あります。宇喜多直家が 岡山城拡張の障害となった 蓮昌寺を 内山下から 森下町に移しましたが、移転先の跡地だと  言われます。「お鮮さまの墓」とも言い、墓の主は「法鮮」で、この墓は 岡山市の重要文化財に 指定されています。この墓の主とお福が 同一人物であるかは 定かで有りません。

ofukusama.exblog.jp/11457009」「rss.exblog.jp/rss/exblog/ofukusama/index.xml」「https://ja.wikipedia.org/wiki/円融院」「https://ja.wikipedia.org/wiki/宇喜多秀家」「https://ja.wikipedia.org/wiki/豪姫

横山様の駐車場に おふくの方さま顕彰碑が 平成25年9月に 建てられました。お福が下土井に 住んでいたとされる事は 俄には信じられませんが、完全に 不定する事もできません。   高田城勝山城大総山城大都夫良山城夥山城勝山陣屋:真庭市勝山 北緯35度5分23秒東経133度41分35秒    おふくの方さま顕彰碑:北緯35度52分36秒東経133度45分48秒 横山斎場隣地の駐車場    下土井勝山城:山端 北緯35度52分406秒東経133度45分40秒  平成23年(2011年)11月9

 

 三納谷 難波立達 Nannba-Rittatu

三納谷Minoutaniの浅太郎が 難波立達の治療を 受けましたが 死亡しました。難波立達の元に、浅太郎の子供 親類 株内(古くからの血縁者) 判頭Hangasira (5人組や10人組の頭) 名主(名田すなわち荘園公領の経営を請け負う村役人)2名の連判で 手紙が 届きました。内容は「津高郡三納谷村の浅太郎が 長期間 治り 難い病気を 患い困っていたので、その旨を お伝えしたら、治療を お引き受け下さり感謝します  万一 治療中に 病死したとしても、その覚悟が できていますので、本人は 元より浅太郎の家の者も 親類の者も 株内の者も 誰も 先生の責任を 問いません  なお、大変に 貧乏をしております事を考慮して頂き、重々 感謝します  後日のため 一札差し上げます  天保6年(1835年)末5月」と 有りました。「加茂川町史」     難波抱節Nanba-Housetu(寛政3年:17691年~安政6年:1859年)は 立達と名乗っています。名を 立愿Rituganと言い、諱Imina(目上の者から呼ばれる名前)は 経恭Tuneyasuと言い、抱節と 号していました。江戸後期の漢方 蘭法を 使い分けた医師です。備前藩家老 日置氏Heki-ujiの侍医 難波経寛(この人も 立達と名乗っています)の養子です。賀川蘭斎Kagawa-Ransaiに 産科を、吉益南涯Yosimasu-Nangaに 内科を学び、華岡青洲Hanaoka-seisyuuに 外科を学びました。侍医Jiiを しながら 備前藩金川村で 開業していました。曼陀羅華Mandara-ge(チョウセンアサガオ)が 主剤の麻酔薬を用い、乳癌や 脱疽Dasso(壊疽:組織が血栓等で死ぬ病気)等の手術をしました。嘉永3年(1850年)緒方洪庵Ogata-Kouanから 牛痘苗Gyuutou-byouを貰い、3千余人に 接種しました。コレラの治療中に コレラ菌に感染し 死亡しました。著書には「胎産新書」「散花新書」等が 有ります。難波立達経直が 抱節の跡を継ぎました。「加茂川町史」 北緯34度47分55秒東経133度55分51秒に建つ 金川龍華山.妙覚寺の側の 七曲神社鳥居の側の 石灯籠に「難波立達田使経寛 文化11年(1814年)献灯」とあ ります。加茂川町史」 渡辺恭平(1842年~1886年)と言う 高名な鳥取藩 医学寮教官は 難波立達に学んだと言われます。浅太郎を 治療した医師は、年代から 推測して 渡辺恭平に 教授した立達でしょうか 江戸時代の町医者官医 儒医Jyu-i 幕医 藩医の非開業を除く)は 成りたい人は 誰で 成れましたし、診察料も 勝手に決めて良かったのです。だから町医者の技量は まちまちです。外科 内科 口科 産婦人科 針科 児科が あったそうです。医術に 宗教も 関わって神頼み、お札頼みの者もいました。富む者から多く取り、経済力に応じ 診療費を決める者もいましたが、多くは定料金制の者で、稀にぼったくりの威者Isyaもいました。診察方法は 問診(聞き取り) 触診(脈取り 圧迫等体に触れる) 望診(顔や舌や皮膚や結膜等の色や状態 挙動 行動の観察) 聴診(鼓動音や呼吸音の観察) 排泄物や体臭の観察 手足看法(手足の浮腫みや腫れ) 按診Ansin(臓器の部分を押して内臓の沈殿や動きを観察) 候旨(背骨の曲がりや肉付きや片寄(かたより)の観察)でした。内科等の治療は 薬種問屋の売薬を 用いる事もありますが、医者が 病状に応じ独自に 調合して 処方しました。煎じ薬や 貼り薬や 塗り薬が 主流でしたので、殆どの伝染病に対しては 無力でした。簡単な 怪我や 病気であれば 民衆は 昔からの言い伝えに頼り、民間療法として 自生薬草等で 治療しました。町医者の平均的な 診察料は 1分~2分、薬代が3日分で 約1分、7日分で 約2分、往診の初回は1分2朱、2回目から 1分に加えて 駕籠代であったと 言われます。医者は 武士では無いのですが、苗字を 名乗っても良く 刀を持ち歩いても良かった、いわゆる苗字帯刀の身分でした。悪事を 働き入牢しても 武士扱いされ、揚屋Ageya(遊女を招いて遊興させる家)に 収容されました。戦国の世 合戦場には 多くの医師が 狩り出されましたが、多くは 坊主頭をしていました。戦闘員でない事を示すために 剃髪Teihatu(坊主頭にする)したのでしょう。僧侶の形Nariをする事も、聖人の印象を与えるのに 好都合だったようです。kenkaku.la.coocan.jp/zidai/isya.htm」        平成25年(2013年)3月23日

 

上竹 玄賓の袈裟掛の大岩 Large rock hung on Kesa by Genpin

高僧玄賓Genpinが 着ていた袈裟を 脱いで、傍の大石(上竹袈裟掛の大石)に 腰掛けたと言われます。それで この地を 袈裟掛と 呼びます。「賀陽町史」  玄賓(天片6年~弘仁9年:734年~818年)は  河内国(大阪府)に 生まれた平安時代の僧侶で、法相宗大和興福寺(奈良県)で 仏教修行し 徳の高名を 欲しいままにしました。伯耆国Houki-no-kuni会見郡Aimi-no-gouri鳥取県西部)に移り、延暦24年(805年)桓武天皇(Kanmu-tennouの病気平癒祈願しました。翌年即位した 平城天皇Heizei-tennouに 大僧都Daisouzuを 任ぜられますが、辞退しています。大同4年(809年)嵯峨天皇Saga-tennouの願いで 平城天皇の病気平癒祈願を 行いました。身内の弓削道鏡Yuge-DFoukyouが 天皇を蔑ろ)するに至り、身を恥じて 隠遁生活に 入りました。弘仁7年、備中国哲多郡Tetta-gouri(新見市や高梁市辺り)に来て、一時は 落合の玄賓谷の松林寺に 住みました。米に 代わり 鉄で 貢進Kousinしても良いよう 天皇の許可を 頂き、民衆を 喜ばせたと 言われています。鹿や 猪害対策として 鹿脅しSisi-odosi添水Souzuを 考案したと伝えられます。 「高梁ハイパーデーターベース」「https://ja.wikipedia.org/wiki/玄賓

昔 弘仁の頃、旅の僧侶が 上竹にやって来ました。いかにも 疲れ果て、喉を涸らし、空腹そうでした。見かねた村の夫婦が、休息を 勧めると 旅の僧侶は「かまわん 座ると 次に立つのが 億劫になる」と 休む場所を 探しました。庭の片隅で、樒(sikimiの木の脇に 岩が 立っている場所で「ああ 良い日陰じゃ  香しい  この場所を 拝借させて頂き 休ませていただきたいが よろしいか」と 汗を拭き拭き 許可を求めました。ゆっくりと 法衣を取り、傍に 有った石に 衣を掛け、体を 鎮めました。夫婦は 恭しく 礼儀正しい僧侶に、並々ならぬ後光が 射すような高徳を 感じ取り、身が締まる思いに なりました。「飲み物は、何に 致しましょうか」と 恐る恐る尋ねると、僧侶は「そうじゃな 少しばぁ 贅沢を言わしてもろうて 宜しいかな  衝羽根Tukubane-tyaを 所望したいが、無理じゃろうか」と 申し出ました。夫婦は 偶然 この辺りに 良く生えている 衝羽根の砂糖漬けを 作り 香りを 楽しもうとしていた事を 見抜いた 僧侶の人智を 超えた能力に 驚きながら、茶川から 汲んだ水を 添え 閼伽Akaの器に 乗せて持って来ました。僧は 大変喜びし「これに増す幸せはない  ああ吾 唯 足るを知るの境地じゃ  有り難い  有り難い」と 言って、幸せそうにゆっくりと 味わいながら 飲み干しました。

山田守る 僧都の身こそ 哀れなれ 秋果てぬれど 問う人もなし まさにそのような心地じゃのう  上竹ぁ 寛ぐのう  じゃが 今 行脚中じゃ  岡山には 法相宗の行基菩薩ゆかりの寺が 四十一ヶ寺あるけぇ 訪ねるのには 骨がおれる  早う いなにゃぁおえん  ご丁重なお持成に お礼を せねばおえんのぅ  何か 所望する事が ありましょうか」と 尋ねました。夫婦は「これ位の事で 持成と言うて呉れるんか  嬉しいのう  見れば徳の高いお坊様じゃ  甘えさせて頂いて相談に 乗ってくだされぇ  雀の害に 悩んでおる  せえに腰が 痛うて辛いんじゃ じゃけぇ イライラするんじゃ」と 答えると、僧侶は「世話ぁねぇ  雀の害には この衣で 玄賓僧都を作りなされぇ  腰痛には 真庭の上水田井殿の鍾乳穴Kanati-anaの鍾乳石を 粉にして、酢で 解いて呑みなされぇ」と 説いて 旅立ちました。その衣で 玄賓僧都(案山子Kakasi)を 作り山の田に立てると、徳が 発せられ 雀や 鼠の被害がなくなりました。鍾乳石の栄養効果も 有って腰痛も イライラも 治りました。僧都の衣には「三つの輪は清く浄きぞ唐衣 くると思うな取ると思はじ」と 歌が書かれていたそうな。夫婦は あの旅の僧侶が 玄賓僧都と解り、衣を掛けた岩を 大切に護りました。「玄賓の業績」「玄賓の逸話」「袈裟掛け伝説」を基にした物語

玄賓の袈裟掛け岩の案内塔:北緯34度50分42秒東経133度39分43秒 玄賓の袈裟掛けの岩:北緯34度50分44秒東経133度39分46秒 袈裟を掛けた跡があります 玄賓の袈裟掛け大岩と呼ぶ人もいます 大八幡神社Oo-Yahata-jinjya北緯34度50分33秒東経133度40分3秒 添水:いわゆるシシオドシ 茶川:玄賓の袈裟掛け岩の側に 流れていたそうですが、現在は ありません 備中鐘乳穴:岡山県真庭市上水田 北緯34度57分19秒東経133度40分44秒の鍾乳洞  平安時代には 朝廷に「カルシューム」薬源として 鍾乳石の粉が 献上されました  吉備津彦命の評定場と されます  ヒメボタルの名所(七夕の頃)です 新見市の玄賓僧都伝説:平安時代初期に 相宗興福寺の高僧玄賓は、僧都職を 辞し 備中国哲多郡湯川寺に 隠遁した  それ故 備中国の各地には 玄賓開基の伝承を持つ寺院が いくつか存在しています  備中国湯川寺は 現在の岡山県新見市にある  新見市には 玄賓開基伝承を持つ寺院が 湯川寺 大椿寺 四王寺の三ヵ寺あり、興味深い伝説が 伝えられます 玄賓塚:矢掛町小林 僧都集落に あります 玄賓谷:高梁市落合町近似に あり、玄賓が 住んでいたとされます 行基菩薩が開いた寺:恩徳寺 円通寺 蓮台寺 不洗観音寺 経ヶ丸観音院 嫁いらず観音院 済渡寺 三尾寺 真光寺 松本寺 静円寺 円城寺 興隆寺 菩提寺 井原温泉鳥休めの湯 玄賓の足形岩:僧都と 言う所に 玄賓和尚が 住んでいて 汲川が 残っていると 言われます  そこから 1Km程高梁津川に向かうと 狐谷に 二つの岩があり  玄賓の足形岩と 呼ばれる岩が有るらしい     平成23年(2011年)8月27日

 

宮地 中之谷    難波佐吉 Nanba-SAkiti

尾騒動の時、野山口の防衛に 山田方谷Yamada-Houkokuが 本陣を 妙本寺に置き、六方坊等に 4線を 引いて 構えました。最前線の六方坊は、猪垣I-no-gakiを 盾に 武者と 農兵が 恐ろしさに震えていましたが、中之谷の難波佐吉だけは「敵が来たら 追い払ってやる」と 言い放ちました。見張りが 敵襲を報告すると、武士達は 恐ろしさに 身を震わせ 手足は固まってしまいましたが、難波佐吉は「わしに続け」と 敵方向に 突進すると、農兵は 佐吉に従いました。しかし、何時まで経っても 農兵は 陣に戻りませんでした。「吉備中央町の民話(1)」

松山藩農兵東組 Matsuyama Domein Agricultural (浅尾騒動 Asao-RiotSoldier East group

嘉永5年(1852年)備中松山藩は 8組の農兵隊を 組織しました。東組の守備範囲は 賀陽町の竹之荘筋、高梁市津川町の一部と 同市川面町の一部でした。慶応3年(1867年)3月中旬に 加賀郡吉備中央町上竹の上竹平原の一部で 俵原地域で 200人~300人の東組の演習を 大庄屋 大月順次を 指揮官(郷兵教導)として 行われました。山田方谷は この演習を 視察して 感想を

「 鉄砲の訓練は 軽快で且つ順調  洋鼓は 激しく高い  何度も 鍛えて 己を熟し 前進さす  一戦たたかえば 皆殺しにできる   あの農兵は 豪傑だ   豪傑は 昔から今に至るまで 尽きることはない   腰の日本刀は 威厳があり 荘厳さが 広場に溢れている  本日の連隊は 皆同胞で 萬を超す鉄砲の音は 雷鳴のごとく哉   偉大な勲功は 全てあなかがた仲間に在る 洋式演習の隊列を 観て 昨旧に 書き留めて置いた書を 郷兵教導に 與える 大月先生 慶応3年3月中旬   方谷老夫  印 」と 郷兵教導の大月順治郎に 書(訳  大月洋志)を 送りました。 大月家に 東組弾薬箱2個 備中松山藩軍旗入れ箱 鎖帷子 槍 大砲の弾が 保管されています。上竹荘村史によると、俵原地域は東組の常設訓練場であり、農兵隊が 解散した後 射撃場となったことがわかります。https://ameblo.jp/wsx-753/entry-12486859154.html」 1200名の農兵隊全員による 訓練は年1回、桔梗河原で 行われ、見学した長州藩の久坂玄瑞は「我藩の銃陣は これに及ばない」と 驚いたと されます。方谷書の隊列図が「山田方谷全集」に 載っているそうです。https://www.city.takahashi.lg.jp/soshiki/2/yamadahokokustory10.html」 野山は 松山城の隣地ですので、松山城防衛に 備え、安政4年(1857年) 20名程の在宅武士を 移住させました。宅地 住居等全経費を 藩が賄い、給与額も 保証しました。学問所が 作られ、城下と 同等の学問 武術鍛錬ができ、希望者には 周囲の農地が与えれました。当初、左遷に 反感を持った武士も 住めば、城下生活より しやすく、希望者も 加わり30名以上と なりました。https://www.city.takahashi.lg.jp/soshiki/2/yamadahokokustory10.html」 大月順治郎:当時35歳、戒名=寶玉院義孝順治大居士)誕生  天保3年(1832年)  死亡  明治37年(1905年) 亨年73歳 方谷は、弘化4年(1847年)に 三島中洲とともに、津山藩を 訪ね、西洋砲術と 銃陣を 学びました。嘉永5年(1852年)の郡奉行に 就任すると 農兵制度を 創設しました「里正隊」や「農兵隊八大隊」を 組織し、大砲 等の洋式兵術を 導入し、農閑期に 洋式銃陣の習練を 実施しました。「里正隊」は 長州藩の「奇兵隊」のモデルと なったとも 言われています。 https://www.city.takahashi.lg.jp/site/takahashi-historical-museum/yamadahokoku.html 松山藩の農兵訓練は 有能な 指導者がいず 充実していなかったと 言われます。その中で 東組は それなりの戦力を 身に付けていたようです。 里正隊:庄屋と その子弟や 若い神官を 選んで 構成した部隊で 帯刀を認め、銃剣を 与えて訓練しました 農兵隊八大隊:猟師や若者を 集めて、農閑期に 訓練しました   「吉備中央町の山城 そのほかの城 西 野山学問所」  令和3年(2021年)11月9日

江戸幕末 意見の対立から 奇兵隊Kihei-taiの参謀であった 楢崎剛十郎NArasaki-Goujyuurouを 殺した 長州第二奇兵隊脱走浪士の 立石孫一郎Tateisi-Magitirou 等100人程が、幕府方 倉敷代官所(現在の倉紡跡 アイビースクエア 美術館付近)の代官 桜井久之を 暗殺する目的で 襲撃した事件です。代官所の上役は 逃走、下級武士が 対戦し、米屋きよ(田中東蔵配下)等と 共に 戦死しまし。代官は この日 長州征伐の前線である広島に 兵糧を運び、その目録を 届けるため 幕府要人と 会合していました。田中東蔵が 倉敷代官所次席を 務めており、主に 兵糧調達 牛馬調達を していました。この日は 代官の帰りを待って、秣Magusaを 広島に 運ぶため 庄屋の牧柳左右衛門と 淀屋(本町5丁目の備前焼屋の「かまや」)と 言う御宿定屋で 打ち合わせをしていた。目的を 果たせなかった浪士達は、すぐ 北側の観龍寺に 押し入って 村役人に 槍で 山門を突いて 脅、軍資金と 兵糧を 出させた後に 一夜の宿とす る宝福寺に 向かい、翌日 浅尾藩屋敷を 襲撃しました。しかし、その後 幕府軍に 追われ長州へ  逃げ帰りますが、脱営の罪で 殺されました。この事件を きっかけに 第2次長州征伐が 始まり、明治維新に 世は 突っ走る事に なりました。田中東蔵は 死体検分し、記録を 残しています。なお、過去に 立石孫一郎は 下津井屋と 口論し 倉敷を 出奔しているので、田中東蔵と 顔見知りの)筈です。岡山県史 第二十六巻 諸藩文書 岡山県 1983年」「慶応二年倉敷騒擾一件書類 田中家諸留」「備中国倉敷陣屋異変之始末見分吟味御届書」「岡山県史 第二十六巻 丙寅初夏倉子城日記」

浅尾騒動と農兵 The Asao riot and the Agricultural Soldiers

浅尾騒動の時、野山口の防衛に 備中松山藩 財政責任者の山田方谷が、賀陽に 出張してきました。本陣を 吉備中央町北村の妙本寺 に置き、祖谷Suwataniの先の槇谷Makitani)との村境の玉買坂口の六万坊 祖谷の入り口の東村 祖谷大道乢Oudou-no-tawa 祖谷井頭乢Igarasi-tawaの4線を 引いて 構えました。最前線の六万坊では 猪の田畑侵入防止用の垣根(猪垣)を 前にして 武者も農兵も 恐ろしさに震えていました。なにしろ 敵の大将 立石孫一郎は 元倉敷藩の剣術の達人で 下津井屋や藩の大物とやり合う兵Tuwamonoです。丙寅初夏倉子城日記おまけに 長州浪士は つい先程、倉敷代官所の兵を 皆殺しにしたと、聞かされていたからです。皆が 恐れる中、鉄砲の名手の雇い農兵の大将の中之谷の難波佐吉だけは 大岩に ドッカと 腰をかけ、悠々と 煙草Tabakoをふかしながら「敵が来たら追い払ってやるから 安心しろ  わしの鉄砲の技は 殿様に ご披露済みじゃ  地の利があるけぇ 勝算がある」と 言い放ち、屁っ放り腰の侍達を 鼓舞しました。そうは 言われても 恐ろしいものは 恐ろしいのです。武士達は 難波佐吉の豪胆ぶりに 感心し「百姓の癖に何と頼もしい  斥候に行った者も きょうとうないのか」と 讃え合いました。暫くして、見張りに 出ていた農兵が 息せき切って 駆け)戻り「来た  敵が来た  堂々の進軍じ   もうすぐここに着く」と 報告すると 佐吉「遂に来たかぁ  武者震いするなぁ  おい皆 俺に付いて来い  臆するな  臆すれば 隙ができる 負けると思うちゃぁいけん  勝とうとしても いけん  負けまいと 思うんじゃ  無理をするな  深追いも おえん」と 戦いの心得を 言い聞かせました。武士達は 猪垣に 身を伏せ 鉄砲を構え、前にも まして恐ろしさに 身を 震わせました。床几Syoukiに 座っていた指揮官(は 恐ろしくて、床几から転び落ちる 有様です。それを 尻目に 難波佐吉は 躊躇tyuutyoする事なく、小躍りして 猪垣を跨ぎ 猛然と 敵方向に 突進しました。それを見て 遅れてなるかと 農兵達が 次々に 猪垣を 軽やかに 飛び越え 従ったのです。指揮官が「猪突猛進は 危険すぎる  引き返せ」と 制止しましたが、農兵達は 聞く耳を持たず 鉄砲弓矢竹槍を 掲げ ズンズンと 進軍しました。武士達は 農民達の余りの度胸の良さに 舌を巻きました。武士は 指揮官の指揮に 従わないと 脱営の罪を科せられ 死罪になるかも知れないので、指揮官が 尻込み進軍の命令を 出せないでいる事を良い事に 援護の動きを 取りませんでした。陣からは 見えない少し向うの所で 雄叫びが 上がり 銃声が 轟き 刀のぶつかり合う音や 甲冑の擦れ合う音 等、激しく戦う様が 伝わって来た後、暫くして 静寂が戻りました。武士達は 農民が大勝したか 皆殺しにされたのであろうと想像し、成り行きの報告を 声を 潜め 今か今かと 首を長くして待っていました。しかし 何時まで経っても 農兵は 陣に戻る者はいませんでしたし、長州浪士も すぐ近くにいる筈なのに具足の音も しなかったのです。武士達は「百姓共は 敵前逃亡したんじゃろう  頭数を 揃える所までは 大したものじゃと 思うとったが 百姓は 百姓じゃ  いざ戦いになれば なんと 頼りにならんもんかのう  ぶに(わけまえ)だけ 取って逃げられたぁ  屁の突っ張りの頼りにもならん  確かに逃げるの であれば、勝つ筈もないし 負ける訳もねぇ  名言じゃ」と 言って苦虫を 咬みしました。「吉備中央町の民話(1)」と「倉敷朝の屋敷騒動」を煮基にしたに舌物語

立石孫十郎:兵庫県佐用郡佐用町中上月 北緯34度58分43秒東経134度19’分32秒が大谷恵吉の生家です  大谷恵吉は17才の時 庄屋見習い となり、役人と 衝突し、 立石正介を 頼り、津山に 転居します   倉敷の商人大橋家の長女 慶の婿となり、大橋敬之助と 名乗りました 下津井屋を 殺し大坂に 逃げました  新選組に 追われ長州に 逃れて、立石孫一郎と名乗りました    立石孫一郎宅大橋家 :北緯34度35分49秒・東経133度46分7秒    倉敷代官所跡アイビースクエアー:北緯34度35分41秒東経133度46分24秒    寶寿山観龍寺:北緯34度35分53秒東経133度46分18秒. 井山宝福寺:北緯34度41分29秒東経133度44分2秒 浅尾屋敷・浅尾前公園:北緯34度40分42秒東経133度44分23秒 下津井屋:北緯34度35分38秒東経133度46分16秒 淀屋・窯屋:北緯34度35分42秒東経133度46分20秒 具足山妙本寺:北緯34度48分33秒東経133度42分15秒 玉買坂口の六方坊野山口温泉:北緯34度48分58秒東経133度42分22秒 六万坊:岨谷2286・2371番地等 祖谷口の東村:北緯34度47分31秒東経133度42分33秒 谷大道:北緯34度47分22秒東経133度42分35秒 祖谷井頭:北緯34度47分52秒東経133度42分26秒 中之谷:北緯34度47分42秒東経133度41分50秒付近 山田方谷:幕末期に 財政破綻寸前の備中松山藩5万石を 救いました。たっ た8年間で 10万両(現在の価値で約300億円)の借金を 完済し、10万両の余剰金を 作りました  農兵制を 取り入れ 若手藩士と 志願農兵による イギリス式軍隊を 整えました「https://ja.wikipedia.org/wiki/山田方谷」 平成23年(2011年)7月20日