稚児行列の始まりは、仏教が盛んとなった奈良時代です。 貴族や有力者は 子息の躾と教育の目的で 寺院に預け 修業させまいた。後に一般家庭の少年も 稚児として預けられ 稚児(修業中の未成年の坊主)は 僧侶達の身の回りの世話を 行いました。女人禁制の寺で 僧侶達に仕える存在でしたので 好色な僧侶の 性欲解消の対象になる事もあったようです。稚児達は 大人になると 殆どは 僧侶とならず 還俗Kenzokuしました。稚児行列は 修行の一環で 化粧させられた稚児達は 寺院の周りを練り歩きました。 化粧をする事で 神が稚児に宿り 稚児は 神聖な存在となります。牛若丸も 弁慶も 稚児でした。現在の円城寺には 稚児(小坊主)は いないので 身長150cm以下(衣装のサイズの為とするが 実際は子共)男女20名が 参加料無料(狩衣 冠 烏帽子等の衣装代は円城寺で負担)で 募集されますが、色彩豊かな狩衣を着るのが恥かしいのか 女神である提婆天 と一体化するのが 嫌なのか 少年の申し込みは 少ないようです。
本殿拝殿の天井絵が 解放されていました。字が読めない人のために 仏教の教えの判じ絵になっていると 住職は言います。本堂の一部の複雑な絵は 風化していて 判じ絵の読み解きは 困難です。草花の天井絵は 鮮やかですが 薬草等 何等かの関連性はないようです。極楽浄土を 意識させる装飾でしょうか。
抹茶のサービスが 行われていました。整理券が 用意されていますので、用意された分が 無くなれば このビスはサービスは 終了するのでしょう。お手元を見る お師匠さんの鋭い視線が 緊張を誘い 自然と お行儀が良くなります。女生徒のサービスする渋いお茶の持て成しは 歩き回った後の喉の渇きを満足させます。
豆大福もち きびもち よもぎもち が 搗かれていました。石窯パン うどん 山菜おこわ等この地域の誇る食べ物 陶器や布細工の販売もされていました。餅つきは 田舎のお祭としての雰囲気を 盛り上げてくれます。古い時代 稲は貴重で 米は 人々の生命力を支える神聖な食物でした。中でも 餅や酒は 神饌として特別の意味を持ちます。
その頃 拝殿では 多くの絵馬が掲げられている中で 外の雑踏をよそに 静かに願胡麻 即ち 仏に祈りを捧げる修行が 行われていました。胡麻の御利益は 煩悩Bonnouを払ったり、災害を鎮め また縁結びや 諸運倍増 武運等 様々な願いを祈祷します。
石田好美さんによる エレクト-ンコンサートが 開かれていました。皆は それなりの形で 音楽鑑賞します。銭湯牛乳飲みスタイルの子もいます。
琴の演奏を 子供達は 高見の見物しています。この時 祭りの肝煎の頭と 思われる人が 提婆宮「丑の刻参りUsi-no-toki-mairi」の作法を懇切丁寧に教えてくれました.。深夜 誰にも気づかれないように 所定の衣装具足で 身を整え 素手で 昔風の五寸釘を 恨み札の上から刺すのだそうです。無理 とても無理。 しかも 嫉妬した女性にしか ご利益が無いそうです。
催し物の間も 住職は邪気を祓う為に 読経を続け、邪鬼が払われると 稚児達が 装束を正し 控室から続々と集まって来ます。稚児達のお清めが 始まり 祓われた提婆天が 稚児達に降りてきます。厳かな雰囲気に 稚児達は 身を引き締めます。
稚児行列に備えて 山伏姿の先祓い役の青年達が 法螺貝を神水で清め 水を切っています。いよいよ 行列が進行し始め、かつて田辺の九郎(尾原宮阪の庄屋)と 浜の隼人(常光寺現在の豊岡上光寺の浜の庄屋)が、分限者争いをし 参道に 銭や米俵を 敷き詰め 寄進の嵩を 競い合ったと伝説される「北向き庚申堂」への神幸と なります。付き添いの親は 我が稚児の衣装が乱れないか 冠が脱げないか 心配する事になります。殿Singariを 獅子獅子と住職が務めます。
ご神幸を締めくくる「神下ろし」が 終わると 読経され この後神輿の担ぎ手達等は神酒を頂きます。著者等見学者にも チョコいっぱいの清めの酒が 勧められます。そして 清めを終わります。神輿に 和尚の取り合わせに 違和感を感じる人もいると思いますが、かつて 本地垂迹(神仏習合)の時代には 和尚と宮司は 並んで神事や 法事を行なったのです。
行列が 提婆宮に戻り、稚児が解散すると 「餅・菓子投げ」が 行われます。本日の最注目のお楽しみコーナーです。
お申込み・お問い合わせは円城寺まで(Tel: 0867-34-0004)
平成28年(2016年)5月8日 再編集