旱魃Kanbatu続きの吉備中央町西に 荒行を積んだ修験者がやって来て、村人に 生きる事の大切さと 悪行をしてはならない事や 希望の本質を諭しました。村人の信頼を得ると 大きな槇の木Maki-no-kiの下に 穴を掘り 鈴を持って入り「鈴が鳴り止んだなら わしごと穴に埋めれば 雨になる」と 宣言し 29日間 水だけを頼りに 鈴を振り続けて 村人のために 人柱となって 雨乞いをしました。鈴の鳴Otoが止んだので 穴を覗くと、行者は「早う埋めろ」と 言うので 生き埋めにしました。すると 雨が降ったので 村人は 感謝し 修験者を超仏羅様と呼び、祠を建て祀りました。「賀陽町史」「西の祠を示した村人より口伝」「吉備中央町の民話(1)」 人柱の祠・超仏羅様:総社賀陽線(57号線)が 左に曲がる十字路となる辺りの賀陽種緯線(306号線)を少し進み、西山神718番地付近で 右上を見ると 北緯34度47分23秒・東経133度40分49秒の竹藪の隣に 槇の大木が見えます。その根元付近に 壊れかけた祠があり 超仏羅さまと呼ばれています。「賀陽町史追補版」「無村人口伝」
岡山は 晴れの国と 呼ばれる程に 雨が少ない地ですので 年老いた者にとって 第二の故郷とするには 持って来いなのですが、灌漑施設が 整わなかった昔のお百姓は、旱魃の被害に 苦しめられました。大和の西の集落付近も、しばしば 旱魃に襲われました。人々は 水や食べ物を奪い合い、隣同士 親戚同士でも 争う有様でしたので、人々の心は 荒びsusabi 互いに信じる事が できなくなっていました。そんな時 村に修験者が流れ着いたのです。村人達は 住人が一人でも少なくなり 分け前が増える事を 望んでいたので 警戒の目を向け、食べ物は おろか 水も 恵まず 石礫Isitubuteを投げつけました。修験者は 山奥に住み 露で喉の渇きを癒し 草木の根で腹を 満足させ、時々里に下りて 村人に語り掛けました。修験者は「あなた方は 活きたいがために 奪い合い、活きたいがために 争うのでしょう しかし あなた方は 寝なければ生きて行けません 寝ている時も あなた方は 生きていて、夢の中では 奪い合い 憎み合い 諍うAgarau事が出来る人もいますが 、夢の中の事であって 実際には 何もできない筈です 明日と 言う日があると思うから 奪い合い争うのです 明日と言う日は 幻の時です 明日と言う希望が あるから 奪い合い争うのです 全 ての希望を 捨てなさい そうすれば 奪う必要もなくなり 争う必要もなくなるのです しかし「全ての希望を捨てなさい」と 言う事は 「諦めて死ね」と言うのではありません 今生きていられる事に 感謝し、今死なないで済むだけの水と食べ物がある事に感謝し、起きている時も 寝ている時と同じように 心を鎮めなさい 今ある物を 分け合い、力を合わせ 食べ物や水を得なさい 皆様もご存じのように 曼珠沙華Manjyusyageも良く水に晒せば 毒が抜けます 団栗Donguriも良く水に晒せば 渋が抜けます 食べ物を見つける工夫をしましょう この 不快なにおいの臭木菜Kusaginaだって 食べられます この藪の奥を掘りなさい 必ずや 水が出るでしょう 貴重な水です 汚れた水も 沸して蒸気にし 冷やして再び水に 戻せば 綺麗な水になります 諦めず、今生きている事を楽しみ 粘り強く生きるのです あなた方は 神や仏に頼り 祈ります お祈りする事は 心の支えになります お祈りする事は 正しいのです しかし 己の神や 仏 己の神や仏の教義の虜Torikoになっては いけません 己の神や 仏の虜になれば、他の神や 仏は鬼神となり 邪仏となります 己の欲望を 祈り 他人の滅亡を 願うようになるからです」と 説きました。
大変熱心でしたので、一人 また一人と 村人は 修験者に 耳を貸すようになり、ついには人垣ができるようになったのです。修験者は「ここに 村の人全てが 集まってくださり感謝します 私は荒行に耐え、栄養失調に 耐えて 今日まで生きてきましたが、もう命の限界に達しております あなた方が 私の言う事を信じ、私に 私の指導を求めるために 私を助けようとしても無駄な試みになるでしょう 私から 死の苦しみを解き放つために 私をここに人柱として埋めてください 雨が降るよう・あなた方が幸せになるよう・これから生まれるあなた達の子供に 健やかな未来があるよう 祈りながら あの世 旅立ちます 私の教えを守り 1日1日を 大切にして過ごしていれば、必ずや 雨は訪れます」と 息も絶え絶えに村人を説きました。説き終わると 修験者は 崩れ落ち 意識を失い、呼吸を激しく乱し 一段と深い呼吸をし始めました。
村人達は 絶えようとする命を懸け 説教してくれた 修験者に 感謝し、涙しながら 修験者の苦しみを 絶つために「わし等の惨い仕打ちを 咎めTogameず、わしらに 命の本質を 諭してくれた 仏を超えた 慈悲深い修験者じゃった」と 涙し修験者を 土に戻し、悼みながら 小さな祠(人柱の祠)を 建て祀りました。それからは 村人達は助け合って 裏山に池を掘り 僅かな水を得て 分け合い、毒草も毒抜きし 臭木菜も食料とし 飢えを凌ぎsinogi 今日も死なずに済んだ事を 祠に報告し、明日の時が 幻の時間にならないよう願ったのです。そして 待ちに待った雨が 降りました。村人達は この修験者を「神や仏を超えた人である」と 語り合い、超仏様とか 超仏羅様と呼び、昭和の終わり頃まで 崇拝していました。文明 産業が発達し 若者が街に出て 村人が少なくなると、祠をお参りする人も お守りする人もいなくなって、今は 荒れ果て 朽ちようとしています。「西の人柱の祠を示した村人より口伝」を基にした物語です。 祠の裏山に続く山道を 茨をかき分け分け入ると、井戸が 掘ってあります。更に奥へ進むと 水源らしき所に出ます。山から 水がジワジワと 浸み出しています。修験者は この辺りを掘るよう村人たちに勧めたのでしょうか。「西の祠を示した村人よりの口伝」を 基にした物語 彼岸花: 田圃の畦や川岸、お墓や農家の裏庭にもマンジュシャゲが咲くのをよく見かけます 「曼珠沙華は お墓の花で陰気だ」と言う人もいます。 昔 雨が降らないで 食べ物が取れなかった時でも、お侍達は お百姓さん達からお米や芋を手加減しながらも 年貢として取り上げました 仕方なくお百姓さんは ヒエやイヌビエ 等の草の実や、スベリヒユやツユクサ等の雑草も 食べました マンジュシャゲは 毒があったので、絶対にお侍は 年貢として取り上げませんでした 毒を抜けば 食べられるので 飢饉に備え 彼岸花を お百姓さん達は植えました。マンジュシャゲは お彼岸の頃咲くので ヒガンバナともいいます。お彼岸にはお 墓参りするのでお墓の花と思う人がいるのです。「jppapin200.exblog.jp/5745482/」 クサギナ掛け飯:吉備中央町の加茂川地区の郷土料理「https://zenmz.exblog.jp/13475499」 「賀陽町史追補版」「無村人口伝」平成23年(2011年)8月10日
昔 大和の西の山根の上に修験者がやって来て、民の旱魃の難儀を救おうとしました。干し柿と鈴を持って 穴に入って 23日だったか48日だったか お祈りしました。そして 生き埋めされて、その祈祷は実り 雨が降りました。その人を御墓堂に 祀っていたのですが 船越さんの家の墓場に 移して、船越堂(御墓堂)に なりました。「西山根の村人のより口伝」「吉備中央町の民話(1)」 天正10年(1582年)備中高松城の戦いで 毛利輝元方に与し、織田信長方の羽柴秀吉に 屈すると 船越一族は 没落し 帰農しました。具足山妙本寺は 戦国時代 無住職だったので 伽藍は荒廃していましたが、天正11年(1583年)に 大改修が施されると 仏の道に進んだ者達は これに積極的に協力し 徳を高めようとしました。船 越氏ゆかりの僧侶が 天 正18年(1590年)の飢饉の折り 人柱となって 雨乞いし 雨を降らせたと 伝えられています。「西山根の村人のより口伝」 平成24年(.2012年)9月24日
船越様の雨乞い Praying for rain by Hunakosi-sama
毛利氏に従っていた三村氏は、宿敵宇喜多氏が 毛利氏と同盟すると、毛利氏方に 残る者と備中高松城主 三村氏の党首 三村元親方に 従う者に 別れ 血で血を洗う戦いを 天正2年から3年(1574~575年)に 掛けて繰り広げました。この備中兵乱では 船越氏の主君 野山宮内少輔益朝は 三村元親に従いましたが、実際には 交戦を避け 妙本寺を毛利軍の本陣とする事を看過しましたので、三村・高松城は 敗戦しましたが 野山氏とその家老職にあった 船越氏は 領土を 安堵されました。しかし この戦いによって船越氏の一部の者は 毛利氏の追及を 受け あるいは 追及を恐れ 仏の道に進む者も ありました。天正10年(1582年)備中高松城の戦いで 毛利氏方に与し(くみし)、織田氏方の羽柴秀吉に屈すると 船越一族は 没落し帰農しました。具足山妙本寺は 戦国時代 無住職だったので 伽藍は荒廃していましたが、天正11年(1583年)に 大改修が施される と仏の道に進んだ者達は これに 積極的に 協力し徳を 高めようとしました。しかし、この改修に 参加した 職人達の献身的で 効率的で 尚且つ 統一された働きぶりを見て、自らの修行の甘さを 感じ 更なる修行に 旅立ち 荒行を試みた者も おりました。天正18年(1590年)に 全国的な 大旱魃が起こると その僧の一人が 故郷を心配して 野山に帰ってきました。その郷の有様は 旅の途中に見た旱魃の被害より 悲惨なものだったので、山根の聖地に 穴を掘り 鈴と干柿を携え 穴に篭り 飲食を断ち、一心不乱に 一族のために 雨乞い祈祷をしました。23日だったか48日の祈祷の頃には 衰弱し 死ぬ寸前でした。僧侶は「私が人柱になれば 必ず雨が降る 今すぐに私を 埋めてください」と 言うのです。僧侶の一族の者は 余りに 苦しそうな僧侶を 見て「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と お題目を 唱えながら埋めました。この僧侶の霊験により 著しい雨となり この年は大豊作と なりました。霊意を 感じた一族の者は その聖地に 祠を建て 本願御墓堂を建て 祀りました。時が経ち、祠が朽ちかけると 末裔の者達は 一族の墓場の脇に 御墓堂を移し、祠を 築き船越堂と 呼びました。)「西山根の村人のより口伝」
船越堂・船越様・みはか堂:北緯34度48分7秒・東経133度42分25秒 小ヶ市・船越屋敷:北3040番地 北緯34度48分1秒・東経133度42分23秒 仏教における鈴・りん・れい:リンは鉢状 あるいは 壷状の鐘で 鈴台に乗せ撥(ばち 鈴棒)で 叩き読経や 合掌の合図等に用いられます。レイは インドの武器を かたどった小型の鐘状の 手持ちの仏具で、金剛鈴、宝珠鈴 等が あり、周囲の物を レイで 叩いて音を出す 等して 煩悩を 祓う 又は 仏を 守護します。いずれも 神道における 魔除けの神具である(現在の鈴形)神前の鈴や 束ねた 神楽鈴とは 異なります。 干柿:好ましい事が 起こる事を 祈ります。喜来Kakiが 由来です。また干柿の表面は 老人の皴のようにみえるので 長寿の霊力が あるとされます。「柿が赤くなると 医者が青くなる」と 昔より言われ、栄養学的な 健康効果を 指摘する人が 多くいます。 具足山妙本寺:北常入道1501番地 北緯34度48分34秒・東経133度42分16秒 船越家:船越家は 奥樋城 伊達弾正館の家老職を 務めた家柄です。賀陽町史には「野山氏の本拠地、奥樋の伊達弾正館に 一番近い要地に 館が有るので 山の麓を山根 と呼びます.山根には 家臣 郎党 百姓が 家を連ねていました。馬越城 佐与谷城と 異なり、乗馬数分で 奥樋に辿り着けます」と 船越館について記載されます。「船越氏伝来来什器の説明」には「船越家は 藤原氏から 出ており 一ノ谷合戦に 薩摩守忠度を 討って高名した 岡部六弥太の子孫である 弘安年中 船越三良平衛は 縁者の故を 以って 伊達弾正朝義に 従い共に 備中野山に下り その家老となった 天正十年の高松城水攻戦後 毛利麾下であった野山宮内小輔益友嫡氏朝明が 没落した為、船越氏も 民間に下り 北村に 住み 以来 今日に及んでいる 今も 裏山に船越様と称して 先祖の廟所があり 毎年正月二十日に 早朝赤飯を 炊き 吸い物 を調え この什器に盛って 供えた後 神酒を 添えて 廟所へ 参拝する」と 説明しています。 「賀陽町史追補版」「無村人口伝」 平成24年(.2012年)9月24日
大和神社の拝殿の向拝に 爪無し龍が 彫られています。名人の作だったらしく 夜になると 龍になって 遊び歩きました。昔 日照りの時、八幡池の水が 異常に早く無くなり 水田用水が 不足し困りました。「誰か 水を 盗んでいる」と 村中で 喧嘩Kenkaになったので 代り番に 八幡池を 見張ると お宮の龍が 忍び 水を ガブガブ飲んでいました。それで 宮司に 頼み 龍の爪を切ると、龍は 歩けなくなり 夜遊びが できなくなりました。「加陽町史」「宮地中の谷上の村のより人口伝」「吉備中央町の民話(1)」 平成24年(.2012年)9月2日
大和神社の拝殿の向拝に 爪無し龍が 吊るされております。どうも名のある名人が 彫ったらしくて、夜になると 龍になって 動き出したそうです。昔 日照りがあって、村の者は 田圃に引き込むために掘った 八幡池に 残った 少しの水を 分け合っていましたが、水の減り方が 速すぎるので 誰かが ずるい事をして 水を盗んでいるとして 村人は 互いに疑い 喧嘩になりました。それで 犯人を捜すため 代わり代わりに 八幡池を見張る事にしました。それでも 原因が解らず 水が減り続けました。「一人で 番をすれば 必ず眠くなり 寝ずに番をするのは 無理だ その隙を見て 誰かがずるをしている」と、又も 互いを 疑い初めました。疑信が暗鬼を生み、いんちきができないように 番を 二人にしました。二人制なると 夜も寝ずに 番ができるようになりました。すると お宮の彫り物の龍が 本物の龍になって 忍び寄って来て 水を ガブガブ飲むではありませんか。村人は 宮司に頼み「あねぇな勢いで 水ぅ飲まれちゃぁ かなわん 龍が 歩けんように 彫り物の龍の足ぅ切ってつかあせぇ」と 頼みました。
「宮司はそんな事ぁあるもんか」と断り、真相を 確かめるため 番に 加わわりました。すると 村人の言う通り 龍が 水を飲みに来たのです。龍の姿が 不自然にならないよう 足の付け根を 切ろうとすると、龍の彫り物の目が きらりと光り 宮司を見下ろし、辺りに 霧が立ち込め 視野を 奪いました。宮司は 思いがけない恐ろしい光景に「ご祭神の多岐理姫命Tagiri-hime-no-mikotoと 市杵島姫命Itikisima-hime-no-mikotoが 龍を 護ろうとしている」と 怯え 龍の足を切る事ができませんでした。しかし 驚いて逃げる拍子に 誤って龍の爪を壊したのです。不自然に折れた 爪跡の始末に 悩んだ 宮司が 悩んだあげく『東叡山泉福寺Touei-zan Senpuku-jiで 龍の爪を 切り落とし 暴れ龍を 鎮めたとされる勇者が 偶然に 通りかかり、わしが苦労しているのを見かねて「わしが 退治してさし上げよう」と 申し出てくれた。勇者が 彫られた龍に 挑むと 霧と風が 起こり 辺りを 隠した。勇者が 太刀を 渾身の力を込めて打ち振ると、ガツンと 激しい抵抗があって 切れん。「霧に惑わされ 切り損なったかもしれない」と 思うたらしのだが、それは 恥になるので言い出せないでいた。
勇者は「社に居る龍は 硬くて切れないから 社から離れた時に 切ってやる」と 言って夜を 待って 龍が 現れ水を飲み始めたところで 切り掛かった。そうしたら 霧も 風も波も 起らず バキンと 何かを 切り落とした。龍はのたうちながら やっとの思いで 社に 逃げ帰り 動かなくなった。勇者は へたくそな切り方だったので 恥ずかしがり帰って行った。」と 村人に 嘘を付いたのです。夜が明け 皆が 集まり 彫った龍を 恐る恐る見に来ると 後ろ足の爪が 欠け落とされていました。村人は「切ったのは 霊力を司る玉を 持つ手でもなく、歩くための足でもない これでは 龍の抜け出しを 止めさせられない」と 心配しましたが、爪が 折れただけで 龍は歩けなくなって 夜遊びを 止めたので 宮司の話しを 信用し 今日まで 語り継がれているのだそうです 。「宮地中の谷上の村のより人口伝」を 基にした物語 大和神社:宮地宮の谷 黒田 宮地宮谷445番地 北緯34度47分47秒・東経133度45分7秒 埼玉桶川三田原の東叡山泉福寺:北緯35度58分54秒・東経139度31分28秒 泉福寺の正門の竜を旱魃の時 寺の池に泳がせると 大暴風雨となり大洪水になりました 驚いた村人達は 竜の爪を切って寺の門に 金鎖で縛り付け 鎮めました「泉福寺 | 地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業 (digitalarchiveproject.jp)」 「賀陽町史追補版」「無村人口伝」 宮地:宮地1番地 平成24年(.2012年)9月2日
和3年(1803年)5月2日から始まった旱魃は 激しく、代搔きを終えて、いざ田植えをしようと思った頃から 晴天が続き始め、田植えを終わる頃には 田は干上がりました。梅雨Tuyuを待ちましたが 一滴の雨も 降りませんでした。河内田の者達は 洪水には 慣れていましたが 旱魃には慣れていませんでした。24日の晴天続きの後、とりあえず 加茂川 牛渕川 吉南川 田や 池に出かけ 吉川八幡宮の神主を迎え 雨乞い神事を7日間程 続けても 雨は 降りませんでした。村人は 八幡様の神様達に 雨乞いに 神徳が無いので 雨が降らないのだと思いました。「高い山の上で 千貫焚きをしたり、龍神を 怒らせたりすれば 雨が降る」と神護寺(現在の神護寺ではありません)の住職から聞いたので 龍神を怒らすために、龍が 嫌う銅の鉱脈があると言われている金集山の上で 千貫焚きを7日間 続けましたが 雨が降りませんでした。直接龍神を 怒らせなければ 雨が降らないと思い直し 五輪山の龍神の前で 神護寺の住職を招き 雨乞いを7日間程続けましたが 雨が降りませんでした。神護寺の住職は「河内田橋の生贄地蔵Ikenie-jizou(現在の生贄地蔵ではありません)が 五輪山を睨み上げ「今 雨を降らせば 川は氾濫し 洪水になる わし等を 流すつもりか」と 心配しておる あの視線に 龍神が気を使って 雨を ひかえている わしも それが気になって 気を 集中できない わしの寺の龍神を 頼ってはくれまいか」と 言うと「和尚め うまい言い訳をするもんじゃ」と 思いましたが、縋れる手段は 他にないので、神護寺に 祀られる龍神の前で 雨乞いをしました。住職は 秘仏である弥勒菩薩と 地蔵菩薩が 汗をかいていたので 顔を青くしましたが、成り行き上 後に引く訳にゆかず「なるようになれ」と 祈祷を 続けました。すると その日 7月7日の午後から 俄かに雲が湧き、大雨になり 河内田の川々は 洪水寸前の水嵩と なりました。和尚の予言通りになり、枯れかかった稲も 蘇えり その年は 意外にも 著しい凶作にならなかったので、雨を 調整し合う生贄地蔵と 五輪山の龍神様を 大切にし、神護寺の龍神の神徳と 和尚の徳を讃え 神護寺を 篤く 敬いました。「吉川 河内田の村人より口伝」を基にし「生贄地蔵」「汗かき地蔵」「金集山銅鉱山」を組み合わせた物語 五輪山龍王宮:河内田橋の北、河内田公会堂の西の山を 五輪山と呼びます 五輪山の西の尾根は 手作り公園癒しの散歩道裕園に なっています 公園中心部の頂上 現在 手水鉢が2個置かれている 北緯34度48分43秒・東経133度45分33秒に 祀られていたと されますが、公園内の少し下に 移されました 八大龍王が 祀られています 八大龍王: 難陀龍王 跋難陀龍王 娑迦羅龍王 和修吉龍王 徳叉伽龍王 阿那婆達多龍王 摩那斯龍王 優鉢羅龍王の総称で 水中の主 祈雨 止雨の神ともされます 幾千万億の眷属龍と共に 釈迦の教え「観音菩薩の御働き」を 熱心に聴き、覚りを超える阿耨多羅三藐三菩提Anokutara-Sanmyaku-Sanbodai無上正等正覚Mujyou-Syoutoku-Syoukakuを得て、仏教護法の神となりました\ 千貫焚:沢山の木等を 積み上げ 火を焚き 上昇気流を 起こさせ、それによって 雨雲を 呼ぶ 雨乞いの儀式です 伯耆大山・伯耆富士:北緯35度22分16秒・東経133度32分24秒の鳥取県大山町 琴浦町 江府町等に 跨る山で、山全体を 御神体とし 雨乞いに ご利益が有ります 北緯35度24分50秒・東経133度29分4秒の赤松池に 龍神が祀られます 金集山:吉川河内田の山 北緯34度48分39秒・東経133度46分3秒 銅鉱山で 頂上付近に 多数の採掘穴跡があります 現在の光林山神護寺:吉川東苅尾1188番地 北緯34度49分6秒・東経133度45分2 現在の生贄地蔵:元は 河内田橋の岸に 祀られていましたが、今は 裕園に 移されています 洪水による犠牲者の代わりになろうとしているので 生贄地蔵と 呼ぶらしい 神護寺の弥勒菩薩と地蔵菩薩:政権に 異変がある等すると 上半身 に汗をかき、民間、例えば 洪水や 戦争が起こる 等する時は 下半身に 汗をかくそうです 牛淵:吉川363-372・374・375・384・386番地 石淵の転訛で、洪水の後の石の散乱が 由来の地名でしょう 塩垢離大明神と言う 大岩がありましたが 洪水で 流されました 鳴滝湖の西に 再建されました。 「無村人口伝」 平成26年(2014年)9月16日
下加茂 尼子岩での雨乞い Praying for rain at Amago-iwa
昔 昔 加茂川や豐岡川や宇甘川の 深い淵や深い穴や 深い池には 河童が住んでいたそうな。[「深い水辺は 河童が悪さをする恐れがある。」ので 子供達が 近づかないよう 親達は 注意していました。宇甘川の大山原の淵にも 河童が 住んでいました。この河童は ともかく 腕白者で 大山原に 祀られていた大智明大権現碑や 田畑に小便を やたらに 掛けたりして 物凄い臭いを させたり 作物を 枯らしたり 川に 遊びに来た子供達 を深みに引き込んだり 悪さばかりしていると 村人達 は信じていたので 何時か 必ず この悪河童を 退治してやろうと 考えていました。ある年 酷い旱魃が 長く続いて 宇甘川も 干上がる程に 水嵩が 減ったのです。村人は困り「明神山の文覚様に 雨乞いを しよう。」と 相談が纏めました。
すると 人を嫌っていた筈の河童 が現れて「あたいも 一緒に雨乞い させてくれぇ。」と人前に現れたのです。見れば弱弱しく 物凄く力があり 相撲に強く 悪賢いと 伝え聞いていた筈と かけ離れていた姿でした。村人は 「しめた。」とばかりに 河童を 簀巻sumakiにして雨乞いの生贄に しようとすると河童は「これえてくれぇ。あんたらが わしを嫌うとるんは解るが 仕方のない事なんじゃ。わしらの頭にゃぁ 皿があり 水を湛えている.と思うているらしいが こりゃぁ 唯の水じゃぁ ねんじゃ。本真はべとべトしていて 水にゃぁ 溶けん カワゴメリアンちゅう物質じゃ。わしらの精力や 力や 知恵の源じゃ。カワゴメリアンは 深い水の底にしか 生えんカワゴモと言う藻に僅かに含まれる物質じゃ。いつもはわし等はこの藻を食べている。胡瓜Kyuuriのような香りが し とって でぇれぇ旨いんじゃ。これを食うとカワゴメリアンは 腸から血液に 吸収されて 血液脳関門を通る時 頭の皿にラクダのこぶの脂肪のように溜り必要に応じて脳に送られ わし等の能力を最大にするんじゃ。じゃが 今年ぁ 水嵩が減って カワゴモが 育たんのじゃ。じゃけぇ わし等ぁ 藻を食えんのじゃぁ。岩にすわぶり(吸い込むように食べる)付いて 藻を 吸いとるか 漂っとる くず藻ぅ水ごと 吸うて カワゴメリアンを 補給しておるんじゃぁ。じゃけんもんげぇ量の水ぅ 飲まにゃおえん。せぇで 便ばぁするように なったんじゃ。大山原の淵が 深うなって 藻が 再生せにゃぁ わし等は 死ぬるしかねえ。見て見ぃ。頭の水もあと僅かじゃ。あんた等と争うのに使うんじゃぁ勿体ねぇけぇ素直に捕まってやって 残りのイワココメリアンを 雨乞いに賭けて 使いてえんじゃぁ。わしゃぁ 文覚様と 問答ができる。わしぅ雨乞いに 加えてくれぇ。」と 訴えたのですが 村人は「訳の分からん講釈ばぁ並べて。やっちまええ。」と 聞く耳を もたず 強引に 明神山に 連れて行こうとすると 子供達が「待ってておくれえ。この河童さんは わし等に 泳ぎや 水潜りを教え 相撲を取って遊んでくれた 良ぇ河童さんじゃ。殺しちゃぁおえん。」と 言うので 大人達は「とんでもなぇ誤解え するとこじゃた。雨乞いの水先案内を してくだされえ。」 と合点し 明神山の南西の絶壁の大岩の中の 上が平らな大岩の上で 河童と文覚上人の指導に 従って 千貫焚きをしたのです。
すると下加茂に 雨が降って 村人は 助かりましたが 河童は 力尽きて 死んだのです。大雨は 宇甘川の底を埋めて 大山原の縁は 土砂に 埋もれ なくなりました。勿論 加茂川や 豐岡川の深い淵も 無くなり 河童が住めない 左程に 浅くなったので 現在は この地域に 河童はいなくなりました。そして尼子勢力野足音が 地に及ぶとあの 雨乞いをした大岩は 尼子岩と呼ばれるようになったとさ。「ほろ酔いの著者の作文」 meriann:marijuanaから生まれた言葉ではmarijuanaとは大麻の葉や茎や 花から抽出され物質の事です。 千貫焚き:多量の木等を 積み上げ 高い山等で 燃やし 上昇気流を起こさせ 雲の発生を 促す 雨乞いの方法。 尼子岩:明神山の南西の大岩群の一つで上部が平らになっているそうです。昔この岩の上火を燃やし で雨乞いしたと伝えられています。著者はこの岩群に登ってみましたが尼子岩を特定できませんでした。昔と地形が違っているらしく 危険なので 2度と 登りたくありません。雨乞い岩が尼子岩と訛ったそうです。「無村人口伝」 平成26年(2014年)9月16日
神瀬・上田東 本宮山の竜王宮 Ryuuou-guu on Honguu-zan
本宮山山頂(上田東森前2108-87番地の北 約480m)北緯34度54分13秒・東経133度50分44秒付近に 海神社 山神宮 竜王宮が 奉納されています。竜王宮は 石堂で 2体の木像が 祀られ 同時に 竜王社の木札が 祀られます。厨子の裏には「 明治12年巳卯年5月大吉祥日本宮山主一実院舜明(円城寺中興第14世の法印)施主四ヶ村世話人斉藤〇〇 大工山本吉作」と あります。水の神 雨乞いの神です。雨乞いの時には「雨を給われ竜王殿。」と唱えるそうです。案田の村人は 土用の入りに 連れだって 竜王の守護を 祈願しに 参詣していたとされます。 本宮山円城寺:円城寺屋敷742番地 北緯34度53分31秒・東経133度48分22秒 本宮山:上田東2414-2416番地 龍王山:神瀬859番地 平成24年(2012年)10月7日