一心神門 犬五郎兵衛 五郎兵衛のように 和田上組大原池 聖坊山 大村寺の雨乞い 鼠に食われた経文 龍在ヶ滝の龍 龍在ヶ滝の花嫁 甚五郎の龍 道浄寺の龍

三谷 陰地 一心神門 Issin-sinmon

三谷i野田尾70番地より やや山道を登ると 丁字路に成り、右手の奥に 円墳と思われる高まりに 墓石等 石像物群が 祀られています。その中心的石碑に 一心神門と 刻まれています。その後ろ側に、石組みの祠が 有ります。いつの事か分りませんが、陰地Ondiを訪ねて来た 僧侶が  旱魃で 悩む村人のために 自らを人柱にして 雨乞いを 三谷城の聖地で 祈祷しました。僧侶は「鈴の音が 消えた時は、わしが 死んだ時と思いなさい  私が 死んだなら この穴に 埋めなさい」と 村人に告げ、自らの墓穴を 掘り その底で  鈴を ジャンジャンと 鳴らし 祈祷を 続けました。遂に 鈴が鳴り終わったので、村人は 一心神門を 丁寧に葬り、尊い命を 讃たえて 祠を築き 僧の心を 崇めました。「三谷陰地の村人のより口伝」

 昔のある時、三谷陰地は 激しい旱魃に 襲われ、野や山は 枯れ掛かり やっと育ちかけた稲も 火を噴きそうな程に 乾き切りました。村人は 顔を合すと「神瀬の者は 本宮山の龍王宮に 雨乞いしたんじゃが 未だ雨ぁ降らん」「百々Doudouの滝でも 役の行者に 祈ったが 未だ 雨のあの字も無いそうじゃ」等 と 雨乞いと 水の心配ばかりを 話題にしました。村人達が 悲嘆に暮れていた所、ボロボロの法衣を 纏い 今にも 死にそうに 衰弱した旅の僧侶が、食事と一夜の宿を 求めて来ました。村人が「ご覧の通りじゃ  木の皮や 草の根位しかありゃぁしません  どうせ わし等ぁ このまんま 飢え死にするけぇ 存分に 食べなされ   わしらの命が 大小無ぇDe-syou-nee -toと 縮むだけじゃ   事態ぁちいとも変わらん」と 言うと僧侶は「有り難く 頂きます  わしは この旱魃を憂い、修業で得た術を生かせる 聖地を求め 諸国を廻っている所です  一飯Ippanを恵んで頂いたお礼に 私は ここに籠もり 人神交流の術を以て、妙見菩薩に 降雨を 膝詰談判Hizadume-danpanして 来て 進ぜよう  では、ここに 注連縄(Simenawaで 6尺の神域を 造って 深い穴を掘ってください  酒塩を供え 雨を給われと 北極星に 向かいて 毎日 半時Hantoki祈りなされ  私の術を信じて 田の整備 水道の掃除と整備 溜池の掃除と 整備を済ませなされい  私は鈴を 持って 飲食を断ち 日夜寝る事なく 菩薩に合えるよう 祈祷します  鈴が止んだ時は 私の魂が 妙見菩薩を 訪ね 願いが 届いたと思いなされ  亡骸Nakigaraは 唯の心の着物になっているので この場に埋めて下され」と 言って、鈴を激しく振り天まで届く程の音を上げ  一心に 般若心教を唱え 祈祷し続けました  この熱心な祈りに 村人は 自暴自棄から目覚め 農作業を再開し、僧侶の言い付け通りに 祈祷の成果を待ちました。

すると僧侶の鈴の音は ピタリと消え、北極星に向け 龍が上って行きました。村人が 駆け付けると 怪しげな魔物の足跡に 囲まれて、僧侶は快い笑顔を 残し 天に召されていました。村人は 未だに 雨を見ないのですが 一飯の恵みで 伸びた大切な命を 自分達のために 使い果たした 僧侶の徳に涙して 感謝し 丁重に 埋葬しました。すると 2日程後に 一天掻き曇り 待望の雨が降りました。その頃 大山原 星原 青木山 雨坪の田 本宮山 百々の滝 鳴滝 等で 雨乞いしていた地域にも 雨が降り、雨乞いの成功に それぞれの村人は 大はしゃぎしていました。「三谷陰地の村人のより口伝」を基にした物語    一心神門:木曾御岳の行者 (一心の神)の門人の意味でしょうか。一心.門 あるいは一心.神門と言う名前の人でしょうか。三谷陰地 北緯34度54分52秒東経133度47分44秒    森清山三谷城:北緯34度54分51秒東経133度47分49秒    森清小森城:北緯34度54分59秒東経133度47分58秒   大山原大山堂:北緯34度51分35秒東経133度48分48秒辺りを中心とする河原で、お堂は北側の双葉保育園の園庭に 建ちます 明神山の尼子岩で 何度か千貫焚きが されたと「下加茂の村人」より 伝え聴きました 天津神社:北緯34度55分44秒東経133度48分38秒 天御中主命を祀ります 星原星見橋:北緯34度56分0秒東経133度48分42秒 星見岩:北緯34度55分50秒東経133度48分49秒近く  昔 星見岩の上で 天津神社の神主が司り 雨乞いをしたと「星原の村人」から 伝え聞きました 青木山素戔嗚神社:北緯34度53分31秒東経133度44分50秒付近  昔 素盞嗚神社の裏の青木山で 千貫焚が行われたと「富永の村人」より 聞きました 本宮山海神社と龍王宮:北緯34度54分13秒東経133度50分44秒 龍王宮では しばしば「雨を賜れ 龍王殿 雨を賜れ龍王殿」と 掛け声を 掛け 雨乞いをしたと「神瀬の村人」「三谷陰地の村人」等 から 聞きました 百々の滝・役の行者像:北緯34度56分31秒東経133度45分58秒杉谷の水神」 竹部鳴滝:鳴滝公園の中の北緯34度49分21秒東経133度46分33秒に鳴滝があります 雨乞いの行事が何度か行われたそうです  役小角の磨崖仏が 祀られています 船津鳴滝 :北緯34度56分10秒東経 133度49分3秒の船津鳴滝や 北緯34度54分53秒東経 133度50分11秒の神瀬地蔵滝で 何度か 雨乞いが 行われたと「神瀬の村人」や「下加茂の村人」から 伝え聞きました 天御中主命:最初に現れた神で、天の中心にある北極星と される神です  特別な 業績はありませんが、神々の最高神で 天候も支配します  妙見菩薩と 習合しました 妙見菩薩:北極星を神格化させた菩薩で 国土守護 除災 人の福寿 等が ご利益です  平成25年(2013年)4月14日

 

美原 犬五郎兵衛 Gorobei Inu

昔 美原は 酷い旱魃Kanbatuに 見舞われました。人々は 生活に苦しみ 心を病み  悪事を働きました。そんな時 何処からか 修験者が流れて来 て、生塵Namagomiを 食し 畜生道の修行をし、村人に 道徳を 説きました。村人が 不道徳を止めないので「自分を 人柱にして 雨乞いをしなさい 雨が降ったなら 不道徳を 止めなさい」と 告げました。村人は  言われる ままに 男を生き埋め 雨乞いしたところ、雨が 降り ました。村人は 男に感謝し 供養塔を立てて 祭り、 品行方正に なりました。「美原村人より口伝」

昔 昔 天保年間  大台風と 大旱魃で 川が氾濫し 田畑を失った上、地は 乾き 食べる物もない時代が ありまし。この飢饉Kikinの時には 人々は 草の根 木の皮 団栗Dongutri 毒抜きした毒草曼珠沙華 等も 食べました。また 忍び込みや 強盗、腐った生ごみを漁るasaru者 等は 当り前で、人間の死骸Sigai を漁る者 時には殺人して 食べる者もいたと うわさされました。この美原でも 例外田で無く 諍いIsakaiは 絶えず、人を信ずる者 等 いなくなりました。その様な 惨状Sanjyouを見かねた 五朗兵衛と言う修験者 が美原の里に どこからともなくやって来て、人々に「修羅界Syura-kai 畜生界Tikudsyou-kai 餓鬼界Gaki-kai 地獄界Digoku-kaiに 身ぃおいちゃぁいけん  人間らしゅう 迷いがあっても 平常な心で 人間界で 生活せにゃぁいけん  笑いに 満ちた天界の生活に せにゃぁいけん」と 近隣の村々を説いて回ったのです。しかし その日の食べ物を 手に入れるのが 精一杯で、人の事や 思想 等どうでも良かったの で耳を貸ものは ありませんでした。そこで自ら修羅界 畜生界 餓鬼界 地獄界に浸り、獣のような生活をし、その結果 いかに 悲惨になるかを 人々に見せ 名前を犬五朗兵衛(Inu-Gorobeiと 改め、食べられる物は 何でも食べ  欲しい物は 何でも 盗ったのです。今まで 修験者として 仏道を 極める努力を重ねて来ていた 五朗兵衛にとって は「大変な悪人に なり切れた」と 感じていたので、この悪態を 見れば 村人は 悪に染まる事を 避け、自らを 戒め反省するだろうと 思ったのです。村人も さすがに「言うとる事と やっとる事ぁ真逆じゃ あぎゃぁな悪者にゃぁなるな」と 子 供には教えますが、この荒廃した世では 当たり前の出来事で「少し悪い奴」位にしか 思わなかったのです。少財餓鬼の姿を見せれば 反省するだろうと思い、犬畜生と 同じように 腐った生ゴミや 屍(Sikabaneさえ 食べて見せました。この世の全ての病に 罹り、やせ細り 食べるのさえ難しくなり、苦しみのたうつ様に なりました。それを見て 村人は 気持悪がって 五朗兵衛を避けて、気持ちは もっと遠くに 離れて行きました。五朗兵衛は 自分の思いが 村人に通じない事に 悩みました。そんなある日、五朗兵衛の元へ 6尊の地蔵が 訪ねて来ました。

五朗兵衛は 地蔵達に「私は 人の悪と人の病の 全部をこの体の中に 取り込み その悲惨さを 衆生に見せ 反省を 期待しましたが なりませんでした。このまま死ねば 悪や 病が天に 舞い散り 人々に苦しみを 与えましょう  お力をお貸しください」と 祈りました。六地蔵達は「人柱となって人々の悪を 正したいと言うのだな 今直ぐに そなたを 苦しみから 解き放って差し上げましょう」と 約束しました。村人達は 村の裏山に 不思議の六条の発光を見て「妖怪でも出たか」と 思い鍬Kuwaや鎌Kamaを 武器として やって来ました。しかし  村人が見たものは有り難い地蔵達が 犬五郎兵衛を 慈しんItukusindeでいる姿でした。村人達は 初めて 五郎兵衛の志の全てを 悟ったのです。地蔵達に 促されるままに 大きな墓穴を 掘り、犬五郎兵衛を 静かに 穴に納め 今までの不届きな仕打ちを 反省し、犬五郎兵衛に 感謝の涙を 添えて 苦しむ 犬五郎兵衛の上に 土を掛けてゆきました。すると 恵みの雨を賜り、飢饉は 遠のいて行きました。「美原村人より口伝」を基にした物語     畜生界:動物の本能に根ざす慾の価値観を持つ世界 餓鬼界:目先の損得に固執する世界 地獄界:あらゆる恐怖しかない世界 人間界:人間らしく、迷いがあっても平常な心で生活する 世界  笑いに満ちた生活  住む人間は 現生の人間ではなく、長い寿命をもつ 巨人です 天道:天人が 住まう世界です  天人は 人間よりも 優れており 寿命も非常に長く、苦しみも ほとんどないと されます  また 空を飛ぶことが でき 享楽のうちに 生涯を 過せます 多財餓鬼:充分食べられる事により 生ずる不幸   現代風に言えば メタボリックジンドロームや 次なる欲望の生ずる世界に 住む餓鬼 少財餓鬼:人間の糞尿や 嘔吐物 屍 等だけを 飲食物として 摂取できる餓鬼 無財餓鬼:飲食すると 飲食物が 炎となります  施餓鬼供養済の物だけが 食べられる 餓鬼 声門界:仏を学ぶ世界 すべての学び事を 志す世界 緑覚界:自意識を 悟った世界 菩薩界:仏の使いとして 世を救う 世界https://ja.wikipedia.org/wiki/十界」  犬五郎兵衛の供養塔:北緯34度52分24秒東経133度46分21秒  近くに 六地蔵が祀られています 右上にも 石仏があります 供養塔は 平成29年に尋ねた時には 近くの墓石諸共無くなっていました  平成23年(2011年)7月17日

 

犬五郎兵衛のように be that like Inu-gorobei

昔 犬五郎兵衛と言う修行僧がいました。大変な 飢饉で食べ物が無くなり、酷く 治安が乱れました。「こんな悪い世ではいけない  皆を救おう」と 厳しい修業をしました。腐った物を 食べると危険な事を 教えるため、生ごみ を食べたり 病気で死んだ者の肉を 食べ病気になって見せました。毒のある草の毒抜きする方法を 毒に当たりながら 工夫しました。大切な 物を 隠されたり 物を失う事の辛さを教え 身を以て「健康で 奪い合いの無い事が いかに安全で 幸せであるか」を 教えてくれた 犬五郎兵衛に 村人は 感謝しました。だから 村の人は子供に「五郎兵衛ような立派な人に成るよう」にと 言い聞かせました。ある日 お母さんは お饅頭O-mmanjyuuを子供に内証Naisyoで こっそり食べようとして、棚に隠しました。しかし子供の五郎蔵は 見つけました。お母さんは「これぁ腐り掛っとるとけぇ 腹ぁ下す  食べちゃぁおえん」と 注意しました。所が 五郎蔵はこっそり食べました。お母さんは「あまり掛かった物ぅ食うちゃぁおえんと 言うたろう  まぁ腹は 壊んで 良かった」と 五郎蔵を 叱りました。五郎蔵は「犬五郎兵衛のように 腹ぁ壊す事が どぎゃぁに 辛ぇか 知ろうとしたんじゃ  良ぇ 人になろうとしたんじゃ」と 答えました。これには お母さん 何にも言えませんでした。次の日  お母さんは 桃を タンスに隠そうとしましたが、又 息子に 見つかりました。「これは 鬼にしか食えん 特別の奴じゃ  人間には ぼっけぇ毒じゃけぇ 食べちゃぁおえん」と 釘をさしました。また 五郎蔵は 喜んで盗み食いしました。お母さんは 又 叱りました。五郎蔵は「五郎兵衛みてぇに 毒の抜き方ぁ調べようとしたんじゃが 毒ぁ抜けとった  母ちゃん抜いたんか  毒の抜き方ぁ知っとるお母ちゃんは偉いのう」と 答えました。褒められてお母さんは 苦笑いするしかありませんでした。そして次の日、半殺しのお萩に「これは神様の食べ物なり 食べると祟られるなり」と 書いて神棚にお供えました。

狡いKosuiお母さんを 見張っていた五郎蔵は それ も盗って食べました。「神様に 供える物迄食うて この破憎者Gorozoumonが」と お母さんが 叱ると、五郎蔵「隣の小父ちゃんOttyanがお母ちゃんの事ぅ御神様O-kami-sanと 呼んどった  神様Kamisanが 食い切れんで残していたんで食うた」と 答えました。さすがにお母さんも「神様が 食い残したお供え物じゃねぇ うちがこっそり食おうと思うとったのに  何でお前が 横取・・ウヤムヤ・・・ 親不考者め」と 本音を 吐きました。五郎蔵は「親不孝じゃぁ無ぇ 犬五郎兵衛さんのように、お母ちゃんを半生Hangorosiじゃ無ぇ  反省させようとしたんじゃ 何が 親孝行じゃ」と 答えました。さすがに お母さんはこっそり一人で美味しぃ物を 食べる事を 止めました。犬五郎兵衛さんの功績は かくも偉大なのです。「美原の村人との冗談話」 破憎者:破僧Hasouとは 破和合僧の略で 釈迦教団に対し 分派活動を働く僧侶達 破落戸Gorotuki人の弱みを 付いて来る ならずもの    半生半殺し:もち米とうるち米を 半分程 搗いて作った お萩 牡丹餅     平成23年(2011年)7月17日 

 

和田 上組大原池 Ohara-Ik Pond Managed by Kami-gumi

 

大正13年、加茂川地区を 旱魃Kanbatuが 襲いました。 和田上組Kamikumiの村も、飲み水にも困る程だったそうです。 しかし 大堀田は 水が涸れなかったので、村人は そこに池を 掘り 飲料水を 確保しました。 木を刈り 積み上げて、素盞鳴神社Susa-no-o-jinjyaの山の和田大山(青木の山)の頂上 で燃やし、雨乞いしました。 天に 届きそうな 炎だったと 言われます。 しかし 雨は 降りませんでした。 村人は やむなく 一枚でもいいから 稲を 植えようと相談し 共同で田植えをしました。 こうして 水不足に 対処し 天災を 乗り越え 雨が降るのを待って 皆が 稲を植える事が出来たと 言われます。 この旱魃を 機に 小さかった 大堀田池を 大きな大原池に 増築する事になって、村総出で 千本突き 即ちヨイトマケをしたそうです。 「和田の村より人口伝」

大正13年、岡山県を 大旱魃が 襲いました。和田上組の村の田は 干上がり ひび割れ、稲の成長は 止まり 殆んど 収穫できず、飲み水にも 困りました。しかし 大堀田の地は 水が 涸れなかったので、村人はそこに 池を掘り 飲料水を 確保しました。待てども 待てども 雨 が 降りませんでしので、残る 手段は 神頼みだけと なりました。 酒と 少しの質素な肴を 用意し、初穂料を 集め 上組荒神社に 素盞嗚神社の宮司を招き、村人は 集まり 神酒一杯で 身を清め、素盞嗚神社から 頂いた護符を祀り、祝詞Noritoで 荒神を なだめました。昼食時には 神酒2杯と 肴を頂き、村の田から 田に 笛と太鼓で 囃し 獅子を舞わせ「雨を賜れ 巳神殿雨を給われ 巳神殿」と 唱え 伊吹男神に 雨乞いしました。3日経っても 雨が降らないので、中の1日の 酒宴を開き、翌日から 龍田神社に 参り 同様の雨乞いを 続けましたが やはり 雨が降らず、再び中の1日と称して酒宴を開きました。今度は 素盞嗚神社で 雨乞いをしましたが、3日経っても 雨が降らず 千貫焚きをする事に なりました。素盞嗚神社の裏山の 和田大山の頂上に 村人は 藁wara 豆殻 籾殻Momigar a等を 持ち寄り 木を刈り 積み上げ燃やし、素盞嗚神社の宮司の司る中、神輿Mikosiを 担ぎ 鉦や太鼓や 笛で囃しならして 雨乞いしました。乾き切った木は 一気に燃え 天に届きそうな炎と 煙は 空高く舞い上がり 雲になるかに 見えました。しかし 雨は降らないので 何度も何度も お願いしました。すると村の娘に 神憑りKami-gakari、龍の眼光を放ち 体中に鱗を蓄え「汝らに は大堀田の池が有り、幸いに 我妻 櫛稲田姫が 汝らに 僅かながらであるが 種籾を神殿に 齎した  汝等の強い信仰に 必ずや 恵みを以て 答えるであろう」と 素盞嗚命の神託を 告げました。村人は 神の言葉を信じ 神憑り娘を 先頭に立て、僅かの種籾を たった一枚の田に 共同で 田植えをし 終えました。すると 雨が降りました。村人は 喜んで 雨降り正月と称し 飲めや歌えの酒宴 を開き、一斉に この日は 農耕を休み 雨祝いを しました。この年は 木の根 葛や蕨の根 草の葉 毒抜きした彼岸花を 食べ、病気に 成ると 素盞嗚命に 縋りSugari 村人は 命を長らえました。翌年には 一枚の田で 収穫した種籾と 育麦蔵から借りた 籾を使い 皆が田植えをする事が 出来ました。この旱魃を 機に 大原池を 増築する事になって、村総出で 千本突きをし 2年をかけ 完成させました。「和田の村より人口伝」を基にした物語    中の一日:祈祷の中日 大堀田:和田700・701・705・816-827・908・909番地 大山畑:和田650-656・661・663・664・666-668番地 和田大山の頂上:和田 北緯34度53分30秒東経133度43分59秒 元牛頭山宗林寺跡 現牛頭山観音堂   素盞嗚命:災厄除けの神様 農業紳 疫病神 武神 和歌神 海原の暴風の神 海の龍神    櫛稲田姫命:霊妙な稲田の女神 夫婦円満の神 祇園社の后神等 素戔嗚命の妻    育麦蔵Semikura不作の時 種籾を農民に貸し付け、収穫した折に 返却させる 江戸時代の制度 江与味 を含めた加茂川地区には 24施設ありましたが、大正3年の時点で 廃止  和田の育麦蔵がどこにあったか不明です    龍田神社秋葉大明神:北緯34度53分24秒東経133度44分12秒 祭神は天御中主神Ame-no-Minakanusi-no-kami (宇宙の創造神)  罔象女神Mizuha-no-me-no-kami(水神)   五帝龍神(水神)    和田上組の荒神社:和田地域の北緯34度53分13秒・東経133度44分35秒 祭神は伊吹之男神Ibuki-o-no-kami  日本武尊を伊吹山で病死させた大蛇       3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備人出版】が 発行されました。P346に「千本突きで池造り」と言う民話が 載っています。「加茂川町史続編P154~P156」に 大原池の旱魃対策行事について詳しく 記載されています。   平成23年(2011年)8月1日

 

 

上竹 聖坊山の雨乞い Pray for rain at Hijiri-bou-Yama mountai

昔、上竹の龍王山に 旅のお坊さんが 来て、20日も 雨乞い祈願をしました。雨は 降らなかったので、村人は「もう待てん  偽坊主め」と 言ってお坊さんの周りに 割木Warigiを 堆くUzutakaku積んで 生きたまま 悪たれをついて罵りNonosiri 焼き殺した。ところが 翌日雨が 降りました。死んだ者は 帰らないので、村人 は 僧に詫び、涙しぃしぃ祠を 建てたそうです。それで 竜王山を聖坊山と 言うようになりました。「賀陽町史」「村人口伝」「吉備中央町の民話(1)」

 昔、大村に 悪たれ小僧が おりました。子供の癖に 酒を飲み 暴れ回り、か弱い女子Onagoを 泣かしていました。大村寺の和尚が この少年に「何故に 悪たれるのか」と 問うと「坊さんは  托鉢Takuhatuすりゃぁ 飯が食え、経さえ読んどりゃぁ 尊ばれる。わしは いくら人のためになろうと働いても 誰も褒めてくれんし 食う物も もらえん  わしは どうすりゃぁ良ぇか 解らんようになった  じゃけぇ グレて 奪うんじゃ」と 答えました。それを聞いて「ならば 坊さんになりなされ」と 言って強引に 弟子にしました。少年は 不貞腐れながらも 寺に入りましたが、幼い頃の志が 蘇えると、龍王山に 入り  厳しい山岳修行を 進んで行い 心を 砥ぎ澄 せました。住職は その功を 認め 龍王山の東中腹に 建つの感応寺と 東興寺に 派遣僧として送り 弟子を持つ事を 許す程に 徳を高めました。ある夏の事、村は 日照り続きで 作物が枯れ 井戸の水も 干上がりました。村人は「このままjじゃぁ 村ごと死ぬ」と 大村寺の住職に 読経させ 広場で 朝から晩迄 天に向かい雨乞いを しましたが、雨は 一滴も降りませんでした。そんな雨乞いが 何日も続いた頃、住職は あの悪たれ坊主だった僧侶を村に呼び戻しました。それを見た村人は 昔の恨みもあり 雨乞いの不調に 気持ちが 荒れていたので 腹いせに ボロボロの袈裟Kesaを 着た みすぼらしい僧侶を 囲み 叩いたり 蹴ったりしました。殴られても 蹴られしても ジッと耐え「わしも 雨乞いに 加ぇてくれぇ」と 頼んだのです。「悪たれ者のお前が 雨乞いだと  袈裟ぁ着て 坊主の真似Maneぇして また何か 悪企みぃしとるんじゃろう」と 蔑みSagesumi 石礫Isitubuteを みまいました。やっと 体を起こすと 僧侶は「わしの命と引き替えでも良ぇ」と 天に向かい 住職の読経に 合わせて 読経し 始めました。 その余りに 熱い祈祷に 村人達は 圧せされ  割木を用意してやり 一緒に 雨乞いを し始めました。しかし 飲まず食わずの二人の雨乞いが 20日も 続きましたが 雨は 降りませんでした。村人達は お坊さんの周りに 割木を堆く積んで「善人面した 偽坊主じゃ 手伝うて損した 坊主なら人柱になってでも 雨\ぇ 降らせぇ」と 再び悪たれて 罵りnonosiri生きたまま 焼き殺しました。ところが 翌日 俄かniwakaniに 雨雲が現れ  見る見る内に 立ち込め 大粒小粒の雨が ポツポツと 降り始め、ついにザーザーと 抜け降り、滝の雨の様になり 村は旱魃から 救われました。村人は 悔やみ、詫びましたが 死んだ者は 帰りません。涙しぃしぃ祠\を建て 丁重 に葬り祀りました。それで 龍王山を 聖坊山と言うようになったそです。「村人口伝」を基にした物語 聖坊山:北緯34度51分24秒東経133度40分1秒 徳山大村寺:上竹谷口5600番地 北緯34度50分5秒東経133度39分37秒付近    感応寺・勘納寺:聖坊山の東腹  現地を 確認していません カンノウジ:上竹953-954番地等    東興寺:感応寺の隣  現地を 確認していません   聖坊:上竹986・988・992-1005番地東興寺の南方聖坊山の中腹        平成24年(2012年)9月24日

 

上竹 大村寺の雨乞い RAIN BEGGING BY OOMURA-JI TEMPLE 

昔 高梁市出口に 茶屋が ありました。茶屋より 小夜谷川Sayotani-gawa(佐与谷川)を 一里(4Km)程上ると 祢屋が渕Neysa-ga-hutiが あります。底なしの渕だと 言われます。さらに 約4町(440m)進むと 上竹猿目橋の奥に 2間(3.6m)四方の瀑布Bakuhu(大きい滝)が あります。乙ヶ瀬の渕Oto-ga-se-no-huti(男瀬淵、根谷淵、鍋ヶ淵)です。この渕も 底なしであると 言われます。「吉備中央町の民話(1)」  干天が 続き 小夜谷川は 涸れかかりました。魚釣りの好きな 男がいて 乙ヶ瀬辺りに 釣りに出かけ 一匹の大鰻OO-Unagi 捕りました。大喜びで 帰りかかると 雨が降り始めたのです。すると 祢屋が淵より「おい  乙ヶ瀬の どけぇへ行く」と 声がするのです。すると 魚篭Biku\の中から「悲しきや 雨を 飲みし 計りて 来て、鍋が渕にて 捕まった 祢屋が淵の大鰻よ  今生の別れじ ゃぁ  名残惜しいのう」と 言うのです。男 は「鍋が淵の主を 捕まえてしまった。きっと、祟りがある」と 思い、魚篭を捨て 逃げ帰りました。男は3日程 熱に魘されunasare  寝付いたと 言います。 「吉備中央町の民話(1)」「賀陽町史」「西の村人より口伝」   それからは 旱魃の時には 乙ヶ瀬の渕を埋めると 大雨が 降ると言われます。寛政元年(1460年)大村寺の法師が 乙ヶ瀬の渕で 雨乞いし、村人が 総出で渕を埋めると、篠突く雨になり 土は流され、渕は 元通りになった と 伝えられています。この時の洪水は 玉島に 及ぶほど 激しいものだったそうで、その後は ここで 雨乞い祈願する時は、川下の人々に 予告して 行うようになったそうです。「吉備中央町の民話(1)」「賀陽町史」「西の村人より口伝」    天保10年(1839年)の旱魃のおり、乙ヶ瀬の渕を埋め 大村寺の法師が 乙ヶ瀬の渕で 雨乞いをしました。雨が 降らなかったので、村人は「金に困った法師が 教本を質に入れ、鼠Nezumiに 齧られKajirare、読めない字が あってお教を 唱え間違えた」と 噂しました。「吉備中央町の民話(1)」「賀陽町史」「西の村人より口伝伝」

 

 

上竹 鼠に食われた経文 Buddhist scriptures  gnawed by rat

昔 昔 猿目の奥に 男瀬淵と言う 大きな美しい滝が 流れ落ちる 底なしの淵が 有りました。そこに 何百年も生き続けた 大鰻が 住んでいました。淵の主と成り 雨を司れる不思議の力を 備えるようになっていました。この大鰻は 清潔好きで 淵の水が濁ると 大雨を降らせ 濁りを 流していました。ある年 雨が全く降らず 旱魃になりました。川は 涸れて 流れがなく、淵に水が 溜まっているだけと なりました。盛隆を 極めていた 大村寺の法師に 頼み、淵の水を 引いて  雨乞いする事に なりました。涸れかけた 淵に 土を流し込み、水嵩Mizukasaを上げないと 水を 祭場の田に 引けないので、泥を 流し込みました。大鰻は 泥で 淵の水を濁らされて 怒り狂い、大雨を 降らせ 流し込まれた土を 綺麗に 下へ流し、深くて 清い淵に 戻しました。その勢いは 凄まじかったので 下流の村々は 甚大な洪水被害を こうむりましたが、村人達は 火を焚き 田に水を引き 泥を掻き混ぜて おもむろに 法師が 読経したので、目出度く 雨乞いが 成功し 大雨が 降り 洪水になったと 思いました。それで 旱魃が起こる度に、下流の村々に 迷惑をかけないよう 対策を施し 川下の住民にその由を 知らせ、淵を埋め 法師に 雨乞いの祈祷をして貰い 水の安堵andoを 得ていました。ある年 干天が続き 佐夜谷川は、涸れかかりました。魚釣りの好きな男が いて、乙ヶ瀬辺りに 釣りに出かけ 一匹の大鰻を 針に掛けました。鰻とは思えぬ引き に苦労し 釣り上げる迄に 長い時間が掛かり 釣り上げた頃は 夕暮れが 迫る頃でした。釣られた大鰻が 怒り狂って 神通力を 使おうとしているのも知らず、大喜びで 帰りかかると 暗くなりかかった空は にわかに曇り、辺りは 見えなくなる程に雨が 降り始めました。

すると祢屋が淵より、何者かが「おい  乙ヶ瀬の どけぇへ行く」と 声を掛けると、魚篭の中から「悲しきや 雨を飲みし 計りて 来て、鍋が渕Nabe-ga-hutiにて 捕まり  祢屋が淵の大鰻よ 今生の別れなり 名残惜しや」と 答えるのです。男は「鍋が淵の主を捕まえてしまった  きっと祟りTatariがある」と 思い込み 暗闇の中 心細い恐ろしさを感じ 魚篭を 捨てて 逃げ帰りました。男は 大鰻に祟られ、3日程熱に魘されunasare 寝付きました。大鰻は「男瀬淵に このまま住んでいると、再々 人間に 泥で 淵を汚されたり 釣り上げられる  もっと 綺麗な水の淵を探そう」と 一匹言を言いながら 佐与谷川を 登って行きました。時が流れれば 盛衰は有るもので、大村寺が 寂れた頃 大村寺の法師は お金に困り お寺の調度を 質に入れ 細々と貧しく暮らしていました。とうとう 質種(sitigusaも なくなりましたが、仏具を質に入れる訳には ゆきません。「経は 暗記した  経が 無くても読経できる  経文を 質種にしよう」と 思い 質に入れました。質屋は 質屋で「又だ どうせ 大村寺の糞坊頭  質流して 請け出す事もなかろう  流れても 売れるような代物ではない」  と言って物置の隅に 放って起きました。紙魚Simiが 付いたり、鼠Nezumiに 齧られkajirare あちこちに 穴が空きました。そしてある年 旱魃が起こり 大村寺の法師が 村人に 雨乞いを 頼まれました。雨乞いの儀式では 経を広げ 読経しなければいけません。法師は 困って 質屋に泣き付き「経を貸してくれ」と 頼みました。お金を 返してもらえないなら 面子に掛けても 質種を 返す訳にもいかないので いったんは 質屋は断りました。とは言っても 村人達が 旱魃に 苦しんでいるのを 見て、見ぬ振りをする訳にもいかず「経は 既にお主が 流した  今は 鼠の持ち物になっておる  物置の隅で 仏壇を作って祀っておる  わしは 一寸出かける  鼠に 相談しなされぇ」と 言って留守にしました。法師は ハタと 手を打って 物置小屋に 行き「鼠殿  鼠殿  経を貸してくれ」と 言うと、鼠共は「チュウチュウ哀々忠々」と 鳴くばかりです。和尚は「憐れんで 忠と言ってくれたのぅ  わしに 忠義を尽くすと 言っておるのだな  では お経を 借り受けるぞ」と 言って物置の隅に放ってあった経を 持ち出しました。儀式に のっとって 淵を土で 埋め経をおもむろに広げ、男瀬淵で 雨乞いをしました。法師は 長い間、経を 唱えなかったので 経の文言を 忘れていました。ところが 経の所々が 紙魚や 鼠に 蝕まれてmusibamare-te おり、その部分が 読めなかったので たどたどしく、しかも 所々 ごまかして 読経しました。当然ながら淵 の主の鰻は 既に川上に 旅立っていましたので 雨は 降りません。次の日も 次の日も 雨乞いを 続けても 雨は 降りません。村人達は「大村寺の坊頭ときたら 経も読めん  役にたたない経なら 質種にでもすれば良ぇもんを」「横で 見とったら 経は 穴だらけじゃった  質草にでもして 鼠にかじられたんじゃろう」「本真か そねぇな 鼠に 食われたような 教じゃぁ 有難みが 無ぇ訳じゃ」等 と 話し合いました。勿論、その後 大村寺が 隆盛し 尊い法師が 派遣されて来ましたが、男瀬淵の雨乞いは 一度も 成功しませんでした。「西の村人より口伝」 旧祢屋が渕樋口ダム:北緯34度49分19秒東経133度39分43秒 上竹 猿目橋:北緯34度49分30秒東経133度40分20秒 旧乙ヶ瀬の渕猿目貯水池:北緯34度49分32秒東経133度40分23秒 旧鍋が渕猿目ダム:北緯34度49分44秒東経133度40分36秒 大村寺:北緯34度50分5秒東経133度39分37秒 上竹谷口5600番地  平成24年(2012年)9月25日

 

岨谷 龍在ヶ滝の龍 Doragon of Ryuuzai-gaーtaki water fall

 吉川槇谷線(307号線)槙谷ダムの堰から吉川寄り東側の沢で岨谷 に属す北緯34度46分34秒東経133度44分17秒近くに 龍在ヶ滝が あります。上の滝 下の滝 最下段の滝と3段に なっています。龍神 が棲むとされます。その龍神が 成龍し 嫁を貰う年に なりました。村の娘に 一目ぼれし 恋煩いすると、雨の管理を怠りました。村人は 旱魃に苦しみ 龍在ヶ滝で 雨乞いをしました。龍神は 水の管理を怠った事を 棚に上げ「あの娘を 嫁にくれるなら 水に困らない方法を 教えてさしあげる」と 言って雨を 降らせてやりました。人身御供に出された娘は 意外に も龍神の嫁に 喜んでなりました。又 旱魃が起こると 村人が 龍在ヶ滝を 訪ね「娘婿の龍神様 雨を 賜りたい」 と祈ると 青龍と白竜夫婦が 子龍を 抱いて現れ「ここを 堰止め湖を 造られよ」と 言って雨を降らしてくれました。ダムを 造り農業用水を 確保すると 馬越の村も 総社の村々 も旱魃に苦しむことがなくなりました。「槇谷ダムで作業中の人より口伝」

龍在ヶ滝の花嫁 BRIDE  IN RYUUZAI-GA-TAKI WATER FALL

昔 昔のその昔、ずうっと 昔の事でした。龍在ヶ滝に 龍神の男の子のが 住み付きました。魚が 沢山住んでいたので 食べる物に 不自由はなく すくすく育って、龍神は 大人に 迄 成長し お嫁さんを 貰う年頃に なったのです。しかし 周りに 蛇は 沢山住んでいるのですが 龍は 住んでいませんでした。「お嫁が 欲しい  お嫁が 欲しい」と 夜も 昼Hiも 問わず 思い詰めていました。ある時 村の村長Muraosaの年頃の娘達が 落合川に 川遊びにやって来たのです。龍の住む淵で 楽しそうに 話し始めました。龍神は その3姉妹を見て「あねぇな 綺麗な 娘が 嫁なら良いなぁ」と 思いました。娘達の話に 聞き耳を立てると、1番優しそうで 美し過ぎる1番上の姉は「恋しい人が 出来ちゃったの  お前達は 恋を感じた事があるのかい」と 言っているのです。すると1番美しい 2番目の娘が「お姉さんて 晩生Okuteなんじゃね  今頃 何を言っとるん  若ぇ内ぁ 今しかねぇんよ  今の内 に遊ばねぇと 何時 遊ぶん  たっぷり 恋を 楽しんでいるわ  所でお前はどうなんさ」と 末の娘に尋ねました。

末の娘は やや劣る美貌Bibouでしたが「恋の仕方が解らんの  でもね、グイグイ 引っ張って行ってくれるような 男に憧れrるわ」と 答えたのです。姉達は「そねぇな 男ぁ 大抵 乱暴よ  それでも良ぇの」と 切り返すと「心が清く 正しく うちぃ愛してくれるんなら、乱暴な口の利き方だって 不器用だって おブスでも構わんわ」と 言うのです。龍神は「嫁にするにやぁ こぎゃぁな娘が良ぇ」と 考えました。龍神は「あの娘を 嫁にしたい  あの娘を嫁にしたい」と 夜も昼も問わず思い詰めました。自分が 水の神様である事をすっかり忘れ、恋の病の床に 就いたので、雨は 降らず 川は涸れ 田畑は 乾いたのです。お百姓は大変困りました。村長は村人を集め「水神様に 雨乞いをしよう」と 相談し、妙見宮の宮司を 招き 祭壇Saidanを 構え 火を燃やし 護摩焚きGomadakiして 必死に祈願しました。池の畔Hotoriで 拝んでも 雨が 降りません。湧水の畔で 拝んでも 雨が降りません。汲川Kumikawaや 大きな川で 拝んでも 当然雨が 降りません。困りに 困って 最後に 龍神の住むと言う 龍在ヶ滝の淵に やって来て「水神様 お助け下さい   雨を 降らせていただけるなら 水神様の望む物を 差し上げます」と 訴えたのです。龍は 恋の病の床からガバっ起きて「真Makotoか  ならば 雨を降らせてやろう わしの望む者とは わしの嫁の事じゃろうな  じゃな じゃな」と 念を押しました。ところが 大慌てだったのでうっかり 姿を見せてしまいました。村長は 突然に 龍が目の前に 現れたので 驚きましたが「者と物を 間違えている  龍 に嫁をやれる訳がない  じゃが このままじゃ わしらぁ 娘諸共 飢え死にじゃ  しかたねぇ  ここぁ 龍を 騙そう  後で 言い知恵が 湧くかも知れん  村の娘の中二はにゃぁ 神様の嫁でありゃぁ 嫁になりてぇと 言う者が おるかもしれん」と 心の中で 思いながらも「流石sasugaに水神様  お見通しの通りでございます  神様の嫁に 貰われるなら 娘達も喜ぶでしょう」と 心にもない答えを しました。龍は 水神としての雨を 制御する仕事を 怠っていた事を 反省し 詫びの心を 込めて 雨を降らせてやりました。願いを 聞いてもらえたので 今度は 村長が 約束を守る番ですが、村長が いくら頼んでも 龍の嫁に行こうと応じる娘 等は 近隣の村々も 回ってみましたが おりませんでした。龍を 裏切れない村長は「惨い話じゃが お前達の一人ぅ 嫁にするしかねぇ  誰か 水神の嫁に 成ってくれまいか」と  自分の娘達に 尋ねました。末娘が「水神様は 龍でしょう  頭ぁ駱駝Rakuda 眼ゃぁ兎 角ぁ鹿 耳やぁ牛 首や 腹や 尾ぁ蛇 鱗ぁ鯉 手は虎 爪ゃぁ鷹の姿よね」と 父親いに尋ねと、上の娘達は「それじゃぁ 化け物じゃない   お嫁に成るんは 嫌yaじゃ」と 言うのです。村長は「水神は荒神じゃ  約束ぅ破りゃぁ1家 皆殺しじゃ」と 泣きながら頼んだのです。姉達は「心正しく 愛してくれる者なら 誰でも良ぇと 言うんじゃけぇ、お前が 龍の嫁に成りゃぁ良ぇが」と 末娘に 白羽の矢が立てたのです。末の娘は「解りました  お父さんや お姉さま方が 望むんなら、うちが 喜んで 龍神様のお嫁に 成ります」と 潔くisagiyoku答えたのです。村長は 龍神と末娘の婚礼の儀を 泣く泣く 進めました。婚礼の日  青龍の待つ 決められた淵に 純白の花嫁衣装を 着た 末娘が入って行くと、突然 大波が 立ち 竜巻が 起こり 雲を従えて青龍と 白龍が 天に昇って行ったのです。数年が 絶ち 再び 旱魃が起こると、村長は「娘婿殿Musume-muko-dono 雨を賜れ」と お祈すると、あの淵に 子連れの青龍と 白龍が 舞い降りて来て 雨が 降りました。それからは、龍の家族の住む淵を 龍住ヶ淵と 言い、淵に落ちる滝を 龍在ヶ滝と 言うようになりました。「槇谷ダムで作業中の人との雑談」   龍の姿: 龍の角は鹿 頭は駱駝 眼は鬼あるいは兎 身体は蛇 腹は蜃 背中の鱗は鯉 爪は鷹 掌は虎 耳は牛の物の形をしているblog.livedoor.jp/shining_child/archives/3510241.html  龍在ヶ滝竜頭の滝龍住ヶ滝:北緯34度46分34秒・東経133度44分17秒  福岡県朝倉市の香山昇龍観音:北緯33度21分40秒東経130度47分1秒 登リ瀬:岨谷821・1899番地等 高丸:岨谷1883・1897番地等 三方塚:岨谷1904番地 城山ノ元:岨谷1906番地 龍住滝Ryuuzai-ga-taki岨谷1902番地 ドウドウ:岨谷1907・3522番地等 ドフドフガナル:岨谷1908番地  平成24年(2012年)12月1日

 

豊野 道浄寺 甚五郎の龍 Statue of dragon  sculptured by Jingorou

道浄寺のお堂に 左甚五郎の作と言われる 大きな龍の彫刻があります。旱魃(Kanbatuが続く時、龍を川に持って行き 川の水で体を洗い 雨乞いすると、必ず 空が曇り 滝の雨が 降りました。ところがある旱魃の時、龍が お堂から抜け出し 村に僅かに残る柳の木の根元の水を 飲み干すようになりました。すると ある日 一人の勇士が村人の惨状を救いにやって来て、龍が水を飲み始める時を見計らって 槍で龍の目 を突き刺しました。翌日 村人が堂に集まると 龍は 寺に戻っていました。それ以降、龍は お堂を抜け出せなくなりましたが、雨乞いの手助けもしなくなりました。「賀陽町史」

道浄寺の龍 Doragon in Doujyou-ji Temple

昔 道浄寺は 沢山の宿坊を持ち 栄えていました。ある時 豊野に大旱魃が起こり、村人は飢饉Gasinに苦しみ 困りました。そこへ ボロボロの着物を着た みすぼらしい右手の無い男が やって来ました。村人は 亡地の者(余所者・よそもの)が 汚い形Nariだったので 必ずや食べ物を強請られるNeda-rareruだろうと心配しました。案の定、旅人「腹が減った 宿と食べ物を用意くださらんか」と 人懐こく頼んだのです。村人は「そらきた」と重い「物凄ぇMonge-e 旱魃じゃもの わし等の食う物も足りん」と 断りましたが、寺の和尚は「ケンもホロロに扱わんでも良かろう  諸国を長旅されとるけぇ見聞も広かろう  旱魃を乗り越える良ぇ知恵知っておられるかもしれん 」と中に割って入りました。旅人は  「食べ物と宿舎をご用意してくださるなら、旱魃の事ならわしにまかせなされ  道浄寺に龍を彫りましょう  龍の体を綺麗に洗い 雨乞いをしなされ  必ずや霊験あらたかじゃ  じゃが決して縛ったり 金網で囲ったリ 爪を切ったり 目をついたりしちゃぁおえん」と 自信を以て言いました。村人が「片手だけで龍が彫れるもんか」と 疑い深く旅人の品定めをしていると、見識豊かな和尚は「京都見沼や滋賀宮ヶ崎 三田原 鎌倉大町 蒲生 番場 井ノ口 浜松 上野の彫り物の龍が 水不足の難儀Nangiぅ 助け合ぅたという話ぃ聞いておる  この御仁が どれ程の名人か 知らんが 信じてみよう」と 村人に提案しました。村人は 高名な道浄寺の和尚の提案に恐縮して 庄屋の屋敷に宿を与え、なけなしの食材をふんだんに使い 旅人を持て成しました。旅人は暫く構想を練ると 巧みな鑿捌きNomi-sabakiでアッと言う間に龍を彫って 寺の蟇股(Kaerumataに組み込みました。

早速、豊野原区に 旅人の言う通りに 道浄寺の御堂の龍を川に神輿Mikosiのように担いで行き 雨乞いをしました。川の水で 龍に付いているKokeraを落とすと、忽ちTatimati雲が湧き)出し ザーザーと雨が降りました。その後の旱魃の時には 積もった埃Hokoriを水で洗って 雨を賜り、道浄寺の龍に 何度も助けられました。長い間 龍のご利益Goriyakuを受けましたが、時が経ち 人が変わり 寺も廃れる間に 行事だけは受け継がれましたが、あの旅人の戒めimasimeを 知る者はいなくなりました。今度の旱魃は 特別に激しく 川に水は殆どなく、龍を川に連れて行っても 清い水で龍を十分に洗う事すらできませんでした。そればかりか 龍は夜な夜な寺から抜け出し、村に残された唯一の柳の根本の池の水を飲むようになりました。この水を龍に飲まれては 村中の水がなくなってしまいます。「神通力を持つ龍を退治してくれる者はいないか」と 村人が思案していたところへ、京都に勇者がいて 魔術を使う鬼を退治をしたという噂を聞きました。村人は藁(Waraをも掴むTukamu気持ちで勇者を訪ね、龍退治を頼むと、勇士は快く)引き受け 豊野に助太刀にやって来ました。枯れかけた草陰に 迷彩服で身を包んで潜み、龍が 夢中に水を飲み始める時を 見計らい神通力封じの呪いを唱えながら 大槍で突き掛かりました。龍は 水に気を取られ てあっさりと目を刺し貫かれました。龍は驚きと怒りの咆哮Houkouを上げ、御堂Midouに逃げ戻って ピクリとも動かなくなりました。それでも 2日後に雨が降りました。しかし その後はどんなに丁寧に龍を洗って雨乞いをしても、頼みを聞いてくれなくなりました。あの時の龍は 西方の龍からの情報で、翌日には 豊野に雨が降る事を知っていたので、もっと激しい 旱魃が続いた所に住む 友達の龍に 豊野の柳の下の水 で水の種を作って 送り届けようとしていたのです。https://ja.wikipedia.org/wiki/左甚五郎」「賀陽町史」「村人口伝」

蟇股:社寺等の頭貫Kasira-nukiHariの上 または 桁Hariとの間の蛙の股を広げたような形の 上部構造の重みを支える山形の部材 後には単なる装飾    原区: 豊野・原4178番地北東の地域    龍が水を飲んだ泉道浄寺: 369号線を豊野小学校付近から 北にやや進むと 戻る方向に大きく曲がる道(分かり難いのですが十字路)があります  大きく右に細い道に曲がると 左手に大きな農家が建ち、さらに坂を下ると 道は分岐し、道なりに 左に進むと 左手に大日如来と 彫られた小さい石碑が立つ変則的な4差路に出ます  道なりに中の道を選択すると 左手の高み北緯34度52分3秒東経133度41分58秒に道浄寺が建ちます  寺の裏の山道を東に進み 変則4差路を北に進むと 龍が 水を飲んでいたとされる水源に出ます  北緯34度52分4秒東経133度41分59秒付近は地図上では池ですが、実際は藪になっています  京都宮津市成合成相寺Nariai-san Nariai-ji北緯35度35分44秒東経135度11分17秒 成合寺のお住職が 夢のお告げで 甚五郎に龍の彫り物を頼みましたが 仏師は龍を知りませんでした  寝屋川の寺で 仏に頼み夢に龍を見せて頂き 龍を彫って見事に雨を降らせたましたhukumusume.com/douwa/eto/tatu/html/03.htm さいたま市緑区見沼大崎山国昌寺Oosaki-yama Kokusyou-ji北緯35度53分30秒東経139度42分17秒 日光東照宮の「眠り猫」を彫った鑿Nomiを使って龍を彫りましたが、その龍が見沼を荒すので 門に釘付けし 龍を鎮めました  棺桶の中の死体を食べるそうです「国昌寺 | さいたま観光国際協会 (stib.jp)]「www.ukima.info/feature/onarikaido/kokushoji.htm」 滋賀大津の長等山園城寺Tyoutou-xzan Onjyou-ji三井寺Mii-dera北緯35度0分48秒東経135度51分10秒 甚五郎の彫った龍が 琵琶湖を毎日荒すので 甚五郎は目に釘を刺し鎮めましたtukinohikari.jp/jinja-siga/topics-ootsu-miikuzuryu/index.html」    静岡葵区宮ヶ崎の浅間神社:北緯34度59分1秒東経138度22分32秒  安永の火災の時、池の水を吐き掛けて御殿を守りました

龍と浅間神社① 虹色の不思議写真 | ぼくのうしろに道はできる。『頑張ってきた長女のあなたへ』 心理カウンセラー 永井あゆみ 長野県 (ameblo.jp)」    埼玉桶川三田原の東叡山泉福寺Touei-zan Senpuku-ji北緯35度58分54秒東経139度31分28秒 泉福寺の正門の竜を旱魃の時、寺の池に泳がせると 大暴風雨となり 大洪水になりました  驚いた村人達は 竜の爪を切って 寺の門に金鎖で縛り付け鎮めました.www.okekan.com/mukashi/senpukuji.html」 神奈川鎌倉大町の法久山上行寺Houkyuu-san Jyougyou-ji北緯35度18分50秒東経139度33分17「上行寺 (鎌倉市) - Wikipedia」 埼玉越谷蒲生の慈眼山清蔵院Jigen-zan Seizou-in北緯35度51分45秒東経139度47分45秒 毎夜山門を出て田畑を荒らすので、寛永15 年(1638年)逃げ出ないよう金網で囲いました清蔵院。越谷市蒲生本町にある真言宗智山派寺院 (tesshow.jp)」 埼玉秩父番場の秩父神社:北緯35度59分51秒東経139度5分3秒 昔 立派な龍の彫刻があり 夜な夜な抜け出し田畑を荒らしていました  宮司の法力で 龍の彫刻を鉄鎖で縛り付けると 龍は鎮まりましたsaitama.fan.coocan.jp/tour/dragon.html神奈川足柄中井井ノ口の井寶山米倉寺Seihou-zan Beisou-ji北緯35度20分3秒東経139度14分2秒  葛川の田畑を荒らす2頭の竜を 川の水を飲まれないように目に角釘Kakukugiを打ちこみ 全身を切れ切れにしましたhttps://4travel.jp/travelogue/11378896」    静岡浜松北区佐町井伊谷の万松山龍潭寺Bansyou-zan Ryuutsan-ji北緯34度49分4秒・東経137度40分5秒 毎夜 寺を抜け田畑を荒らしたので 和尚が 片側の手前の龍の髭を抜くと 大人しくなりました「龍潭寺 (浜松市) - Wikipedia」    東京台東上野上野公園の東照宮:北緯35度42分55秒東経139度46分14秒 毎夜 不忍池の水を 龍が飲みに現れますwww.uenotoshogu.com/spot/」 左甚五郎の彫った龍達:上述の他100体位の龍を彫ったそうです  困った事には これらの龍達は 皆兄弟のように仲が良くて、水不足で難儀をしている仲間がいると 勝手に動きだして助け合うそうです  この助け合いこが 旱魃に苦しむ人間にとっては 迷惑に感じられました  より厳しい旱魃地に水を融通しようとしても、地元の者にとっては 我慢ならない出来事だからです「埼玉県越谷蒲生の人のより口伝」 寺前:豊野4433・4434・4444・4461・4462番地  平成24年(2012年)2月19日