幼稚園である男の子が お友達達に「お前の旋毛tumujiぁ 左巻きじゃけぇ 馬鹿じゃ。」と からかわれました。男の子は 悔しくて 泣いて家\に 帰りました。話を聞いて お爺さんは「我慢せぇ。」と 慰めました。
お爺さんは「左巻きゃぁ 神様の旋毛巻き方じゃけぇ そりゃぁ褒められたと思いねぇ。この前の茅野輪潜りをした時に 先に左に回って潜り その後で 右に回って神様にお祈りしたじゃろう。ヤレボウの逆の「の」の字を覚えておるか。お相撲さんが 懸賞をもらう時も 最初に 左に手刀をするじゃろう。第一水道の栓も 瓶の蓋Bin-no-Hutaも 左に 廻さなければ 水は出んし 中身を取り出せん。旋毛も左に回っとらんと 知恵は出んのじゃぞ。良う見い。 爺の旋毛も 左巻きじゃ。お父は右巻きじゃ じゃけぇ お父は ありきたりの事しか教えられんのじゃ。自信を持ちねぇ。」と 言いました。お父さんも 不満ありげでしたが「そうじゃ。そうじゃ。 明日りぃ友達にそう言ってやりねぇ。」と 子供を嗾掛けKesi-ksakeました。翌日 幼稚園の手洗い所で 友達と水道栓の事で 言い争いをしている男の子を見て 先生は「この子は 天才かも知れん。」と 思ったそうな。「著者の知人の体験」を 基にした物語 左巻き:神道の髪型の巻き方が 決まっていません 。仏教の多くの如来の螺髪Rahatuの殆どは 右巻きで 人を超えた智恵 徳や 悟りの高さの象徴です。それで知恵の回らない人を 左巻きと言いますが 人の旋毛の多くは右巻きです。 有名な例外は 鎌倉の大仏の螺髪で 左巻きです。「鎌倉大仏造像の謎 - 2 - 神奈川 - Japan Travel」 手刀:力士が手刀は 右手 で左 右 中と 順に切り 矢や懸賞金を受けます。左は 神産巣日神Kamimusubi-no-kamiに 右は 高御産巣日神Takamimusubi-no-kamiに 中は 天御中主神Ame-no-minakanusi-no-kamiに 敬意を示して 行います。「sci-tech.jugem.jp/?eid=2357」 「吉備中央町の伝説 行事伝説ヤレボ―」参照の事 平成26年(2011年)11月13日
江戸時代の日本人はすごかった The Japan people in the Edo period were amazing
外国人が江戸末期・明治初期に 日本に来た時 日本人が 筋肉質で スタミナがあるのに 驚いています。小さい体格の男でも 一俵・60Kgを 楽に持ち上げ 3俵を持ち上げる者も いたからです。ベルツは 日光東照宮に(東京から日光まで)行くのに 馬を6回継ぎ 14時間かけました。2回目の参詣では 人力車で行き 車夫1人で 14時間半で 着きました。その体力に 驚き 食べ物を調べると 玄米の握り飯 味噌大根の千切り たくあんが 主食だったので 愕然としました。肉を 食べれば もっと早くなるだろうと 肉食を 勧めると、車夫は 苦しくなって 走れず 粗食に戻す事を 願い出ました。そこで 馬6頭に匹敵する体力の秘密を 研究し 力の源は粗食(炭水化物食)によると 知りました。「http://metabo2014.web.fc2.com/diet.html」 左写真の二人の女性は なんと5俵(300Kg 旧俵ならば150Kg)を 背負っています。俵の真偽が 論争されています。「https://blogs.yahoo.co.jp/tydm7329/47248346.html」 平成23年(2011年)12月21日)
昔の日本人は凄かった Old Japanese were amazing
エルヴィン・フォン・ベルツ Erwin von Bälz
明治期までの日本人は 今の日本人と比較し とてつもない体力を 持っていたと 言われます。エルヴィン・フォン・ベルツは 27歳の時 明治政府に「殖産興業」即ち 先進技術や 学問や 制度を日本に 根付かせるために 雇用されました。東京医学校(後の東京大学医学部)で 医学と 栄養学を 教授しました。妻は 花子と言う日本人です。ベルツが 日光に旅行した時 東京から 110kmを 馬 6頭を乗り継ぎ 14時間 かかりました。二度目の日光旅行では たった一人の人力車の車夫が 車を 引き続け 14時間半で 日光に着きました。この車夫の体力の源を知ろうと 車夫に その食事内容を尋ねると「今日は 玄米のおにぎりと 梅干 味噌大根の千切りと 沢庵。」と 答え答え 更に「平素の食事は 米 麦 粟 ジャガイモだ。」と 答えました。低蛋白 低脂肪の粗食でしたので ドイツでの栄養学を 適用すれば 即ち 肉食にすれば もっと 能力が向上するであろうと 考え 22歳と 25歳の車夫を雇い 1人に おにぎりの食事 他にの者に肉を加えた食事を 食べさせて 毎日80kgの荷物を 人力車に 乗せ 40kmを 走らせたてみました。肉料理を食べさせられた車夫は 3日で 疲労がたまり 走れなくなり 元の粗食に戻してほしいと 頼んで来たので 元の食事に戻すと 体力が 回復しました。その反面 粗食の車夫は そのまま3週間も 走り続けました。ベルツは ドイツの栄養学 が日本人に当てはまらないことを 確認したそうです。又日本人の女性の泌乳量の多さにも 驚いたそうです。「https://knkinfo.com/100years-japanese」「スタミナ・持久力をつける食事で大切な4ルール【管理栄養士監修】 (athtrition.com)」「トータルヘルスサイト » 食事療法 (kenkou-8.org)」 日本の車夫等 走る仕事をする者は ランナーとしてプロフェッショナルと見做され オリンピックゲームに参加できませんでした。「https://ja.wikipedia.org/wiki/人力車夫事件」 平成26年(2014年)10月10
エドワード・シルヴェスター・モース Edward Sylvester Morse
エドワード・S・モースは 大森貝塚の発見者として 知られます。明治10年(1877年)を 始めとして 3度 来日していて 「日本その日その日」と 言う日誌を書いています。「細長く不細工な日本風の小舟が モースの乗る船に 横づけにされると みすぼらしい程 背の低い3人の日本人が 体の大きなベルツ 等でも とてつもない重さと感じるトランク 等を 苦も無く 半裸の背中の載せて 小舟に 移し替えた。七台の人力車の車夫の半数は 褌姿で 半数は 薄っぺらい上衣を ひっかけただけであったけれども 寒さも気にせず 湯気を立てながら 長休みもせず 三十哩(約120km)を 走り続けた。利根川を 船で下った時には 約100kmを たった一人で 櫓をこぎ続けた。」等と 記しているそうです。「https://knkinfo.com/100years-japanese」 平成23年(2011年)12月21日
トントン様をする訳 Reason for doing Tonton-sama
昔 歳神様を 大切にする若夫婦が おりました。毎年丁寧に 歳神様を迎え もれなく 正月の行事を行い、ドンドの夜には 歳神様が 山にお帰りになると言うので 体力を付けて頂くために 豪勢な料理を作り見送りしました。田の神様を 左程に 丁寧に祀っているのに 何故かこの夫婦の田の恵は そこそこでしか有りませんでした。夫婦は 不思議がり きっとなにか見落としがあるので 歳神様のご利益が 無いのだろうと考え 今年こそは 見落としの無い お持て成しをしようと 誓い合いました。年越しそばを 頂き 松飾を見に行くと 神様の依代(門松)の前に 節くれだらけの杖を突いた ボロボロの服を着た 長い白髭の老翁が立っていました。痩せこけた 家守Yamoriの黒焼きを大きくしたような姿でした。夫婦は「ひょんな気な気色悪ぃ人が 訪ねてきた。門松を見ている。門松の飾り方が 間違っているのを 訝ってIbukatteおるのかのう。」と 不安がりました。門松を見に行くと 他の家と違い 主役を 竹にしないで 間違いなく松を主役にしていました。夫婦で 初日の出を 拝んでいると 例の老人が 遠くから見ています。若水を取りに 主人が汲川に向かうと 老人は 近付こうとするのですが お嫁さんが 顔を洗いにやってくると 慌てて隠れました。朝の雑煮を食べる前に 鏡餅や お供え物を 確認しました。他の家と異なり 水引を使わず 特別に大きい餅を重 ね 飾り物も豪勢でした。屠蘇Tosoには たっぷりと味醂Mirinを 加え 歳神様を 喜ばしている事を 確認しました。主人が 初詣に 出かけると 老人が 後を付けてきて 人気がなくなると 声を掛けようとしました。お嫁さんが 忘れ物を 届けに走ってくると 老人はまた 隠れました。主人が 年始回りに出かけると あの老人が後を付けて来ますが この時間帯には 年始回りの者が多くいたので 主人が 一人になる事はありませんでした。云々………と 同様の出来事が続いた後 主人が お嫁さんに代り 七草粥の草種kusagusaを 摘みに行くと 随分と肥ったあの老人が 現れ 物恥ずかしそうに 近付いて来てきました。主人が「随分とお肥になった。わしの後ばかり付けて来て 鬱陶しい奴じゃ。わしに何か文句を言いたいんか。お前は わしの嫁が嫌いなんか。嫁を見てなぜに隠れる。いったいお前は何者じゃ。」と 尋ねると 老人は「邪とですと。邪な糞を言われな。 わしはお前様の祖霊じゃよ。 田の神 山の神 大歳神OoTosi-no-kamiじゃが。」と 答えました。主人は 慌てて「これは失礼いたしました。 神様とは思いませんでした。 無礼をお謝りします。」 と 歳神に 恐縮 し跪き 額を地に付けると 歳神は「そんなに 恐縮せんで良ぇが。わしの方から頼みたい事が有るんじゃよ。お前様のお嫁さんは 料理上手じゃ。神饌Sinsen(神様の食べ物)が 旨過ぎるし 量も極端に多い 。わしを 喜ばそうと思うとるのは 嬉しい じゃが わし等神は 供えられた物は全て食べにゃぁおえん。 決して 神が食い意地が張っているわけじゃぁねえが 食べ過ぎてしまう。見てくだされ。この腹回りを。こねぇに肥えれば 仕事も 大儀Taigi(面倒)でならん 。山に帰る時にゃぁ 急な坂を長々と登らにゃぁおえん。毎年 どねぇに息苦しい思いをして 山を登っとると思う。山に戻っても 節々が 痛ぅて 痛ぅて 働くのが辛いのよ。 この先 神饌の量も 質も 落してくだされぇ」と 訴えるのです。主人は「そうでしたか。それで 五穀豊穣が得られなかったのですか。嫁に良ぅ伝えておきます。でもお供えは減っておりませんが。」と言うと 歳神は「お前様等には 供えたままに見えようが わしは 全て食っている。でも 毎年 わしが丸々肥るのを楽しみにしておるようじゃけぇ お前様の嫁さんは 納得しないじゃろう。 艶々したわしぅ見て お前様の女房の喜ぶ顔を見れんようになるのが惜しい。じゃけぇ半分はお前さんが 食うてくだされぇ 。くれぐれも お嫁さんに気付かれんようにね.」と 言うのです。主人は納得し申出通りにしました。そしてドントの時が来て 大歳神が山に帰る事になりました。お嫁さんは 何時もの年のように 大歳神に元気になって欲しいと思って 小豆や肉等の赤い物を 松の内は絶っていたのですが(赤い物は邪気払いご利益がありますが歳神を追い出さないために)それ等をたっぷり入れた お粥を作りました。それを見て歳神は主人に「あねぇに栄養たっぷりじゃぁ胃にもたれます 何とかしてくだされぇ お前様がさっぱりした 小豆粥を作ってくだされ さっぱりとした暖かいお粥は 年末年始の暴飲暴食と 寒さで起こった体の不調に良いし 小豆は解毒やむくみに良いから スタミナが付く 今夜コッソリ戸をトントンと叩くけぇ お前の作った粥を お嫁さんに知られないよう柄杓に汲んで食べさせてくだされぇ お嫁さんの作った粥は わしの真似をしに来る童共にやってくだされぇ 栄養たっぷりじゃけぇ 童は夏ガメをしないでしょう そうじゃ 言い忘れるところでした 粥は冷ましておいてくれ 熱いと吹いて冷まさにゃぁならんのよ わしの息で 田に大風が吹いて 植えたばぁの稲が倒れるかも知れんからのう」と 言いました。主人は了解し 歳神がトントンと戸を叩くのを待ってから柄杓に汲んだ小豆粥(望粥Motigayu:餅 米 小豆 ササゲ キビ アワ ミノゴメ トロロイモの粥・後に小豆だけの粥)をお嫁さんに悟られないよう 戸を少し開けた隙間から渡しました。歳神は 物陰に隠れながら お嫁さんに見られないように 食べ終わると 元気良く山に帰って行きました。すると 又 コトコトと戸を叩く者がいました。主人は お嫁さんの作った粥を柄杓に汲んで差し出すと 近所の悪餓鬼Warugaki達が歳神のしたように 物陰に隠れ食べていました。主人は それを見て 神様を普通の人には見えない筈なので 見えていても見えないふりをしました。すると 又 コトコトと戸を叩く者がいました。悪餓鬼が悪友をけしかけたのです。こうして 村中の子供が栄養たっぷりの粥を食べたので 元気になり 村中の子供は夏ガメをせず 村中の家々は五穀豊穣だったのです。このご利益を見た主人は 毎年 歳神の真似をする子供達に 栄養たっぷりの小豆粥を振る舞いました。この噂は 親達に広まり 正月15日にコトコト様の行事をするようになりました。この噂を聞いてお嫁さんは「うちの料理のどこがいけないのよ」と 激怒しましたが 主人は 機転を効かして「これからは 正月行事で忙しいお前を 正月行事が終わった時位 休ませてやれと 歳神様が言うので そうしたんじゃ 神棚のお供えも 子供にやって欲しいそうじゃ 一生懸命歳神様に仕えているのでお前に言いそびれておった すまん事をした 来年からは歳神様の言う通りにしよう」と 言うとお嫁さんは「なんと歳神様はお優しいんじゃ」と言 って大喜びしました。それで 歳神様が山に帰る日の小正月を 女正月と呼んでトントン様(村の宝・子供達)に 24膳の中程を膨らませた(稲穂が詰まっているように見せる)柳の箸や茅の箸を添え 粥を食べさせ豊作祈願をし 男が料理等の家事を行うようになりました。「https://ja.wikipedia.org/wiki/小正月」を基にした冗談交じりの物語 小豆粥のレシピ:「https://cookpad.com/search/小豆粥」「肥満、むくみ、便秘を解決!「小豆粥」レシピでダイエット攻略 - macaroni (hatena.ne.jp)」「pinky-media.jp/I0011754」 「吉備中央町の伝説 トントン様」参照の事
平成26年(2014年)10月10日
昔 大きな農家で 江戸時代中期に 作成された七段の雛人形えを 飾り 豪勢な雛祭りが 行われていました。2月の中頃 蔵に仕舞ってあった大きな箱には 小さな箱が 幾つも詰められていて 一つ一つの箱には 個別に 雛人形や 飾り物が 綿と紙で 包まれていました。お婆ちゃんは 居間で 包を取り 丁寧に 細心の注意を払って 赤い毛氈を 敷いた雛壇に 一つ一つ上段から 飾って行きました。年長の女の子を 初めとして 女の子供達 6人が 手伝いますが 決して素手で 触らず 手垢を付けないように 注意しました。お婆ちゃんの厳しい目が いつも光っていたので 手間取り ました。ちらし寿司 蛤Hamaguriのお吸い物 菱餅 雛霰Hina-arare 白酒甘酒が 用意されました。 3月3日になると 近所の子供達が 連れだって訪れ 雛荒らしをしました。飲んで 食べて踊って 大騒ぎで「綺麗だね。」とか「美味しいね。」と 親から教えられたお世辞を 繰り返しました。中には お 調子者もいて 態と 甘酒と間違え 大人用の白酒を飲んで酔っ払い お雛様を 手に取って「何で こんなに古臭い物が大切なんだ。」と おどけながら眺めました。すると 雛荒らしに来た女の子達も 白酒を 飲んだ勢いで 内裏雛や 三人官女の美しい顔を 近くで見たくて 手に取ったのです。責任感の強い長女が 止めさせようとすると 取り上げられたくないお調子者の男の子が 乱暴に扱ったので 左大臣の矢が 折れたました。その男の子は 慌てて菱餅の端を千切って 糊代わりにし 矢を修復しました。粛々と行われた 昨年迄の雛祭りと異なり 子供達に とって楽しく賑やかでしたので アッと言う間の出来事でした。だから皆は「来年の来るよ。」 と 惜しみながら帰って行ったのです。その農家には 3家族10人の子供達がいたのですが 怒られるのが 怖くてこの事件を お婆ちゃんに 内緒にする事にしまし
お婆ちゃんは「病気に成ったり お嫁に行けなくなったりするから 早く片付けなさい。」とに言うのですが お婆ちゃんは「今日は曇りだ。」「今日は雨だ。」と 言って2週間経っても なかなか片付けさせてくれませんでした。良く 晴れた日が2日間続くと 子供達を集め 片付けさせました。お婆ちゃんに 雛祭りの日の事件を 気付かれないか心配しながら お婆ちゃんの細かい指図に従い お人形の持ち物等を 人形から外し 付いた塵は丁寧に落とし 直接 顔や手を 素手で扱わないよう 顔を紙で 包み 隙間を無くするために 綿と 紙で包み 所定の箱に納めました。子供達は 来年になって この時の事件の発覚を恐れ「面倒臭いから 雛祭りを止めよう。」と お婆ちゃんに 言うと「女の子の将来を 願って飾っているのだよ。」と きっぱりと言って 聞く耳を 持ちませんでした。そして一年が経ち また雛祭りの季節になり お雛様が 蔵から出されました。箱を開けてみると 右大臣と 左大臣の顔は 黒く変色していて 矢もポロリと 欠けました。お内裏様の衣装は カビが生え 三人官女の着物は 虫が食っていたのです。お婆ちゃんは 昨年の雛荒らしの出来事を察知し「誰の仕業かと 子供達に尋ねました。子供達が 無口に俯くと長女は「うちが 甘酒をこぼした。」と 名乗り出て 雛荒らしに来た少年達の罪を 被りました。お婆ちゃんは「もう この雛は 飾れん。 お前は 嫁に行けんかもしれんし 病気に成るかも知れんが 全てお前の責任じゃ。お前の責任で 円城寺の人形供養に出されぇ。」と 言って 放り投げました。長女は 今まで大事にしていた雛人形を 捨てる事ができず 昼過ぎまで 抱きしめ泣いていましたが 意を決し 重い足を ボトボトと運 び 円城寺に運びました。円城寺に着くと 人形供養法要は 既に終わっていて 残り火が チョロチョロと燃えていました。仕方なく 供養しないままで持ってきた箱を 火にくべると 火は勢いを取り戻しました。勉強好きで 働き者の長女は大人になると 街に出て働き財を 蓄えました。しかし 金持ちで美人の長女でしたが お婆ちゃんの言った通りに 縁談は無く 恋もないままで過ごす 内 パーキンソン氏病になりました。特効的新薬として l-dopa製剤が 開発されましたが 薬石の効果も限度があり 体が震え 自由に動けない病の苦しさと それに付け込む新興信仰宗教の余りに強引で しつこい勧誘と 布施の要求に 耐え兼ね「あの雛荒らしの日の出来事を悔やんで 親兄弟に 迷惑はかけられない。」と思いながら 神も 仏もいない この世を捨てる事を 選びました。「村人の実話」 現在では 生活習慣も変わり 大家族も 少なくなり 招待を受ける雛荒らしの習慣は 親しい家庭では行われていますが 押しかけの雛荒らしは 無くなりました。 雛祭りの迷信:雛祭りの後早くしまわないと 嫁に行けない。 人形供養の迷信:人形を 粗末に扱うと 不幸になる。 雛人形の仕舞い時:雛祭りが 終り空気の乾いた日に 仕舞ういます。 湿気があると カビが生え 手垢等の汚れが 黒く変質します。 本宮山円城寺:円城寺屋敷 北緯34度53分31秒・東経133度48分22秒 本尊は 千手観音菩薩。 苦しむ者を 千の目だ見定め 千の手を以て 救って下さります。 ちらし寿司の海老:腰が曲がるまで長生きする事を願います。 ちらし寿司の蓮根:穴が開いていることから 将来の見通しが得られることを願います。 ちらし寿司の豆:健康(まめ)で働き まめに生きてゆける事を願います。 寿司:寿を司る食べ物とされ お祝いの席に用意されます。 蛤:女性をイメージさせます。対の貝殻でないと ピタリと合わないので 仲良く夫婦が 連れ添う事を願います。 菱餅:以前は 緑と白の2色でした。 菱餅の緑:植物の育つ大地を表し 長寿と健康を祈ります。 菱餅の白:純潔であることを願います。 菱餅の桃色:桃は 魔除けの効果があると信じられています。 雛霰:菱餅と同じ色で作られ 戸外で食べられるようにしたものです。 白酒:元は桃花酒Toukasyuで 邪気を祓い 気力や体力の充実する事を 願い飲みます。 甘酒:雛祭りの主役の子供のため 白酒の代わりに アルコールのない 甘酒が 用意されます。 円城寺人形供養:3月の第一日曜日に行われます。「http://www.enjouji.net」 平成24年(2012年)12月30日
昔 竹乃と言う可愛らしい女の子が村里にいました。大人達は 風邪が流行らないよう 神様にお願いしようとしましたが 途中で雨になったので 止めて帰り 天津神社でお酒を飲んだのです。そのせいで 風邪が流行り 竹乃も風邪をひきました。お母さんは 風送りを中止した いい加減な大人達を なじりました。祈れ薬 医者気 付けInore-e Kusure-e Isya-Kituke-e と言い伝えられていたので 坊様や 神主や 祈祷師えを呼んで 何日も拝んでもらっても だんだん 弱って行くばかりでした。医者に見せると問診 触診 望診 聞診(現在の聴診) 手足看法 候旨 按診し 排泄物体臭を丁寧に調べ「どこも悪い所が 見つからない不思議だ。不思議だ 。いずれ治る。」 と 匙を投げて 帰りました。
いつも口うるさいので 家族から邪魔者扱いされていた お婆ちゃんは 曲がって痛い腰を伸ばし オオバコ 紫蘇Siso 蓬Yomogi くこ 母子草 杉菜 露草 きらん草を 集めて来て 煎薬Sen-yaku/Senji-gusuriを 作り 唱え事らしき事をブツブツ小声で 言いながら たっぷりの湯で煎じて 飲ませました。その直後から 竹乃は 不思議にも 急 に元気になって来ました。煎じ薬の効果も出てきて 咳は止まり 熱も収まり 痰も切れました。家族の者は「祈れ 薬 医 者気付け」の言い伝えが正しいと 話し合いました。お母さんはそれまで 邪険jyakennに 扱っていた お婆ちゃんを それからは尊敬し 大切にするようになったとさ。「村人の体験談」 お母さんは 可愛い娘が 死ぬかもしれない病気に成って オロオロするばかりで 竹乃に 水を飲ませる事を忘れていたので 竹乃は 脱水に 苦しんでいたのです。お婆ちゃんは それに気付き お母さんに悟られないよう 小言を言いながら 水を飲ませたのです。 祈れ薬れ 医者きつけ:昔は風邪(インフルエンザ)は 大変な重い病気でした.。風邪をひくと「糞垂れKusottare糞でも食べろ(糞食めKusohame/Kusyami)」と 言って疫邪な神仏のせいだとして詰ったNajittaのです。嚏usyammiは ハックションの擬音の変化したものと思われがちですが、糞食めが「くしゃみ」の語源だそうです。 風邪が 流行ると 医学も 薬学も発達していなかった頃は まず祈祷してもらい 祈祷に合わせて踊り狂い それでも効果が無いと 次いで 民間薬の知識の伝承に従い 生薬に頼り それでも効果が無いと 薬師に頼りました。優秀な薬師(医者)もいましたが 多くは いんちき医者でしたので 最後の手段として 薬師に診せたのです。尾原の一部では昭和初期まで 伝承されていました。「gogen-allguide.com/ku/kusyami.html」 江戸時代の診察・kenkaku.la.coocan.jp/zidai/isya.htm・問診:既往症や症状を患者から聞く。江戸時代の診察・触診:脈をとったり患部に触れたリして 反応を見る。江戸時代の診察・望診:顔色や 目や 舌の様子や 挙動を見る。江戸時代の診察・聞診:呼吸音 や動機を 耳を当て聞いいたり 体臭を嗅ぐ。江戸時代の診察・手足看法:手足の浮腫Husyu/Mukumiや 腫Haremonoを調べる。 江戸時代の診察・候旨:背骨等のの曲がりや 歪み 肉付きや 片寄りを調べる。江戸時代の診察・按診:臓器を押して 内臓の大きさや 位置や 硬さや 動きを調べる。風邪:上部気道の炎症を伴う 病気の症状の総称です。 軽症の病気と 言う意味ではありません。昔 流行性の風邪は 咳逆Sihabuki/Gaigyaku 咳逆疫Sihabuki-yami 夷病Ebisu-yamai 風邪Huujya 傷風Pinin 瘴風Syouhuu 傷疫Syoueki 瘴疫Syoueki 風疫Huueki 風疾Huusitu 疫邪Ekijya 冒寒傷冷毒Boukan-syourei-doku 天行感冒Tenkou-kanbou 天行中風Tenkou-tyuubuu 時気感冒等と 呼ばれていました。近世では 流行性感冒を 印弗魯英撒Inhuruenzaと 呼び 現在はインフルエンザと表現します。かつては 風邪の大流行には 台風や ハリケーンのように 名前が付けられました。江戸時代には27回の悪性の風邪が 流行ったそうです 。雲助風邪:明和3年(1766年)3月の初旬 半日閑話に「道中雲助並びに火消し 屋敷抱えの鳶ことごとく死す。」とあります。稲葉風邪:明和6年(1769年)関東に 流行した悪性の風邪です。お駒風邪:安永5年(1776年)女郎毒婦の栃木屋お駒の浄瑠璃の芝居が 流行っていました 。 谷風邪:力士風 天明5年(1784年)相撲取り横綱の2代目谷風梶之助が「土俵の上では 絶対に 倒れる姿を見せない。」と 豪語していた頃に 流行ったインフルエンザです。 谷風は「御猪狩風」に罹り 35連勝で 現役 44歳で あっさり 没しました 。 谷風邪の命名の由来は 彼の豪語に依ります。御猪狩風Oikari-kaze :寛政年(1795年)横綱谷風が 掛かり死亡しました。お世話風邪:寛政年間(1789~1801)当時「これはおおきなお世話 茶でもあがれ。」と 言う流行言葉Hayari-kotobaが持て囃されていました。
お染風邪:寛政4年(1792年)お染・久松の芝居が流行っていました。悲恋が 伝染するように感染し 罹ると お染の恋心のように 熱が出て 顔が赤くなったので この名が付きました。守り札に「久松留守」とか「お染御免」と 書かれ 軒に貼りました。 アンポン風邪:享和2年(1802年)感染源が 漂流民がアンボイナ出身の「アンポン人」だった.。 お七風邪:享和2年(1804年)に 八百屋お七の小唄が 流行していました。薩摩風:文化9年(1812年)に 薩摩から流行し始めたインフルエンザ。ダンボさん風邪:ダンボウ風邪 文政4年(1821年) 旦方Tanbouは 仲間 知り合いの意味です。団子や 雪玉を ダンボと言う地方があります。小唄の囃Hsayasiの「ダンボサン ダンボサン」に 由来します。旦那さんの意味です。「都から乗せてくるまのたんほう風 ひくものもあり おすものもあり」と 言う川柳が 有ります。 ねんころ風邪:文化5年(1808年)「ねんねんころころ」の歌が 流行っていました。「流行風邪 無情に 風も混じりけり ねんねんころり 用心せえよ」の句を残しました 。 津軽風邪:文政7年(1824年)津軽から 流行り出しました 。琉球風邪:天保3年(1832年)琉球の使者が 江戸に 持ち込みました。 亜米利加風邪:安政元年(1854年)アメリカからの黒船の乗組員が 日本に持ち込みました。スペイン風邪:日本には スペインから インフルエンザの流行が知らせが来ました。当時は 第一次世界大戦の最中で アメリカで大流行し アメリカ兵が ヨーロッパに 持ち込みました。戦争当時国は 自軍の弱体を 敵国に知られるのを恐れ 流行を 隠しましたが 参戦していなっかったスペインは それを 公表しました。大正71917~1918~1918年)日本では 約40万人が 死亡しまた。この時代から 世界的流行が 始まりました。」イタリア風邪:昭和22年(1947年)イタリアから流行し始め 全世界に広まりました。お染風邪:明治23年(1890年)に 流行ったインフルエンザは 直ぐに恋に染まるお染(伝染に掛けた)のように 伝染したので 江戸時代のお染・久松の芝居が 流行っていた頃に 流行ったお染風が 再来したと考えました。「久松留守」の張り紙も復活しました。アジア風邪:昭和32年(1957年)香港から 世界に 流行し始め 日本では 約5700人が 死亡しました。香港風邪:昭和43年(1968年)香港から 世界に流行し始め 日本では 約2000人が 死亡しました 。ソ連風邪:昭和52年(1977年)中国北部から 世界に流行しました。Aソ連風邪:平成19年(2007年)子供 老人に多く死亡者が出ました 。 新型インフルエンザ:平成21年(2009年)豚由来のインフルエンザです。小森の川戸:北緯34度56分38秒・東経133度48分48秒 小森の天津神社:北緯34度55分41秒・東経133度48分40秒 「事吉備中央町の伝説 行事伝説 風邪追い」参照の事 平成23年(2011年)8月15日