昔、長田荘の岡崎山に 鬼が 住んでいて 盗みを 働き 娘を玩ぶ 等の某弱無人な働きをしていたそうです。44代天明天皇の頃 和銅6年(713年)三宅藤麿と言う侍が 日本書紀を 編集する為に長田荘の歴史 文化 経済 政治を調査するためにやって来ました。大向から 西に 長田庄を見分し 鶴巻に向かうのですが 道に迷い 従者と共に 行く先の安全を 天に祈って 野宿していました。同年4月 28日の丑満の頃に 山はざわめき 雷が鳴り響き 稲光が走り 藤麿のいた辺りは 真昼のように 明るくなりました。その中から 白い海龍に乗った 女神が 現れ「わらわは 厳島神社の市杵島姫です。行くべき道に お誘いします。」と 言って道案内し 鶴峯に 案内し 蛇里畝と言う地まで来ると 姿を消しました。道を進むと 強そうな侍を見た村人達は 藁にもすがるように「私達を苦しめる鬼を 退治してください。」と 地面に頭を こすり付け 頼んで来ました。藤麿は 難儀を知り 戦いを 挑んだのですが 人智を超える術を使う鬼に 叶わず 敗戦色を 否めなくiname-nakuなりました。すると その 憔悴Syousuiした藤麿の夜の夢枕に 美しい少女が 再び現れ「この地には 素晴らしいお酒有ります。美味いoisii酒を 賊に 鱈腹Tarahuku飲ませ 酔い潰れて 寝ている所を 裏手の木戸に 水を掛け 音がしないように 開けて 樹齢2000年の槙の木で作った 大弓で 一気に 襲い・・・」と 告げました。藤麿は 村の酒屋に 相談すると 村の酒屋 多輪屋和右衛門は 沢山の お酒を 用意してくれました。地元の 鳥猟師は 大 槇で 千鈞の強弓Senkin-no-goukyuuを作り 矢原の 製鉄業者が 鏃Yaziriを作ってくれ 矢柄の弓師が 弓竹を作り 立石の矢師が矢羽根を取り付け 石立の矢を完成させくれました。美しい少女のお告げ通りに 鬼の住処に 忍び込み 酒を置いておくと、鬼は「恐れ慄いたOsore-ononoita村人が 機嫌を 取るために 貢物をしてくれた。」と 勘違いし、機嫌よく 最高級の酒を 鱈腹飲み 酔い潰れました。隙を見て 障子の隙間から 鬼を千鈞の強弓で射ると 鬼は危機を感じ 大岩に 変身しましたが 石立の矢の威力は 物凄く 大岩は y矢に 貫きられ 大爆発して 飛んで行きました。この時 藤麿は 足に 大怪我をしました。村人達は 鬼退治 に感謝し 藤麿を 足王大権現社に負ぶって運び 怪我の平癒を祈願すると 霊験あらたかにして 完治しました。暫くすると 得体のしれない怨霊Onryouが 現れ村人を 苦しめ始めました。ある夜、再びあの美しい少女が 藤麿の夢枕に立ち「この郷の北に 妖怪の 大岩あります。 国中に 災害を齎しているmotarasite-iruので 汝は 怪石を退治すべきです。」と 告げました。藤麿は「さては あの大岩は 死に絶えていなかったのか。」と 思い 付近の山を 探索し 怪しげな大岩を 発見しました。大岩の周囲の草木は 2本の大松を 除き大岩の放つ 妖毒によって 悉くkotogoytoku枯れていました。一本の松に 身を隠し 矢を放つと 勢いが 足りず そのもう一本の松の木に 掛かりました。そこで 再び 千鈞の強弓(石立の矢)を 取り出し キリキリと 搾り ド―と射ると 大岩は 再び大爆発 し四方に 飛び散り完全に 息絶えました。酒屋さんは 藤麿に 感謝し 和 同6年6月28日 岡崎山峯に 小祠を作り 市杵島姫命を 祭りました。そして藤麿は 大役を 村人の協力で 果たし 都に 帰って行きました。 元明天皇が この祠の寄進 を受けた事を喜ぶと 天下は平和になり 年が明け 正月22日に 小社を築き 岡崎大明神と 名付けました。戦国時代に入り 神田Sindenを失い 20石に 減じました。寛弘5年(1008年)一条天皇が 京都松尾神社より 大山咋命を 分霊し勧進しました。酒造職 多輪屋敷和右衛門の岡崎山を岡崎大明神に奉納し 松尾神社と 改名しました。「上田東の大月氏より口伝」
松尾神社・御崎様・岡崎山・国埼山:北緯34度53分33秒・東経133度47分45秒 矢原:北緯34度53分56秒・東経133度46分58秒付近 細田1116・1165番地等 大向:神瀬1913・1625、1936番地 大向:細田1681・1682番地 鶴嶺:円城 北緯34度53分42秒・東経133度48分38秒付 鶴見谷・寉見谷:211・362番地等 鶴井:上田東1784・1800番地等 釣井:1807・1816番地等 蛇里畝・ジャリ畝・志也里畞:上田西2352・2354番地 三宅藤麿:日本最古の勅撰の正史である 日本書記の編集者 千鈞の強弓:千人で やっと引く事ができる程の強弓 足王大権現社:上田東湯武公民館の近く 北緯34度54分5秒・東経133度48分9秒 石立の矢:何事も 必死に努力すれば 必ず 達成できるとの故事に 由来します。 楚の熊渠子や 李広が 虎と 大石を 見誤り 矢を射ると、固い岩を 射抜いていました。 立石:上田西876・1115番地等 吉備津彦命が 化気神社の駒石から 矢で 鬼を 射ると 鬼が岩となり吹き飛び ,枡その欠片が落ちた所が 立石 的岩:松尾神社の近く 円城に向かう道の左手に 落ちる 山道の右手 北 五34度53分46秒・東経133度47分45秒の近く 古墳らしいのですが 何も 刻されていません。 矢掛かりの松の枯れ株が 傍に有ります。吉備津彦命が化気神社の伺いの松の近くの駒石から 矢で 鬼を 射ると 鬼に命中し 鬼が岩となり吹き飛びますが 吹き飛ばず その場に残った岩とされます。「加茂川町史 松尾神社」 平成23年(2011年)7月20日
昔 矢喰宮には 大きな柿の木が 生えていました。神主は それなりでしたが 贅沢な生活を していたので 柿の実を「下賤gesennな食べ物じゃ」と 言って 態々 取って食べた事が 有りませんでした。毎年 沢山の実が 成りますが 熟して 落ちるのです。神主は 柿の葉が パラパラ散るので 掃かなければならないし 熟柿zukusiが ポタポタと 落ちれば 片付けなければ ならないので「切りゃ なんぼうか 寛ぐKuturoguじゃろう。いつか切ちゃろう。」と いつも 考えていました。しかし 先代の宮司が 大切にしていたので なかなか 決心が 付きませんでした。ある日 少年が「学問の成績が 上がりますように」。」と 菅原神を 一心に 拝んでいました。神主は「熱心で いい子じゃのう。」と 思い 笑顔で見ていました。ところが 拝み終わと 柿の実を 取って 食べ始めたのです。それを見た 神主は「この 柿泥棒め。」と 怒鳴りました。少年は びっくりして 思わず逃げ出しました。逃げるのを見て 神主は「許さん。」と 反射的に追い掛け 少年を捕まえ 柿の実を取り返し 少年の頭を 小突いたのです。少年は「いつも 大夫さんが 柿の実ぃ 邪魔がっていたけぇ 取っても 叱られんと 思うた。 堪ぇておくれぇ。」と 言い訳をしました。神主は「こりゃ ごんた。嘘うこきゃぁ尻に松が 生えるぞ。はぁ 泥棒じゃが。」と 叱りました。
すると 少年は〈「男と 親しぅ話ぃ したら その男の頬だかまちゅうどやしたんを 馬鹿な奴じゃ。」と この前 言うとられた 「いらんと 思うた 女子に せろうた お友達より 質が 悪いんじゃぁないのか。[ 大夫さんは 柿に 焼餅を 焼いたんじゃけえ 柿ぃ餅じゃ。」』と 口答え しました。神主は 的を射た少年の反論を 聞いて わが身の行為が 恥ずかしくなりました。神主は「済まん事ぅした。 悪ぃ癖で いがってしもうた。 柿の実ぅ 仰山Gyousan取って 友達にも 分けてあげなされぇ。」と 謝って 柿の実を取って 持って帰らせましした。それからは 柿が もらえるので 近所の子供達が 神主を 慕って 矢喰宮の庭で 遊ぶようになり 神主に 勉強を教えて貰うようになりました。親達は「天神様(菅原神)のご利益Goriyakuじゃ。」と 言って 神社を 敬いました。神主は 先代が 柿の木を 大切にした理由を 知り「良い運動になる。」と 言いながら 落ち葉を 掃き 柿の木を 大切にしたそうな。「三谷野呂の百怪談」
寛ぐ:気持ちが安らぐ ごんた・ごんたくれ:悪たれ 尻に松が生える:尻に火が付く 泥棒の始まり はぁ:もはや オコゼが軍艦ぶって西に西に流れる:とても 見るに 堪えない 醜い顔の人 せらう:うらやましがる ほほだかまちゅうどやす:頬を 激しく 叩く 平成23年(2011年)7月29日
昔 山奥の小さい神社の神主さんは 庭の栗の木が 嫌いでした。夏には 葉が茂っ て 日影ができ 涼めるのですが 嫌な形と嫌な匂いの花が 咲きます。秋には 紅葉して綺麗\なのですが 沢山の落ち葉が 落ち 毬栗Igaguriが 落ちるからです。「いつか切ろう。」と思っていました。ある日 庭を見ると 小さい栗鼠Risu達が 嬉しそうに 両手に栗を 持って食べていました。神主さんは 可愛らしい訪問者を 好きになりました。それからは 栗の木を大切にし ました。「尾原苅山村のお話」 平成23年(2011年)7月29日
太平洋戦争の戦後の コメ不足の折り、町から食べ物を求めて 田舎に人々が やって来ました。ある百姓が 荒神祭に 使う米を 預かって 稲荷神社に 保管していましたが お金欲しさに 闇に流しました。米は 保存方法が 悪く腐ったと言い逃れるつもりでした。ところが「保管方法が 悪くて 米が 腐りかけていた」。」と 買い求めた者達が 言い係りをつけ 責任を問うと 腐っていない事は 解っていましたが 村人に 横流しした事を 知られるのが怖く 平謝りして 全額を 弁済しました。偶然に 同じ理由を付けた 詐欺のラジオ報道を 聞いて「不正を働いた わしは 稲荷様と荒神様に 祟られたに違いない。」と 恐ろしくなり 心を改め 荒神祭には 自分達の食べるための米を 代りに使い 芋で その年を 食い繋いだそうな。「福沢の村人の話」
大きな戦争が 終わり、日本国中は 食べ物が 不足し お米が 高く 売れました。昭和14年に 大旱魃が 起こり 大変な飢饉が 起こりそうな世相でした。福沢村の百姓が 金毘羅様に 五穀豊穣の神様が 祀られていると思い込んで「飯の山と言われるのだから さぞや お米作りに ご利益があるだろう。」と 信じ 険しい山道を 登り飯野山のお稲荷様に「金比羅様 お米がいつもの年位に 採れたら 腹の減った人達に 分けてあげますので 豊作にしてください.」と お願いしました。すると神様は どう言う訳か「そんな事なら わたくしではなく 讃岐の金毘羅様に お願いなさいな。」と お告げになるのです。お百姓は「横着な神様もいるものじゃ。」と 思いながらも さっそく 讃岐に出かけました。足を痛め困っていると 口が細く 目が細く 極端な出っ歯の細身で 獣臭の強い 親切な人がいて「代参なされ。」と 教えてくれました。親切な 人の指導で 代参を試みるため 願書を認めsitatame 近くにあった 金比羅神社らしき小社の軒に 置きました。すると 田植えの終る頃に 讃岐の金刀比羅神社の お札を あの親切な人が 届けてくれました。大切に 神棚に祀り 心を込めて稲を育てると 近所のお百姓達は いつもの歳の 半分位しか お米が 採れなかったのですが そのお百姓の田は 金比羅様のご利益を得て 大豊作でした。お百姓は 金毘羅様に お願いした時の約束通り 約束を守ろうと 女将さんに 篤志分のお米の管理を 頼みました。ところが 欲張りな女将さんは お米の半分を困っている人に施した様に見せかけ こっそり隠し お百姓が 留守をした時に 人目を忍んで 持ち出し 闇市Yami-itiに流し へそくりを 蓄えようとしました。米を やっとの思いで しかも安く買えた人達は 喜んだのですが 俵の中を見ると お米は 全部腐っていました。女将さんの お米の隠した場所が 適切でなかったからです。カンカンに怒って お百姓を 訪ねて来て 苦情を言ったので 女将さんの不正が 暴露され 女将さんは 村に住めなくなり どこかに 逃げ出しました。
村人達は「御稲荷さんも 金毘羅さんも 豊作を司る神様じゃ 神社の名前ぅ 間違ごうた位は 許して呉れたんじゃが、欲張りぁ 許してくれんで 稲荷様に 祟られて お米ぁ 腐さったんじゃ。」と 話し合ったそうです。神様を間違った男は 恥じ入って 飯野山の稲荷様に 誤りに詣でると あの親切な人が現れ「あなたは本真に いい人じゃ。神様が 正直で賢い良い嫁さんを 紹介してやる。」と おっしゃっていた。 次の日に 家の戸に 鍵を掛けずに待ちなされ。」と 厳かに伝えました。男は それを信じて 翌日は 戸に鍵 を掛けずにいると 激しい稲妻が 何回も近くの山に落ち 火柱を上げました。すると逃げ出した女将さんそっくりの 内臓脂肪を たっぷり蓄えた 娘が 戸を けたたましく開けて「助けて。」と 叫んで 飛び込んで しがみ付いてきました。嵐が 止んでも「嫁さんにしてくれ。」と 言っ て出て行かないのです。男は「前妻そっくりな 怠け者らしい女を 紹介するのか。 無粋な事をする神様もいるもんじゃ。じゃが 行き所もなさそうじゃ。」 と 思いながら 仕方なく 家に置いてやりました。ところが 娘は働き者で 朝から晩まで 男に寄り添い 仕事を手伝うので 次第に脂肪が 取れて 稲刈りをする頃には すっかり痩身し 美しい体形になり 稲の束を力強く 運んでくれました。男は 稲束を 担ぐ娘に 愛しい眼差を向け「粋な稲荷様から 稲妻を賜った。」と 思い その娘を妻に迎え 死ぬまで寄り添ったそうな。「福沢の村人の話」 飯ノ山稲荷神社:福沢と有漢の境 北緯34度56分24秒・東経133度43分8秒 平成23年(2011年)10月6日
上房郡史によれば 飯野山城は 飯山兵部尉が 築城したと 言われます。築城の時代は 解りません。虎倉合戦の開戦の前の城主は 伊賀三郎五郎 あるいは 新山玄蕃充家住と 言われます。上加茂合戦のおり この城を守った 山県三郎(国吉)は 甲斐の武田氏族が 安芸に移住した時に 従い 毛利氏の将と なった人物です。毛利軍が虎倉城を攻撃した時には 飯ノ山城は 大将毛利輝元の本隊に 攻撃され奪われました。その跡を 任され山県三郎兵衛(山県国吉) が 城の防衛に当たりました。甲斐の諏訪神社を祀り 備中攻略に 加担した人物です。諏訪大社Suwa-taisyaは 長野県の諏訪湖周辺の4か所にある神社で 諏訪大社全体で祀る主祭神は 建御名方神Take-Minakata-no-kami(上社本宮 大己貴神・大国主神と沼河比売・奴奈川姫の子)と八坂刀売神Yasakato-me-no-kami(上社前宮・下社主 建御名方神の妃)です。平成23年(2011年)10月6日
福沢地頭に 宝剣神社が建ちその前に寳剱寳剱宮由緒碑が 立っています。石碑の文を要約すると「坪田村の入澤勝姫が 宮中に呼ばれ 後奈良天皇「在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)~ 弘治3年9月5日(1557年9月27日)」に 可愛がれて 子供を 身籠った。お腹が 大きいまま 備中松山城主の 三村家親の妻になった。天皇は 別れの形見に 宝剣を呉れた。姫は 松山城で子供を産み 入澤勝法師丸と名付けた。天正3年(1575年) 松山城が 陥落した時 忠臣の山縣新介に 守られ 母と共に 美作国の篠吹城に 逃れた。10年後に 篠吹城も 落城したので 天正15年(1587年) 宸翰Sinkan( 天皇直筆の書)と 宝剣を持って 山縣新介に守られて この地に来て住み付いた。」と あります。勝法師丸に 関しては この碑とは 異なる説があります。
昔々 勝法師丸と言う 賢く顔立ちの整った 男の子が おりました。義理のお父さんは 松山城と言う お城の殿様だったのですが 毛利元就(輝元の間違いでしょう)と 天正2年(1574年)から 戦争して 翌年 に完敗し 城を捨てて 逃げる途中に 捕まり殺されました。 その 勝法師丸は 松山城が 落城すると 家来に 連れられ 逃げたのですが 伊賀久隆と言う侍の部下に 捕まって しまいました。勝法師丸は この時 8歳の子供でしたが「夢の世に 幻の身の生れ来て 露に宿かる宵の雷Ikaduti」と 辞世の句を スラスラと 書き記したのです。さしもの 能力高い久隆をしても 舌を巻き 驚かされました。伊賀久隆は 井山宝福寺に 勝法師丸を 連れて行き 上司の小早川隆景の裁断を 仰ぎました。久隆は「賢い子です。 私が 有能な武将に 育て味方にします。」と 勝法師丸の命を 乞いました。隆景は これから先の事ですが 豊臣方の5大老になる程に 賢い人だったので「ずる賢い宇喜多直家よりは 余程頼りになる 久隆の意見を 無視できない。 その久隆 が 自分より 能力が 有ると 評価する勝法師丸は 成人し武力を持てば 必ずや 親の仇である 毛利家に 挑むであろう。」と 考えました。隆景の前に 引き出された 勝法師丸に「何故に お前の親は 毛利に 逆らったのか。」と 聞くと 勝法師丸は 少しも怯えず「毛利様が 憎くて 父は 毛利様と 戦ったのでは有りません。 お爺様を 騙し討ちした 宇喜多直家が 憎く 仇を取りたくて 戦う事になっただけです。」と 答えたのです。すると隆景は「見事な口上じゃ。」と 言って、勝法師丸を 牢に繋ぎました。隆景が 様子を見に来て「臭い飯はどうじゃ。しわい屑野菜は うまいか。」と 尋ねました。すると 勝法師丸は「隆景様。有難うございます。 少しのの御飯も 大切だと 教えて頂ました。しわい野菜は 辛抱強く咬まないと 食べられません。何事も 良く噛み)砕いて 見極め 良い考えを 導けと 励まして頂いているのだと 感謝しています。」と 答えました。それを 聞いて隆景が「では 筋だらけの硬い肉は どうじゃ。」と 尋ねると「筋を仰山Gyousan食べて 筋のある男に 成れと 諭しくださったと 感謝して 頂いております。」と 答えました。隆景は「頭だけの魚を 食わされるのを どう思うか。」と 尋ねると「焼いた魚の頭は 魔除に成ります。 頭を 骨ごと 食べて民百姓の禍を防げと 期待して 頂き 嬉しく 頂いております。」と 答えました。小早川隆景は この子供の受け答えに「わしを 越える能力を 感じる。 最高の答えだ。毛利家を意識して大将を 丸ごと食って 民の支配者に なろうとしている。 恐ろしい鬼子じゃ。 直ぐにも 殺さないと 何時かは わし 等が 殺される。」と 確認したのです。そこで 伊賀久隆に 勝法師丸を 殺すよう命じました。伊賀久隆が その経緯を勝法師丸に伝えると「夢の世に 幻の身の 生まれ来て 露に宿かる 宵の稲妻」と 再び辞世の句を 詠いました。この句を聞いて久隆も「勝法師丸は 自分の能力の高さを意識していて それを隠し 露に潜むようにして生き延び いずれかの時に 雷Ikadutiになり 毛利家に 鉄鎚を 下そうとしている」。」と 悟り、躊躇うtamerau事もなく 勝法師丸の首を 刎ねました。勝法師丸の墓は 宝福寺に有りましたが現在は 高梁市の頼久寺の父の元親公のお墓の隣に 移されています。「備中兵乱」
後奈良天皇:明応5年12月23日(1497年) に誕生し 弘治3年(1557年)に 崩御した第105代天皇です。「https://ja.wikipedia.org/wiki/後奈良天皇」 勝法師丸:天正3年(1575年)の頃8歳とされますので 誕生は1567年です 後奈良天皇の子であるとすれば 70才の頃の子と 言う事になりますし その頃は 後奈良天皇は 既に亡くなっています。 又 頼久寺に墓があります。
「gos.but.jp/matubr.htm」「yururi.aikotoba.jp/samurai/explore/raikyuji.html」 宸翰:天皇直筆の書 宝剣神社:鉄工場・福沢殿屋敷898番の北と福沢地頭903番地の間 北緯34度55分50秒・東経133度43分52秒 備中松山城:高梁市内山下 北緯34度48分33秒・東経133度37分20秒 篠吹城:真庭市三崎 北緯35度3分51秒・東経133度46分27秒 井山宝福寺:総社市井尻野 北緯34度41分29秒・東経133度44分2秒 雪舟が涙で ネズミを 描いたとされます。 天柱山頼久寺:高梁市頼久寺町 北緯34度47分51秒・東経133度37分8秒 上野頼久Ueno-Yorihisa 三村家親Mimura-Ietika 三村元親Mimursa-Mototikaと その子勝法師丸の墓が あります。 伊賀十三流:虎倉城・伊賀久隆を 支えた者達の子孫である 葛原氏 片山氏 菱川氏 河本氏 入沢氏 土井氏 河原氏 小林氏 鶴旨氏 津島氏 瀬尾氏 能勢氏 楢崎氏を 加茂十三流と 総称します。池田光政が 鳥取から岡山に 赴任してきた折り 備前藩の光政に 不満を持っていた 伊賀十三流を 中心に 豪族達 に 家系の由緒書きや 家宝 等を 万治2年(1659年)と 寛文8年(1668年)に 提出させ 処分しました 。 由緒書きを 失った豪族達の一部は 記憶をたどって 加筆した 由緒書きを 創作したとされます。 入沢氏の由緒書も 書き換えられたものであると 推測されます。
平成24年(2012年)1月17日
森さまの恋 love in Mori-sama
まだ 備北中学校があった頃 2年生の同級生の雪と 猛は 森様で逢引しました。手を繋いで森様の鳥居の下に不思議な光の玉が現れたのです。二人の心はそんなことに注目する余裕もなく 何の抵抗もなく 奇怪な 自然現象として 受け入れられたのです。実際に それは幸 せの御験Misirusiだったかも 知れません。いよいよ 拝殿に登る 階段に 辿り着きました。二人の胸の高まりは 互いに 聞き取れるのではないかと思われる程でした。二人は 登る階段の斜度が 大きく 何も考える余裕が なかったので 厳かな 森の静けさが 二人を 無口にさせていました。無口であった事が 更に二人の心を 愛の感覚で縛り付けました。階段を昇る時間を とても長く感じ やっと 拝殿の前に 立ったのです。二人は無口で 神様を 拝み終わり 宮の周りを ゆっくりと廻っっていると 木の枝に 何か 拳大の丸い果実のような物が なっていました。雪が「あれは何 大きい鈴みたいよ。。」と 尋ねると 猛は「あれはスズバチの巣じゃよ。 鈴みたいに 紐を通す穴もあるんじゃ。」と 教えました。
「鈴なら 神様に 納めたいわ。取ってもらえる。」と雪子は 猛に 頼みました。孝は 木登りは 得意ではありませんでしたが 大工になる事が 期待されていたので 高所恐怖症である事を 知られては困るので 雪の願いを 断れませんでした。へっぴり腰で 木に登る姿は とてもみすぼらしかったのです。やっと スズバチの巣を 取って来て 雪に 見せました。雪には とんでもなく 頼り甲斐のない男に 見えました。巣を受け取ると 成程 2個の穴が 空いています。神様に 奉納してもらうため 毅に 鈴の巣を 戻しました。っ猛は 木の高い所に いた余韻が 未だ残っており、手足が 震えていました。未だ 震える足で 拝殿に 向かうと 敷石に 足を取られ 転びそうにり スズバチの巣を 落としてしまい スズバチの巣は 壊れました。雪は 急いで スズバチの巣を 拾い上げました。その瞬間 雪の悲鳴が 森中に 響いたのです。手の中には 動けなくなった青虫が 溢れるほど 沢山入っていたからです。雪は 青虫が 死ぬほど 嫌いだったので スズバチの巣ごと 青虫を 投げ捨て 真っ青に なって逃げ帰ってしまいました。それからは 雪は 大嫌いな虫を 鈴から出したのは 森神社の仕業で、また 美男子の 猛が 実は 情けない男だと言う事を お告げになったのだと 信じて、猛を デートに誘う事を しなくなりました。猛の頼りげのない 弱虫振りを見た上 青虫の洗礼を受けたのですから 百年の恋も 冷めようと 言うものです。猛の誠意と蛮勇は 実らなかったのです。㊟「著者の知人の失恋話」個人名は変更しています。 三谷森神社:北緯34度五14分25秒・東経133度47分49秒
子狐の飯事 PLAY HOUSE WITH FOX KIT
稲荷神(宇迦之御霊命Uka-no-Mitama-no-mikoto)を祀る 三谷森神社の杜の中腹に 愛ちゃんと 綾ちゃんと言う姉妹が 住んでいました。山の中だったので 遊びに来るお友達は 滅多にいませんでしたから 2人で 何時も 遊んででいたのです。2人が 御飯事Omamagatoを していると 珍しく 可愛らしい男の子が 近づいて来て 飯事に 乗せて 欲しいと 頼みました。姉妹は 顔を見合わせ びっくりした表情をしましたが 珍しい 訪問者を 飯事に入れてあげました。愛ちゃんが 男の子に「お名前は。」と 尋ねましたが 男の子は 困って モゾモゾするばかりです。綾ちゃんが「コンちゃんと 言うのでしょう。」と 言うと 男の子は 自分の名前を 言い当てられて 驚いた様子で「何で わしの名前ぉ 知っごるんじゃ。」と 尋ね返しました。姉妹は 顔を見合わせ 笑いました。栃の葉のお皿や 柏の葉の茶碗が 筵Musiroの卓袱台Tyabu-daiに 並べられていました。綾ちゃんが「おかずは 油揚げにしよう。」と 言って お家のお母さんに もらいに行きました。お母さんは 飯事に 本物の油揚げを使うのが 不思議なので 飯 事の卓袱台を 見に 家の外に 出て来。ようまぁ。おいでん去った、おえ(部屋)に お上がりなさい。」と 言いながら、栃の葉に 油揚げを 載せました。コンちゃんは 油揚げが 大好物だったのです。「ぼっこう旨ぇ。ぼっこう旨ぇ。」と言いながら コンちゃんは 嬉しそうに 食べました。夕方まで 3人は 楽しく飯事をして お別れする事になりました。「面白かったよね また来てね。」と 姉妹が言うと「また来るよ。 有難うでした。」と 挨拶して 紅葉の手を ふりふり 着物の裾から出た 大きい尻尾sippoをふりふり コンちゃんは 森神社の裏山に 帰って行ったとさ。「黒瀬岩男談」 乗せる:仲間に加える 例えば傘に乗るとは 相合傘する事です。 子の話に登場する人の個人名は 変えてあります。 平成24年(2012年)3月3日