亥の子祭 荒神子 玉藻石 けけろう祭 高谷の水神様 老人の同窓会 風神社のご利益 著者の桃太郎物語 龍王様のご利益

上田東    亥の子祭 Inoko-festival "Festival at he hour of boar, or around 10:00 pm on inoko-tuki (the day of boar in the month of boar or October under the old calendar) by children"

旧暦10月(亥の月)亥の日の夜から 明け方に 亥の子と 言う行事を 行いました。玄猪Gentyoを 亥の子の祝いとか 亥の子祭りとも 言います。猪の好き嫌いの無い食欲や 何を食べても 食中りSyoku-ayariしない健康や 多産に 肖りayakari 新米で 亥の子餅(小豆餅)を 作って食べて 万病退散 子孫繁栄を 祈ります。その年になって 初めて 炬燵Kotatuを 出し 火災除けも 祈ります。子供達が 亥の子歌を 歌いながら 藁の束(藁鉄砲)や 猪子石で 田の神である 山田の案山子を 天(山田)に 返すために 地面を叩いて廻ります。俗には 子供達が 蚯蚓Mimizuの繁殖を願い 土竜Moguraを 追い遣るのだとか 言い伝えられます。御褒美Gohoubiに お菓子や 蜜柑Mikanが 貰えます。ある種の 収穫祭です。10月10日の夜に 行う時は 十日夜Toukanyaと言います。現在の亥の子祭りは 松尾神社の宮司が 司り 御祓いをし その後 餅等を 祀り、飲み食い 歓談します。子供が いなくなったので、地面を叩く行事や 亥の子歌は歌う 行事はなくなりました。亥の子歌の歌詞を覚えている村人は いませんでした。「上田西の村人より口伝」「https://ja.wikipedia.org/wiki/亥の子」 この行事は いつの間にか 日本から 絶えました。亥の子歌の練習が 勉学に 差し障ると言う理由だと 聞いています。子供達が 歌の作詞作曲に 熱心で 練習に力を入れたからです。

上田東の亥の子宮:429号線信濃集会場より東の上田西行田2340-1番地の北東東の林の中 ハートフル浄水場の西 北緯34度53分39秒東経133度49分4秒に建ちます  南に八坂神社が隣接します 亥の子餅:旧暦10月亥の日亥の刻に 食べる餅で、普通の餅や 茹で 小豆を 塗しmabusiた餅等です 亥の子石:亥の日の夕方から 翌朝早朝にかけて 子供達が 各農家を 縁起の良い歌を歌いながら廻って 石に 繋いだ 人数分の縄を 引き緩めして 地面を 搗く石の事です。子供達が 石を搗くと 餅や菓子や 小遣い等を 貰えます  石を搗いた跡が 深いと 喜ばれます。石の形や 重さは 色々です。 亥の小唄:褒め言葉歌や 嫌われ言葉歌(お土産をくれなかった時、歌います)や 数え歌等 様々です。子供達が 相談して 歌詞を作ります。「亥ぃの子 亥の子 亥の子の夜に 餅搗き祝え 江弁須様Ebesu-san大黒様Daikoku-san 亥の子のように 金銀湧いてくる。繁盛せぃ。繁盛せぇ。」「亥ぃの子。 亥の子。 亥の子の晩に 餅搗きせん。 祝わん者は 鬼の子産めぇ。 蛇の子産めぇ。 やっさんの尻ぅ 煮え湯で焚けえ。よいやさ。よいやさ。」「おいでんさった。おいでんさった。 江弁須様。大黒様。1に俵ぁ運んで来。 2にニッコリ笑うーて。 3つ酒ぇ造られて。 4つ世の中太平に。 5ついつも幸せに。 6つ無病息災に。 7つ無い物無いように。 8つ屋敷を広うして。 9つ蔵を建ち並べ。 10でどっさり大判小判 金銀白金湧いて出た この家ぁ繁盛。 繁盛。」等が 例です。 山田の案山子:田の神 農業の神 土地である神の久延毘古Kue-bikoの事です。山の田の中に立つシシオドシ(鳥脅し)の普通の案山子では ありません。一本足なので 歩くのは不自由ですが 世の中の事 神の世界の事で 知らない物が無い程の 博学者です 。 ボロボロの服を 常時着ているので 崩彦Kuzure-bikoとも 呼びます。「https://ja.wikipedia.org/wiki/久延毘古」 加茂川町の亥の子祭:高富五明 高谷の十力でも 亥の子祭が 行われていました。  平成23年(2011年)11月25日

 

小森 稲荷神社の荒神子 Koujinko child who is granted  excellent ability by Miraculous god in Komori-Inari-jinjya shrine

小森の飯盛祭は 稲荷神社荒神社の当家祭りです。一種の新嘗祭Niiname-sai(収穫祭に近い祭り)であり 荒神祭りです。山盛りの赤飯が 本膳 に出され 完食する事が 求められますが この儀式を 行った家庭 あるい派 若いご婦人が 儀式を 全うすると「荒神子Koujin-ko」と呼ぶ 神童を授かるとされます。昔 小森の飯盛り祭りが  珍しいと言うので 見物に来た 荒神の縫い包みを 小物の根付けに 着けた綺麗な女の人が 祭の肝煎Kimoiri(世話役)に勧められて お祭りに 飛び入りしました。早速 美味しそうなお赤飯が 一つまみ程 出されました。「なんと けちん坊な お祭りなんでしょう。 せめてお茶碗一杯位に して欲しいな。」と 思いながら食べました。少しのお赤飯だったので 物足りず 勧められるままに お代わりを 頂きました。今度は お茶碗に 擦り切れに 盛られていました。「何だ .普通じゃぁないの.何で回りの男達は ほんの少しのお赤飯を ゆっくりゆっくり食べるのかしら。 男らしくないわね。」と 思いながら 食べ終わると 直ぐに お代わりを 勧められ 茶碗を 置く間もなく お代わりが 注がれました。肝煎が「お代わりぁ 必ず食べる 仕来りじゃぁ。残すと 不幸になる。 残さず食べなされぇ。」と 言うので やっとの思いで 全部食べました。食べ終わり パンパンのお腹を 摩っている隙に 又 有無を 言わさず お代わりが 注がれました。もう頭の中は 混乱してどうして良いか 解りません。しかし 神聖なお祭りらしく 男たちは 酒をガブガブ飲み お代わりのお赤飯を 味わいながら 食べ続けるので 周りの人達に 合せるしかありません。止めるに 止められず 死ぬ気で食べました。すると隣に座っていた氏子の人が「大盛Omoriぅくだされぇ。」と 言うと 天井まで 届く程に 盛られ た お赤飯が出されました。

これを食べりゃぁ 仕舞いじゃ。」と 気の毒そうな顔をして その女の人に お代わりの終わり方を 教えてくれました。もう 大盛等 食べられる状態では ありません。「食べないとどうなるの。」と 隣の 親切な氏子に 尋ねると「荒神様に 祟られて お馬鹿が 産まれるかも知れん。 食べ切れば 物凄ぇMongee 優秀な 子供を授かる。そんな子ぅ 荒神子と 言うんじゃ。」と 答えてくれました。この女の人は「不妊症と 医者に言われているから 関係ないわ。でも荒神子には 興味あるわ。 もっと早く教えてよ。」と 不満そうな 顔をして お祭りが 終わる頃まで 吐き気を堪えて 食べ続けました。やっと 食べ終わり祭り が終わると 余りに不健康で 人権無視の無茶振りに 怒って プンプンして 帰って行きました。ところが 翌年 荒神様のお杜Huroから 子守唄を 歌う声が 流れていました。翌日に あの親切な氏子の者が お参りし「あの時の 荒神子の縫い包みの お供え物が 有ったぞ。 あのご婦人じゃ。」と 言うと 皆は「最近は 若い衆が おらんようになって お祭りの仕来りが 崩れて来とったが こぎゃあな嬉しい事があるんなら 昔通りのやり方で お祭りをしょうや .来年が楽しみじゃのう。又 別嬪Beppinさんが 来たら 祭りに 引き込もうや。」と 語り合いました。「小森 湯所 黒田氏より口伝」 この数年の終わり頃には この行事は 閉鎖されましたが 令和4年には行われました・小森湯所稲荷神社:小森温泉の下加茂寄りの道を 育麦庫Semikura方向に 廻り、最初の交叉点を 左に進み 坂を登ります。育麦倉に行くまで の半行程の左上 北五34度54分59.秒東経133度48分20秒に 赤い鳥居を 供えた 稲荷神社が あります。手前の祠が 荒神社で、中の祠が 稲荷神社本殿で 最奥の祠が 秋葉神社です。  湯所:小森16・247番地等  城山上:小森18・43番地等 城山下・城山下タ:小森28・51番地等 二川向:小森42・52番地等  森清:小森5番地      平成24年(2012年)4月6日   平成の終わりごろに 飯盛際は 村人の高齢化と 住民の減少のため 再び 行われなく なりました。

 

下土井 土井神社の玉藻石 Tamamo-stone in Doijinjya shrine

鳥羽上皇の愛媛の玉藻前が 正体を現した時 白面金毛九尾の狐に 成りました。何万もの兵が 挑んでやっと 退治すると 玉藻前が 玉藻岩になり 毒ガスの結界を張り 人を近付けませんでした。この不吉の殺生石は その後も毒ガス を放ち 害をなすので 至徳2年(1385年)に 玄翁和尚が 叩き割ると 3個に割れた岩は 美作国勝山高田 越後国高田 安芸国高田に 飛んで行き落ちました。時が過ぎ 備前 備中の境である 津高郡加茂市場の藤沢城に 安芸国の毛利勢が 攻めて来ました。虎倉城伊賀氏(伊賀河内守(?)に 加勢するため 美作国の高田の笹山城から 三浦源左衛門貞兼が 下土井に 駆け付けました。この時 三浦家の鎮守の玉藻神社玉藻前霊神を 携帯して来て 小神社を 建て祀り この時から 土井の人達は神である霊石を 敬い 祭りをしていました。虎倉城の城主であった 伊賀兵庫守行隆の家老の 土井次郎左衛門の妻は 美作の国の勝山城主の 三浦能登守の娘でした。その土井次郎左衛門の妻は 天正6年(1578年)寅4月に 新たに小社を 建て 高田玉藻神社御祭式を 取り入れ 加茂38ヶ村の鎮守Tinjyuとしました。「加茂川の民話」「下土井村人より口伝」 1月9日

さ て 西国の雄 安芸国の毛利輝元と 天下統一を 目指す織田信長 が 競り合っていた頃 岡山城宇喜多直家は 情勢を見て 毛利方から 織田方に 寝返りました。これで 岡山城の家老職を務めていた 伊賀久隆の居城である 虎倉城の支配下にあった 加茂川地域と 毛利氏に支配されていた 備中の賀陽地区は 一気に 毛利氏と 織田氏との 最前線となりました。宇喜多に 裏切られた毛利輝元は 織田信長が 京都に入るのを阻止するため 叔父の吉川元春に 美作を攻め取らせ 岡山城を挟み撃ちにしようとしますが 吉川軍の進軍には 虎倉城の存在は 目の上の瘤KObuでした。そこで 4隊(一説では3隊)に分けて 虎倉城を 攻略しようと 試みました。小早川隆景部隊と 毛利輝元の部隊は 配下の粟屋与十郎が守る 田土藤沢城に迫り 吉川元春の率いる美作部隊と穂井田元清の南部部隊の作戦成功を待っていました。美作部隊と南部部隊は  開戦当初は破竹の勢いで 小城を次々に 落しました。ところが 美作部隊は 福沢の伊賀方の小城に阻まれ 遅れに遅れ 藤沢城に 辿り着いたのは 天正7年の事でした。対する伊賀久隆の作戦は 大軍の前で 正面攻撃するのでは 敗戦する事が 明らかなので 周辺の小城を 放棄し 虎倉に兵を集めました。 小城の無血勝利に 酔って 油断した所を 総攻撃すると 言うものでした。この作戦に 従えば 土井次郎左衛門の領地の下土井が一番の標的に されます。土井氏は 主従打ち揃って 玉藻石に 戦勝祈願しました。すると 毛利軍が 下土井に 度々「前哨戦として 土井の力を 試してやろう。」と 攻め掛かるのですが その度に 玉藻石付近から 大量の霧が 発生し 毛利軍の兵の視界を奪い 進軍を悩ませたので 退散しました。天正8年(1580年)毛利軍は 総攻撃を 決心し 虎倉城に 向かいました。玉藻石の霊力と 金気の騒音を嫌う 龍王谷の龍神の神徳が 相まったのか 玉藻石付近の細田川から 立ち始めた霧は 宇甘川や 加茂川を 覆い尽くす程になりました。毛利の大軍は 一寸先も 見えない有様で 瞬きもせず 目を凝らし 足の踏み場を 探しながら進むのですが たっぷりと 霧の水分を 含んだ具足の重みと 前日の雨で 滑る坂に 苦しめられ 酷く体力を 失いました。毛利軍は 後悔しましたが 退路も 霧で覆われているので 引き返す訳にも ゆきません。反面 侍だけでなく 村人 も家や近在の城を捨てて 全員が 伊賀久隆の作戦通り 虎倉に 逃げ終わっており 又 地の利が有り 田の畔々迄も 知り尽くしていたので 虎倉方の者に 霧による被害は ありませんでした。加茂川の者ですが 訳あって 伊賀久隆方から 逃れて来た 河原六郎左衛門は 唯1人の毛利軍の道案内でした。予期せぬ 霧中の作戦の遂行は 尋常でなく 人智の域を 超えていたので 重責に 起因する疲労は 甚だしく 玉藻石の毒ガスに 祟られたように 視力 記憶 思考力を 鈍らせ 判断を 誤らせられました。その結果 大軍の兵の道を 違わせ 上加茂に 導いたのです。その様子を 虎倉城を 出て野山Nosan(番神山)より 見ていた 久隆は 要所 に軍を配備し 霧に紛れて 伊賀軍が 総攻撃を 掛けると まず一番に 総大将の粟屋与十郎が 討たれ 毛利軍は 総崩れし 下土井に逃れ、既に占拠していた船山城に 入り 退路の拠点として 勝山城を 築きました。毛利軍が 玉藻石の霊験と 龍王の威徳を 恐れ 暫くして 下土井を 土井治郎左衛門に戻し 安芸の国に 退いたので 船山城は 土井氏に戻され 勝山城も 土井氏の物になりました。村人は 前にもまして 玉藻石を敬いました。「加茂川の民俗」「賀陽町史」「伊賀久隆の戦い上加茂合戦」「三谷野呂の百怪談」藻前伝説:「https://ja.wikipedia.org/wiki/殺生石」 高田城・玉藻神社:真庭市勝山 北緯35度5分23秒東経133度41分35秒    井神社:北緯34度52分30秒東経133度45分48秒 八重事代主命Yae-Kotosironusi-no-mikoto美保津姫命Mihotu-hime-no-mikotoを祀ります。    田土藤沢城:しばしば 毛利氏と伊賀氏とで奪い合っています。  田土藤沢 北緯34度51分40秒東経133度44分57秒7秒付近    虎倉城:岡山市北区御津虎倉 北緯34度50分20秒東経133度50分3秒    野山・番神山頂上:広面九十折と上加茂三宅の境 北緯34度50分28秒東経133度49分16秒    伊賀伊賀守久隆:備前伊賀氏の最盛期の虎倉城の城主 金川城松田氏の家老職でしたが 宇喜多直家の策に 乗り松田氏を 滅ぼし 直家の家老職に 就き 毛利氏を 負かしますが 直家に 暗殺されました。    笹山城:笹向城の事でしょう。 岡山県真庭市三崎笹向山 北緯35度3分51秒東経133度46分27秒       船山城:下土井大上621番地の西 北緯34度52分58秒東経133度45分45秒     勝山城:下土井山端1632-1番地の北の丘 北緯34度52分40秒東経133度15分40秒    伊賀兵庫守:伊賀久隆の祖父で 伊賀兵庫頭行隆は 虎倉城を築城しました   土井次郎左衛門:宇都宮下総守貞綱の子の土井治郎右衛門は 下土井に住み 土井を姓として 伊賀伊勢守配下に 加わりました。 三浦能登守貞広:お福の父 貞勝の兄 毛利軍の虎倉攻め:毛利軍と伊賀久隆との主な合戦は 永禄2年(1559年)鼓田合戦と、天正8年(1580年)上加茂合戦です。  皷田合戦の 回戦時期の記載は 過ちで 上加茂合戦を 最終戦とする 虎倉合戦の一部と 考えます。      平成23年(2011年)11月9日

 

豊岡下 大勝 けけろう祭・鶏鳴祭 Kekerou-festival・cocks-crowing-festival

天計神社は 元 天岩山にありました。丹波国愛宕神社を分霊して 大勝山Ookati-yamaに 勧進しました。手置帆負命Taoki-Hooi-no-mikoto 彦狭知命Hiko-Sasiri-no-mikoto 天御鳥命Ame-no-Mitori-no-mikotoが 祀られています。霜月祭に 鶏鳴祭(1月12日、11月12日)と言う 奇祭 をします。鶏鳴祭では 小さい桶に 酒糟を入れて 水でよく溶き 粘り気を持つ粥状態にし 大きな杓子Syakusiで 掬いsukui上げ 拝殿の棟木に 打ち投げます。棟木に 糟粥が 上手く当たれば 吉です。これが 終わると 氏子は 無言で 帰途に立ち 道中の声を 出しません。式が終わると 神官は 扇を広げ 鶏の羽打ちの 仕草をして 扇を拍きます。「加茂川町史」

  天御鳥命:父神である 天菩比命Ama-no-Hohi-no-mikoto(天穂日命)は 天照大神の命令で 大名持神Oo-Namoti-no-kami大国主命国作之大神)の治める葦原中国を 高天原に 開け渡すよう 交渉するために再度 天之夷鳥命(天御鳥命大背飯三熊之大Oosobi-no-Mikuma-no-oo)と共に 天降り 大名持神を 鎮めた 或いは そのまま 葦原中津国に 留まったとされますwww.genbu.net/saijin/hiratori.htm」 大勝山:豊岡下2825番地 天岩:豊岡下2526番地  平成23年(2011年)9月1日

 

高谷 高谷の水神様 Goddess of water in takaya

高谷木の実に 真名井神社Manai-jinjyaが あり 木札が 御神体です。御利益Goriyakuは 下の病 冷え症 寝小便 腎臓病です。お参りすると 神井の水を 頂いて 帰り 米を 炊く水にしたり 飲み水として 使用していました。濁る 等していて 飲食に 耐えられない時には 神棚の水として 使用していました。祈願が 叶うと 石に 自分の干支Etoを書いて 貼り付け 鯉Koiや鰻Unagi 等の魚を 池に放し お供えする 習慣が ありました。性の悩みに ご利益があった者は 木製 石性 金属性 焼き物の男根 等を 奉納しましたが 現在では 道徳教育上 宜しくない風俗として 取り止められ 溢れる程の セクシャルな 奉納物は 取り払われています。それでも、時々 奉納されています。「加茂川町史」

老人達の同窓会の水神話 Conversation at old people's reunion about Takaya-water goddess

昭和の初め頃 村の老人達が 集まって 敬老親睦の宴を 開きました。始めの内は 子供の頃に聞いた言い伝えのいい加減さが 話題でした。途中から 持病の話となり「血圧 物忘れ 癌 白内障 頭髪がどうのこうの」等 まるで 病気の自慢話のようになりました。酒が 進み 酔いが回ると ある男が「わしが 若い頃ぁ 女にもてない事ぅ 皆 良く知っておろう。 じゃけぇ特別大きいのを奉納して 高谷の水神様に お願いしたら なんとか かかぁ 貰えたんじゃ。かかぁにゃぁ 見栄ぇ張って 【「若ぇ頃ぁ ぼっこうもてて 女子Onagoが 手に余った。。 わしに 貰われたお前は 幸せ者じゃ。」と 話したんじゃ。 端の内ぁ ちょびっとばぁ気が 引けたんじゃが 長ぇ間「もてた。もてた。」と 言い続けとる内に 本真に もてていたような気になってのう。 同じ事ぅ 思い続けると 確信に 変わるもんじゃなぁ。かかぁは「お前様の話を 聞いてくれる良い嫁さんが 来てくれて幸せじゃのう。」と抜かすんじゃ。】と発言すると 高谷の水神様が 話題になり 恋の話や夫婦生活の話に 花が 咲き 万座は 一気に沸きました。女性達も かつての お淑やかな娘であった事が 想像できない位に 話しぶりは 大らかになりました。そして最後は 高谷の水神の ご利益のお礼として 池に魚を 奉納する訳が 解らず それを 話題にしていると、遅れてきた男が【昔 怠け者のオブスが居ってなぁ。庄屋様に 奉公していたんじゃ。 便所掃除が 担当じゃったその女が「便所は と言い 川屋の訛りNamatriじゃと 聞くわ。 中国の 便所掃除の好きな坊さんの 雪峰義存禅師Seppou-Gison-zenjiが 悟った場所だから 便所を 雪隠とも 呼ぶの。お坊様の便所を 後架Kouka/Goka 東司Tousu東浄Toutin 西浄Seitinと 呼んで 女ぁ 決して掃除しないわ。だから 便所の掃除は 男の仕事よ。なんで女の私が 便所掃除を させられるのよ。うち等 女ぁ 便所を 御不浄Gohujyouと呼んでいるわ。 女が掃除する便所は 不浄でいいのよ。」と 言って便所掃除をそこそこに済ましていたんじゃ。そうしたら そりゃぁ もう 不浄になったんじゃ。便所の女神の弁天様ぁ 怒ってなぁ祟ったんじゃ。 その女ぁ オシッコに 膿が 混ざるようになってのぅ体調が悪くなったんじゃ。真名井神社の弥都波能売神Mixzuha-no-me-no-kamiは 伊邪那美命Izana-mi-no-mikotoのオシッコじゃけぇ 真名井神社の池の水ぁご利益があろうと思ぅて 願掛けして 水垢離Mizugoriぃすると すっかり治ったんじゃ。おまけに 物凄ぇMongee別嬪さんBeppin-sanになったそうじゃ。それで 玉の輿じゃ。 恋が叶ったんでお礼に 鯉を 奉納したんじゃ。 男もご利益に与ろうと 思い 同じような事を したんじゃ。 念願が叶うと 念願に見合った物を 奉納するようになったんじゃ。せえで わしゃぁ 一物が ながかったけぇ もてまくるんで 昨日ぅ 鰻ぃ 奉納したんじゃ。」と 言うと一同は「ようまぁ 口から出まかせを 言えるもんじゃ。」 と 思いながらも 納得し 頷きました。「三谷野呂の百怪談」 人間 歳を取ると 回顧主義的になり 又 歳を取ると 性の話に 大らかになるものなのです。    木の実真名井神社:北緯34度51分39秒東経133度46分28秒    弥都波能売神:伊邪那美命が 火の神 溶鉱炉の神であ る迦具土神Kagututi-no-kamiを 産み 焼け死にますが 死の苦しみの中で お小用Okoyoを漏らすと お小水は 弥都波能売神になりました。 灌漑の神 井戸の神で 祈雨 止雨の神の徳 を持ち 肥料の神 下の病の神 婦人病の神 安産の神でもあります    真名井の泉:高天原の天安川にある聖なる泉        平成23年(2011年)9月9日

 

広面 風神社のご利益 Divine favour of Huujinnjy

遠い遠い昔 崇神天皇Sujin-tennouの時代に 四道将軍 五十狭芹彦命Sidou-syougun Isaseri-hiko-no-mikotoが 面影道Omo-Kage-mitiの 鬼の平定に やって来ました。後に加夜国Kaya-no-kuniと呼ばれる国の鬼達は 激しい風を 起こす 不思議な 妖術を 使い 抵抗しました。将軍の部下である 鼓彦命Tudumi-hiko-no-mikotoが 鼓をポンポンと 打つと 風の神の志那津比古命Sinatu-hiko-no-mikotoを 祀れば 妖術を 破る事ができると占なえました。そこで 雨坪Amatuboの山麓に 大和国生駒郡の龍田神社の御霊を 分霊し 雨坪神社の小祠を 建てて 級長津比古命 級長津比女命Sinatu-hime-no-mikotoを 祀ると 大風は 鎮まり 鬼達は 退治されました。雨坪から 開拓し始め 広野を 耕地としたので この地 を広面と 名付けました。それからは 広面は 風災を鎮め 害虫を 駆除して年穀豊穣Nenkoku-houjyou)の霊験Reiken に恵 まれていました。「手づくり ひろも今昔物語」 

ところが 時が過ぎ ドンドン山の山麓の広さ3尺の風穴と呼ぶ 穴から 大風が 起こり 耕作地を 荒らしました。この風 を鎮めようとして 小社を 麓に建て 雨坪山の御霊を 朱雀天皇Suzaku-tennouの頃 承平5年(935年)6月8日に 広面奥269番地に 移転し 勧請しました。末社に 若宮を 設け 速水神を 祀ると 霊験あらたかで 速やかに 風災は 収まり 五穀豊穣を 得られたので 社号を 風倉大明神Kazekura-daimyoujinと 改めました。そして 明治2年に 風神社 と改名していました。「手作り ひろも今昔物語」

さらに 時が  過ぎ 文永11年(1274年)に が 攻めてきて 文永の役Bunei-no-eki赤坂鳥飼の合戦を皮切り に始まりました。名乗りも上げずに 攻め掛ると言う戦術が全く違う相手に 日本は 危機に陥りますが 台風に 助けられ 勝利しました。弘安4年(1281年)弘安の役は 高麗が 主体の元の襲来で 始まりました。日本は 再び 敗戦の危機に さらされると 風の神を まつる神社に 人々は 参詣しました。広面の風倉大明神は 風穴から大風を起こし 大量の蚊を 博多に 送りました。蒸し暑さと を 嫌う草原の民の 元軍は 陸で寝るのを 嫌がり 海上で 裸で寝ました。大風が 吹き始めると 船が 沈没する事を 防ごうと 元軍は 多くの船同士を で 繋ぎました。船は 強風で 互いに軋み合い 一隻が 沈没すると 隣船を 道連れにしました。祈祷が 功を奏し 台風が 起こり 日本は 再び 勝利しました。国民は この台風を 神風と 呼びました。多くの風の神を 祀る神社の社格は 上げられましたが 風倉大明神社の格は 上げられませんでした。https://ja.wikipedia.org/wiki/元寇」「https://ja.wikipedia.org/wiki/特別攻撃隊」「https://oshiete.goo.ne.jp/qa/1305391.html」「https://ja.wikipedia.org/wiki/神風]「広面 広奥村人より口伝」 更に 更に 時が過ぎ 昭和の大戦争で 日本が アメリカやイギリス等の連合国に 苦戦すると 国民は 神風が 再び起こってくれる事を祈りました。広面の風神社にも 村内の者は 勿論 遠方からも 参詣者が 押しかけました(実際の参詣者は 左程多くなかった ようです。)。しかし 神風は 吹きませんでした。 五十狭芹彦命:大吉備津彦命第二代吉備津彦命 面影道:山陽山陰 鬼:大和朝廷魏国に 対抗する国の民 加夜国:吉備中央町を 含む国 速水神:調査中 走水神社Hadsirimizu-jinjya:神奈川県横須賀市走水2-12-5番地 北緯35度15分41秒東経139度43分51 日本武尊Yamato-Takeru-n-mikoto弟橘媛命Oto-Tatibana-hime-no-mikotoの夫婦神を祀ります。   走水神社H6asiudo-jinjya : 兵庫県神戸市中央区元町通5-6-1番地 北緯34度41分6秒東経135度10分53秒 天照大神 応神天皇 菅原道真を祀ります。   風神社:北緯34度49分18秒東経133度48分35秒    風穴:北緯34度49分9秒東経133度48分42秒     鼓岩:北緯34度49分9秒東経133度48分46秒    風神社と雨坪神社:北緯34度49分18秒東経133度48分35秒 ドンドン山:北緯34度49分7秒東経133度48分47秒 ドンド:広面1277・1278番地 ドンドグチ:広面1467・1468・1471・1472番地 盃状穴Haijyouketu岩に掘られた 蟻地獄状の穴で 縄文時代には 子孫繁栄や 死者の蘇生を 願って掘ったとされます。  鎌倉時代には 魔除けの目的で 作られたとされ、盃状穴信仰 は昭和初期まで 続いたとされますhttps://ja.wikipedia.org/wiki/盃状穴雨坪岩の盃状穴は 風穴を 掘った折りの安全と 有用鉱物の産出を願って 掘ったものと 推測しています。 平成24年(2012)5月7 日

 

著者の桃太郎物語 Stort of Peach boy

昔昔 吉備の国に 温羅と言う 温和な人柄の人が  朝鮮から亡命してやって来て 人々に慕われ 鉄産業を発展させました。大和朝廷は 自分達より吉備国が強くなると 困るので 吉備国の人を 鬼と呼んで 悪さをしていると 言いがかりを付け 征伐軍を 送りましたが 敗戦が 続きました。そこで 桃太郎(大吉備津彦命)を大将にして 吉備国から戦士を 募集すると 一番に猿(楽々森彦命)が 名乗りを上げ 犬(犬飼建)や雉(留霊臣命)を 誘いました。猿と犬が 温羅の城の「鬼の城ki-no-jyou」に いどみましたが 鬼は とても強く 桃太郎軍は 押されがちでした。その様子を 大高山(鼓山)の頂上で見ていた雉は 恐ろしなって 敵を前にしながらも 逃げ出しました。すると 鼓の音が 追いかけて来ました。逃げても逃げても 闇の中でも 鼓の音が 追いかけます。異変に気付いた猿は 物凄い速さで飛んで行き 雉を捕 まえ 戦いの最前線に送り込み 鬼と直接戦わせ 逃げられないように 猿と犬は雉を 見張りました。桃太郎が 温羅を 弓で片目を射抜くと  堪らず 温羅は 命の尽きる前に 一人でも 多く敵を倒そうと 船に乗り 敵陣に切り込もうとしました。しかし 沢山血を流した温羅は 目がくらみ 川に転落してしまいました。温羅は それでも 鯰のように泳いで 川を渡ろうとすると 雉も川に飛び込み  鵜のように泳ぎ  温羅に組付き 一騎打ちとなりました。組んずほずれずの戦いで 温羅と雉は 相打ちになりました。桃太郎は これで鬼達 は降伏すると思いましたが、鬼の子分達は 逆らうばかりです。鷺の巣温泉に 攻めて来ると 傷付き戦えそうもない鬼は  ふしぎな事に 翌日には 元気になり、刃こぼれして 使い物にならなくなった筈の剣は 切れ味良い剣に 戻っていました。桃太郎は 妻を失いがっかりしていました。軍師の鼓彦命は 夜目命の先導で 闇に紛れて 雉を追いかけていた時 鼓を置き忘れました。すると 鼓が大岩に変化していたのです。鼓彦命は 吉備津彦命を  鼓岩に誘い 瞑想するよう提案しました。桃太郎は 猿の娘を 妻に貰い  幾らかは心労を 癒しました。それでも心は 乱れていましたので 心を整え 新たな作戦を 練るために 小高山(大高山の副山oeyama)の鼓岩に 登り 敵状を 視察しました。鼓岩に 登ると ポンポンと 清清しい音がして 心が 研ぎ澄まされました。桃太郎が 瞑想すると 鬼ヶ嶽温泉戦が 思い出され 鬼達は 温泉で 傷を癒し 宇甘川の石を 砥石にして 剣を研ぐ姿が 見えました。そこで猿に 温泉と砥石を 破壊するよう命じました。猿は夜に 飛んでやって来て 砥石岩をひっくり返し(実際には)昭和の圃場整備の時ひっくりかえされました。)に 岩岩に穴を開け 水を出し 温泉に流し込み 冷泉にしてしまいました。鷺の巣の鬼を退治した 桃太郎は 次に化気神社の鬼退治に 向かいました。    桃太郎:五十狭芹命Isa-serihiko-no-mikoto・第2代吉備津彦命Kibituhhiko-no-mikoto大吉備津彦命  鬼ノ城で激しく戦ったのは  五十狭芹彦命の異母兄弟の稚武彦命で  大和朝廷から 吉備津彦命の職を 与えられましたが 兄の立場を 忖度し 直ぐに 兄に 吉備津彦命の座を 譲り 兄を大吉備津彦命と 呼んだとされます。    鬼ノ城:岡山県総社市の鬼城山の鬼ノ城は、白村江の戦い新羅連合軍に 大敗した後 大和朝廷は (日本)の防衛のために 築いた朝鮮式の山城で、吉備津彦命が 攻めた城では ありません。 猿:楽々森彦命 足守の吉川城主 。墓とされる高塚古墳が 吉川忠霊神社の隣地 北緯34度49分15秒133度45分10秒にあります。  一日に  百里 或いは 3千里を 飛び(飛翔と説明する人もいますが、早き走るの意味でしょう。) 岩を 穿ち 水を出させる能力が あったとされます。   雉:留霊臣命 鳥飼部の長    犬:犬飼建 犬飼部の長 瀬戸内海岡山の犬島の住人。     鼓彦命五十狭芹命の軍師。鼓岩に案内し  鼓の音色 で 乱れた 吉備津彦命の心を 鎮めたとされます。  妻:高田姫命: 楽々森彦命の娘 下高田に由来する名前です。  五十狭芹彦命の妃の 百田弓矢比売命Momota-Yumiyahime-no-mikotoの死後 后となったとされます。 鼓神社に祀られます。 闇:五十狭芹命の部下の夜目主命  岡山県倉敷市日差の住民で 闇でも目が 利きました。 大高山Oodaka-yama鼓山吉備中央町広面広奥 岡山市との境 北緯34度49分11秒東経133度49分6秒 鼓神社北緯34度46分34秒東経133度49分33秒 岡山市上高田3628番地 鼓岩:大高山の福山添山の小高山Odaka-yamaの麓のドンドン山の北緯34度49分9秒東経133度48分46秒 鬼ケ嶽温泉:岡山県井原市美星町烏頭 温羅が 温泉に浸り 吉備津彦命から 受けた傷を 湯治しながら 戦ったとされます。 ドンド:広面1277・1278番地 ドンドグチ:広面1467・1472番地等 サキノス:竹荘486・497番地等 砥石岩:竹荘砥石場砥石岩 北緯34度51分2秒東経133度41分38秒近く    砥石岩:竹荘329・538番地 トイシ岩:竹荘333・533番地  平成30年(2018年)1月1日

 

吉川 布郡    龍王様のご利益 Divine favour of Mx.doragon-king

昭和の初めの事です。布郡の前谷の名家の息子は 子供の癖に 父の真似をして 当時まだ 珍しく 高価であった煙草Tabakoを 吸う悪い癖が 付きました。母は 子供が 煙草を吸うのは 成長に悪いと 聞かされ「息子の火遊びを 窘めてtasiname-teくれるよう。」日頃から護っていた けしこ山の 秋葉様に お願いしました。すると 息子の煙草を 挟む手に 疣Iboができました。煙草を 吸う度に 煙草の煙が 触れた所に1個ずつ 増え続け 痒みを 伴い 始めました。ついに 痒くて痒くて 息子は 手足を掻き毟りkakimusiri血が 出る程になりました。「母の祈りを 受けた 秋葉様の祟りだろう。」と 言う事になると 息子は 大いに反省し 火遊びを止め 秋葉様に 詫びwabiを しましたが 疣は  一 向に治りません。ふと 麓を 見ると 龍王山は 西日の影になっている筈hazuなのに 輝いていました。その話を 村の長老に話すと「じゃろう。治らん筈じゃ。秋葉様の祟りで 疣ができる筈がねぇ。わしとお前んとこのお父と 龍王様のお宮を 掃除した時 お前んとこのお父が 息子の火遊びの事で 愚痴Gutiを溢しKobosiとった。 龍王様の祟りじゃ。易ぃ事じゃ。 龍王様に 参りんせぇ。」と 忠告してくれました。それで 母と息子は 龍王宮を 参詣し 龍王宮の手水鉢の水で 手足を 浄め 只管Hitasura謝り 許しを 乞いました。それを見て 父親は「あねぇな汚い水 じゃぁ 余計に 悪くならぁ 止めねぇ..」と 言って笑い飛ばしました。すると 息子の疣が 一つ治ると 父親に 一つ疣が できました。息子の疣が治る度に 父親の疣は 増えて行きました。

2週間もすると 息子の疣は 完治し 手水鉢の水は 使い果たしました。父親は 息子に 疣の治し方を 聞いて 龍王様を 貶しkenasiた事を 反省し 龍王様に 許しを得るために 参詣すると 手水鉢には 清い水が 張られていました。手水鉢の清い水で 手足の疣を 浄めましたが 一向に 良くなりませんでした。諦めてakirame-te 参詣を 止め 痒さを 必死に 耐えていましたが 半年程たって 古郡神社が 不審火で 焼け落ちた時 その顛末Tenmatuを 報告するため 秋葉神社に 参詣すると 龍王山が 輝いました。龍王様に 参ってみると手水鉢の水は 濁っていました。これを見て父親は「龍王様の精霊が 漲ってminagi-tteきている。」と 喜んで 迷いなく 淀んだ水で 手足を浄めると すっかり疣は 治りました。それからは この家族は 秋葉様と龍王様を 大切にお守するようになりました。「吉川布郡のお婆さんより口伝」 布郡龍王宮:龍王山の頂上よりやや手前に 半鐘を 吊るしていた石柱が 立っています。  石柱の右奥 北緯34度50分6秒北東経133度44分18秒に小さな1宮社の龍王宮が 祀られています。龍王宮の手水鉢に溜った水で 皮膚病 特に疣の有る部位を洗うと 治るとされますので 祭神は厄病神であり 病気平癒の神である 素戔嗚命でしょう。 古郡神社:北緯34度49分59秒東経133度44分4秒に建ち 仲彦命を 祀ります。  古い昔 不審火で 焼けたので 社は 建て換えられました。 布郡秋葉神社:吉川山際5963番地の取り合い道の始点の南に、けしこ山に 向かう山道が 有るので 南東方向に登って 途中 鉤の手に左 に折れると 頂上に 辿り着きます。 大岩が ゴロゴロと転がっており 枯れた大木が 散在する平坦地が 有ります。 村の老婆が言う 砂地が 剥き出しになっている所に 建つと言う社に 辿り着けませんででした 。ここから瀬戸内海が 見晴らせるそうです。    けしこ山:北緯34度49分50秒東経133度43分55秒 消し子山と書くのでしょう。 秋葉神社:多くの場合 祭神は 神仏習合の火防Hiyoke 火伏せの神で 秋葉大権現です。(静岡県浜松市天竜区春野町領家841番地 北緯34度58分52秒東経137度51分57秒の秋葉神社の主祭神は 火之迦具土大神Hi-no-Kagututi-no-kamです。 火之迦具土大神・迦遇槌命等:火の神 鍛冶の神 焼き物の神 金属精錬の神 山の神であり 金運 招福 火防等のご利益が 有ります。    疣:パピローマウイルス感染によって 起こり 多くの場合 2年程で 跡形もなく 治ります。広範囲に 疣が 広がる時は 医師の治療を 受けましょう。 疣の神様:文覚上人と巫女」「馬越城」「才の神社」を参照ください 「https://ja.wikipedia.org/wiki/イボ」       

平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が 発行されました。P76 に「まじない」と 言う話題が 載っています。上加茂和田に 榎の大木が あります。「疣疣わたれ  橋ぅ架けて渡れ」と 唱えながら 指で 疣と樹を 何回か指し 最後に 樹に指して 呪いを終わると 疣が治るらしい。 平成26年(2014年)8月9日