松山城戦 立の七人御崎 クラミ坂 鋒ノ乢の供養塔 かつえ坂 陣山の首塚
松山城戦 Matuyamajyou castle battle
「松山城は 戦いに備え 食料の備蓄も多く、大松山の水は 汲めども尽きる事が無く 来年の春まで 籠城Roujyou可能な状態でしたので、城を守る者達は 心を一つに 織田信長の援軍が来るまで 堅守する覚悟でした。三村方には 寄遇人(居候)に浪人、竹井宗左衛門直定と 河原六郎左衛門がいて 三村に深い扶助を 受けていましたが、関西一の知恵者 小早川隆景が 密かに密偵を差し向け、三村元親の信用を 得られずにいた 2人に「裏切れば 高い地位を与える」と 囁かSasayakaせると、二人は 整えられた条件であったので あっさりと 出世の糸口に 飛び付来ました。三村元親は 二人の動きを 不審に思い、怪しげな振る舞いをすれば 処罰しようと 用心をしていましたが、三村元祐(荘 元祐 穂井田元祐) 三村実親(上田実親)が 戦死すると 元親の頼みの綱は 天神丸の守りの将である 石川源左衛門久武(久式)一人に 成りました。
竹井等二人は 石川源左衛門久武(久式)が 元親の深い信頼を得ていたのに 目を付け、元親の信頼を 得ようと 久武に頼るべく 天神丸を訪ね、頻Sikiりに 謀反の意志が 無い事を元親に 伝えてくれるよう 頼みました。久式は 二人の謀略に 気が付かず「この苦しい籠城に 耐えるためには 一人でも多くの兵が 必要である」と 考え、たった従者3人を 携え 三村元親の守る 小松山に 二人の意向を 伝えに行きました。その隙に 少しばかりの蕪靑Busei(蕪菜)を 三宝に盛って 竹井の家来の古屋城(離城小屋城 上竹 北緯34度49分25秒・東経133度39分32秒)の大槻源内 小林又三郎に 持たせ、竹井は「御子 法印殿(勝法師丸・宝剣宮)に 面会したいので 門を開け給え」と 告げると、陣門警護の者は 前以て受けていた 久式の命に従い 城門を 疑いもなく 快く開けました。大槻と 小林は すかさず 奥座敷に駆け込み、久式の妻子を 人質に取りました。主人の妻子を 人質に取られては 家臣の者は 手を下す術もなく 狼狽するばかりでした。その時 土居 工藤 田中 蜂谷 肥田 土師 小屋城の神原等竹荘の侍達数百人が 天神丸に乱入し 占領し、勝鬨Katidokiを 上げました。こうして 三村家は滅び、大槻源内は 小屋城の城主となりました。反乱軍には 竹荘の者は 少ない事を考慮すると、竹井の外交手腕が 推し量られます。この事件を 備中兵乱と 言います「中国太平記」「上房郡史」
知ってますか賀陽町 武者墓:天正2年(1574年)12月の備中兵乱のおり 上竹や 竹荘は 数万の軍勢が 戦うと言う修羅場と なりました。翌年4月4日に 松山城の南方に 位置する鶏足山に 布陣していた 毛利輝元勢の将の宍戸隆家の率いる およそ1万の兵は 谷川に沿って 北に向かい 大月源内の守る離小屋城を 攻撃しました。大月勢は 押しに押され 劣勢になると 離小屋城に 火を放ち 対岸の水砂Mizakoの山中に 逃げ隠れました。夕方になり 毛利軍が 引き上げを 開始すると、地の利を 利用し
山中より襲い掛かりました。不意をつかれた 毛利軍は 指揮が乱れ、土地不案内のため 逃げ惑い 総崩れになりました。この戦いを 竹荘合戦と 呼びます。水砂の谷川の傍らの宝篋印塔は その時の犠牲者の武将の墓と 言われます。 平成31年(2019年)4月25日
案内板には「この塚(祠)は7人御鋒塚と言われ、戦国時代のこの地において 討死(した七人の武士の霊を まつったものである。今から四〇〇年程前の天正二(一五七四)年、備中松山城主、三村元親Mimura-Mototikaが 毛利、宇喜多両軍の攻撃を受けた 備中兵乱の時、当時竹荘の土豪として 三村氏に 従属していた 田中直重は 一族地侍 等数千人を 率い、矢倉畦城に 於いて 毛利の大軍を 迎え討ちよく 戦ったが、天正二年十二月二十七日 落城した。この時 矢倉畦城より 落ちのびた 守兵の内七人は、この土地において 攻撃軍に つかまり、乱戦の中に 討死したという。上地の人々は 悲運の武士の為に 塚を立て、霊をまつった と伝えられている。元の塚は 現在より 南約五〇メートルの処にあったが この度、圃場整備により 塚を移 し新たに 祠を立て 無名非○○○まつられる事になった」と 記されています。田中直重:1500年代の人で、三村家臣でした。天正2年(1574年) 毛利軍の攻撃を 受け、松山城へ 逃げ込みました。 備中矢倉城跡:上竹納地矢倉の北 北緯34度50分38秒・東経133度41分37秒 吉備中央町指定史跡の山城(587m/97m)で、築城時期は 不明ですが、田中盛兼が 鎌倉時代後期に 建てたとされています。天正2年(1574年)の頃の城主は 田中直重で、その後、毛利氏に 奪われ、毛利氏の武将 難波親俊が 入城します。 備中兵乱:宇喜多直家は永禄12年(1569年)織田信長と 結び 主君の浦上宗景に 反旗を翻しHirugaesiました。しかしながら、信長が軍の一部を引くと 浦上家に 敗れ降伏するのですが、なぜか 言い逃れに成功し 助命されました。宇喜多直家は 天正2年(1574年)に 浦上宗景の兄の浦上政宗と 手を結び 策謀を巡らし、入念に根 回し 宗景の配下を 離反させました。宗景と 毛利氏の犬猿の仲を 利用し、天正3年(1575年)年の毛利氏対三村氏戦に毛利氏方として 参戦し 浦上宗景を 再び背きました。天正2年~3年に 掛けて行われた戦いがいわゆる 備中兵乱で、備中全土で 織田氏対毛利氏の代理戦争が 起こりました。同年9月に 浦上宗景を播磨国へ 退け、宇喜多氏は 備前のみならず 備中の一部と 美作の一部に 進出しました。中国地方に勢力を伸ばした 織田信長が 足利将軍を 天正元年(1573年)毛利氏へ追いやると、将軍は 毛利氏と 宇喜多氏を 同盟させました。困ったのは 宇喜多氏に 三村親成を 暗殺され 敵意を露わarawaにする 三村氏です。毛利方に残るべき か織田方に付くか 意見は対立し、三村氏は 2分に分裂し、元親の叔父の三村親成や 竹井直定 等は 毛利方に残り、三村氏本家の三村元親 等は 織田方に付きました。天正2年(1574年)毛利元就の3男 小早川隆景が 備中松山城を 取り囲みました。多勢に 無勢の他 日本一険しく高い位置に 松山城は 有ったため 兵糧攻めには 脆くmoroku 又 竹井直定や 大月七郎左衛門尉信通 等の城内の裏切り者があって 天正3年(1575年)に 落城しました。その後 元親の子の勝法師丸は 山手と 清音の境都窪郡幸山城で 元親の妹の婿の城主 石川久式Isikawa-Hisanoriと 一緒に松山城か ら備前天神山城へ 落ち延びようと しましたが、伊賀左衛門尉久隆の配下の者に 捕えられ 井尻野の毛利本陣の井山宝福寺に 届けられました。その途中勝法師丸は 扇を取り出し「夢の世に 幻の身の生まれ来て 露に宿るか宵のいかづち」と ススッスラと 書いたのです。この有能振りに 触れた久隆は 勝法師丸の助命嘆願を 願い出ましたが、小早川隆景は「有能さ故に 生かして置けば いつかは 毛利家に 刃を 向けられる」と 考え、井山の谷で 殺害を命じました。これ等の戦いを 備中兵乱と総称します。 平成26年(2014年)8月15日
吉川 藤田 クラミ坂 Slope where defeated soldiers had eyes blurred as with hunger
向山古墳 藤田集落の北東部 吉川坂2572番地の西の山道を進み 吉川2572番地の北の墓地の北 北緯34度48分54秒・東経133度44分18秒に 石組みに石柱を立てた 遺構が有り、古墳で あるとされます。かつてこ こ等辺りに 点々と宝篋印塔と 多くの五輪塔が有ったそうです。道の拡幅工事等の理由で ここ等より 藤田上橋の西の変則四差路の一番南の分岐を 南に行き 直ぐ道なりに西に 曲がった所の右手の墓場の東隣地 北緯34度48分56秒・東経133度44分9秒に 集められました「藤田の村人より口伝」。 この藤田の地で 天正2年(1574年)備中兵乱の折り、伊賀軍(毛利方)と 三村軍(備中松山城)が 激しく戦い 敗走し、目が眩む程に 空腹に苦しんで 坂を登った 三村軍に多くの戦死者を 出したとされるので それらの兵の供養塔なのでしょう。この藤田から 西山に登る坂が くらみ坂で 藤田の住民は クラミ坂と呼びます。付近に 伯耆(砂鉄の産地)坂とか勝負(ソブの訛り)乢とか戦いに係りそうな地名がありますが 鉄穴流しannnanagasiに係る地名だろうと推測さ.藤の弦は鉄穴流しに必要な茣蓙のような銑鉄用具の材料です。クラとかクロは砂鉄に係る地名にしばしば使われます。藤田のは恐らく「藤が良く生える場所」と意味でしょう。
鋒の乢の供養碑 藤田集落の藤田上橋で 東に加茂川を渡り、吉川阪2572番地の北に回る道を東に進むと三叉路となり、そこから 北に向かうと 左手奥に墓場が 見えます。この道は そのあたり で舗装が途切れ 山道になります。右手を見ながら登ると 峠になる手前 北緯34度49分0秒・東経133度44分22秒と 想像するあたりに 首塚石碑が 見つかります。南無妙法蓮華経二人🔵首塚 七月十三日 🔵永と 読み取れますが、他の刻字は 読み取れませんでした。安永の頃 池田光政は 徳川幕府の政策と 自らの小神社小寺合祀廃寺政策に基づき 日蓮宗不受不施派を 弾圧しました。藤田村の者は 不受不施派でしたので 村の宗教指導者3名が 捕縛されました。椎木村の沼田庄屋が 岡山藩に対し〔3人がいないと 藤田村の営農が 成り立たないので 赦免して欲しい〕と 願い出ましたが、処刑された」と 藤田の村人は語りました。この時の犠牲者の供養碑が 鋒の乢の供養碑でしょうか。
坂:吉川2457・2569-2572番地 クラミ坂:吉川2493・2680番地等 倉見等の地名は陽の照り具合に関わる地名とされます。黒見の転訛であれば 砂鉄が取れたのでしょう。 鐙坂:吉川2267・2269・2308・2309番地 吉川八幡宮の黒山から遷宮の折り 神馬の鐙が 落ちたと伝説されます。 釼持・剣持堅・物・ケンモツ・堅モツ:吉川1914・2052番地等 八幡宮の大祭の時、その 地の鋒を 迎えに行く途中の峠を 鋒の乢と呼んだと 伝説されます。この時の 太刀持ちを 剣持神と呼び、その役の者が 住んでいた地を 神屋Kamiya(紙屋・屋敷:吉川1885番地 北緯34度48分36秒・東経133度44分38秒 紙屋池:北緯34度48分35秒・東経133度44分35秒・カミヤの多くは金屋の転訛でしょう)と 呼ぶと伝説されます。 鋒ノ乢:吉川3062(北緯34度49分8秒・東経133度44分21秒)・3065番地 剣持橋:北緯34度48分31秒・東経133度44分20秒 藤田集落の南端 勝負乢:吉川2373・2563番地等 備中兵乱と 関る可能性は 否定できませんが、殆んどの勝負 菖蒲地名は ソブの転訛で 水の豊富な処 あるいは 砂鉄の多い処です。藤田集落から 東苅尾に向かう 上り坂(北緯34度48分45秒・東経133度44分22秒)が 伯耆坂(伯耆は有名な砂鉄産地) で峠が勝負乢(北緯34度48分42秒・東経133度44分25秒)で、峠から下る坂(北緯34度48分41秒・東経133度44分28秒)が勝負坂です 本陣山:吉川2387-2389番地 本陣:豊野高下 調査中 平成29年(2017年)3月19日
上竹 かつえ坂 Katuezaka "Slope of hunger"
備中地域に 織田信長の勢力が 及ぶ前、毛利輝元と 宇喜多直家は 対立関係にありましたが、織田信長に 対立した足利義昭将軍によって 同盟を求 められ 織田氏包囲網の一翼を担いました。それによって 困ったのは 毛利氏傘下にあった 備中松山城を護る三村元親でした。永禄9年(1566年)三村元親の父の家親は 浦上宗景の配下の 宇喜多直家によって 暗殺されており、直家を 目の敵にし 明善寺合戦 等で 仇討ちを試みましたが 破れていたからです。直家と 席を同じくする事に 耐えられる筈もなく 遺恨を晴らすべく 元親は 義憤のままに任せ 毛利氏を 離反する決意を しました。毛利氏の恩を重んじる叔父の三村親成と その子の親宣 等は 元親を見限って 松山城を 出奔しました。輝元の叔父の吉川元春の説得にも 元親は「義を重んじない毛利家の将来ない」と して応じませんでした。この年の冬、裏切り者の三村元親を 成敗すべく 毛利輝元は 叔父の小早川隆景を 総大将として備中に向け 8万を派兵し、これにより備中兵乱が 始まりました。
この戦の中、天正3年4月4日 毛利氏の知恵者 宍戸高家は 鶏山城(五龍城の事でしょうか)を 出陣し、元親に 味方する離小屋城を 1万の大軍で 襲いました。離小屋城の戦いでは 大月源内も良く戦いましたが、多勢に無勢、軍力の差は 如何ともしがたく、敗戦の危機が迫ると 城を焼き 大月軍は 敗走し、多くの兵が 毛利軍の追撃の犠牲に なりました。しかし 大月源内は 対岸の水砂に 兵を結集 し隠れ、日の落ちるのを待ちました。日没になり 宍戸軍は 本陣に 退却を始めると、大月軍は 背後からゲリラ攻撃を 加えました。足元の暗さに 逃げる方向を失った 毛利軍を 地の利を生かした 大月軍は 散々に追撃し、宍戸軍は 空腹に堪え 坂を登り続けるしかなく追い詰められました。この時 討たれた中村城主 布寄内蔵正則Huyori-Kura-no-suke-Masayoriなる武将の供養塔が 武者墓で、この坂を かつえ坂と 呼ぶようになりました。後に大月源内は 竹井直定に 誘われ 三村軍を 裏切り 備中松山城陥落の立役者になり、三村元親の予言通り 宇喜多直家は 毛利輝元を裏切り 織田信長天下統一の立役者になりました。「https://ja.wikipedia.org/wiki/備中兵乱」 鶏足山:高梁市松山 備中松山城の南方北緯34度45分47秒・東経133度37分44秒 離小屋城:上竹小ヤ5718番地を左(南々東)に進んだ所が離城小屋城跡 北緯34度49分25秒・東経133度39分32秒です。三村氏に 代々仕える竹井宗左衛門直定の下に 仕える武士の 大月七郎左衛門が 城主とされ、又 松山城主で あったとされます。又松山城主であった 庄為資Syou-Tamesukeが 城に来てその子の庄信繁(大槻源内信繁)が 跡を継ぎました。信繁の子に 喜兵衛信正 七右衛門正繁 弥太郎がおり、七右衛門正繁の子は 七右衛門久繁です。天正2年(1574年)離小屋城は 三村氏の傘下に入る 国吉城を 助けます。それに対抗し、誰かは 解りませんが 毛利氏の者が 宍戸備前守を大将にして 軍を整え 備中に 攻めてきました。「上房郡史」 宍戸隆家:五龍城の8代城主 宍戸氏は 安芸国の国人で 代々毛利家と 対立していましたが、毛利元就の次女 五龍局を 妻として迎え、毛利両川(毛利輝元 吉川元春 小早川隆景)と 軍事行動を 共にしました。隆家は 伊予国 河野氏一族に 娘を嫁がせる等し、元就をして 宍戸隆家を一門同様として 扱うように 長男 隆元 等に命じました。隆家は 次女が 吉川元春の嫡男 吉川元長正室に、三女が 毛利輝元の正室 としました。 武者墓:上竹猿目橋の南の川向こうの原 北緯34度49分26秒・東経133度40分17秒 功徳山大村寺:大村公会堂の約400m北方 北緯34度50分5秒・東経秒付近 上竹5600番地 中村城:真庭市一色 北緯34度59分40秒・東経133度41分54秒 城主に 三輪与惣兵衛の名が 残ります。 かつえ坂・飢え坂:上竹の俵原池 (北緯34度50分56秒 ・東経133度39分3秒)の西南西約420mの山道の分岐 (北緯34度50分55秒・東経133度39分3秒)から 陣山(北緯34度50分50秒・東経133度38分49秒 標高469m強 )吉備中央町と高梁市の境)に登る坂。 水呑場:上竹6208・6211番地 知ってますか賀陽町 陣山の首塚:永禄3年(1560年)松山城主の庄勝資Syou-Katusukeは 竹荘に進出して来た 伊賀久隆勢を 討伐するため 地蔵ヶ鼻辺りで 数度に渡り 激戦しました。当時 成羽城主であった 三村家親Mimura-Ietikaは 毛利元就と 組んで 松山城の手薄を狙って 庄高資Syou-Takasukeを 攻略しました。この知らせを聞いた竹荘に 展開していた勝資軍は 総崩れになり、陣山に 陣を張ってい た尼子晴久 義久を 頼ろうとして 逃れました。しかし 疲労死と 飢え死に 加えて 虎倉勢(伊賀勢)に 追撃され数知れない兵が 討ち取られました。大村寺の僧侶達 は遺骸を拾い集め葬り、首の数だか石を積んで 塚を作りました。 平成29年(2017年)4月10日
陣山の首塚 Burial mound for severed heads on Jinyama mountain
陣山は上竹荘有津井と巨瀬の境 北緯34度50分50秒・東経133度38分49秒にあります。永禄3年(1560年) 尼子氏傘下の庄兵部大輔勝資が虎倉城の伊賀氏の支配地の竹荘を攻めるため陣山に陣を張りました。両軍は地蔵ヶ鼻で激しく交戦しましたが、地蔵ヶ鼻の三面は湿原で人も馬も俊敏に移動できず、勝負は容易に決着しませんでした。戦いの最中には庄軍の主力は地蔵ヶ鼻に出陣していたため松山城の庄勢は100名程で手薄でした。この報告を聞くと三村家親は毛利軍を案内して松山城に攻めかかりいとも容易に落としました。城将 の庄高資はこの時撃ち取られました。この報告を聞いて地蔵ヶ鼻で戦っていた庄軍の兵士達は意気消沈し主将は元より先を争って尼子氏の本陣 陣山に向け庄軍は敗走しました。竹荘軍の追撃は急迫を極めたため庄軍の多数の敗走者は疲労し 且つ腹を空かしていたので反撃できず次々と討ち取られました。戦いが終わると大村寺の僧侶達はそこここに放置された庄軍の兵士の遺骨を拾い集め、陣山に遺骨一体につき1個の石を積み上げ供養したと言われます。そのためこれ等の積岩を首塚と呼び、庄軍が敗走中に空腹に苦しめられた坂を飢へ坂(かつえざか)と呼びます。「賀陽町史追補版p794」
俵原集落より 幾つかの道順が 有りますが、集落より 西に向うと、北緯34度50分43秒・東経133度39分14秒に 北に向かう山道が有ります。山道に入ると 直ぐに大きく左に 道は曲がります。北 に向かう山道を暫く 進むと、変則5叉路が 有るので、鉄塔を 目標にして 一番左の西に向う道を 登ると、陣山頂上を 左に見て 小さい墓標を 思わせる石が2個 立っています。築地の山道を 暫く進むと右手 に取り合い道があり 石組みが見え、陣山首塚の案内板が 立っています。茂みの奥に 首塚があります。 飢へ坂:俵原から陣山に登る坂 俵原集落:北緯34度50分47秒・東経133度39分31秒 変則5叉路:北緯34度50分55秒・東経133度39分3秒の山の中 鉄塔:北緯34度50分47秒・東経133度39分7秒 4個の巨石:北緯34度50分43秒・東経133度36分51秒 平成26年(2014年)4月23日