青木の祠 松と萌の恋 足王様のご利益 お金のお足 円城寺の火事 火を見たら煽げ 水谷の酒屋 分限者争い 田辺九朗と浜の隼人 危険なお飯事 提婆宮の恨み釘 松本屋の反省 恨み釘の功名 美恵と土師の怨み釘 破談の訳を知りたい  

井原 青木の祠 Aoki-small shrine

元 鷲林寺(宗林寺)は 和田素盞嗚神社Susa-no-o-no-jinjyaの北側の高峰 宗林山頂に有りました。中世当地の式部伊賀氏の氏寺として 大きくなり、室町時代に 井原の青木 に下山しました。現在は 青木の祠という名の小堂が あるだけです。「加茂川町史」 青木の祠の近くには 立派な古墳でしたが  現在は 大半が 破壊され 畑等になっている丘が ありまです。「昭和初期 子供達が遊んでいて この古墳から須恵器 等の土器が掘りだした。」と されました。「青木の村人より口伝」    平成26年(2014年)10月18日

 


松と萌の恋物語 Love story Of Mr.Matu and Miss.Moe

大正の初め頃  井原に「松」と 言う少年が いました。腕白者で 毎日井原の山を 駆け回っていました。宗林寺跡に 小さい仏像が 数尊あるだけの 小さな青木の祠がありました。青木の祠の前には 小高い丘の古墳があり 丘の中腹には 畑 等が 造られていました。松は この日 遊ぶ相手がいなかったので この丘で 空想豊かに 一人で 遊んでいました。土で 塞がれた 室が あったので 戦争ごっこの時に使う隠れ家にしようと 底を 掘り広げました。すると 素焼きの壺が 出てき その造形の美しさに身震いしました。その日から 松は 泥遊びが好きになり どうしたら あの造形美が 生まれるのか 研究し始めました。

研究に 明け暮れし 遠くの町まで 参考資料を 求めて 出掛けました。その帰り道 萌と言う 近所の少女が 不良に 囲まれ「金を貸してくれ。」と お金を強請られてneda-rareteいました。萌は 恐れ「持ち合わせが ありません。」と 言いながらも お小遣いを 差し出そうと 懐を 探していました。その時 松が 悠然と その中に割って入って構え「持ってねぇと言ってるじゃろう。何なら 探せられぇ。まず 俺の方からにしろ。」と 両手を 広げ胸を 張りました。この勢いに 不良共は 臆したと見え 捨て台詞Sutye-zerihuを 吐いて立ち 去りました。それまで 萌は 松を 威張りん坊の 独り善がりの 嫌な奴と 思って 避けていたのですが「世渡り下手betaの 実直で 正義感の強い 信用できる男だ。」と 解り 胸が 締め付けられるような感覚に 襲われました。松は 何も言わず 立ち去ろうとするのですが 萌は 後に付いて行き 松の研究場所を 知り 研究の手伝いを 始めました。

仕方なさそうに しながらも 松は萌に「ああしろ。 こうしろ。 失敗じゃ。 萌のせいじゃ。」と 無茶を言いますが萌は 嬉しそうに 笑いながら 従ったのです。村の少女達は 威張りん坊の松に 彼女ができた事に 不思議がりました。そして大人になり 松は素直な萌が 気に入り 萌を 娶り 窯を 新造 し 花活けや 香炉や 有り難い仏具を 作り 青木の祠に 寄進しました。2人きりの時は 萌えに 頭が 上がらないのですが 人前では 相変らず 松は乱暴な 口調で 萌に命令し 奴隷の如くに 従わせていて それでも 事あると 萌の失敗を 一身に 受け 男らしく 妻を守る姿を 見て 村人は「これぞ備前の男の手本。」と 褒め讃えました。「青木の村人より口伝」 登場人物の名前は変更してあります。 青木の祠: 北緯34度53分37秒東経133度45分22秒 牛頭山宗林寺:加賀郡吉備中央町下加茂田中 2046番地 北緯34度51分31秒東経133度48分51秒に建つ 真言宗御室派の寺院で ご本尊は 聖観音です。 和田素盞嗚神社:吉備中央町和田青木山129番地、林道宮の谷線の終点 北緯34度53分31秒東経133度44分50秒付近に建ちます。 通称を山王様と言われ農業振興 病気平癒 交通安全が御紳徳です。    丘になった古墳:北緯34度53分42.秒東経133度45分18秒    辻堂:井原877番地    青木後觀現西:井原892番地        平成26年(2014年)10月18日

 

上田東 足王様のご利益 Divine favour by Asiou-sama

足王様の由来書に「 江戸時代 この辺りは 備前国加茂長田庄上田村と 呼ばれ 足王大権現堂沿いの道は 旧街道の津山 久世 西川 円城 金川 又は 足守 岡山へと繋がり この地の人々は「 足が痛くなれば 足王様へ。」と 言われる程 皆に 親しまれる神様でした。その頃は 旅人や牛馬の往来が 絶え間なく ある若武者が 足を痛め 歩けなくなり 籠もり堂で 祈願し 無事 お役目を果たした。若武者は お禮に 草鞋を作り 籠もり堂の腔壁に 吊るした と言う話しが 伝わり 広く 大願成就のNobori幟やWaraji草鞋が 足王堂の壁全面に 吊るされていたそうです。 現在も 人々に 受け継がれ 親しまれています。」「足王様の由来の 案内版には「ここは 江戸時代 備前と作州を結ぶ往来で 交通の要衝として 利用され 旅人の足の疲れや 病を治す神として この地に祀られ 祭神は 足王大権現と 伝えられ 通称足王様と 呼ばれている。   近年でも  足の悩みのあるひとは 近遠各地から 訪れ 祈願成就の草履や幟や 草が 数多くそなえられている。」と 書かれています。足王様に 足が悪くお参りできな い人や 参詣の途中に 病気になったり 怪我kegaをする等で 引き返さなければなら なくなった時 草鞋に 添え書きし 道端 に置いておくと 足王様方向に 向かう 者が 途中まで 運んでくれました。道が 逸れるsoreru前の道端に 置かれた祈願書は  こうして 次々に運ばれ 最後には 足王 様に 届けられ 代わりに 祈願したと 伝 えられます。金毘羅代参に 似ていますが、狗代参Inu-Daisan等は なかったようです。「上田東 湯武の旅人より口伝」 平成23年(2011年)8月15日

44代天明天皇の頃  和銅6年(713年)に 三宅藤麻呂と言う侍が 国史編修のため、長田庄の様子を 見にやって来ると 村人は 鬼に苦しめられていました。強そうな若侍を 見て 村人は 鬼退治を願い出ると 快く引き受けてくれました。鬼が 藤麻呂に 襲い掛かり取っ組み合いとなり さすがの 藤麻呂も 鬼の強さに 手を余し 不利となると 藤麿の危険を救うために 突然 勇敢な犬が飛び出し 鬼の足首に 喰いつきました。驚いた鬼は 犬を 振り払い 投飛ばそうとしましたが 犬は噛み付いた鬼の足首を 離さなかったので 鬼の足は 食いちぎられました。動きが制限された所に 藤麿は すかさず太刀を振り 止めを刺すと 鬼は 息絶えました。この戦いで 藤麻呂は 足を 痛め 歩けなくなったので 天皇に 命じられた 長田庄の検分が 遅れそうになりました。鬼退治した 藤麻呂に 感謝した村人達は 天下の一大事に 責任を感じ 代わる代わる 藤麻呂を 背負って 足王様に 向かいました。

何人もの村人に 背負われ 足王様に 辿り着き  お堂に 篭もり祈願すると 瞬く間に 足の傷は 回復したので 藤麻呂は 大わらじを作り足王様に奉納しました。 こうして足王代参と 履物奉納の習慣が生まれました。その時の瓢と言う名の 犬は 左足がバラバラに 折れていて 回復不可能と 思われましたが 賢い犬だったので 足王様に 平癒祈願すると1か月半もすると 奇跡的に自由に 足を使えるようになりました。すると 怪我が 治った左足を誇らしげに 思い切り高く上げて 小便をするようになりました。瓢は足王様の霊験の籠った左足に 不浄な 小便が 掛からないよう 用心して 左足を上げて 用を足していたのです。この姿は とても男らしかったので 雌犬達の憧れの的となり 若い雄犬達は 羨望の眼差しManazasiを 向け 挙っkozotteて真似し 今では 世界中の雄犬や 男勝りの 雌犬迄もが 片足を上げて 小便をするようになった そうな。三宅藤麿の鬼退治伝説「上田東 湯武の旅人より口伝」    平成23年(2011年)8月15日

 

お金のお足 legs of Oasi( money ) 昔 貧乏な宿屋が 有りました。「客が来ん。お足(お金)が 直ぐに飛んで行く。」と 宿の女将が 嘆いていました。それを聞いた 小さい息子は「お金に 足があって 足が 丈夫じゃけぇ おえんのじゃ」。」と 思いました。「ならば お金の足を 傷めりゃぁ 逃げて行かんじゃろう。」と思い、足王様に お参りしました。家から 親に内緒で 持ち出したお金を お賽銭O-Saisenにし「家のお金の足を 全部使えんようにしてつかぁっせぇ。」と 拝みました。お賽銭のお札は 息子が 急いで持ち出したので グシャグシャになっていました。足王様は 普段は 姿を見せないのですが 息子が お金を大切に扱わず グシャグシャにした事が 許すに 許せず 激しく怒り「何じゃ。 お金ぅ 粗末に扱うて 。この罰当りがぁ。」と 大声を上げ うっかり姿を 現してしまいました。息子は 息子で 必死ですので 一度は 吃驚bikkuriして 飛び退きましたが 神様が 出て来てれたので 大喜びし「神様お願eぇします。」と 気を 取り直し すかさず 足王様の脚に 縋り(さばり付きました。足王様は そのあましを喰らって スッテンコロリと 不覚にも 転んだのです。足王様は 足の神様ですから 絶対に転んではいけないのです。「あっ。 御免なさい。足王様がこけるたぁ 思わんかった。 神様じゃもの。足王様ぁ こけさせた罪ぅ お許しくだされぇ。 お許しを。」と 息子が 許しを乞ったのですが 以外にも 足王様は「シッ。。 シッ。 内緒Naisyoにしてくれ。 童Warasi様の手に けっぱんじいて こけた事ぁ 誰にも 話さんでくだされ。足の神としちぁ 恥ずかしゅうて叶わ\ん。」と 頭を 床に付け 息子に 頼んだのです。息子が「神様が頭ぁ下げて頼みなさるんじゃ 。絶対に口外ばぁしません。」と 承諾すると 不思議な事に その日から その貧乏な宿屋の近くの坂に 旅の人が近付くと  何故(nazeか 足が 俄かにNiwaka-ni怠くなり 休みたくなっ て宿を 取るようになったのです。それで 足王様も 宿も 末永く栄えましたそうな。 「三谷野呂の百怪談」  平成23年(2011年)8月15日

 

円城 円城寺の火事 Fire of Enjyou-ji temple

本宮山正法寺は 鎌倉中期の弘安5年(1282年)に 全堂を 焼失しましたが 翌年現在の地に 再建され、円城寺と 改名しました。徳川末期 天保四年(1833年 )民家からの出火で 寺を 含め 町並全部が 類焼し 仏具 仏像 書類も 失いました。「円城寺ホームページ」  円城寺は 円城寺屋敷 北緯34度53分31秒東経133度48分21秒に建ちます。昭和30年(1955年)頃と 思われますが 門前の廃屋から 大正15年(1926年)に 行われた会陽の時のものらしい シンギ(神木)が 発見されました。西大寺観音院と同じような 会陽を していたのでしょう。福男に 当たる者は 米3俵 酒3樽 鏡餅3重 提灯1張りで 讃えられたようです。由来は 解りませんが 円城寺の本尊は 千手観音菩薩ですので、西大寺観音院会陽と同様の由来を持つのでしょう。digioka.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kenmin/eyo/eyo-jisya-bizen18.ht」      平成25年(2013年)6月15日

観音西大寺観音院会陽 Kannonin-Eyo of Saidaiji

左写真は本宮山円城寺の会陽御神木です。 

西大寺観音院の会陽は 会陽は事始め(3週間前)から始まり 宝木(Singi 神木)取りを 行ない 翌日に一対の 宝木削りをし 宝木を 完成 させはす。14日前から修正会(本尊千手観世音の宝前で 国家安穏・五穀豊穣・万民豊楽の祈り)褌姿(衣服を 引き合うと 怪我の元)の参加者は 仁王門から 水垢離場に向い 冷水を浴び 旧年の厄を 落とし 水玉所に向い裸五大明王を即ち牛玉所大権現の守護を受け御福窓からの牛玉西大寺寶印」を巻き付けた 宝木投下を 本堂で待ちます。まず 午後3時後半頃から 伝統を 後世に次ぐためにb子供祭(1.2年生…餅投げ・3.4年生…五福筒・5.6年生…宝筒)を行ない 福男 福女を 決めます。「男の祭り」に備え 午後7時頃 白衣姿の 女性群 垢離取を 済ませ会陽太鼓[ 祭りに開始」を 打ち 心の炎を燃やしている 男達を 鼓舞するため「炎祷」と「龍神」の演奏を繰り返します。夜の深けると 裸のお男達の ワッショワッショの掛け声が 始まります。4日間の修正会が結願し 御福窓より 裸の男に向け 院主が 宝木を 投下すると 難い争奪戦が 展開し 勇壮無比の 男達の渦ができます。その御福Gohukuを受けようとする 3万人程の参拝者も 興奮の渦を 作ります。宝木を得た 福男は 祝い主の元はに走り 宝木納めの祝い式を 受けます。このような会陽は かつて岡山 香川の27寺で 行われていたようです。平成18年(2006年)には 大人の神木の争奪を 行なっているの は西大寺観音院』金山寺 安養寺の3寺院だけに 成りました。本宮山円城寺でも 観音院会陽を行なっていましたが 資料が 残っていないので 会場がどこで 福窓がどこであるか 分からなく なったそうです。恐らく 会場は 本堂前で 垢離取りは場は 観音池であったでしょう。争奪会陽で 競り獲った者は 木を山門の仁王像に握らせる風習があったそうです。「西大寺(観音院)|日本三大奇祭「裸祭り」が開催されるお寺【岡山市東区】 | 岡山スタイル」「西大寺会陽(はだか祭り) | イベント | 【公式】岡山市の観光情報サイト OKAYAMA KANKO .net」「会陽行事日程と会場案内 | 西大寺(観音院)-岡山県

 令和6年()2025年 元旦 

 

 火を見たら煽げ BEAT AS SOON AS YOU LOOK AT A FIRE

昔 少しばかり頭の巡りに 問題を持つ少年が 円城に住んでました。ある日 岡山の金陵山西大寺観音院の裸祭りを 見に連れて行ってもらうと 裸のお兄さん達が 鉢巻(hatimakiをして 汗をかきながら 揉みmomi合っていました。お父さんは「鉢巻のお兄さん達ぁ 汗ぇかいとって 暑そうじゃ  水ぅ掛けてあげんせぇ。」と 言ったので、水を掛けてあげると 感謝されました。頭のよろしくない子は 汗をかいている時は 水を掛けてあげるものだと 思いました。次の日 円城寺の門前で 鉢巻をした小父さんが 団扇utiwaで 炎の立ちあがる炭火を煽ぎaogi  汗をかきながら  鰻を焼いていました。鉢巻をして 暑そうに汗をかいていたので 男の子は 炭に水を掛 けてやりました。すると 小父さんは「アンゴウ垂れ。 何ぅするか。 火ぃつけて焼いとる時ぁ 団扇で煽ぐもんじゃ。今度 火ぃ見たら煽ぎんせぇ。」と 叱りました。頭の悪い子は 猛る火を見たら 煽がないといけないものだと 思いました。次の日  あの焼き鰻屋の焼け木抗から 火が 付いたかどうかは 定かでありませんが 円城寺が 火事になりました。男の子は 火が付いてお寺を 焼く激しい火が見えたので 大きな団扇で 煽 ぎました。すると皆は「何ぅする。鉢巻ぃして 汗をかき しいしい働いとる時ぁ 水ぅ掛けるんを テゴぅするもんじゃ。」と 叱りました。薄ぼんやりの子は  頭がこんがらがって 何が何だか 分からなくなってしまい、泣いて家に 帰りました。お母さんが 優しく迎えてくれ「お前は お馬鹿さんだから 何をする時も して良えか 悪いんか 尋ねてから 司祭んさい。」と 言いました。次の日から「起きても良ぇ。」「顔を洗っても良ぇ。」「御飯ぅ 食うても良ぇ。」・・・・・・・・と 何でも 尋ねられて困った お母さんは 頭を抱え「いい加減にせられぇ。 馬鹿に付ける薬りゃぁ無ぇ。」と 言いました。すると男の子は「馬鹿に 効く飲み薬aぁ あるんか。」 と 尋ねると、お母さんは「 馬鹿ぁ 死なにゃぁ 治らんのじゃ。いい加減に せられぇ.」と 答えました。お馬鹿さんは「いい加減にして いかったんなら いい加減にすらぁ。」と言って あんぽんたんを 治そうとしませんでした。「三谷野呂の百怪談」

裸祭り:北緯34度39分13秒東経134度6分 17秒の岡山金陵山西大寺の観音院で毎年2月の第3土曜日の夜に行われます  本堂御福窓から 住職が投下する2本の宝木Singiを 香の臭いを頼りに、裸の集団が 争奪戦を行ないますの宝木を得た者を 福男と呼び、福が得られます。夜には花火をし、2週間のあと祭りをしますwww.city.okayama.jp/higashiku/soumu/soumu_00102.html」    会陽:お正月行事の終了時に 信徒に 牛玉Goou(厄除けの護符)を 配る行事だったようです 岡山県内13ヶ所で 行われています  かつては103ヶ所であったと記録されます https://higashi-okayama.mypl.net/mp/eyou_higashi-okayama/?sid=53559

平成23年(2011年)7月31日平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利吉備中央町図書館 吉備人出版】が発行されました。P201に「水谷の酒屋」P264に「住職が白蛇を見ると死ぬ」P201「水谷の酒屋」の話が 載っています。P331に「円城寺の庫裡」と 言う昔話が載っていて、円城寺の住職宅は神瀬水谷で潰れた酒屋の酒蔵を壊した廃材で建てられた由がしたためられています。   平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。P77に「円城寺の大火事と提婆狐」という物語が 載っています。江戸の終わり頃 茶屋を除き 円城寺の門前町が ほぼ焼けました。この時 提婆宮の狐が 鳴いて報せました。地蔵院と医王院は 焼け残り円城寺から独立した由が 書かれています。  平成25年(2013年)6月15日

 

水谷の酒屋  Sake dealer in mizu-tani

旭川に近い 水谷に 富永で成功した酒屋が 降りて来て 前にも増して繁盛していましたが 将来も 繁盛が続くか 心配になりました。祈祷師に頼んで 将来を占ってもらうと「心配はいらん。 旭川が 逆さに 流れるようにならん限り 繁盛する。 じゃが もしも 逆さに流れた時ぁ 大損するけぇ財ぅ失のう前に 廃業しなされ」。」と 神のお告げを 受け間した。酒屋は[ 旭川が逆流する等 ある筈がな。」」と その後も商売に精を出していました。酒屋は 清潔な着物で 接客しないと 信用を失うので 大勢の雇人の洗濯物が 毎日沢山出ました。ある日 二人の女中が 旭川の岩場に来て 足踏み洗濯を 始めました。

何分にも洗濯物が多いので 数か所に 洗濯物を分け 踏み洗いしては 川の澱で 水の流れを利用して 濯いでいました。すると 澱みに浸けていた洗濯物が 川上に向かって 移動したのです。無事に 洗い終わった 洗濯物を持って 酒屋に帰って干していると 店主がやって来て「旭川の流れの様子は どうじゃった。」と 尋ねました。女中達は「水嵩も丁度良うて 塩梅よう 洗濯ぅできました。」と 答えました。安心したように店の中に店主が入ろうとすると 女中達が「旦那さんは 変な事ぅ 気にするのね。」「着物が 川上に流れたんを 予期していたんかしら。」と 話し合いました。それを聞いた 店主は 真っ青な顔になって 慌てて戻って来て「ほんまか。  着物が川上に 流れ短歌。 この事ぁ 誰にも言うな  。明日にゃぁ 酒屋ぁたたんで 百姓になる。お前達だけぁ 必ず 今より良ぇ条件で 再雇用しちゃるけぇ。 誰にも言うな。」と 念を入れて 頼むのです。女中達は「川の澱みぁ 水が還流する事ぁ 当たり前。」と 知っていたので 主人の慌てぶりを 不思議に思いましたが「前よりゃぁ 良ぇ条件で雇ってもらえる.」と 信じたので 誰にも内緒にしました。次の日  店主は 酒屋を売り出すと 繁盛していたので 買い手が押し寄せ 高く売る事ができました。処が 不思議な事に店主が変わると 客が遠の き 酒屋は破産し 大きな店と 屋敷は空き家となりました。勿体ないと言う事になって 円城寺が火事にあって全焼した時 酒蔵の材木で 再興を図ったそうです。「円城を参詣していた人より口伝」      平成25年(2013年)6月15日

 

  円城 分限者争い Competition in rich

昔の庄屋や 商人には 物凄いお金持ちが いました。昭和40年頃 円城寺の経典を納める 宝篋印塔が 崩れ その下から 土偶物が 顔を出しました。そこで お寺は 土偶仏を発掘し 宝篋印塔を 改修する事に 成りました。その時 稚児の列を先頭にし 住職を挟んで 後方に 更に稚児の列を行進させる事 にしました。昔の円城寺は 塔中14ヶ坊 が ありましたので 沢山の修行のお坊さん 即ち 稚児がいたのですが 宝篋印塔修理の頃の稚児は 幼い少年 少女です。宮坂Miyazakoの田辺の九朗と上光寺Jyoukoujiの浜の野隼人が 稚児行列の道に 銭を 敷き詰め 分限者を競い合いました。「円城寺に伝わる話」  平成23年(2011年)10月4日

 

田辺九朗と浜隼人の分限者争い物語 story of  COMPETITION IN RICH between Tanabe-no-Kurou and Hama-no-Hayato

円城寺の経典を納める 宝篋印塔が崩れ 昭和40年頃 その下から土偶物が 顔を出しました。そこで お寺は 土偶仏を発掘し 宝篋印塔を改修する事に 成りました。その時 稚児の列を先頭にし住職を挟んで 後方に 更に稚児の列を行進させる事に しました。宝篋印塔の改修や 稚児行列には 大変なお金が 掛かりました。困っているお寺に 見栄っ張りの 浜の隼人と言う人と  田辺の九郎と 言う 二人の分限者が「わしが 一番ぎょうさんお金ぅ 円城寺に 布施すらぁ。」と 言って来ました。二人は 布施の額を 競い合い 競争に切りが 付きません。お寺の住職は 嬉しいやら 困るやら 困惑していました。すると修行中の 少しお頭Tumuの怪しい 小坊主が 休憩の間のお茶を 運んで来て「そぎゃぁに お金が有るんなら 稚児行列の路ぅ お金で敷き詰められるなぁ。」と 言いました。住職は「あんごうな事ぅ言うもんじゃねぇ。仏様の前で 意地汚ぇ事が できるもんか。お二人様ぁ。こりゃぁ茶番ですけぇ 茶番坊主の言うた ご無礼ぇ 聞き流してくだされぇ。」と 言うと隼人が すかさず「茶番の坊主ぁ 良ぇ事ぅ言う。その茶番劇ぁ 面白ぇ。見物じゃ。わしぁ 銭ぅ稚児行列の道の 右半分に 敷くけぇ 田辺の九郎殿ぁ 左半分に 敷かれぇ。引き分けになるんは ちいとばぁ 心残りじゃが 参詣者ぁ喜ぶし わし等の面子も 保てようと言うもんじゃ。」と 言いました。

九郎は「名前通り、隼Hayabusaの様な 素早ぇお人じゃのう。 わしもそう思うたんじゃ。  先に言い出した 隼人殿に 勝ちぅ譲って 銭ぅ 1枚だけ 少のぅ敷こう。せぇでどじゃ。」と応じました。住職は 激しく競い合った者同士に 友情が 芽生えた事を悟って 賛同しました。出店の並ぶ中 敷き詰められた 銭の御神渡りを  踊りながら 太鼓が叩かれ 鬼の面を着けた獅子が 舞い踊り 琴 尺八に 山伏の吹く法螺貝Horagaiや 稚児が振る 鈴の音が 鳴り響き 幟旗を翻し 神輿を中心に進む 稚児行列は それは それは 華やかな行事になって 円城寺が ますます栄える事を祈り 五穀豊穣を 願い 餅投げで 終了しました。「円城寺に伝わる昔話」   本宮山円城寺:北緯34度53分31秒東経133度48分21秒 稚児行列:本来は若い前髪の残る修業僧の行列ですが 現在では少年少女の列と理解されています。 浜の隼人・濱・浜:豊岡上465・482(北緯34度54分7秒東経133度45分50秒)520番地等 付近の豪農 田辺九郎:新山宮坂Miyazakoの豪族 田辺屋敷跡が残ります。 財産の在り処を 家族の者にも 知られたくて 7人の奉公人に 財産を持たせ 智日神社Tiribi-jinjyaの杜Ohuroに隠し 財産を運んだ7人を殺して埋め 7人御崎の墓標が 建てました。「吉備中央町の民話(1)」 田辺屋敷:尾原 北緯34度55分4秒東経133度44分32秒    田邊・田辺:尾原2102・2194(北緯34度55分1秒東経133度44分32秒)・2202番地等  宝篋印塔:宝篋印陀羅尼経Houkyou-Indarani-kyouを 納める石の塔 を 言います。  しかし実際には 他の経や 舎利 例えば法華経 等を 納めています。 後世には 供養塔や 墓標として建てられました。        平成23年(2011年)10月4日

 

円城 危険なお飯事 Dangerous playing house

昭和40年頃、円城寺宝篋印塔Houkyouin-touの台座下の石室が 壊れ 小さい土偶仏が 沢山出てきました。近所の悪たれ小僧が 玩具Omotyaにして遊んでいましたが 祟りTatariがあって 恐れた親は 土偶を観音池に 返しました。だから今でも 弁天池の底に 沢山の土偶仏が 沈んでいるのです。後に 昭和43年(1968年)の篋印塔改修の時 5000体程の土偶仏が 発見されました。「円城寺住職より口伝」

 円成寺の宝篋印塔が 壊れかけた時に 小さいお人形が沢山 出て来ました。村の腕白)坊主共が 喜んで拾って来て お友達の女の子に あげました。女の子が「赤ちゃんみたいで かわいい。」と 喜ぶので お人形を赤ちゃんにして お飯事Omamagotoを して遊びましした。赤ちゃんが 生まれたおめでたい出来事になったのですから お赤飯を 作りました。近くの畑に有った 赤い野菜を 取って来て 手で小さく千切って 小豆を作り 砂の御飯に 混ぜました。勿論お 酒代わりの飲み物のお茶には 利尿作用があります。男の子は お祝い事と言われて 沢山お茶のお酒を 飲まされました。男の子が「ああ 食った 。食った。 飲んだ。 飲んだ。 朽ちぃなぁ。 さぁ。 寝るか。」とお 父さんの癖を 真似すると 女の子は「おませさん・・ もう 暗くなるから帰る。」と 家に帰ってしまいました。取り残された男の子は お父さんの真似をして「この中途半端歯ぁどうしてくれる。」と 呟きながら 飲み過ぎたお茶のお酒の所為で オシッコをしたくなりました。お寺の門前でオシッコをして 尿意の気持ち悪さを解消し サパサパした気持ちで 家に帰りました。ところが 家に帰ると 男の子の オチンチンが 赤く腫れたのです。

男の子が「オチンチンが 赤ぅなって痛ぇんじゃ。」と 言うと お父さんは「本真Honmaじゃ。オチンチンが トンガラシになっとる。 何ぅした。まさか。円城寺の土偶仏ぅ おもちゃにして遊んだんか。 寺の境内でオシッコしたんか。オチンチンがトンガラシになったんは 仏様の祟りじゃ。 弁天様ぁトイレの神様じゃけぇオチンチンの病気を 治してくれよう。早う円城寺の弁天池にいけぇ。和尚に謝って お祓いしてもらいねぇ。」と 言って息子を 円城寺に 行かせました。男の子は「和尚に 見つかりゃぁ叱られる。弁天様ぁ。許しておくれぇ。悪いが 池に戻すけぇ 許してちょうでぇ。」と 弁天池に 土偶仏を 投げ入れました。和尚が それを見ていて「弁天様ぁ 気難しい  怒るぞ」。」と 脅すので 男の子は「畑の実で お赤飯作って 人形を赤ちゃんにして お飯事したら おチンチン が 腫れた。」と正直に言うと 和尚はしたり顔で「じゃろう。 そりゃぁ 仏の祟りじゃ。 弁天様の聖水で 手とオチンチンを 丁寧Teineiに 洗われい。」と 言うのです。男の子は 和尚の言う通りに 弁天池の水を 手に掬い 手とオチンチンを 丁寧に洗い 和尚が用意してくれた手拭いで丁寧に拭きました。すると 急に楽になった様子を見て 和尚は「仏様のご利益ぁ 霊験あらたかじゃろう。」と 胸を張りました。男の子は「弁天様じゃぁのうて 弁天池の水が 霊験あらたかじゃ」。」と 思いましたが「はい。仏様ぁ お偉いです。」と 答えました。すると和尚は 満足そうにし 男の子の罪を許してやりました。「円城寺和尚より口伝」    赤い蕾の草:アカノマンマ(赤の飯)イヌタデ(犬蓼)の事で 犬は役に立たないの意味です。よく似たヤナギタデ(柳蓼)は 辛く 薬味に用いられますが イヌタデは 辛くないので 薬味になりません。 の赤い実の野菜:トウガラシ(唐辛子)の辛味成分である カプサイシンは 種子の周りの胎座や 果皮に多く含まれますが 種子には殆ど含まれません。カプサイシンは 強い刺激性があり 粘膜 等に触れると 炎症を起こさせ 痛みを感じさせます。 弁天様:弁財天は 学問 芸術 財産 家庭円満 婦人の下の病 安産 トイレや 浴室を司る 仏様です。      平成24年(2012年)9月21日

 

 円城 提婆宮の怨み釘  Driving with hatred a nail into the sacred tree of Daibaguu shrine

「加茂の堤婆は人をとる。」とか「加茂の是婆は打穴の亀御前Utano-no-kamegoze。」とか「円城の娘を離縁すると 是婆が走る。」と 言われ 真夜中に 円城寺提婆宮境内の神木に 貴船神社丑の刻参りと同じ作法の呪の釘を 打つと 提婆のつかわしめの白狐が 相手に取り憑iいてtorituite殺すと されます。「加茂川町史」「円城村人より口伝」「円城 円城寺の提婆宮 Daiba-guu in Enjyou-ji - okayama-yaso ページ!

松本屋の反省 Reflection of  Mr.Matumoto shop

昔 岡山市の城下町に 松本屋と言う商人が 住んでおりました。競争相手がいなかったので 大儲けし 人も羨む(分限者でした。ところが 難波から若い商人の福蔵が やって来て 近くに店を開いたのです。難波で 磨いた 競争主義の商法を 駆使したので、見る間に 独りよがりの商法しか知らない 松本屋の店の売り上げは 減ってしまいました。そうなると 商売敵が 憎くて 堪らなくなりました。松本は 福蔵を呪い殺そうと 決断しました。提婆宮の恨み釘の打つ作法を 勉強し 死装束を縫うのですが 裁縫 等した事がない男にとって それは難儀な事でした。和釘 櫛 護り刀 鏡 五徳 蝋燭 お歯黒 白粉 口紅を買い求めましたが 知名度が高い上に 大工らしくもない男が 不審がられず 買い揃える事は 特に女性用の化粧道具等を買い求める事には 難儀しました。細工物をした事がなかったので 藁人形を作る事にも 多くの時間を 費やしました。やっと 一揃いの準備ができたので 具足を整え 丑三時 提婆宮に 出かけました。五寸釘を 素手で叩き 指でグリグリと 圧し込み 藁人形を太い釘で 神木に止めようとしても 釘は容易に 刺ささりません。傷付いた手を 血だらけにして 2週間も刺し続けました。この作業を人に見られれば 呪術は 無効になるとされるので 人目を忍ぶ事に 細心の注意を 払い続けねばならず 精神的にも 大変な苦痛でした。その夜から 手の傷は 手を切り落としたい程に 痛みましたが 秘密を守るために 祈祷師を呼び寄せ 魔除を祈願してもらう事も 医師の治療を受ける事も できませんでした。自棄酒Yakezakeを 呷れば 手は 激しく疼くばかりで 体調を崩し 食欲も 意欲も 失い 床に臥しました。

激しい手の傷で 伏せているとの噂が 世間に広まると 商売敵の福蔵が 病気見舞いにやって来て「お陰様で儲けさせて頂いております。 円城寺千手観音様は 千本の手で 悩みを解決してくださいます。千手観音様を拝んで見たらどうでしょう。」と 気遣ってくれました。松本屋には この何気ない言葉が 耳から離れません。そして「わしは 恨み釘を打った。人を 恨んだ事に 仏様達が 罰を与えているのかも 知れない。」 と 思い 10回の千手観音堂の百度参りを 満願させました。更に7日7晩の荒修行をする事を 提婆宮に誓い 朝晩 観音池の霊水で 垢離を取り 飲食を断ち 読経しながら 円城寺の広大な境内を 1日1回走り通しました。既に 衰弱していた松本にとって この修業は 自殺行為と言って良いようなものでした。満願の日  今までの最大限の努力の過程が 走馬灯のように 薄れる意識に中を 駈け巡りました。すると 恨みに凝り固まっていた心が 不思議に解れ 素直に事態を 分析できたのです。

「こんなにも 過酷な努力した事が無い 。これだけの努力を 商売の研究に使っていたなら あの商売敵に 負けずに済んだだろう。 なんと意味のない事をしていたのだろう。」と 思い 提婆宮に参ると 白狐は 恨み釘を 抜いていてくれました。釘が抜かれ 祟りが治まったのか次第に元気になりました。体力が戻ると 店をたたみ 商売敵の福蔵の店の丁稚となり 商売の勉強に励みました。主人はその努力を認め 暖簾Norenを 分けてくれました。二つの店は その後も 栄えたそうです。松本は 今日も提婆天に 感謝するため 参詣しています。「著者の祖父の知人の岡山市に住んでいた者の体験談】  男性による牛刻参り:牛の刻参り蛇は 嫉妬に 狂った女性が するもので  男性がしても 意味がなと  思っています 本宮山円城寺提婆宮:北緯34度53分33秒東経133度48分21秒    京都の貴船神社 岡山の育霊神社の丑の刻参りUsi-no-toki-mairiの作法: 死装束Sini-syouzoku用の白い着物を自分で縫って それを着、口に櫛Kusi 腰に護刀Mamori-gatana 胸に鏡を携え 頭に五徳Gotoku(金の輪)に蝋燭Rousokuを戴き、できれば頭髪茫々(角に見せるため) お歯黒Ohaguro  白粉Osiroi 口紅姿で、恨みの相手に見立てた藁人形か名前を書いた札を 五寸釘で(近代的な頭の有る釘ではな  古典的な切り口の四角の釘)を 社の古い神木に 指で打ち止めます  これらの行為は 人に見られてはいけません    貴船神社:京都府京都市左京区鞍馬貴船町180番地 北緯35度07分18秒東経135度45分46秒    育霊神社:新見市 哲西町大野部3959番地 北緯34度52分54秒東経133度19分53秒    祟り:恨み釘の作法通りの姿を 整える者はおらず 作法に従うとしても 作法を護る事は 困難で 殆どの人は 途中で反省し 諦めるそうです。 円城寺の奥様は 気持ちが 少しでも 鎮まるのであれば 世間のお役に立つ と信じているので 恨み釘の噂は 苦にならないと おっしゃっていました。  亀御前:蛇 呪い釘・恨み釘についての円城寺の関係者達の対応:丑の刻参りの作法が 守られた事は 1度も経験しないそうですので、恨み釘に 用いられた人形等は 撤去されないままです。  釘を抜けば 恨みを 更に強めたり 第3者に恨みが 向けられかねないからです。 無意味な人形 等ですが 非道徳的行為を 反省し抜きに来るのを 見守っているのでしょう。    本宮山円城寺提婆宮の項目を参照ください。 加茂の堤婆は人をとる:加茂郷の提婆宮で恨釘を打てば、恨み相手の命を取ってくれる。 加茂の是婆は打穴の亀御前:加茂の提婆宮の恨み釘の釘穴に「亀御前」が 嫉妬から逃れるために 或いは 愛を引き裂いた者を 呪い殺すために潜んでいる。 源頼朝は 亀の前と言う女性と 浮気をしていました。それを知った 妊娠中の正妻の北条政子は 頼朝が怒り狂うのを 無視し 亀の前を 責め続け後妻打ちUwanari-uti」 終に 行方知れず 或いは 尼に 追い込んだとされます  女が嫉妬すると 悋気な政子のようになって 恨み釘を 打ち 相手を 呪い殺そうとする。 円城の娘を離縁すると提婆が走る:妻の意思をまげて離縁をすれば 女は提婆宮で 恨み釘を打つことになる。する と使わしめの狐が 元夫に憑りつくために 飛び出してくる 。  平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が 発行されました。 P48に「火事を知らせる」と言う提婆の狐の話が 載っています。p35に「余野の大津様」と言う民話が 載っています。白髪の老人の大津様が 提婆宮に向かう話です。平成24年(2012年)3月10日

 

恨み釘の功名 Lucky hit of Uramikugi

平成31年4月30日 男女の手による恋の怨みが 読み取れる恨み釘が打たれました。恨み合っての所業でしょうか。恐ろしいですね。恐ろしいですね。しかし このように 現代的な五寸釘を用い 金槌を以て 恨み釘を打ったとしても 作法に従っていないので 互いに 相手を恨み殺せません。残念。しかし 同じことを 同時に考えるとすると 気が合っているのかも 知れません。幸せな明日を 信じてこの恨み書きの行く末を 皆で温かく 見守りましょう。 平成31年(2019年)4月30日

 

美恵と土師の怨み釘 Hatred-nail-drivings by Mie and Haji

昔 有る所に 美恵と言う 習字と裁縫が得意な娘が 住んでおりました。村には 木や藁細工と 料理の得意な「土師」と言う青年が 住 んでおりました。ある加茂市場の大祭の時 美恵の草履の鼻緒が 切れ  倒れそ  の弾みで 土師の半被happi)の裾を 掴み 破いてしまいました。二人は 互いに手際よく 繕う事で 互いに尊敬する気持ちが芽生え 一緒に祭を楽しんだのです。土師の作った 祭弁当を 半分に分け食べました。美恵が「ほんにおいしい。うちは料理が 苦手なの 教えてちょうでぇ。」と 申し出ると、もう二人は 恋人同士になったのです。ふたりの恋は 村中の評判になりました。ある男が土師に「 円城の娘を 離縁すると 提婆に走ると言うぞ 離縁なぞできんぞ。」と 忠告しました。しかし「止めとけ。」と言う忠告 等その時の土師にとって耳に入らず 結婚したのです。二人の鴛鴦夫婦Osidori-Huuhuぶりは 大変なものでした。しかしある時 美恵が ご飯を炊き損ねると 土師は「相変わらず料理の基本もできん。」と 小さい声で 一人言をいったのです。すると美恵は「神道を信じ宮司まで務めた癖に 字が下手で神事のてごをうちに 頼む癖に。」と 土師に聞こえないように 呟いたつもりでした。悪口と言う物は なぜか ヒソヒソ話でも 良く聞き取れるものです。二人は こんな些細(sasaiな事で 喧嘩Kenkaになり 互いに相手の欠点を 論いAgeturai「もう一緒に住めるものか。」と 土師は自分の家から 家出したのです。友達は 日頃から仲良しの二人に セラっていたので 面白がり「それ見た事か。」と 話に尾鰭Ohireを 付けて 話し合ったので アッと言う間に 土師は馬鹿檀那の大宿六に 美恵はダメ女の大鬼嫁にされてしまいました。互いに 離れているので 意思疎通がなく 周囲の者も囃しHayasi立てるので「恨み殺してやりたい。」と 思う程に 堪られなく 憎悪を 高めたのです。二人は 恨み釘の準備をし 丑年(昭和36年 1961年)丑の月丑の日(土用の丑の日)丑三つ時に 提婆宮に向かうと バッタリと 神木の前で 鉢合わせHati-awaseしました。互いに丑の刻参りを邪魔した事で 恨み釘神事は 成就しません。張り詰めた心は 一瞬にして 空虚となり互 いに馬鹿らしくなって 笑い出しました。美恵が「なんじゃ そのすばろうしいNariぁ 死装束ときたら御幣Goheiぇ繋ぎtunagi合わせたようじゃ。 針で指ぅ刺したんじゃろう。血だらけじゃが。 化粧ときたら 口裂け女のようじゃ.  第一 男の怨みぅ 提婆様が 聴いてくれるもんか。」と 言うと、土師は「その藁人形ぁ 束子Tawasiに 使うつもりか。 五寸釘にゃぁ 釘頭Tyouduがあるじゃぁないか。ほんに 裁縫にゃぁ 苦労した。 恨み言葉ときたら  神様も読めん 下手さ加減じゃ。化粧道具ぅ買いに行った時にゃぁ ほんに恥ずかしかった。つまらん事で 喧嘩ぁした。離れてみてよう解った。やっぱ わしにゃぁお前が必要じゃ。」と 言いました。「ほんに お前様の彫った人形ぁ うちにそっくりじゃ。 うちのどんな細けぇ所も 覚えていてくれんさった。離れてみて解った。うちにゃぁお前様が 必要じゃ」。」と 美恵も言い 手を取り合い 寄り添いながら 円城寺を 去 って行きました。円城寺の和尚夫婦は 嬉しそうに 二人の後姿を 見送りました。そして二人は なりなりてなりあまるところと なりなりてなりたらぬところを 補い合って 子を三人儲け 幸せになり 暮らしました。土師の彫った彫刻物に 美恵が詩を書いた 沢山の作品が 残されました。それらは あちこちの農家の玄関に 飾られています。「語り部の叔母の体験談」     セラう:うらやましがる なりなりてなりあまるところ:長所    なりなりてなりたらぬところ:短所  平成24年(2012年)3月10日

 

破談の訳を知りたい Want to know the reason of your breaking off an engagement

ある庄屋の息子が 年貢を納めに 城下町にやって来ました。大役を果たし 急いで 村に帰ろうとしていると 娘が 岡山城近くの旭川岸に 気怠kedaruそうに 腰を掛けて「1掛け2掛け3掛けて 4掛け5掛け6掛け7掛け8掛け 橋の欄干Rankan腰掛けて 遼haruka向こうを眺むれば 178の姉ちゃんが 筍かかえて泣かしゃんす 何も悲しゅはないけれど 七くや淡竹Hatiku)孟宗竹Mouspudake 孟宗竹まで生えたのに 私のにや 真竹が生えぬ トコドシコメ ドシコメ」と 相撲甚句を 歌いながら 溜め息を 頻りに 漏らしていました。男は 顔立ちが 整った 梔子kutinasiの香りが 漂うような 色白の娘を 見て 胸をときめかし「どぎゃぁしてそねぇに 憂鬱Yuuutuそうなんじゃ。」と 声を 掛けました。娘は「奉公していたお店Tanaの若旦那様と 縁談が決まりかけたんに 逃げられたんじゃ。」と 弱々しい声で答えました。「そぎゃぁに別嬪さんなのに 何故で 破談になったんじゃ。」と 尋ねると「その訳ぁ申し上げられません。」と 答え、俯くutumukuばかりでした。男は この娘の秘密を 知りたくなました。「そんなら 私の家で 雇って上げょう。」と 言って 娘を 下働きに させました。良くできた娘で てきぱきと働き 非の打ち所が 有りませんでした。安兵衛は 完璧すぎる娘に 何やら 恐ろしさを 感じ 取りますが 秘密を知りたいと 思う気持ちは 日に日に増して どこかに行かないようにと心にもなく「お前が好きじゃ。」と 言ったのです。その日から娘は 喜び情熱的になりました。情熱過ぎる女には 男は尻込みする物で 偽りの恋は 嫌悪に変わり「結婚の準備ぅするんで 買い付けぇ行く。」と 偽って 派手な紋付を着て 当てのない旅に出ました。男は 円城村の提婆宮は 呪釘Noroikugiを 打つと 呪われた者を 使わしめの狐が 殺してくれる事を 知りました。「あの疎ましいutomasii女と 縁を切るにゃぁ この方法しかねぇ。」と 思い 呪釘を 打ちました。娘は いつまでも 戻らない男が 気になり 安兵衛の後を 追う事に しました。娘が 道行く人に尋ねると「派手な紋付の者ぁ そっちへ行った。」と 教えてくれたので 自ずと 円城村に 辿り着きました。提婆宮を訪れ 神木を見ると 恨み釘が 打たれていました。「裏切られた。」と 娘は 目を血走らせ 憤怒の形相をして 男を探しました。その姿を見た村人は「美しいあの娘ぁ 又 阿修羅Asyuraになった。けぇから地獄にでも 乗り込むんか。」と 噂しました。当然 安兵衛も この噂を聞きました。安兵衛は「娘の激し過ぎる情熱ぅ 知りゃぁ 妻に迎え入れる者等いねぇ。 娘に 恨み釘ぅ 打たれる。」と 思い逃げ出しました。それを知って 娘は追いかけました。

娘の 草履Zouriは 擦り切れ 衣服を乱し「うちを捨てないで。」と 叫んで追いかけます。その声を聴いて 男は「人違いじゃぁ。」と 言いながら 小森の川戸に逃げ込むと 運良く船が 止まってい て 船頭が  煙草を 吹かしていました。男は「般若じゃ。 鬼女に追われておる。  船を出してつかあせぇ。」と 頼むと 船頭は「又か。」と 言うと 快く岡山城下まで 逃がしてくれました。しかし 娘は「卑怯者。」と 泳いで 追いかけて来ます。とうとう 娘に 追い付かれました。「許してくれ。お前に嘘ぅ付いた。お前が なんで 縁遠いんか知りたかっただけじゃ。」と 頭を地面に擦り付け 謝りました。すると 娘は「ふん。そうなん。女の腐ったような 詰まらん男に 又 夢中になった。 馬っ鹿みたい。」と 言って川のほとりに 腰掛け「1掛け2掛け3掛けて・・・・・トコドシコメ、ドシコメ」と 歌い 気怠そうに 溜め息を付きました。すると、[どうして そんなに 憂鬱そうなんじゃ。]と 旅の男が 声を 掛けて来ました。「三谷野呂の百怪談」  平成24年(2012年)3月10日